Episodi 25 灰と夜明
付き合うって、どういうことだろうかと思う。
ジャクリーヌから「好きです」と消え入りそうな声で言われた時、あまりにも予想だにしない言葉で、正直何を言われているのかわからなかった。これが例えば、【話があります】、という流れで呼び出されて、二人きりの場所でそう言われたのなら、さすがの自分でももっと素早く察せたのではないかと思う。けれどジャクリーヌは、級友達が沢山いる目の前で、突然近寄って来てそう言ったのだ。むしろ周りの方が反応が早かった。囃し立てられ、どんどん顔が真っ赤になっていく彼女を見ていたらなんだか可哀相で、隣でシクルが――メルディが、応えてやらないと男じゃないだの甲斐性無しだのぶつぶつ呟いて来るから、半ば勢いで「ありがとう」だなんて、間抜けな返答をしたのだ。
極めつけがその後で、潤んだ目でじっと半分睨むように見つめられ、「それは私を恋人にしてくれるってこと?」だなんて言われて、頭がくらくらしない男がいるとでも言うのなら連れてきてほしい。その時初めて、俺は彼女から家族とか友達とかそういう意味ではない、メルディからのそれとも違う【好き】をもらっているのだと自覚したし、呆気なく彼女に落ちたのだった。そう、それはもう、呆気なく。
だって、本当に、可愛かったから。
どちらかと言うと、俺は身長が低いことに劣等感があって、自分より身長が高い女の子や美人系の女の子は、なんとなく圧迫感を感じて苦手だった。ジャクリーヌはそのどちらにも当てはまってはいたのだけれど、話せば話すほどに、彼女が愛らしくて、そして仄暗い狡さを抱えた人なのだと言うことが分かるようになっていた。頭がいいせいなのか、なんでも先回り先回りで考えて、どんな言葉を言うのが一番都合がいいのか瞬時に判断して笑顔で言葉を紡ぐことが多かった。俺への告白についても、「だって、ヘロだったらきっと、皆の見ている前で告白すれば断らないでくれるんじゃないかとどこかで思ってたの。私、狡いやり方をしたのよ」だなんて、どこか照れたようにあっけらかんと暴露したのだった。あまりにも正直にそんなことを言うものだから、不快感よりも毒気を抜かれてしまって、そう言う小狡さでさえ可愛いなと思うようになってしまったのだから、俺も大概どうしようもない。
最初に家に連れて来た時、俺には打算があったのだった。
この女の子なら、文句はないだろう?と、父さんや母さんに見せつけたかった。俺は今考えてみても本当に気が早くて――浮かれていたのかもしれない――ジャクリーヌといつか、所帯を持って子供を育てる未来を漠然と予想したりして、俺は、父さん、あんたみたいな父親になんかならない、母さん、俺は母さんのこと嫌いじゃない、むしろ本当は大好きなんだ、だけど父さんと違ってあなたみたいな女は俺は選ばない、そんな女も寄せ付けるものか、だなんて、そんな気持ちで両親とジャクリーヌを会わせたのだった。
案の定両親はとても喜んで、ジャクリーヌとは家族ぐるみの付き合いになった。そして同時に俺は、そうすることでジャクリーヌの退路をどこかで断とうとしていたのだ。今更、俺から離れたいなんて思えなくなるように、だなんて。
それと同時に、こんな親でも――大事な両親のことを、こんな親としか思えないような俺と、俺の家族関係でも、ジャクリーヌが逃げ出さないでいてくれるのか試したかったのだ。俺は、トゥーレに遠慮するふりをして、本当は自分がいつかジャクリーヌに見捨てられた時、心に受ける傷を最低限で済ませるための布石をちまちまと打っていたのだった。だから、俺だって大概狡かったのだ。俺は、ジャクリーヌと付き合うようになって、自分が思いの外狡くて暗い人間だと言うことを知ったし、それに人知れず苦しんだこともあった。俺はジャクリーヌと一緒にいるとまるで陽だまりに包まれているみたいで、楽しくて、明るくて、光が射すようで、夕闇の中では心に抱える仄暗さを共有できると言う背徳感に、酔っていたと思う。
