Episodi 24 茨と焔

 白いふわふわとした厚手の服に身を纏いながら、ヘロは不思議そうに肩や裾に広がる黒灰色の模様を眺めた。ノイデの服にも、同じような模様が同じ位置に描かれている。ノイデの場合は、瞳と同じ薄荷色だったが。

「これ、何の模様?」

 ヘロは不思議そうに首を傾げた。ジゼルを見やれば、襟を互い違いに重ねたような小豆色の上衣――重ね着された筒袖が特徴的だ――にひだのある灰青色の長いレイアスカートを合わせている。こんな奇妙な模様なんてどこにもついていない。

「ああ、それは茨柄だよ」

 ノイデはジゼルの肩に落ちていた仕付け糸をつまんで指ではじいた。

「元は色々な意味があったけれど、今はもうそんな意味もすたれてしまって、なんとなくとして残っている伝統でしかないさ。まあ、僕は結構好きだけどね」

「ふうん」

 ふと、ヘロは狭間の夢で見た茨を思い出していた。少年は大切にしていた縫いぐるみを茨に引っかけてしまった……そうして縫いぐるみの腕が千切れるように、彼らの友情も千切れて終わってしまった……。ふと、この茨の模様は大地のひび割れにもよく似ているような気がした。あれが無ければ、彼らの行く末は少し違うものになっていたんだろうか。道が分かたれない未来もあったのだろうか。未来がどうなるかなんてわからないけれど、案外、些細なことが降り積もってできていたりするのだ。なんとなく、この茨の模様は夢の中の彼が抱えた戒めの証のような気がした。

「なあ、ノイデ。あんたは、もしかして……」

 ヘロはそこまで言って、口ごもる。不思議そうにジゼルがヘロの顔を覗き込んだ。暖炉の橙の灯りが彼女の頬を照らす。心が温かくなるのを感じてほっと息をつくと、ヘロはジゼルに笑いかけた。

「何?」

 ノイデが振り返って先を促す。ヘロは小さく息を吸った。

「あんたは、もしかして、英雄サタンの生まれ変わりか?」

 ノイデはしばらく黙っていた。まるで品定めをするかのように、ヘロをじろりと睨みつけ――ややあって、小さく嘆息した。

「……ご明察。どうしてわかったのか、聞いてもいい?」

「それは……なんとなくとしか、言いようがないんだ」

 ヘロは誤魔化すように笑った。あの夢を見たと言ってもいいのかわからなかった。誰だって、あんな心に針金を刺すような記憶、無闇に観られたいものではないだろうと思った。

「ゴーシェの妹であるターシャも英雄マルスの生まれ変わりだったし、ゴーシェが言ってたんだ。英雄の魂はその星に縛られているってさ。だったらこの星にいて、ゴーシェと同じ転送魔法を難なく使えるそんな人は、英雄サタンの生まれ変わりだと捉えたほうが自然かなと思った。そもそもあんたは、ゴーシェが英雄ヘルメスの生まれ変わりだという話にも大して驚いていないように見えたから」

 ヘロはノイデをまっすぐに見つめる。ノイデは少し苛立ったように口を歪めた。

「何。僕はかまをかけられたってわけか」

「いや、あれは俺も少し気が動転していたんだ。それで、警戒心もなくさらりと話してしまった。だけどそのことに対して何の違和感もなく話が進んでいったから……きっとあんたは元々知っていたんだろうなと思っただけだよ。あとは、逆算」

「そうかい」

 ノイデは鼻を鳴らして目を伏せると、音もなく紅茶をすすった。

「そもそも、ここに来てから一度も、あんたは俺達の名前を聞いてないだろ。まるで、元々知っていたみたいに……ヘルメスの杖から魔法で声まで届けてたし……そうだ、あれはどうやったんだ?」

