第三章 惑星サタン
Episodi 23 紅茶と砂糖
赤紫の眩い光がヘロの視界を苛んだ。ヘロは、ちらつく視界の隙間で、遠ざかっていく水色の球体が確かに削げ落ちてしまった姿を眺めていた。ああ、八つ星は、こんなにも蒼い光を地中深くに閉じ込めているのだと他人事のように考える。皇室が躍起になって管理しようとしている玻璃は、きっと人の手では抱えきれないほど世界に存在しているのだろう。他の星でも、全て。
こういう事も前もって教えてくれていたらよかったのに、とヘロはアポロのことを少しだけ恨めしく思った。あの故郷の星でさえ、気づかず世界の禁忌の上に成り立っていたのだ。自分たちは世界の理を順守している気になって、その実際は世界の罪の上でのうのうと生かされている。それが罪だと人々の歴史に植え付けたのはヘルメスだと言うのに、そのヘルメスの生まれ変わりが自ら世界の罪を暴こうとするなんて。なんてことしてくれてるんだよ。無責任だ。自己完結するなよ。まだ死ぬなんて許さないぞ。あれだけで、過去を清算できたなんて思うなよ。ヘロはぽろぽろと水のような何かを零し続ける目を擦って唇を噛んだ。
藍色の闇に――恐らくはこれが宇宙と呼ばれる空洞の中に浮かぶ、海の水を枯らしてしまった惑星・マルス。あの星はそこに生きる人々を苦しめた砂漠さえも失ったけれど、きっともう、あの星の上で生き物は生きていかれないのだろうとヘロは訳もなく思っていた。
罪人を匿って、皇室に盾突いた星の末路は、どうなるのだろう。あの星の残骸は、もう用済みだと言って全て消されてしまうのだろうか。世界からなかったことにされてしまうのだろうか。かつて女神がそんな未来を歩んだように。
けれど、それがまかり通るとして、八つの星が伝承とは異なり、等しく女神の遺産を――大量の玻璃を隠しているのだという真実に、世界は何を思うのだろうとヘロは思いを馳せたのだった。
皇太子は、巡礼者は女神の証を消すために星を巡るのだと言っていた。全てが終われば玻璃の全てを――神器でさえ、用済みとして消してしまうつもりなのだ。だとすればシクルだって全て壊されて、無かったことにされてしまうのだろう。シクルと共に生きた子供たちは、世界中に二度といなくなってしまうだろう。大人たちに与えられた素晴らしい
ヘロは自分の右手に包まれる五角形の板の感触を確かめた。そんなこと――メルディが消える未来なんて、メルディと過ごした時間さえ否定されて、それに救われてきた俺の心だって、罪の烙印を押されて、思い出す度に罪悪感に包まれて――そんな未来は、耐えられない。シクル達が、メルディが、いつか壊されて、居なくなってしまうような末路なんて、耐えられる自信なんか、ない。
その想いに呼応したのだろうか、蛇の道と呼ばれる暗闇の中で、ヘロは名も知らない誰かの記憶を朧げに夢見ていたのだった。シクルの生まれた理由を、まるで絵本を読むように、美しい吟遊に聴き入るかのように、観ていた。この感覚には覚えがあった。水に溺れているみたいなのに息苦しくはない。身体がずぶずぶと沈んでいきそうな怖さに包まれるのに、本当に苦しいのは心だけだった。ヘロはぼんやりと、そうか、最初に見たあれも、そしてこれも、きっと英雄の見てきた記憶なのだと理解していた。最初に見た夢は、誰の記憶だったのだろう。そしてこれは、誰の記憶の欠片なんだろうか。夢の中で確かに英雄達は【彼】の名前を呼んでいる。それなのに、その音は聞いた先からヘロの意識の隙間を伝って零れ落ちていった。どうして俺は、こんな夢を見ているんだろう。こんなにも、他人の夢なんかに心が痛くなるんだろう。
