Episodi 26 破片と傷痕
リーン……リーン……と、鈴虫の羽音のような音が鳴っている。ノイデは夢現に揺蕩いながら、玻璃の擦れ合う音――サタンの天秤の
母親があれは鈴虫の鳴き声だよと言って、兄が悪戯半分に秋の虫を捕まえようと庭に飛び出す。父親は兄が蛇に噛まれないかさり気なく気を配りながら兄の探索に付き合ってやる。自分はそれを、蝋燭を抱えて部屋からぼんやりと眺めていた。幼い頃――星になる前、遠い日の記憶だ。
人間を捨てたことで、恋焦がれると言う感情以外の感情が削ぎ落とされてしまった。無垢なままに星の一つとして——かつては自分達が月と呼んでいたそれと同じ衛星として生まれ変わったのに、僕達は結局、悲しみも苦しみも取り戻して星である自分さえ捨ててしまった。そうして、還って来た先は人間の姿だ。まるでいたちごっこを続けているみたいだ。あんな苦しい想いをするくらいなら、もう感情なんかいらなかったのにと思ったこともあったけれど、こうして人間に生まれ変わってみると、案外人間と言うものはたくさんの感情で恋情を包み隠しているのだなあと思う。だから、生きることはさほどには辛くない。剥き出しの恋情を抱えることの方がずっと辛いのだと、ノイデは学んでいた。
ノイデ=トラッドはちらつく夢の景色を解くようにゆっくりと瞼をもたげ、目を覚ました。深く息を吐いて、人指し指をくるくると空をなぞるように揺らす。
また、夢を見ていた。
それが前世の記憶であって、ノイデと言う自分自身の記憶ではないのだということを、だから呑まれてはいけないんだよと、ノイデは夢の中でも尚、いつでも強く自分に言い聞かせ続けている。それでも夢の中のノイデは砂糖水に漬かった虫のように甘く疼く息苦しさと狂おしさを抱えて記憶の向こう側へいとも容易く駆け寄ってしまうのだった。それ程に今も尚、星だった自分に——彼らに、囚われている。
ノイデは深く嘆息して寝返りを打った。
目を覚まして意識の靄が晴れてくると、思い浮かぶのは昨夜のジゼルの悲痛な表情だった。あの細く小さな体で、か細い声でノイデの名前を叫んだのだ。彼女に怒鳴られた時、心が何かに怯えるように震えたような心地がした。そんな気持ちには厭と言う程覚えがあった。あれは、嫌われたくないととっさに自己防衛をするための、
ノイデ=トラッドとして生まれてから、気づいた時にはヘイニがいた。ノイデとしての一番古い思い出は、幼い頃にまだ赤ん坊だったヘイニを抱き上げてあやすように鼻歌を歌っていたらぶたれたことだ。どうしてぶたれたのか、その時はわからなかったけれど、この星は母親が子どもに歌も歌ってやれない世界なのかと幼いながらに悲しくなったのを覚えている。
そうして物心がついて——ノイデ=トラッドとしての自我が芽生えた頃には両親は火事で死んでしまった。兄弟もいたのかもしれないが、ノイデはあまりよく自分の家族のことを覚えていない。トラッド家は裕福な家柄であったと後で知った。ヘイニもまたそういった家系の娘で、自分達は親が取り決めた許嫁であったらしかった。
ともかくもノイデ=トラッドに残されたのはまだよちよち歩きのヘイニだけで、どうしたらいいのかもわからないまま街を彷徨って、誰かに財布を盗られて、がむしゃらに取り返そうとしたら殴られて、ヘイニの顔だけは守ってあげないとだなんて——女の子の顔に傷なんかつけたらいけないと自分に教えてくれたのが、サタンの母親だったのか、それともノイデ=トラッドの母親だったのかさえ、今は定かではなく——そんな頓珍漢なことを考えながら必死でヘイニをかばっていた記憶だけは鮮明だ。
やがて二人して行き倒れた先で、凍えそうな体を温かい腕が包み込んでくれた。自分たちを拾ってくれたうだつの上がらないおじさんが、ヘイニの実の叔父だったなんて、数奇なこともあるものだ。ノイデの側にはそれからずっとヘイニとダルディアがいた。血なんて繋がっていないのに、彼らはノイデに無条件の愛情をくれた。家族としての温かさ。だから嫌われると言うことはよくわからなかった。サタンだった頃の記憶に苛まれて、時々嫌われることが怖くなったこともあったけれど、この二人は絶対に自分を見捨てないのだとどこかで安心もしていたのだ。