ジャクリーヌは、俺の猜疑心や罪悪感や恐怖心や劣等感でこねくり回した予想なんかに反して、辛抱強く俺の傍に居てくれた。
俺のことをもっとわかろうとしてくれた。
俺のことを頼ってくれた。
俺は、いつだって彼女の絶対的な味方でありたいと思った。
一度だけ、大喧嘩をしたことがある。
俺は、味方と言うのは、彼女の言動がまずい時には諭してあげることだと思っていた。人が思うところの正しい道に連れ戻してやることだと思っていた。外れることがどれだけ辛いか、なんとなくわかっていたから。
けれど、ジャクリーヌは「いつだって味方であると言うことは、私の心が弱っている時に何も言わずに抱きしめてくれることだわ! 支えてくれることだわ! 答えなんて自分で見つけるのよ、私はあなたに、先生を求めているわけじゃないの!」と叫ばれたのだった。
そんなの、勝手だと思った。そんなものを望むなら愛玩動物でも飼えばいいし、人形にでも話しかければいい。俺は人間なんだから、ジャクリーヌの話を聞いたら意見だって出るし心配だってするんだと言い返して、お互いしばらくの間一言も話さなかった。
そうして膠着状態が続いたある日、本当に何でもないことだったのだけれど、俺は父さんと母さんの一言一言の積み重ねに耐えきれなくなった。メルディが何度も励ましてくれたのに、どうしようもなく心が荒んだ。俺はふらふらとジャクリーヌの家に行ったのだった。顔が見たかった。陽だまりのような笑顔を見たかった。
そうして、出迎えてくれたジャクリーヌの華やかさを目の当たりにして、気まずそうに、だけど照れたように笑うその柔らかな表情を見て、初めて抱きしめたのだった。ジャクリーヌは何も言わずに背中を撫でてくれていた。俺は、ジャクリーヌの言う事はその通りだったなと反省したのだ。俺はもう、この子の傍に居させてもらえるだけでいい。
五ヶ月。長いようで短い日々だった。あのアポロの星で、【試験】が終わったあの日まで、俺を支えてくれた笑顔はあの子の笑顔だけだったのに。
あれあらまだ数日しか経っていない。あの大喧嘩の日の方がずっと長いこと傍を離れていた。あの長い十数日間、俺はずっと彼女のことを考えて苛々していたのだ。それなのに、今は。俺は、
リナの笑顔を思い出したのは、数度きり。
目の前のことに精一杯で、ジゼルに救われて、俺は、リナを守るためだなんて勘違いをしたまま、俺こそが、リナを捨てていたのだ。頭では分かっていたのに。傍に居てやらなきゃってわかっていたのに、逃げ出したのだ。選ばれてしまった俺と、選ばれなかった彼女の狭間で、彼女にどんな言葉をかけていいのかわからなくて、気まずさから逃げ出したのだ。喧嘩したあの時から結局何も学べていない。ジャクリーヌに、言葉じゃなくても伝わるものがあると教えてもらったのに。どうして俺は、ヘルメスの杖に拒絶されたジャクリーヌを抱きしめてやらなかったんだろう。子供じみた独りよがりの正義感と怒りだけを抱えてジゼルを家に連れて来て、ジャクリーヌと二人きりになることを避けたのだ。そうだ、俺は、ジゼルをジゼルのためだけに家に連れて行ったわけじゃない。いつだって俺は、打算で動いている。
一方的な苛立ちで、帰りを送ってもやらなかった。どれだけ寂しかっただろう、心細かっただろう。傷つけてしまっただろう。わからない。そんなこともわからない。俺はただ、あの子が赤い靴を履いてきた意味を考えることしかできない。きっとあれは、前日俺から向けられた苛立ちへの答えだった。好きでやっているわけじゃないのに、どうしてわかってくれないのと、ジャクリーヌの心臓につけられた切り傷から流れ出る血の色。
こうして、ようやく、今更、連絡を取って、ジャクリーヌの意を汲んで、せめて別れてあげようだなんて思っている俺は、なんて傲慢だろう。俺に縛られているよりも、他の幸せを見つけてほしいだなんて、きっと、「そんなことを望んでいるんじゃないわ」だなんてリナからは言われそうだし、メルディも呆れるだろう。それなのに、こうして俺は傷つけることしかできないのだ。