ヘロが靄がかった意識の中で記憶に刻むことができたのは、このシクルは、そもそもが勇者や世界のために作られたものではなかったと言うことだけだった。シクルは、大切な人の幸せを願って削られた玻璃の宝石だった。だとすれば、シクル達が容易に人に心を開かないのもうなずける気がした。シクル達はこの長い歴史の中で、最初の思い出さえ奪われ、贖罪のために使われ続けているのだから。権力の道具にされているのだから。
――話が、全然違うじゃねえか。
ヘロは目を覆った。赤紫の光が眩しくて、目が潰れてしまいそうだ。まるで、夢で見た菫泥石の原石のような鮮やかな色だった。
結局、ヘロが学校で習ってきたことは、なんだったというのだろう。がむしゃらに、成績を保つために、親の期待に応えるためだけに、必死で詰め込んだその歴史も世界の成り立ちも、ぼろぼろと嘘の油膜を剥がしてマルスの星みたいに歪な
メルディがふわりと舞って、ヘロの頬にすり寄った。ひんやりとした冷たさに、目の奥のずきずきとする疼きが楽になる気がして、ヘロはそっと目を閉じた。
『そなたは稀有な子供だの』
メルディは優しい声で囁いた。
『英雄等の心にまで寄り添うか。そなたさえ、己の心を見つめることに躊躇いがあると言うのに。それではいつか身を滅ぼすぞ。程々にしなければ』
「見たくて見てるんじゃ……ない」
『否』
ヘロの絞り出すような悲鳴をメルディは柔らかく否定した。
『否。そなたは世界の真実を見たいのだ。これ以上の嘘に耐えられないと悲鳴をあげながら、あれもこれも嘘だったと絶望するくらいなら、さっさと全ての真実を知って楽になりたいと自棄になっている。この夢も、そなたさえ拒めばそなたはもう二度と見なくて済むのだろうよ。そなたは見たいのだ。最後まで見たくてたまらないのだ』
「だって、」
ヘロは体中に広がる凍えに震えた。心が死んでしまいそうだ。手を伸ばす。指が宙を撫ぜる。誰か、助けて。俺は宇宙の塵になんか、なりたくないんだ。
思うように動かない身体のふわふわとした重みに抗うように歩むと、何かに触れた。艶やかでしっとりとしたその肌触りにヘロはほっと息を吐き、それを抱きかかえた。菫色の円らな瞳がヘロを戸惑うように見上げる。目の端で檸檬のような鮮やかで優しい黄色が揺れた。ヘロは目を閉じてジゼルの髪に頬をすり寄せ続けた。温かい。ジゼルは今、何を見ているだろう。ただの人間である俺でさえ、この狭間の道でこんなにも苦しい過去を見ているのに、女神だったジゼルが何も見ていないはずがない、と思った。それとも、マルスに渡る前の俺のように、それが何かさえ分かってはいないだろうか。けれどジゼルは額に汗を滲ませ、腕の中でひゅうひゅうと苦しそうに息をしていた。ヘロはそれをきつく抱きしめた。彼女の体の温かさは、異常な熱だったのかもしれなかった。
もしかしたら、マルスに渡る時だってこんな風に苦しんでいたのかもしれない。何も気づかなかった。今だって俺は、自分のことばかりだ。自分が苦しくて、胸の空虚が寂しくて、都合主義から温もりを求めたのだった。ジゼルの指が震えてヘロの腕に絡む。あんなの見て、辛くないはずがないのに。ヘロの瞼の裏に、明瞭にゴーシェが頽れる姿が焼きついて離れなかった。捕まえていてとでも言うような、縋るようなジゼルの弱々しい力に、ヘロは囁いていた。
「大丈夫。大丈夫だから」
微睡が二人を包み込む。ぼんやりとした頭でヘロは再び重い目蓋を開いて、もう一人の体を探した。ゴーシェ。気絶していたから、夢なんか見ていないかもしれないけれど。それとも、ヘルメスだった頃の記憶に苛まれているだろうか。過去に囚われるなんて馬鹿だよ、ゴーシェ。あんな風に、大好きだった星を、ぼろぼろにすることなんかなかったじゃないか。