だから、こんな感情は、久しぶりだ。
——どうして、あんな風に怒れるんだろう。貴女はあの
「寝ても覚めても女のことって……僕らしくない。なさすぎる」
ノイデは何度目になるかわからない溜め息をついて起き上がった。ぼんやりしていても尚ジゼルの顔が——紅茶に入れた
軽く身支度を整えて、羽毛の温かい上着を羽織ると、ノイデは部屋の扉を開けた。何となく廊下が温かい気がしたがその違和感も気怠さの前には無意味だった。
階段を上がって、ダルディアの部屋の扉を軽く叩く。
「おじさん。朝ですよ」
「わかっとるよぉ」
間延びした、眠たそうな声が聞こえて来た。ノイデは小さく嘆息して再び階段を上がる。紅茶だと安眠できないといつも文句を言うヘイニのために、果実茶を入れてやる。昨日は頑張っていたから、ヘイニの好きな葡萄の茶にしよう。ヘイニのことを考えて、ノイデは小さく嘆息した。
——まったく。仕事があるとしても僕は多少の無理は利くんだから、僕が夜番をしたってよかったのに。
ヘイニはダルディアの仕事に感銘を受けて、医者を目指している。だからダルディアの執刀する手術を一つたりとも見逃すまいといつだって必死に勉強しているのだった。彼女程に努力をしている人間をノイデは他に知らない。肌がぼろぼろに荒れても寝る間を惜しんで早く一人前になろうとする姿は、どこか痛々しくも感じられた。本当にそれがヘイニの幸せなのか、今でもノイデにはわからない。女をかなぐり捨てたようでいながら、女らしさを失わず、口うるさいけれど愛らしい彼女が、本当はいつか誰かの妻になって自分の子供を抱ける日を夢見ているのだと言うこともノイデは知っている。だから、ノイデの目下の心配事は、皇室のことでもヘロやジゼルのことでもなく、ヘイニの嫁ぎ先のことだったりもする。
ノイデは温かい葡萄茶と、焼き菓子を数枚小皿にのせてヘイニとゴーシェの待つ看護室に入った。ヘイニが疲れたような顔を上げる。
「ああ……ノイデか。いつもありがとう……」
「お前ね、飲み物くらい少しはとれっていつも言ってるだろう。片時でも側にいなけりゃ死ぬような患者でもないだろうに」
「失礼しちゃうわね。充分、重症患者よ。何度か目を覚ましたけれど……今は眠ってるから」
小さく欠伸をしながらヘイニは栗鼠のようにもぐもぐと焼き菓子をかじる。
「側頭葉がね、損傷を受けてるから……ちょっとだけ失認があるかもしれない。あの二人には悪いけれど、もう少し落ち着くまでこの人には会わせないであげて」
「わかった」
「ああそれと……一応私から説明はしたけれど、もし彼が目を覚ましたらノイデ、ちゃんと名乗ってよ。多分ちょっと混乱してるから――って、まあ、知り合いみたいなものなんだっけ」
「まあ、そうだな」
「……眠い」
「寝ろ」
幼子のようなたどたどしさで目を擦るヘイニに、ノイデはぶっきらぼうに短く告げた。
「眠くて歩けないわ。ここで寝たらだめかしら」
「馬鹿。それじゃ変わり映えしないどころの話じゃない。いい歳した大人なんだから自分で部屋までくらい歩け。……階段からすっ転げるなよ」
「しないわよ……子どもじゃあるまいし」
「どうだか。何度か足を滑らせたのを見たことがあるからな。説得力がない」
「そういうのをねちねち見とがめてこうして後になって言うからあなたは未だに嫁の一つも来ないのよ」
「……お前ね、何かあるとすぐそれ言うのやめない? まったく堪えてないんだけど」
「どうだかね……あの女の子のこと、結構好みでしょ。知ってるわよ? あなた昔っからああいう顔の子好きよね。あとちっちゃい子。自分が背高だからさ」
目をぐりぐりと擦りながらヘイニはさらりと言った。ノイデは一瞬ごくりと喉を鳴らした。心臓が煩い。
「何を……おい、眠いんだろ。ほら、おっさんが来るまで僕がこいつを看といてやるから……」
「うーん……」
ヘイニは伸びをする。
「ノイデこそ仕事はー? 大丈夫なの? 今日は惑星プルートに出向かなきゃ行けないんでしょう、あの子達のことで……。こんなにのんびりしていていいの?」
「いざとなったら魔法使うし」