「連絡が遅くなってごめんな」
俺はメルディが放射状に放った光の靄に向かって声をかける。
本来、この画面には術者が望めばお互いの顔だって映し撮れるのだけれど。
ジャクリーヌは俺を拒むように顔を映してはくれなかった。
それが答えのような気がして、彼女の意志のような気がして、堪えた。
案外、俺がずるずると引きずらないように配慮をしてくれているのかもしれない。彼女はそう言う人だ。
どこまでも、俺のことばかり考えてくれる人だから。
『本当。びっくりしたんだから……逃亡したって聞いて。あの後大変だったのよ? というか、ご両親にも言わないで逃げ出すなんて酷いんじゃない? 星の人達から裏切り者の親だと罵られて……恩を仇で返すってこのことね。正直、あなたから連絡があるとは思ってなかったし期待もしてなかったの。私にも何にも言わないで逃げ出したってことは、そういう事だと思ったので』
ジャクリーヌは棘のある声で一気に言った。
「俺の場所、わかったんじゃないの? これ、そういう魔法だろ」
『ええ、わかりましたとも。どうしていきなり五つも離れた星にいるのかってびっくりしたわ。一体どういう魔法を使ったの?』
俺は一瞬口ごもって、ゲルダのことを話すか否か迷った。
俺はまだどこかで甘えていたのだ。リナなら、きっと大丈夫だと。
「ジゼルの……」
言いかけて、再び俺は口ごもった。
ジゼルのことを思い出した途端、急に現実に引き戻された。今は、ジャクリーヌとの思い出に浸っている場合じゃないのだ。
どこから説明する? ジゼルを悪く思われないようにするための上手い言い訳なんてあるだろうか。ジゼルが女神だと聞いて、怯えない子供がいるだろうか。それが罪悪だと体にも脳髄にも染み込ませられて生きてきたのに。英雄の痴情の縺れの結果が、世界に巣食う慣習なのだと告げるべきだろうか。そんなこと……言葉だけで納得できるだろうか。それを知ってしまったら、リナも、ただではいられないだろう。きっと……巻き込んでしまう。
「ごめん、やっぱり……言えない」
『そう』
ジャクリーヌはさして期待もしていなかったようで、さらりと言った。
『今は、サタンにいるのね。その服――変わった模様だけど、似合っているわ』
ジャクリーヌは少しだけ声を和らげた。
『あなたが、どうして使命から逃げ出したのか……聞いてもいい?』
俺はまだ迷っていた。
「皇太子様が……言ったこと、覚えてるか?」
『ええ』
ジャクリーヌは静かに応える。
『あの話から、ジゼルが女神と何らかの関わりがある人なのだと言うことは推測できたわ。その共鳴力の強さを利用して、未だ見つかっていない最後の神器を……【ウラノスの地図】を探してほしい、と言うことでしょう? ねえ、ヘロ。どうしてあなた、あんなに取り乱したの? 確かに巡礼者が……共鳴力が高ければ高いほど私達が女神に近しく
ジャクリーヌは溜息をついた。
「皇太子は、言うことを聞かないようならジゼルを殺すと暗に仄めかした」
俺は呟く。
『ええ、そうね。でもね、ヘロ。それはあなたが取り乱して皇太子様に無礼を働いた結果だと思うわ。そういうことも可能だと言うことを、可能性の話をされたのよ。あなたの言動、皇室への侮辱とも取られかねないのよ? あなたがその辺を弁えていないようだったから、きっとあんな風におっしゃったんだわ。それ以上のお咎めがなかったことを喜ぶべきよ』
ジャクリーヌは非難めいた声で言った。
「でも、もし本当に殺すつもりだったら? ウラノスの地図が見つかった後、ジゼルを始末するつもりだったら?」
『ヘロったら……どうしちゃったの?』
ジャクリーヌが戸惑ったような声を出した。
『皇室に処刑されると言うことは、可哀相だけど……きっと彼女がそれだけ女神に近しいと言うことでしょう? 本当はね、ヘロ、あなただって、そして選ばれるかもしれなかった私だって、今までの巡礼者だって、世界にとっては大罪人だということなのよ。それが、お咎めなしで生きていけるだけでもありがたいことだわ。それに、何度も言うけれど、あなたちょっとおかしいわよ。どうしてそんなに、ジゼルが殺されるかもしれないだなんてそんな物騒なことを考えているの? ねえ、ヘロ。あなたが本当は打たれ弱いことくらい私知ってるわ。だからきっと、今混乱しているだけなのよ』