藍色の闇の中で、ふわりと水死体のように浮かぶゴーシェを目に留めて、ヘロは腕をいっぱいに伸ばした。指先が、ゴーシェの力なく垂れる指を捉える。それを掴みなおして引き寄せた時、赤紫の光は柔らかく輝いて視界が白んでいった。
*
マルスの星に辿りついた時のような衝撃を予想して固く目を瞑っていたのだけれど、白んだ光が収まっても何の違和感もなかった。変化があるとすれば、懐かしい香りが鼻を突いたことだった。これは、木の匂い。人の匂い。家の香り。
恐る恐る目を開けると、目に飛び込んできたのは木目の深い壁に掛けられた色調の暗い小さな絵達だった。そうしてまだ焦点の合わない視界で辺りを見回していると、ヘロ達を見下ろす背の高い誰かの影を捉える。
白金色の髪を短く耳の下で切り揃えた青年が、薄荷色の目を細めて無愛想に腕組みをしながら見下ろしている。前髪は中央が短く山を描くように長さを整えてある。左の揉み上げだけは顎の線まで延ばされ、太めの布きれで縛られていた。身長は一体どれだけ高いのだろう。こんなに背の高い人間をヘロは初めて見たのだった。痩身なのに、圧迫感が半端ない。
「こ、こんにちは……」
ジゼルがへら、と笑った。その手がきゅっとヘロの腕を掴んだ。ジゼルも気圧されているらしかった。
青年は息を大きく吸うと、深く長く吐いたのだった。そうして小さく首を振る。
「抱き合ってご登場ですか……これだから若いのは。今はそんな場合でもないだろうにね」
透明感のある声で厭味ったらしく青年は呟いた。ヘロははっとして、左手の先に転がるゴーシェに駆け寄った。ゴーシェは脂汗を流して、目を見開いたまま小刻みに震えている。
「それはあなたもでしょ、まったく。嫌味を言う暇があったらあなたこそ怪我人を運ぶ手伝いをちゃっちゃとやる!」
奥の方から快活な少女の声が響いた。華奢な体で小走りにゴーシェの傍へと駆け寄る。顎を少し過ぎたあたりで切りそろえられた艶のある金髪がさらりと流れた。前髪は左耳にかけるようにして斜めに編みこまれている。ぱっちりとした二重の綺麗な眼もとが印象的だ。瞳の色は水色だった。
「この人、どうしてこうなったの?」
ゴーシェの首に指を押し当てながら少女は言う。脈を図っているらしく、何事かを手元の紙にさらさらと書き記していった。
「え、あ、あの、光の矢が、振ってきて、貫いたんだ」
ヘロはしどろもどろになりながら答えた。
「そう。具体的にどんな角度で落ちてきたかわかる?」
少女はてきぱきとゴーシェの目に光を当てて覗き込んでいる。
「え? えっと、右上から、こう、頭の方を突き抜けて……」
「そう。で、どの辺にささって、どこから出ていったか分かる? 出血していれば傷もわかりやすいんだけど……見た感じではわからないのよね。指を差すのでもいいわ」
「えっと、ここから、この辺」
ヘロはゴーシェの右側頭部の下の方を撫でた。
「まずいな……小脳まで行ってないといいけど……。わかった、ありがとう。ノイデ! 運んで!」
「はいはい」
ノイデと呼ばれた先刻の背の高い青年は、気怠そうな声とは裏腹に素早くゴーシェを抱きかかえて奥の部屋へさっさと消えてしまった。その無駄のない動きに圧倒されたまま、ヘロとジゼルはぽかんと見つめていることしかできない。少女もきびきびとその後を追い、階段の上に向かって叫ぶ。
「おじちゃん! 急患!」
「へーい? お前が看といてくれ~今用を足しとる」
「側頭部外傷の患者よ! 開頭手術するわよ! 速く! ひっこめてきて!」
「無茶言うなぁ~」
階段の上からはしわがれた様な間延びした声が聞こえる。少女はぱたん、と扉を閉めた。その直後にノイデが扉を開けて、頭をかがめながら通り抜ける。それとほぼ同時に階上でばたばたと慌てたような音がして、初老の男性が駆け下りてきたのだった。
「頼む」
「へいへいよ」
ノイデの短い言葉に男性は手をひらひらと振ると部屋の奥へと消えた。ノイデはぱたん、と扉を閉めた。
「あ、あの」
ジゼルがおろおろとしたように言った。
「その、ゴーシェは……」
「ああ、あれがゴーシェか」
ノイデは鼻で笑う。
「今から手術するってさ。ま、少なくとも命だけは助かるだろう。彼はああ見えて名医だ。後遺症の保障はしないが」
「い、医者なのか」
ヘロもどもる。
「そう、ここはサタン一腕のいい、だけど儲かってない医療所だ。助かったなお前達」
ヘロとジゼルは顔を見合わせた。
「あ、あなたは……」
ジゼルが上目づかいでノイデを見上げる。ヘロには、ノイデの鼻の上が少しだけ赤くなったように見えた。ノイデはそっぽを向いてがりがりと頭を掻く。
「あー……ノイデ=トラッドだ。ちなみに、さっきの女がヘイニ=オルファで医者の方がダルディア=オルファ。ヘイニはあの医者の姪で、僕とヘイニはじーさんに引き取られてここで暮らしているんだ。ああ、僕は二人とは血が繋がってないけど……まあ、ヘイニと幼馴染だったんで、二人して親を亡くしたときにあのじーさんに養子として引き取られたわけだけど」
きびきびと話すノイデに違和感を覚えながら、ヘロは首を振った。
「あの……どれくらいで、手術は終わるの?」
ジゼルは恐る恐る疑問を口にする。ノイデは首をこてりと傾げて、ジゼルに手を伸ばした。伸ばされたその手がとても無骨で大きくて、なんとなくヘロは負けた気になった。ジゼルはきょとんとして戸惑うようにノイデの手を見つめている。
「おいで」
ノイデは短く、そして幾分か穏やかさを滲ませた声でそう言った。ジゼルが恐る恐る手を伸ばすと、ノイデはごく自然に空いた手をジゼルの腰に回して、ふわりとジゼルを立ち上がらせた。そうしてまた自然に手を放す。あまりにも無駄のないその動きに、ヘロは唖然とすることしかできなかった。ノイデが冷たい視線を寄越してきたのでのろのろと膝をついて立ち上がる。
「靴、脱いでくれる? この星では家の中では靴を脱ぐのが常識だよ。しかもここは病院だしね。泥ってこう見えてばい菌だらけだから。ああ、そこの上履きを履いて。そう、それでいい」
ノイデのきびきびとした物言いに気圧されながらヘロとジゼルは慌てて靴を脱ぎ、柔らかそうな上履きを履いて靴を玄関――広間の床より一段下に下がっている――に移動させ、先刻自分たちが座り込んでいた床を雑巾掛けしたのだった。
「な……なんか疲れたぞ」
「そう? これくらい大した肉体労働でもないだろう? それに、体を動かしている方が気も紛れるだろう」
ノイデは静かな声で表情も動かさずにさらりと言った。
「そ、それは……そうだな」
「と言っても、まだあれから四半刻も経っていないが。手術は数時間はかかるはずだ。思いつめて待っていても何の得にもならない。あとは医者の仕事だ。お前達にできることは、医者を信じることだけか」
ノイデはそう言って、二人に繊細な
「紅茶だよ。知らない?」
「聞いたことは……でも、俺が飲み慣れていたのは
「ああ、すまない。この星の人間はそのままで飲むのが好きな傾向にあるから……気が利かなかったな。砂糖や牛乳ならここに在るから」
ジゼルは少しだけ口をつけると、角砂糖を六つも放り込んだ。
「おま……それは入れ過ぎじゃねえ?」
「に、苦いの苦手で……」
「牛乳も入れてご覧、ジゼル。美味しくなるから」
ノイデが柔らかい声音でそう言って、ジゼルの紅茶にそれを注ぐ。
白く濁ってしまった紅茶に目をぱちくりさせながら、ジゼルは口をつけた。
「あ……美味しい」
ジゼルはふわりと幸せそうに笑った。