「うわあ、職権乱用だわよ。全く……それにねえ、私は自分の体のことくらい自分でわかってるんだからいいんですう。あなたこそ不摂生やめなさいよね? いっつもいっつも人の嫁の行き先の心配してるみたいだけど、自分こそ嫁をそろそろもらうべきなんじゃないの? あなたの健康気遣ってくれるような可愛いお嫁さんがさあ〜。 いい加減私もあなたのお世話面倒だし」
「僕の家はここだよ」
「まあ、そうね」
「僕が嫁なんか貰ってみろ。お前が居辛いだろうに」
「まあ、そんなことはなくってよ。だってここは私の家でもあるんだから。あなたが嫁もらったって私は小姑みたいなもんでしょ。というか、そんなこと心配してたの? やだ、もうノイデったら」
ヘイニは心底可笑しそうに笑った。
「あのさ、」
ノイデは俯きがちにぽつりと呟く。
「なあに?」
「謝った方が………いいのかな」
ヘイニは更に弾かれたようにけたたましく笑った。顔がどんどん熱くなってくる。ノイデはやっぱり言うべきじゃなかったと思いながら羞恥に唇を噛み締めた。
「やだぁ、ノイデったらもう二十七歳のおっさんなのに純情〜! やだぁ、すっごくいいもの見ちゃった! ちょっとこれは予想外だわ」
「……何がだよ」
「だって……ふふ。別にー? あなたが、謝りたいなら謝ればいいのよ。何か考えがあって敢えてあんな女の子の傷つきそうなことを言ったんでしょ? ノイデってさぁ〜、いつもは女の子には基本的に砂糖菓子みたいに優しいのに珍しいなあと思って聞いてたのよ」
「その後釘を刺したのはどこのどいつだ。大体僕はそんなに優しくない」
「やだ、だって言っておくべきことはたとえあなた自身は重々承知でも言っておかなくちゃと思ったんだもの。あら、優しいわよ? うんうん、お姉さん知ってるわ。ただ、いまいちその目つきの悪さのせいと言葉の足りなさのせいで伝わりにくいのよね。だから未だに恋人の一つも出来たことないんだもの……あーあ、お姉さん心配」
「お前ね、僕の方が年上だからな」
「変わんないわよ精神年齢的には。むしろ私の方が上でしょう?」
ヘイニはにやにやと笑いながらノイデの背中をばしばし叩いた。
「よし、お姉さん生温かく応援しておいてあげるわ。しかしあなたが幼女趣味とはねえ」
「幼女じゃない!」
「おや、誰か具体的に思い浮かべた人がいるような口ぶりですねえ。墓穴掘りましたわね?」
「ぐ……」
ノイデは口をきゅっと引き結んだ。ヘイニは眠気も吹っ飛んだかのようににやにやと楽しそうに笑っていた。
「ああもう、何興奮してるんだ。さっさと寝ろ。いいか、寝ろよ」
「はいはい。じゃあ頼むわよ。言われなくても寝るわ。眠いのは事実だもの」
ヘイニはまた目を擦って立ち上がると、後ろ手にひらひらと手を振った。
扉が閉まると同時に、ノイデは深く深く息を吐いた。
「…………紅茶でも飲むか」
ゴーシェの様子に変わりがないことを確かめると、ノイデは台所へと向かう。もう一度湧かし直していた熱湯を
「ノイデ……?」
がしゃん。
お気に入りの
「ノ、ノイデ…!? 大丈夫? 怪我は……」
ジゼルがあたふたと青ざめた顔でノイデに駆け寄った。
「い、いや、大したこと、は」
ノイデは引きつった顔で答える。
「破片……危ないから集めないと」
「ああ……いいから。貴女が怪我するから。僕がやるから」
「紅茶……熱かったでしょう? 火傷は……」
「していない。大丈夫。ありがとう」
ノイデはてきばきと答えるときびきび——見ようによってはぎくしゃくと体を動かしてさっさと破片を片付けた。露草の繊細な絵が描かれた
「早いね。もう少し寝ていてもよかっただろうに」
「うん……あの、暖炉の前で眠ってしまって……そしたらなんだか音がしたから目が覚めて、起き上がったらノイデがいたから……声をかけなきゃよかった……ごめんなさい」
ジゼルはわかりやすく落ち込んでいる。というより、思い詰めているようにも見えた。ノイデは内心焦りながら硬い表情で言葉を紡ぐ。
「いや、どの道声はかけたんだろう。早いか遅いかの違いだし、今は僕がぼんやりし過ぎていたんだ。僕らしくもなく……だから別に貴女のせいじゃない。これがダルディアのおっさんでも僕は驚いて