「話にならない」
『なんですって?』
「話にならないよ……リナ」
俺は頭を抱えた。
そうだ、俺も、きっと、彼女に――ジゼルに出会わなければ――あのアポロに変なことを吹き込まれさえしなければ――きっと、リナと同じことを考えただろう。それなのに、どうして今はこんなにも、
リナの言葉に、怒りしか湧いてこないんだろう。
あまりにも、違う場所へ来てしまった。
「俺……お前が好きなんだ……」
声が震えた。自分でも何を言っているのかわからなかった。
リナは黙っている。戸惑うような息遣いが聞こえる。
こんなにも声が傍にあるのに。吐息さえ聞こえるのに。
心が、遠い。
「好きなんだ……大好きなんだ……大好きだったんだ……だから、ずっと、一緒にいたかった……同じものを、見ていたかった。同じ未来を、見れたらいいって……もしお前が選ばれて、俺が選ばれなくても、いつまでも待とうと思ってた。例えリナが……あの吟遊詩人の婆さんみたいに老けてしまって帰ってきたとしても、それでも待っていたかった。俺は、選ばれない未来を思い描いていたし、お前が帰ってきてくれる未来だけが希望だった……それだけのために、がん、ばって、」
喉が潰れるような苦しさが俺を苛む。いつしか俺は口をわなわなと震わせ、泣いていた。
泣くのなんていつぶりだろう。
俺は小さい頃泣き虫で、よくぶたれていたのだった。そんな泣き虫なら勇者になんかなれないぞと言われ続けた。なりたいわけじゃないと泣き叫んだら、父さんも泣きながら、どうしてそんな悲しいことを言うんだと幼い俺を殴り続けた。そうしていつしか俺は、泣きたくなくなって、泣くのを諦めたのに。
『あのね、ヘロ』
ジャクリーヌが呼びかける。優しい声で。その次になんて言われるのか手に取るようにわかる気がした。きっとジャクリーヌは絆されてしまっている。だって、俺が彼女に好きだなんてはっきり言ったのは、これが初めてだったのだ。常日頃からたまにはそう言ってほしいと困ったような笑顔で求められていたのに、気恥ずかしくて、今の今まで一度も言えたことなんてなかった。それが、こんな形で、言うことになるなんて。言ってしまうなんて。
その言葉は、大事に、もっと大切な未来のために、とっておきたかったのに。
俺はジャクリーヌの声を遮るように首を振った。
「俺は、もう、リナと同じ未来は見られない。俺はもう、今までと同じではいられない。リナ、お前は俺の考えが度を過ぎた被害妄想だと思うだろう。だけど、俺がジゼルの身が危険だと思うことには根拠がある。けれどそれをお前に言いたくないんだ。これ以上……巻き込みたくないんだ。今日は、それを伝えるために、連絡したんだ」
鼻をぐずらせながら、俺は格好悪くぼろぼろと泣きながら言葉を繋げていた。
「ジゼルが殺されたらきっと次の巡礼者はリナになるんだろう。それは、あの話を聞いた後で、あまりにもリナに酷だと思った。だからそれを避けたかったって言うのもあるんだ。じゃあ言うとおりにしてればよかったじゃないかって思うだろ。でも、それじゃ、ジゼルを守ることにならないんだ……うまく言えないけれど、ジゼルを守るためには皇室の思惑から外れたところへ逃げなきゃいけなかった。後悔は……してない……もしかしたらこれから後悔する日が来るかもしれない。そうしたらあの子のことを恨んでしまうかもしれない。俺は破滅するのかもしれない。でももう、戻れないんだ。戻りたくないんだ。俺は、ジゼルを守りたいんだ。あの子を守ることで、俺自身を守りたいんだ。あの子は、俺に似てるから」
『私だって、あなたと似てるわ』
ジャクリーヌの声は震えていた。