「俺にも入れてよ」
「自分でしなよ」
ノイデはヘロを流し見た。ヘロは眉根を寄せる。どうも、対応に差をつけられているような心地がする。少しだけむすっとしながらヘロは自分で角砂糖を二つと牛乳を少し注いだのだった。
「あのさ……それで、聞きたいんだけど」
ノイデがジゼルにあれもこれもと焼き菓子を進めるのをじと目で見つめながら、ヘロは切り出した。
「あ? 何」
ノイデの声はそっけない。
「俺達をここに呼び寄せたのは、あんたか?」
「そうだよ」
何でもないことのようにさらりと言う。
「ほら、ジゼル。このイチジクの
「あ、ありがとう……あれ、これって……」
「ああ、惑星アポロから輸入しているのさ。この星は農作物には貧しい土地だからね。だから馴染みのある味だろう」
「うん……ふふ、なんだか、懐かしい。変ね……まだあの星を発って数日しか経っていないのに」
「君たちが来ると思ったから、店でいろいろ買ってきておいたんだ。まあ、あのじーさんも好きだから、ついでだけどな」
綿毛のようにふわりと笑うジゼルと、仏頂面なわりにどこか楽しそうにいちいち世話を焼くノイデの姿に、ヘロは深く息を吐いた。ノイデが顔をしかめる。
「なんだよ」
「話の続きをさせろ……」
ヘロが疲れたように言うと、ノイデは不思議そうに首を傾げた。
「何よ」
「だから……ええっとどこまで話してたっけ……そう、だからあの魔方陣は、あんたが出したのかってことを俺は聞きたいんだよ」
「ああ……あれのこと。そうだよ、僕が出したのさ。あれは転送魔法ってやつでね。まあ、知っている人間は極僅かのはずだよ。これは失われた魔法の一つだからね」
「つまり、あんたは、」
ヘロは脳裏に浮かぶ記憶を呼び起こした。同じものを他に二つ見ている。白金色、そして緑色。
「英雄に関わりのある人間ってことで間違いないか? あれと同じものをゴーシェが――英雄ヘルメスの生まれ変わりが使っているのを見たけどな、あんなの、俺は今まで見たこともないぞ」
「わたしも……」
ジゼルが控えめに呟く。ヘロは曖昧な笑みを浮かべてジゼルを見つめた。お前が言うなと言ってしまいたいのを堪えた。
「へえ」
ノイデは紅茶をすする。
「案外、ただの馬鹿と言うわけでもないんだね。でもお前、駆け引きには向いていないね」
「は? なんで駆け引きの話に……」
「そんな話、いきなり持ち出して、僕がもしも英雄とは全く関係のない人間だったらどうするつもり? もしかしたら帝都の研究員で、だからこそこの魔法を知っているかもしれないだろう。そういう人間に不用意に手の内を見せたらどうなるかくらい想像つかないか? ゴーシェ=テフテナが英雄の生まれ変わりだなんて話、普通の人間が知っているとも思えないし、ましてや聞いてすぐにはいそうですかと受け入れられるような話でもないでしょう」
ヘロは寒気を感じて唇を噛む。
警戒心が足りない、そういう事だ。考えなしに逃げたせいで、マルスの星をあんな姿にしてしまうことになったのに、何も学べていないと気づかされたことが、無性に恥ずかしかった。
「ま、世界の大罪人をこんな民家に呼び寄せている時点で、帝都とは関係ないだろうなってのは推察くらいできるか。もしも僕があっちの関係者なら、そのまま法廷でも牢屋にでも呼び寄せるだろうからね」
「大罪人?」
ジゼルの顔がさっと青ざめる。ヘロは深く嘆息した。
「やっぱり……罪人扱いか」
「そう。それも【大罪】扱いだよ、お馬鹿さん。お前、皇太子の命を聞かなかったろう。それだけで重大な皇室に対する【反逆罪】と見なされる。この連合星でその罪状を受けることが死刑宣告に近しいと言うこと……まあ、わからないか。お前田舎の出身みたいだからな」