 ノイデはしばらくの間、まるで何かを疑るかのようにヘロを凝視していた。ややあって、口をティーダカップから離す。

「……そもそも、シクルは僕が作ったんだ。正しくは、僕の前世が、だけど」

 ノイデはぽつりと呟いた。ヘロは目を伏せる。やっぱり、あれは英雄サタンの記憶だったのだとわかったことが、悲しかった。

「だから、僕はシクルを通してシクルの見ている世界を眺めることが容易くできる。ああ、勘違いしないでくれ。僕は前世の記憶は持っているが、ターシャやゴーシェのようにその記憶に引きずられて身を破滅させる気は毛頭ないし、必要もないのにシクルから世界を覗き見しようなどとも毛頭思ってはいない。ただ、今回に限っては……ヘロ=ナファネ、お前に関しては、僕の手元に呼び寄せるまでの間、監視が必要だと思った。だからやった。弁解するわけじゃないが、僕は今日こんにちに至るまで――お前が神器に勇者として選ばれる日まで、一度もこの転送魔法を使ったことなんてなかったのさ。馬鹿らしいからね。ただ、あのままあのマルスでお前達を放っておくとお前達が皇室に回収されてしまうと思った。だから強制的にヘルメスの杖と意識を連結させて、お前達に声をかけたんだ。あの転送魔法は発動に条件があってね、神器を介さないと使えないのさ。僕の手元に神器はないからね、ああするしかなかった」

 ノイデは陰に溶けてしまいそうな声で呟いた。それだけで、彼がそんなことをしたくてしたわけではないのだとヘロにはありありと理解できたのだった。

「怒ってないよ。それに、あんたがここに呼んでくれたから、俺達は皇室にすぐに捕まらないですんだわけだし。ゴーシェも治療してもらえてるわけなんだから」

「ふん。まあ、お前達が捉えられるのも時間の問題かもしれないが」

 ノイデは鼻で笑った。

「ついでに言っておくと、僕はお前達の動向をお前のシクルを通して見ていたが、お前のシクルはそのことを知らなかったはずだ。僕の透視術はシクルの無意識に同調する。だから、その、一応……お前のシクルは責めないでやってくれ」

 頬を掻きながら気まずそうにそう言ったノイデの鼻は、少しだけ赤らんでいるようにヘロには見えた。

 メルディがふわふわと漂ってヘロの頬にすり寄る。ヘロはメルディをそっと捕まえて撫でてやった。責めるわけがない。

「責めたりしねえよ。だって、メルディは――こいつだけは、俺の絶対的な味方だから」

 ヘロは笑った。ノイデは眉根を寄せた。

「お前、判断基準を対象ではなく自分に戻す癖をつけていなければ、いつか身を滅ぼすぞ」

「どういうこと?」

「その、依存的な性質をどうにかしろと言っている」

 ヘロは指先が冷えるのを感じた。心がえぐられたような心地がしたのに、ノイデの言っている意味がよくわからない。わからないことが、酷く恐ろしいことのように思えた。ジゼルがふとヘロの指先に触れて、ヘロははっとしゃがんだままのジゼルに視線を移した。ジゼルはじっとヘロを気遣わしげに見つめていた。そんなに自分は酷い顔をしただろうか。菫色の瞳に、頭の中がくらくらするような感覚に囚われる。狭間の夢の中で、英雄サタンはあの菫泥石の色をプルートの色だと言っていたけれど。あの輝きは夢の中で強烈な印象をヘロに残した。サタンが敷いた魔方陣は紫色で、それはどちらかと言うと、あの菫泥石の赤紫と言うよりは、ジゼルの瞳のような菫色に近いのかもしれない。それでもヘロは、サタンはきっと、まだあの紫色に――ついぞ渡すことはできなかったあの菫泥石に囚われたままなのだろうと、漠然と思った。そしてその想いに、ヘロはなぜだか酷く充てられていた。惹きつけられ、浸かりきって何もわからなくなる。ヘロは思わず目を逸らした。目の前がちらちらする。今は、まだ、気持ちの整理がつかない。

「それで、もう一つ気になることがあるんだけど」

 ヘロは話を逸らすようにノイデに声をかける。

「なんだ」

 ノイデもさして気にした様子でもなく、紅茶をもう一杯注ぎながら短く言葉を返してくる。

「マルスの星で空に浮かんだあの緑の魔方陣は……あれも、転送魔法じゃないのか。模様が違うような気もしたけれど……時計盤によく似ていた」

「ああ、」

 ノイデは鼻で笑った。英雄の生まれ変わりは鼻で笑うのが癖なのだろうか、とどうでもいいことをぼんやりと考えながらヘロはノイデの次の言葉を待つ。

「もちろん。ただあれは、人を転送するようにはできていない。簡略版とでも言えばいいか。それで? そこからお前はどんな答えを導き出すの?」

 試すように問いかけてくる。ヘロは触れたままのジゼルの指をきゅっと握り返した。僅かにジゼルが身じろぎしたような気配がした。

「あれは……英雄プルートが……あるいはその生まれ変わりの誰かが、出した魔方陣、なのかなって……」

「どうしてそう思う?」

「それは……あれを見て、ゴーシェがって言ったからだ。あの魔方陣だけを見てあいつはそう言った。あんたが言ったじゃないか、あの魔法は失われた魔法だって。英雄しか知らないはずの魔法なんじゃないのか。だとしたら、あれは英雄プルートの色なんだろ」