『私だってあなたと同じよ。あの子にあって、私に無いものがなんだっていうの? どうして、わたしにはそんな風に必死になってはくれなかったのに、あの子には簡単にそれができちゃうの?』
ジャクリーヌも、多分泣いていたのだと思う。
「あえて言うなら、リナは連合星の慣習の枠内にいて、ジゼルは、それを超えたところにいる、から」
俺は鼻をすすった。
「俺は、親を恨んでた。教師も恨んでいたし、学校も、教育の制度の在り方も、大嫌いで大嫌いで、馬鹿らしくて、本当に嫌いだった。それが、やっぱり嘘のごまかしだと知ってしまった今、もうその中には戻れない。戻る気もない」
俺は涙を袖で拭う。
『あなたの居場所を密告するわよ』
ジャクリーヌが棘のある声で言った。
『ねえ、ヘロ。私ね、実は今皇室に直々に呼び出されているの。皇室への反逆罪を犯したあなた達を捉えるための、討伐隊にね、誘われているのよ。あなたがなんて言われているか知っている? 【女神に惑わされた愚者】よ』
ジャクリーヌの声は凛として、けれどどこか震えていた。
『あなたが何を私に隠そうとしていたのか大体は予想がつくわ。ジゼルは女神なんでしょう? 皇太子様がおっしゃっていたわ。全部知っているのよ。闇に葬られた歴史も、全部ね。あなたはジゼルからどれだけのことを聞いたのかしら? どうせ都合のいいことしか聞けていないんじゃない? でも、それを言ったところで無駄ね。あなた、完全に洗脳されてしまっているんだわ、あの子に。それから、裏切り者のゲルダに』
「ゲルダが、なんだって?」
『あの人、英雄アポロの生まれ変わりなんでしょう? それなのにあなた達の逃亡を手助けしたものだから、前世の記憶に惑わされた罪人として連合星最大の牢である【ウラノスの迷宮】に囚われているの。ゲルダが言ったのよ、あなた達二人に脅されたって』
「な――」
頭が真っ白になった。別れ際のアポロの言葉が蘇る。
――次に会う時は、私もまた君にとっての信用ならない存在の一つに含まれているかもしれないからね。
『私……そんなの、信じたくなくて……だから、あなたの居場所も教えなかったし、あなたを信じたの。きっといつか帰ってきてくれると思った。ねえ、ヘロ。私ね、あなた達の出立前にジゼルに言っちゃったんだ。あなたと別れるつもりって。私ね、あなたがあなたを好きな女の子と二人きりで旅に出るなんてやきもちでおかしくなりそうで、だから私のためにも、そしてあなたの枷にならないためにも、別れることが正解だと思っていたのよ。だけどね、そう言っていれば……あの気弱そうなジゼルなら、きっとあなたに深入りはしないだろうとも思った。だからそう言ったの。狡いでしょう? でもね、それって失敗だったんだわ! 私ったらなんてことをしたんだろう。きっとそのせいであなたはジゼルに――女神に惑わされているんだわ!』
ジャクリーヌが悲鳴にも似た声を上げる。
『私……あなたが正気に戻るためなら……なんだってやるから……あなたがいつか帰ってこられるように、絶対に居場所を作って待ってるわ』
「待たなくていい」
俺は振り絞るような声で言った。彼女を荒れさせているのは、俺なのだ。いつも凛とした彼女が、こんなにも、感情を荒げている。俺のせいで、リナの心が悲鳴をあげて、泣いている。
「待たないで、リナ。俺は、きっと、帰ってこられない。それから、誤解しないでくれ。ジゼルからは何も聞いていない。本当だ。そこまで知っているなら……言うけど、俺がジゼルを守ろうと思ったのは、アポロと、ヘルメスと、サタンの生まれ変わりの話を聞いたからだ。俺は俺の耳で過去の英雄たちの声を聞いて、自分で考えた。ジゼルに惑わされてなんかない。俺は俺自身の意志でここに居る。お前も……願わくば、目を曇らせないで、その綺麗な眼で、ちゃんと世界を見てほしい。きっとあなたなら……俺よりもずっと、凛として世界を見つめることができるから」
『あなただなんて、そんなよそよそしく呼ばないでよ……そんなの……辛いわ』
「ごめん」
俺はまた湧き上がってくる涙を堪えて唇を噛みしめた。
「俺は、自分勝手な夢のために逃げ出したんだ。あなたから逃げ出したんだ。俺は、あなたとなら作れたはずの温かい家庭とか、穏やかな生活よりも、世界の真実を知ることを望んだんだ。ジゼルなんてきっかけにすぎないよ。だって俺は、昔から世界に疑問を持っていたんだから。知ってるだろ?」
『ええ……』
ジャクリーヌがくすん、と鼻を小さく鳴らしたのが聞こえた。
『知ってるわ。知ってたわ』
「俺は……」
俺はふと、消えかけた暖炉の火を見つめる。弱々しく消えていく炎を見て、また頬を涙が一筋伝って行った。
「ジゼルの味方でありたいんだ。あの子には誰も味方がいない。誰もあの子自身のことを想ってあげる人がいない。だから俺が……俺だけでも、絶対の味方になってやりたいんだ。俺の、意志なんだ。洗脳じゃない。ジゼルのせいでもない。ましてやリナ、あなたのせいでもないんだ。俺、嬉しかったよ。辛かったろうに、俺のことを想って、ジゼルに別れるだなんてそんなこと言ってしまう狡いあなたが、可愛くて、たまらなかった。こんなに想われていいんだろうかって、俺は、仄暗い喜びを、噛みしめてたんだ。俺って、そんなやつなんだ」
『知ってるわ』
ジャクリーヌは静かな、けれど途切れがちな声で呟いた。
『その魔方陣、消しておいて。私が、またあなたの居場所、見てしまうかもしれないから。気の迷いで、告げ口してしまうかもしれないから。私を振るなら、私の視界に入らないでちょうだい。お願い……』
「うん、そのつもり」
『酷い人だわ』
少しだけジャクリーヌが笑ったような気がした。
『ほんと……酷い人を、好きになっちゃった』
ジャクリーヌのその言葉は、雑音が混じって途絶えた。
光の靄が消える。
俺は、震える手でシクルを撫でて、ジャクリーヌからもらった小さな魔方陣を浮かび上がらせた。
『よいのか』
メルディが静かに呟く。
「いいんだ……」
『これを残していたからと言って、あの娘は恐らく密告などしないよ。そういう娘だと知っているだろう。残しておかなくてよいのか。いつか、また言葉を伝えたくなるやもしれない。それに……何より、これはそなた達の思い出で、証だろう?』
「いい、んだ」
俺は口をぎこちなく歪めた。
「けじめ、だから……だって、結局、振ったの、俺だし、」
声が震える。
俺は親指でその陣を押さえつけた。焼け焦げるような音がして、小さな光の粒が……リナの瞳と同じ青緑の色の粒が弾けて、陣は火傷の痕のように白く抜けて、やがて空気に溶けるように薄れて消えていった。
俺は嗚咽を漏らして、何度もえずいた。
空が白んできたようだ。窓の
暖炉の炎はすっかり消えて灰になってしまった。しんと冷えた空気が俺を包み込む。
俺は何度も咳込み、小さく断続的に声を漏らしながら泣いていた。
*
暗い部屋の中で、布団にくるまって、ジゼルは天井を凝視していた。嫌な汗さえかいてくる。
――眠れない……。
眠らなければと思うのに、心臓がばくばくと妙に騒いで目が爛々と冴えている。どうしてこんなにも興奮しているのか自分でもわからない。
――あーあー! もう、こんな夜更けに紅茶をがぶがぶ飲むなんて……何お客様にも飲ませてるのよ? 夜眠れなくなっちゃうでしょう!
脳内でヘイニの言葉がこだまする。そうか、眠れないのは紅茶のせいなんだわ、明日からはあまり飲まないようにしよう……美味しかったから、全然飲まないのは無理だけれど……あまりたくさんは飲まないようにしよう……。
深く溜息をついて、ジゼルは何も見えない視界の中で、それでも目蓋を開いてどこともない場所を見つめた。
……ヘロに知られてしまった。明日から、どんな顔をして会えばいいのだろう。案外、何とも思わないでいてくれるだろうか。ヘロにはジャクリーヌがいるのだから、きっと困ってしまっただろうな。困らせてしまった。ああ、どうしたらいいかわからない。どうしよう、どうしよう……もう何も考えないで眠りたい! 眠れない……っ。
「ううう……」
ジゼルはじたばたとして腕で目を覆った。
「そ、そうだわ、ヘロって意外と短気だし考えなしだし無鉄砲だしすぐ笑うしすぐ拗ねるしいいとこないよ……これを機に嫌いになっちゃえばいいのよ……好きなのが止められないなら嫌って打ち消すしか――」
――できない……。
じわりと目に涙が浮かぶ。ぐすん、とジゼルは鼻を鳴らした。
不可抗力とはいえ、抱きしめられて、何故か狭間の道では頬をすり寄せられ、時々手を繋がれ、あの顔で笑いかけられる。ジゼルが紅茶に角砂糖をたくさん入れるのを知っていて自分のついでにジゼルの紅茶にもひょいひょいと入れてくれるそんなさりげなさにきゅう、と悲鳴をあげたくなってしまうのは決して自分だけの責任ではないとジゼルは思う。
――そう言えば、あの狭間の道で見た夢は……。
ジゼルはふわりと意識が空を舞うような浮遊感を感じた。
あれは女神の記憶だ。そして、隣にいるのは、恐らくウラノスなのだろう。なんとなくジゼルにもわかっていた。女神は――ジゼルがヘロを想うのと同じように――ウラノスを慕っていたのだ。
それは、ターシャと話をしていて不意に蘇った記憶と殆ど変り映えはしなかった。宇宙の暗闇の中で、自分が――女神が作った銀河の道を二人で手を繋いで歩いている。ウラノスが――顔は見えないけれど、女神の手を――自分の手を強く痛いほどに握りしめていた。彼は何かを探している――顔が見たいと思った。ジゼルはずっと――女神は、彼の顔を見ようとずっと目を見開いていた。まるでその横顔を目に焼き付けようとでもするかのように――。
女神の気持ちには、覚えがあって、共感ができて、けれどもっと強く深い悲しみに苛まれている。どうして女神、あなたはそんなにも諦めているの? 諦めたことを自分で悲しんでいるの? わたしは……わたしだって、同じはずなのに、ヘロに対してそこまでの気持ちは――まだ知らないのに――溺れそうになるの。
――貴女は勘違いをしている。貴女の真の想い人は、別の人間だ。そしていつか貴女もそのことに気付くだろう。そうして苦しむことになるだろう。
ノイデの言葉が蘇る。
ノイデを恨めないのは、それを言った時の彼の顔が、本当に苦しそうに歪んでいたからだ。
――わたしを、想ってくれている?
何故か、そう感じた。どうしてかはわからない。ターシャとは違う、もっと優しくて焦がれるような、ぬるま湯のような熱。前世で縁があったからなのかもしれない。少なくとも、彼は本当にジゼルを案じたのだとわかってしまった。あれ以上に責められるはずがない。それに、ジゼルの言いたいことはヘイニが全部言ってしまった。
私が本当に好きな人がウラノスだとして、けれど顔も思い出せない人を好きになれるはずもない。それは女神の想い人であって、私じゃない。それに、ヘロへの気持ちだってそもそもが一方通行なのだ。帰ってくることなど無いようなものなのだ。それがもし仮にまやかしだとして――そんなわけない――でも、わたしが苦しむなんてあるだろうか。わからない。ノイデは一体、何を言っているんだろう。
「眠れない……」
ジゼルは溜息をついた。あれほど紅茶を飲んだのに、まだ喉が渇いた。考え込みすぎたせいかもしれない。
飲み水をもらおうと、そっと部屋の扉を開けて、階段を降りる。上履きの音がぱこんぱこんと響くのが気になって、そろそろと手すりに捕まりながら階段を踏みしめた。
応接間は酷く冷えていた。ぶるっと震えて、上着を持ってくるべきだったと後悔する。外は白んできているようで、部屋もどこか薄明るい。
食台に乗った水差しを手に取ろうとして、ジゼルは悲鳴をあげそうになった。
ヘロが暖炉の前の絨毯の上で膝を抱えて座っている。
「び、びっくりした……ヘロ、まだ起きてたの?」
ジゼルが声をかけるけれど、ヘロは応えない。
気になって顔を覗き込むと、起きてはいた。睫毛が瞬きと共に微かに震えた。
「風邪ひくよ?」
「…………大丈夫」
静かな、擦れた声でヘロはそう言った。ゆらゆらと動く視線が、ようやくジゼルとかち合うけれど、またすぐに逸らされる。
――眠いのかな?
ジゼルはヘロの肩を軽く揺すった。ヘロの体は酷く冷えていて、ジゼルは思わず眉尻を下げる。
「ねえ、ヘロ。寝ないと。こんなところで寝てたら風邪引いちゃうよ? 部屋に入ったら、ふかふかの寝台があるから……」
「………放っておいてよ」
ヘロが低く小さく呟いた。
こんな時に限って、メルディは何も言ってくれない。
ジゼルは躊躇って、おろおろと視線を彷徨わせた。ふと、ヘロの頬に涙の痕があることに気が付く。
そっとしておいた方がいいのだろう。けれど、せめて、毛布は持って来ようと思ってジゼルは立ち上がった。ジャクリーヌのことで泣いたのだろうかとなんとなく思った。何があったのだろう。けれど、それはわたしが聞くことじゃない。
ヘロがジゼルの指を捉える。小さく引かれてジゼルは振り返った。
ヘロは俯いたままだった。
「あったけえ……」
「……こんなところにいるからだよ……ヘロが冷えているんだよ」
「うん」
ヘロの指が離れていく。
名残惜しく思ってしまう自分を心の中で戒めながら、ジゼルはヘロにあてがわれていた部屋へ歩み寄った。恐らく誰もいないのだろうとわかっているのに、つい癖で扉をこんこんと叩いてしまう。
毛布を抱えてジゼルはヘロの傍へ駆け寄る。意外と重たい。
ヘロに毛布を掛けてやって、ジゼルは傍に置いてあった
「もう……薪が傍にあるんだから、火が消えちゃう前に入れればいいのに」
ジゼルは苦笑する。
「ヘロ、これで温かく――」
振り返って、ジゼルははっとした。
膝に頬を乗せて目を閉じたまま、ヘロは静かに涙を流していた。
何も言えなくなって、ジゼルはヘロの隣に座り、その横顔を見つめた。
「
ヘロが小さな声で呟く。
ジゼルは首を傾げた。
「指がかじかんで、うまくとれないんだ」
「……うん」
ジゼルはそっとヘロの前髪に留められた二本の
長い前髪がヘロの目に被って、涙の跡さえ覆い隠してしまう。
「持ってて」
「どうして?」
「これは……前がよく見えるように、つけてるだけだから……今は、いらない。何も、見ていたくなくて」
「うん」
ジゼルは暖炉の火を見つめた。夜は眩しく色鮮やかに見えたその色も、白んだ景色ではどこか頼りなく見えた。
「風邪引くよ」
ヘロがぼそりと言った。ジゼルは苦笑する。
「ヘロが戻るなら、戻るわ」
「なんで」
「なんでって……」
ジゼルは少しだけ考える。
「だって、ヘロが起きてるのを知っているのに、自分だけ布団にくるまって眠れないよ……」
困ったように言うと、ヘロがようやく微かに笑った。
「だよな」
ジゼルはヘロの横顔を見つめた。前髪を下ろしているヘロは、なんだかいつもよりも幼く、心もとなく見えた。
「あのさ、」
「何?」
ヘロはまた目を閉じる。少しだけ、甘えるようにジゼルの肩に頬を乗せた。眠くなってきたのかもしれない。いつしか部屋の空気はぽかぽかと温まってきていた。
「もしいつか、俺があんたを恨んだら、許してくれる?」
ジゼルはヘロを見つめる。長い桃色の睫毛が暖炉から湧き上るふわりとした熱で揺れている。
「うん」
ジゼルは頷いた。
「主体性ないなあ」
ヘロは笑った。ジゼルが「うん」とばかり言うからだろうか。ジゼルは口を小さく曲げた。
「そんなことない」
「ふうん」
ヘロは笑った。やがて静かな寝息を立てていた。いよいよ、この場を離れられそうにない。ジゼルはヘロにかけた毛布を少しだけ引っ張って自分の肩にもかける。
メルディがふわふわと浮いて、ジゼルの手元にぽとりと落ちた。
「なんだあ……やっぱりメルディも起きてたのね」
ジゼルはメルディをそっと撫でる。けれどメルディは、何も言わなかった。
ジゼルはメルディを掌で水を掬うように包み込んだ。
「……泣いているの? メルディ……」
メルディは何も言わない。けれど、小さく、頼りなく震える様は、まるで泣いているようで――。メルディは今は心も閉じてしまっているようだった。だから心の声もあまり聞こえない。聞こえるのは――小さなすんすんという隙間風のような音色だ。
二人とも、よく似ているなあと思いながら、ジゼルはメルディを撫でて、暖炉の炎を見つめた。ふわりふわりと温かな空気が舞う。
「早く、元気になってね」
メルディがこくりと頷くように体を揺らした気がした。ジゼルは瞼を閉じる。
夜が、明けていく――。
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