ジゼルは不思議そうに首を傾けた。ノイデは口の端を引きつらせながらゆっくりと、不自然に見えないように細心の注意を払ってジゼルから目を反らした。目は完全に冴えてしまった。
ジゼルが何かを納得したようにふわりと微笑む。目の端でそれを捉えて、ノイデはぎり、と歯を食いしばった。細心の注意を払って息をゆっくり吸って吐く。そうしないとなんだかまずいことになりそうな気がした。ぴんと意識を張りつめる。
「その、」
声が少し裏返った。ジゼルはまた不思議そうに首を傾げた。
「あの、昨日は、悪かった」
振り絞るようにノイデはそう言った。
「その、嫌わないで、ほしい」
「嫌わ、ないわ」
ジゼルが少しだけ固い声で言う。困ったように眉尻を下げて笑っていた。ノイデは愕然とした。
「迷惑……だっただろうか」
「えっ、な、何のことでしょう……」
ジゼルは肩をすくめる。
「その、勝手に……言われちゃったことは、そう、ね、迷惑、というか……その……困ったの。でも、言われてしまったものは仕方ないし、あなたがわたしを傷つけたくて言ったわけではないんだって、ちゃんと自分で折り合いを付けられたから、それは、もう大丈夫だよ」
困ったような笑顔でふわりとジゼルは笑う。嫌わないでくれ、だなんて、女々しい子どものようなことを言ったことを困っているわけではないのだと頭がのろのろと理解して、ノイデは張りつめたように止めていた息を弱々しく緩めた。力ない笑みが零れて落ちる。
「はは……けれど、困ったような顔をしている」
「えっ、えっ」
ジゼルは慌てるように手をぱたぱたと振った。
「あ、あの、違うの、これは、その、くせ、で……」
「あ、ああ……そうか、くせか。すまない」
「あの、わたしも、ごめんなさい」
「えっ何が」
「その……
「それはもう大丈夫だとさっきも言っただろう……」
「あんたら何朝っぱらから
欠伸まじりの不機嫌そうな声が割り込む。
ノイデは声の主を見やった。ヘロの顔に何となく違和感を感じてすっと目を細める——ヘロの目は腫れているようだった。長い前髪が煩そうに被さっているせいではっきりとは見えないのだけれど。
「あっ、ごめんね……起こしたね」
「いや、別にそれはいいんだけど」
ジゼルの蚊の鳴くような声にぼそりと言葉を返すと、ヘロはぐすっ、と鼻を鳴らして凍えたように震えた。
「さっむい」
「何? お前達、まさか昨夜結局暖炉の前で雑魚寝でもしたわけか?」
「雑魚寝っていうか……まあ、確かに寝ちゃったけどさあ。……あ、紅茶飲んでいい? 眠い」
「どうぞ、ほら」
ノイデは替えの
「馬鹿だね。この星の夜を舐めちゃだめだよ。温かくしないと……全く。することもなくただじっと暖炉の前に座ってるくらいなら外にでも出ればよかったろうに」
「はぁ!? 外!? 夜に!? この寒さで!? 正気で言ってる?」
ヘロがばっと風が舞うくらいに勢いよく振り返る。長い前髪がはらりと舞って——一瞬だけだったが、額に痛々しい火傷の痕が見えた。ノイデは目を細める。
——鬱陶しい髪をしているなとは思っていたけれど……そうか、こういう傷痕を隠そうとしているのか、こいつは。
恐らくは、不自然に伸ばされた左の揉み上げも……顔についたなんらかの傷を隠しているのだろうとノイデは思った。注意深く見れば、首のあたりにも細かな傷痕や消えない痣の痕がうっすらと浮かんでいる。ヘロのように、巡礼者への教育と基礎教育とを兼ねているような遅れた学校へと通わざるを得なかった子供達は、古い慣習の毒牙にかけられてしまうのだろう。この少年が【勇者】に選ばれたことは、そう言った因襲の蔓延る惑星アポロに生まれた子供にとっては慶福なのかもしれない。けれど、それは本当にヘロのためにはなっているのだろうかとノイデは眉をひそめた。少なくとも——ノイデの目には、そんな傷だらけの子供が酷く憐れに映る。
惑星サタンは勇者や魔導士を排出するための専門学校の他にも、多種多様な学園がある。ノイデもそう言った、『非巡礼者』のための学校に通った。そんな風に巡礼者と非巡礼者を明確に分けるような教育制度を整備しているこの星は、連合星では異端だった。けれど、サタンはヘルメスの敷いた