「あと一押し」

 ノイデは笑った。

「皇室は英雄プルートの生まれ変わりと密接な関係を契っている上、あの魔方陣の存在を知っていて、政治的にも非常に重宝していると言うことだよ、お馬鹿さん。つまりね、お前がこのジゼルの正体が暴かれることを恐れて逃げ出したことには結局のところ何の意味もないってことだ。英雄の生まれ変わりが世にあるならば、女神の生まれ変わりが世界にいたとしても何ら不思議ではない。もっとも、なぜその存在自体消去されたはずの女神がこうして形を保っているのかという疑問は残るだろうが、それでも最初から、お前が相対した皇太子は、この子が女神の生まれ変わりかそれに準ずる者であろうことくらいほぼ確信を持っていたのさ。それで尚、お前達を利用しようとしたんだ。ウラノスの地図を探すため、それだけにね」

「ウラノスの地図が……どうしてそんなに必要なんだよ」

「それがわからないから、じゃないかな?」

 ノイデは曖昧な笑みを浮かべて、考え込むように視線を泳がせた。薄荷色の瞳にゆらゆらと橙の影が映る。

「僕にもはっきりとした理由は分からないのさ。ただ、惑星プルートの皇室はそれを何百年もかけて血眼になって探している、ということだけが事実だ。未だ見つかってはいないようだけれどね。あるかどうかもわからないそんな神器に、どうしてそこまで執着するのか……僕もわからないのさ。だから、それに興味がある。だからこそ、僕はサタンの天秤を自ら皇室に譲渡した」

「そう言えば……あなたはどうして、天秤をそんな風に簡単に明け渡せたんだ? ゴーシェはそういうのを売国奴だって罵ってたけど」

「簡単に、だなんて言ってくれるね」

 ノイデは明らかに気分を害したように呟いた。

「あの、ね」

 ジゼルがどことなく申し訳なさそうに言葉を挟む。

「ターシャは……水瓶を手渡すことを拒んでいたけれど、渡したくなかったからじゃなかった。もう渡せなかったのよ。だってあの子は、水瓶をとうの昔に割って破片にしてしまっていた。使えなくしてしまっていたの。でもそれだって、あの子なりに、水瓶のことを想ってそうしたのよ。私には……英雄が、自分の相棒のような神器を簡単に手渡せるとは思えない。たとえ星を滅ぼすと言われたとしても……ゴーシェとターシャが、それを証明してくれたじゃない。きっと、もっと違う理由が……あったのよ。だって、ヘロ、あなたはメルディを寄越せと言われて簡単に明け渡せる?」

「できない」

 ヘロはきっぱりと答えた。

「そんなことをするくらいなら、俺は逃げる」

「そうね、あなたって、そんな人だわ」

 ジゼルがくすりと笑う。

『胸を張っていう事ではないがの』

 メルディが小さくからかうように呟くのが聞こえた。先刻からずっと甘えたようにヘロの掌にすり寄ってくる。シクルも何か、不安なのかもしれない。このノイデは、つまりはサタンの生まれ変わりで、シクルの生みの親のようなものなのだから。

「はいはい、そういうこっぱずかしいのいいから」

 ノイデは深く嘆息した。

「あの双子は子供であるが故か、非常に短慮で馬鹿だよ。狭い範囲でしか物事を捉えられない。別に僕達は神器を売ることで星を守ろうとしたわけじゃない。僕達は――僕達の前世は英雄だなんて御大層に呼ばれているけれど、僕達にとって星なんてただの地面に過ぎない。僕達にとって大切なのは居場所であって、居場所をくれた女神だけだった。それが、何の綻びかこんなことになってしまった。僕達の未練は全て、過去の罪を報いたいと言うそれだけだ。この星にいる人間のことなんてどうでもいい。僕は僕の都合で神器を皇室に売ったのさ。それが、僕個人にとって都合がよかったからだ。何も、マルスの星のようにああも反抗することだけが意志の提示じゃないのさ」

 ノイデは瞼を閉じる。その白い肌に、橙と黒の光と影が揺らめく。燃えるように。

「あんたの目的は……なんなんだ?」

「だから、皇室がどうしてウラノスの地図を欲しがっているのか、それを知りたいのさ。僕にとっては、それがどんなものなのかなんてどうでもいいんだ。大方予想はついているしね。まあ、間違っているのかもしれないのだけれど」

「そう……か。じゃあ、あんたはウラノスの地図って何だと思ってるわけ?」

 ノイデはゆっくりと目蓋を開けて、頬杖をついた。気怠そうに。

「ジゼルそのもの、とでもいうのかな」

「は?」

 ヘロは眉根を寄せる。ジゼルがぴくりと肩を跳ねさせた。

「設計図とでもいうのかな。この世界の人間達はね、みんな額に見えない地図記号が埋め込まれているのさ。それぞれの惑星の印がね。それを英雄や女神は地図記号と言っていた。元来、ウラノスに与えられた地図は地図記号を収める記録でしかなかった。地図の中に惑星の記号を書き留めることで、この星の人間達は、この星の地に足をつけることができるようになった。存在できるようになったのさ。逆に言えば、その記号を消されてしまえば人はこの八つ星に存在することができない。存在の消去は死よりも惨い。けれど、死刑と言うのはそういう事だよ。八つの神器で、唯一この地図記号を消すことができるものがある。塗りつぶす、とでも言えばいいのかな。それが、ガイアの筆だ。かつてガイアは、その筆の力で女神の地図記号を塗りつぶした。地図からは女神の記号が消え去った。けれど不思議なことに、これに関しては僕には理解の範疇を超えているのだけど、ガイアは自ら命を絶つ前にウラノスの地図に落書きをしたんだ。それがその、六芒星」

 ノイデはジゼルの胸元に光るペルフィアペンダントを指さした。

「そして恐らく、ウラノスはそれを消さなかった。だからジゼル、貴女がこの大地に生まれてきたんだ。地図に記されたその場所に染みこんだ六芒星の魔力が、周囲の土や水と同化して、やがてあなたという容を作り上げた。僕はそう解釈しているし、恐らくはゲルダも同じことを考えているだろう。そういう意味で言えば、ジゼル、貴女こそがウラノスの地図そのものと言うことができる。ウラノスは恐らく、貴女を再びこの世界に存在させるためにウラノスの地図を隠したんだ。誰かに見つかって、その印が消されてしまうことの無いように。それが僕とゲルダの解釈だ。だとすればウラノスの地図を探したところで何の意味もないだろう。仮に見つかっても、ジゼルが最早この世界に存在する以上、元の設計図を燃やしたところで何の意味もない。問題は……なぜガイアはわざわざ女神の存在を消去しておきながら、女神の最短の基端になるそうなあの地図記号をウラノスの地図に書き込んだのか……分からないことだらけだ。けれど、それをきちんと理解しなければ……明るみに出さなければ、僕達の未練は根こそぎ枯れ得ることは無いように思う。未練が残る限り僕達は何度でも生まれ変わるだろう。僕もね、これが一体何度目の転生なのかよくわからないんだよ。英雄であった頃の記憶は一つたりとも欠けていないのに、それ以外の僕の記憶はない。おかしいだろう? 今こうして僕が生まれているのであれば、きっともっと昔にも、僕のように英雄の記憶を抱えて生まれて来た者がいたはずだ。なのに、その記憶は継承されていない。だとすれば、この苦しみが未練を芥子切らないことには永遠に続くと言うことだ。記憶がないからいいと言うわけじゃない。僕は……ノイデ=トラッドが生きているうちに、それを終わらせたいんだ。僕は今の人生に満足している。それなりに幸せだと思っている。それが、英雄の未練を反芻するためだけの部品の一部だなんて思いたくない。僕は唯一でありたい。そのためにも、僕はどうにかして英雄サタンの未練を枯らし切りたいんだ」

 ノイデは小さくかぶりを振った。暗い声で言ったわりに、小さな欠伸をして、お湯の沸いたやかんを取り上げる。ヘロは首を傾げながらノイデを見つめていた。どうも、この青年のことがよくわからない。欠伸をかみ殺して、ノイデは再び紅茶の茶葉にお湯を注ぎこんでいる。一体どれだけ飲むつもりなのだろう。喉が渇いていると言うにはあまりにも、飲み過ぎだと思った。そしてその度に砂糖やフィテュレジャムを混ぜるのだ。まるで口寂しさに苛まれているかのように。

 ノイデは紅茶をまた一口飲みこむと、再び話し出した。

「惑星プルートにプルートの生まれ変わりがいるのなら……彼女もそんなことは理解しているはずだ。だのに皇室がウラノスの地図を躍起になって探しているのだとしたら、それはプルートが何かしらの意図を持って探させていると言うことになる。僕にはその理由がわからない。もしかしたら、彼女しか知らない何かしらの価値が、ウラノスの地図にはあるのかもしれない。それが知りたくて、僕は布石をいくつか打つことにしたというわけだ。一つがサタンの天秤をあの星に潜り込ませること。そしてもう一つが、お前達の弁護人と言う立場を獲得すること」

「俺達の弁護をすることにどんな意味があるわけ?」

「要らんと言うならしないが? 僕としても、面倒くさいことは本当は嫌いなんでね」

「いや、助かるに決まってるだろ! 少なくともあんたは……ジゼルが死刑にならないようにしてくれるんだろ」

 肩をすくめて呟くヘロを、ノイデは奇妙なものを見るような目で見つめた。

「お前は死刑になってもいいとでもいうような口ぶりだな」

「え……いや、そんなことはないけど」

「それとも偽善か? 自己満足の自己犠牲か? 気味が悪いな。そのシクルがお前に声をかけないではいられなかった気持ちが何となくわかる気がするよ。僕だったならば、進んでお前に関わり合いたいなど思わないけれど」

「なんだよ、散々な言いようだな……」

 ヘロは座椅子の背にもたれて頬杖をついた。何の意味もないけれど、足元で丸くなっているジゼルの頭をくしゃくしゃと撫でる。ジゼルがくすぐったいのか少しだけむっとしたような気がしたけれど、ヘロはヘロで別のことを考えていたのだった。

「アフロディテの竪琴や、ガイアの筆も、ノイデのような理由で誰かから譲渡されたのかな」

「あの二つはそもそもが既に持ち主を無くして、随分と経っていた。それが自然と皇室の手に渡ったと考えた方が自然だ。ゲルダに聞いたところでは、今のところアフロディテとガイアが人間として生まれ変わってきた時代はないらしいからな」

「そっか。じゃあ、その人たちには何の未練もなかったってわけだ」

 ヘロは敢えてノイデを見ないようにしながらさらりと言った。かちゃり、と食器の擦れる音がする。思った以上にノイデは動揺したらしかった。

「そりゃあ、ね」

 ノイデは震える声で呟いた。

「そういう、ことだろうさ」

 ノイデは盆の上に三人分のティーダカップを乗せて運んできた。ヘロとジゼルは黙ってそれを受け取り、牛乳入りの暖かい紅茶をすする。

「僕はただ、知りたいだけだ。プルートが、どうして、アフロディテを殺したのか……。どうして殺さなければいけなかったのか、どうして殺されることに彼女は甘んじたのか……。それが、サタンの未練で、僕自身の……未練なんだろう。本当は、プルートの鏡かアフロディテの竪琴に話でも聞ければ早いのだけれど、残念ながらプルートの鏡はもう屍も同然だし、アフロディテの竪琴は気難しくて誰にも心を開かない。唯一吟遊詩人があれの声を聞けるはずだけれど、あの婆は怯えるばかりで何も話そうとしない。自分が世界の罪人であったと言う事実がそんなにも堪えたのか」

「あの……ノイデ?」

 ジゼルが言葉を挟む。

「わたし……もしかしたら、聞こえるかもしれないわ、竪琴の声が……確証は、できないのだけど……それに、わたしも、声が聞けるならアフロディテの竪琴に聞きたいことがあったし……」

 ジゼルの声に、背後で再びかちゃん、と小さく食器が擦れる音がなった。

「いや……それじゃ……意味はないだろうな。恐らく、貴女の場合は大方ウラノスの地図のことでも聞きだしたいのだろうが」

 ノイデの声は、低く悲痛を滲ませている。

「え、なんで?」

 ヘロは振り返った。ノイデはどこか荒んだような眼差しで暖炉の炎を見つめていた。

「神器は恐らく、ジゼルに全てを話さない。それが女神のためだと頑なに思っているだろうから。それは、僕達の知りたいものとは違う。例えば、そうだな、気難しい玻璃と心を通わせることができるような、稀有な子供がいたとしたら……そんな無垢な第三者にであれば、彼らは心を吐露するかもしれないな。そいつが、彼らが愛する女神のために生きてくれるという信頼に値するのであれば」

 しん、とした空気に、紅茶の柔らかな香りと、湯気と、食器の擦れる音だけが満ちる。

 ノイデはヘロを射抜くように見つめていた。ヘロは視線を逸らすことができない。

「何の理由もなくお前達を監視していたと思うか? はっきり言おう、ヘロ=ナファネ。僕はお前のシクルだけが、この世界方々にちらばったシクルでただ一人、持ち主に心開いたことを知った。十二年前の話だ。当時僕は十四歳だった。生まれて初めての非常事態で、僕はそれから、意図せずお前を時々覗き見るようになった。そうしているうちに、一度だけ、そのシクルからの視界に映った少女に目を奪われた。ちらりと見えた菫色の瞳に、どうしようもなく覚えがあると思った。僕はそれから他のシクル達の視界を転々として、彼女の――ジゼルの傍にゲルダと言う人間がいることを知った。忘れもしないさ。生まれ変わりどころか、彼はアポロそのものだったのだから。僕が彼と連絡を取ったのはその後だ。そして、そのシクルにが――」

 ノイデはそこで、苦しげに言葉を切った。ちらりとジゼルを見て、口元が小さく「すまない」と声にならない言葉を紡いだように見えた。

「その稀有な少年が、現実味もなくただそこに在るだけの、只の子供が、彼女の――ジゼルの想い人だってことも、知った」

「ノイデ!」

 ジゼルが弾かれたように大きな声を上げた。ヘロはジゼルがそんな大きな声を上げたことにも驚いていたけれど、ノイデの言ったことが信じられなくて、目を見張ることしかできなかった。ごくりと咥内で冷まさずに飲みこんでしまった紅茶が喉を、食道を焦がしていく。熱い痛みが体を駆け下りていく。

「すまない」

 ノイデは頑なにジゼルと目を合わせようとはしなかった。ジゼルは彼女にしては泣きそうなほどにやるせなさを滲ませて、ノイデを涙の溜まりゆく目で睨みつけていた。肩が震える。それを、無性に慰めてやりたいような心地がして、けれど、今の自分にそんな権利はないのだと、なんとなくヘロは思ったのだった。ノイデは苦しげに、そしてどこか苛立ったように息を吐いて、言葉を続ける。

「だが、ジゼル。貴女は勘違いをしている。貴女の真の想い人は、別の人間だ。そしていつか貴女もそのことに気付くだろう。そうして苦しむことになるだろう。だったら、ここで、一度気持ちを整理する方が貴女のためだと僕は思う」

「勝手だよ……そんな……言うつもりなんて……なかった、のに……」

 ジゼルが目からぱらぱらと雨のように涙が零れて落ちる。ヘロはその涙を拭ってやることもできない。

「そうだろうと思ったから、僕が言ったんだ。貴女にそんなことを言ってやろうなんてする奇特な人間は、僕しかいないだろうから。きっと、他の英雄等は貴女がいつか苦しむのをわかっていて見て見ぬふりをするだろう。でも僕は……僕の前世は、それで絶望の淵に立たされた。だから、僕は、たとえどれ程に貴女から恨まれようと、先の発言を後悔したりはしない。偶然が偶然とは見まがう程に重なり続けて、女神に心を寄せられるほどに、玻璃の心を捉える少年が、欲しいと思った。ヘロ=ナファネ。お前なら、アフロディテの竪琴の心をも得られる可能性を秘めているのではないかと思ったんだ。それにかけてみたいと思った。だから、僕はお前の身元を引き受けたいと思ったんだ」

 ノイデはヘロを見つめた。その視線が酷く真剣で、まるで刃のように鋭くて、ヘロはごくりと喉を鳴らしたのだった。

 頭が混乱している。ジゼルがヘロを想ってくれているなんて――考えたこともなかったのだ。ああ、だからジャクリーヌは――ヘロはメルディの言葉を思い出していた――【あれはジゼルに浅ましい牽制をした】――そんなこと――そもそも俺はもうシクルに選ばれてしまってーーだから吟遊詩人にはなれないって……だから諦めて……――【あの娘はこうも言ったぞ。『私はヘロと別れるつもり』だとな】――ああ、でも期待してもいいんだろうか?――そんなの、無理に決まっているーーのに、今更、何に期待していると言うんだ? 今でもまだ、吟遊詩人になりたいだなんて、まだそんなことを俺は縋ってーー【そう言えばそなたの中で彼女は永遠になる。そなたはジャクリーヌを永遠に忘れることはできないだろう。別れたくなかったのに、旅のせいで、勇者に選ばれてしまったせいで、魔道士がジゼルなんかだったせいで、自分はジャクリーヌと別れなければいけなかったと、恨みにも似た気持ちはやがて少しずつ大きくなるよ】――そんな想い期待は、メルディに悪くて――ジゼルが、俺を好き? そんなの、一体いつから――ああ、頭が痛い。

 空洞に音が反響するみたいに、頭蓋の中ががんがんと疼く。ヘロは頭を押さえて俯いた。喉が渇く。口寂しい。何か、自分の中に湧き上がってくる得体の知れない激情が渦巻いて、空恐ろしさにたまらなくなる。

「最っ低」

 部屋の端で、水面を弾くように凛と響く声が聞こえた。

 視線を移すと、金髪の少女が――ヘイニが、濡れた手を布巾で拭きながら呆れたような眼差しをノイデに向けていた。そうして、小さく駆け寄ると労わる様にジゼルの背を撫でる。

「どんな理由があれ、女の子の恋心に許可もなく踏み込んだ挙句、それを晒し者にするなんて、褒められたものじゃないわね? だからあなたは未だに嫁の一人も来ないのよ、ノイデ。馬鹿ね」

 ふん、と怒ったようにヘイニは言うと、ノイデに諌めるような眼差しを向ける。その声音は叱っているようでいて、どこか寄り添うように温かいとヘロには感じられた。幼馴染と言っていた、長年の絆がそうさせるのかもしれない。

「手術は無事に終わったわ。あとは体温や呼吸数が安定するまで様子を見るわ。夜の間は私が看ていてあげるから、あなた達はさっさと寝てちょうだい。ずるずる起きていても何の足しにもなりません。詳しいことは知らないけれど……今日は疲れているでしょう? 全く、来訪者に初日からこんな込み入った話をだらだら聞かせるなんて呆れるわね? ほんっとに男は気が利かないんだから」

「呼び寄せたのは僕だけどね」

 ノイデは小さくぼやいた。ヘイニが驚くような形相で振り返ってノイデを睨む。ノイデは罰が悪そうに顔をふいと逸らした。ヘロはヘイ二の剣幕に圧されて固まってしまった。

「あーあー! もう、こんな夜更けに紅茶をがぶがぶ飲むなんて……何お客様にも飲ませてるのよ? 夜眠れなくなっちゃうでしょう! あなただって明日も仕事でしょうが……まったくいつまで経っても自己管理できないんだから……」

 ヘイニは膨れ面でぶつぶつ文句を言いながらあっという間にすべての食器を片付けて、焼き菓子も仕舞い込んでしまった。ノイデの指が手持ち無沙汰を紛らわすようにかつかつと食台テーブルの表面を打つ。なんとなくその様子は拗ねた子供のようでもあって、それを見ているうちにジゼルは涙目ながらも少し落ち着いたようだった。ヘロはほっとした。ジゼルを見つめていると、目が合って、ふいと逸らされた。あ、また泣かせてしまったかもしれない。ジゼルの肩が小さく震えている。

「さあさあ、寝ましょ。寝台は整えておいたわ。と言ってもこの家、あまり部屋はないから、ジゼルはとりあえず私の部屋で寝ていてくれる? あ、ヘロは一階の、ここね」

 ヘイニに飴色の木の扉の一つを指差されて、ヘロは頷いた。ヘイニはにっこりと笑った後、器用なことに今度はノイデをじろりと睨みつける。

「寝ぇーなぁーさぁーい?」

「わかったわかった……」

 ノイデは両手を上げると、悩ましげにため息をつきながら頭をがりがりと掻いて一階の別の部屋に引き篭もってしまった。ヘイニはジゼルの背をそっと押して、二階への階段に脚をかける。

 ジゼルが少しだけ振り返った。蚊の鳴くような声で、ひどく沈み込んだ様子で、

「おやすみなさい」

と呟いたのが見えた。声はほとんど聞き取れなかったけれど。

「おやすみ」

 ヘロも笑った。笑えるほどにぎごちない声で、その言葉は溢れていった。自覚している以上に、ヘロ自身も動揺しているらしかった。

「はあ……」

 深い息が漏れて、誰もいなくなった応接間に音となって響く。暖炉の火は今も盛るように燃えている。火の側に身を近づけて、ヘロは手をかざした。熱い熱が掌に染み入ってくる。

 話が、途中になってしまった。助かった、と思うと同時に、酷く落ち込んでいた。なんでだろう。俺はどうしたいんだろう。まず何から考えればいいんだろう。

『ヘロ』

 メルディが柔らかく呟いた。

「もう少し……話を聞きたかったんだ。……詳しく」

『そうだろうなあ』

 メルディは労るように声を紡ぐ。

『そなたが、竪琴に思い入れがあるのは知っているよ。執着があるのは知っている。そなたがそれを……音楽を大好きだったことは我が一番知っているはずだ。そうであろう?』

「うん」

 ヘロは、温かくなった両手の甲で目元を隠すように覆った。

「メルディ……ごめんな……」

『よい。そなたを選んだ我を恨んだこともあったろう。知っている。我はそなたのことなら何でも知っているのだぞ、ヘロ。けれど、我のせいで心を閉じ込めたそなたに愚かにも縋るように声をかけた我を、そなたは受け入れてくれたではないか。我とともに笑ってくれたではないか。それが我にとっての全てだ。我はの、そなたの味方でありたいのだ。だがな、ヘロ。あの若者が言ったように、今のままではそなたは我に心を委ねきってしまうのであろうよ。それはそなたにとってよくないと我とてわかるのだよ。ならば、そなたの一度諦めた夢を――謳うことを、また夢見てもいいではないか。それがそなたの柱になるのならば』

「うん」

 ヘロは深く、体の中に溜まった毒を吐き出すように、息をゆっくりと吐いた。

「あのさ……さっきの……ジゼルの……あれ……」

『む。ジゼルがそなたを慕っているかと言うことか。間違いであるはずもない。あの娘は、そなたが思っているよりよほどそなたを案じておる。そなたが案じるよりもずっと、そなたを見ておる。それは、ジャクリーヌとて同じだろう。想いの重さは同じと言うことだよ』

「そっ……か」

 ヘロは再び深く息を吐き出した。

『なんだなんだ。悩ましい溜め息などつく。もてる男は辛いの』

「いや……そういうことじゃないけど……あのさ、」

『なんだ』

「前……メルディが前、言ったじゃんか。いつか、ジゼルを恨む日が来るかもしれないって。俺達は……リナと俺は、リナの中ではもう終わってるんだって」

 メルディは、息を潜めるように黙っている。ヘロがジャクリーヌ以外の前で――メルディの前でさえも、彼女のことを二人だけの愛称で呼んだのは、これが初めてのことだった。

「俺、ちゃんと話をしなきゃいけないな、リナと。もう、曖昧にしてちゃ、だめだ」

 ヘロは力なく微笑んだ。メルディをくるくると撫ぜると、放射状に光の画面が現れる。その光の靄ヴェールに、指で記号の羅列を描く。ジャクリーヌだけの印。ジャクリーヌがヘロにだけ教えた証だった。唯一心を許すのだと、伝えてくれた証。

 ジゼルと話をした時、どんな気持ちでいたのだろう。確かに俺は、何も考えていなくて、なんの配慮もなくて、二人の心に土足で踏み込んで、汚して散らかして行ったのだろう。ジゼルが責めるような眼差しで自分を見ていた理由も、今ならわかる気がする。俺は本当に、何もわかっていなかった。

 だからと言って、俺は、今更ジゼルを捨て置くことはできないし、またそんな気も更々ないんだ、リナ。自分でも、驚くくらい。

 だから、俺達、終わりにしなきゃ。

 君の口から、そんな辛い言葉を吐かせる前に。

『はい』

 何度か反復した鈴のような音の後。

 ようやくジャクリーヌが応えた。

 魔力の向こう側で、ジャクリーヌもまた、ヘロの声に耳を傾けるのだろう。

 ヘロはもう一度深く息を吐いて、顔を上げた。

「……少年は、荒野を目指す、か」

 ヘロはぽつりと呟いた。

 それをヘロに話したのは誰だったろう。もしかしたら、夢の中の戯言だったのかもしれない。けれど、それをどこで聞いたかだなんて、今は些細なことだ。

 暖炉の焔が揺れている。

 ヘロの熱に寄り添うように、揺れている。

 ヘロは、痛む胸を押さえながら、息を吸い込んだ。



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