「な……それくらいは知ってるっつうの。だから、短慮だった。それは……認めるよ」
ヘロはばつが悪くて、刺さるようなノイデの視線から逃れるように目を伏せた。
「まあ、お前の行動には僕もすかっとしたけどね」
ノイデはさらりと言って二杯目の紅茶をティーダ(カップ)に注いだ。
「なあ……あんた、すごく呑気そうに見えるけど、大丈夫なのか? 俺達をこんな民家に呼び寄せて……お前達も罪に問われるんじゃないのか?」
「焦ったから何を得られるわけでもあるまい」
ノイデは穏やかに言って
「お前達をこの家に呼び寄せたのは僕だ。そして彼は死にかけだった。怪我人や病人がいたら無条件に救いの手を差し伸べるのが医者だ。医師法にもきちんと記載されている。故にオルファ医師は何の咎もない。また、罪人には如何なる理由があろうと弁護人をつける権利がある。これもまた刑法にきちんと記載されている。弁護人の側が罪人を呼び寄せようがその逆だろうが些細な違いさ」
ノイデは何でもない事のようにさらりと言った。ヘロは眉をひそめた。
「どういう、ことだよ?」
「僕がお前達の弁護をしてやろうと言っているんだよ、お馬鹿さん」
「は?」
ヘロは戸惑った。
「弁護?」
ジゼルが戸惑うように首を傾げる。
「裁判を受けるときに、罪人の肩を持つ仕事、ってところかな。罪ができるだけ軽くなるように身元を保証してやるのさ。今のままだと、お前達の行く末は下手しなくても死刑だろうからね」
ジゼルが怯えたような目でヘロを見つめた。ヘロはジゼルの頭をぽんぽんと撫でる。ジゼルを逃がしたかったとはいえ、ジゼルを罪人の仲間にしてしまったのは自分の責任だ。心がちくりと痛んだ気がした。
「裁判なんて都市伝説かと思ってたけど、つまりは俺達の罪状を並べて死刑にするためのもっともらしい言い訳をこねくり回すようなもの、ってことだろ」
ヘロはノイデの目を覗き込む。ノイデは目を瞬かせ、深く嘆息した。
「まあ、間違ってはいないけど……ああ……お前、そう言えばアポロの民だったか……田舎ってのは治安が良くて羨ましいね。法律とかなくても生きていけるんだろう? 裁判も、非日常ってわけだ」
「なんか馬鹿にされてる気がするなあ……」
ヘロが呟くと、ノイデは緩やかに頭を振った。
「いや……半分は感心しているんだよ。法律を傘に着て生きていかなければならないような日常は窮屈極まりないからね。後で外に出てお前達は都会の空気を味わってきたらどう? この星も、プルートほどではないけれど、少なくともアポロやマルスよりは栄えているだろうさ」
ノイデは疲れたようにそう言った。
「この星は……サタンで合ってるのか? さっき、あの医者のことをサタン一の腕だって言ってただろ」
ヘロは改めて部屋を見回してそう言った。部屋の中には暖炉があって、空気を穏やかに温めていた。それでも半袖を着ている自分は少し肌寒い気がした。ここが惑星サタンだと言うのなら、頷ける。春が殆ど訪れない夕闇に包まれた極寒の地。腕を抱くように擦るヘロを見て、ノイデは眉をぴくりとあげた。
「ああ、お前、もしかして寒いの? そう言えば言っていなかったな……そうだよ、ここは惑星サタン。ようこそ、雪の星へ」
寒いのかと問われると、肌寒いことを自覚してしまうのは何故だろう。
ヘロはしばらく猛烈に襲ってくる鼻のむずがゆさと格闘しながら、何度もくしゃみしたのだった。つられたようにジゼルもくしゅん、とくしゃみを零す。結局呆れたように溜息を零したノイデが替えの服を持ってくるまで、二人は暖炉のそばに座り込んで凍えていたのだった。
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