それでも現実には、この星にだって今も尚巡礼者を巡る古い慣習は深く根付いたままで、人々は未だに自由に歌うことも出来ないし、楽器を奏でることも出来ない。人が楽しめる音が玻璃の擦れる音だけだなんて、なんと貧しいことだろう。そしてその玻璃でさえも、惑星プルートを蝕む皇室のために厳密に管理されている。だからノイデは、そんな世界に在りながら惑星マルスの長であったターシャやゴーシェが皇室からの処罰を恐れずに玻璃を人々の夜を照らす光飾に据えたことは称賛に値すると思っていた。
ノイデが生きる意味——それは、ノイデの持つ前世の記憶なしには成り立ち得ない。ならばその記憶を抱えて尚できることは、ノイデが生きるこの世界を、かつてサタンが覚えていた地球の暮らしのように、せめてもの慰め在る世界にすることだ。だとすれば、ノイデは戦わなければならない。古い因襲と戦わなければならないのだ。たとえそれが、かつての同胞が積み上げた墓場を荒らすような行為だとしても。だからこそ、ノイデはヘロに——ジゼルが選んだ勇者に、一縷の望みをかけているのだった。たとえ彼が世界から大罪人と後ろ指を指されても、ジゼルにとって彼が【勇者】なのであれば、ノイデにとっても等しく彼は【勇者】だ。そしてノイデは、それがヘロだからこそ、この星の夜に見て、目に心に焼き付けて欲しいものがあった。いつか吟遊詩人になりたいと願って泣いていた子供に——シクルが心を寄せた程に、歌に心を揺さぶれられていたかつての幼子に。
「この星では、」
ノイデは口をゆるりと開いた。
「夜は遊びの時間だよ。この星は冬が長く、夏が短い。一日を見ても、昼は本当に短くて、夜の方が長いんだ。だからこの星の人々は昼間は家の庭でじっと日光浴と洗濯をする。そして夜は目一杯遊ぶのさ。まあ、僕のように仕事に追われている人間は一概にそうもいかないけれどね。今夜にでも、少し外に繰り出してみるといい。ヘイニは……患者を見ているから案内は出来ないかもしれないが、まあ、治安は昔に比べたら随分とよくなったからね、危ないこともそうそうないだろう。店だって沢山開いている。よその星とは真逆だろうが、この星では基本的に昼間っから開いている店なんて一つもないからな。昼間は観光に向かないよ。日中は存分に日の光を浴びて、夜に備えて体を温めておいで」
「でも……ゴーシェがまだ、元気になっていないのに」
ジゼルが眉根を寄せた。
「病人のことは僕らに任せておけと言ったろう。子供が心配したって事態が改善するわけじゃないよ。貴女に出来ることは、この星の楽しみを沢山見て聞いて、目を覚ましたゴーシェに話して聞かせてあげることさ。きっと喜ぶだろう。彼は常々世界に憧れていたようだからね。それくらいは僕も知っている」
「また、見てたってわけか」
ヘロは嘆息した。ノイデは否定も肯定もしなかった。
「……わかった。ねえ、ヘロ。ゴーシェのために何か買ってあげよう?」
ジゼルはふわりと笑った。ヘロは首を傾げる。
「あー……えっと、土産物とか?」
「うん、多分、ターシャへのお土産を買ってあげたら、喜ぶと思う。もし元気になって、一緒に行けたら、その時また三人で選べばいいと思う」
「まあ、な」
ヘロは頬を掻いて、ノイデに視線を移した。
「で、ゴーシェの具合は?」
「落ち着いているよ。ヘイニと交代したから、そう言えば僕はそろそろ彼の側に戻らないと。お前と話しているような暇はなかった」
「よく言うよ……ジゼルと人形劇みたいになってたくせにさ」
ヘロは再び嘆息する。人形劇、と言う言葉に惹かれたようにジゼルがにこにこと微笑みながらノイデとヘロを交互に見ている——雛のようだ、と、ノイデは脈絡もなくそう思った。
後ろ髪を引かれるような心地で
「だけど、子供達の楽しみに水を注す程無粋でもないさ」
ノイデは小さく呟いて、扉を開けた。階段の上では、ダルディアがごそごそと身支度を整える衣擦れの音が微かに聞こえていた。
夜の街で、【黒馬の子ら】と呼ばれる
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます