蛇の道
Ⅱ
【Profile 4. ハルト】
【黒髪黒目の東洋人。兄と両親の4人で
ハルトの母は、こう述べたと言う。「助かったと思った。子が多いというだけで一人くらい差し出せ、犠牲にしても構わないだろうと罵られる。確かにあの空間で人は狂っていた。あの家族がいなければ、私が、息子を犠牲にしろと言われたかもしれなかった」
当時十七歳だったハルトの兄はこう言った。「老いぼれが死ねよ。なんで未来ある子供があんたらが生き延びるために生贄にならなきゃいけねえんだよ。ふざけてんのか」ハルトはそう毒づく兄を黒い兎の縫いぐるみを抱えてじっと見ていたという。
生き残った兄によれば、ハルトはいつまでもぬいぐるみを手放さない“ガキ”だった。それ故に優しく幼かったと言う。「それがうっとおしかった。だけど、それをきちんと見ていれば、あんなことは防げたのに」
件の大家族の兄弟のうち、一人の少女が「私が逝くね」と笑った。船内は安堵感と緊張感に包まれた。彼女が実際に宇宙空間へと身を投げるまで、猜疑心が人々の心に巣食っていた。ハルトはぽつりと呟いたという。「あの子が可哀想だ」
止める間もなく、後を追うようにハルトは身を投げた。後に兄は語った。何が起こったのかわからなかったと。ただ母が苦しみ嘆きえずくのを見ていたと。「今でも何が起こったのかわからない。弟は、あの少女を一人にしたくなくて、追いかけたのだ。そう思わなければやっていけない」】
【(備忘録『宇宙飛行の齎した悲劇』第三章より)】
_____________
彼女と過ごした時間を鮮明に覚えている。きっと、他の誰も、俺ほどには彼女のことを覚えていないだろうと思った。彼女はまるで陽炎の様で、誰もあの人のことを気にかけはしなかったのだから。彼女と俺は、同じだった。似すぎていて、笑えてしまう。
俺は彼女と出会ったことを後悔なんてしないけれど、でもきっと俺達が一緒にいたことはきっと、
俺達にとって、不幸だった。
*
俺が女神に――ガイアによってアルテミスと名付けられたその人に再構成されて得た体は、何故だか俺の覚えている自分の本当の年齢よりも少し年上だったように思う。俺自身の願望が相まっていたのかもしれない。俺はガイアよりは年上だったろうけれど、プルートよりは幼いはずだった。それなのに、得た体はプルートと年端も変わらず、俺は彼女と対等に話せるかもしれないことがとても嬉しかった。けれど、プルートは元来活発な子だったのか、俺なんかよりもヘルメスやウラノス、アポロ達の馬鹿騒ぎに付き合う方が楽しそうだった。やがてその輪にガイアもなんだかんだで加わる様になって、俺はそれをなんとなく羨ましい気持ちで眺めていたのだ。
俺は、何故か黒い兎の縫いぐるみを持っていた。
恐らくは、俺が船でもずっと握りしめていた、幼い頃から大切にしていたものだったのだと思う。船の中に置いてきたつもりだったのに、何故かそれは俺の手元にあり続けた。女神に一度尋ねたことがある。『貴女は、無機物も再生できるの?』と。女神は不思議そうに首を傾げていた。貴方そのものを造ったのよ、だなんて。
プルートがいつもの遊びに俺を誘ってくれたことがあった。何でも、ヘルメスの星の湖に潜って、玻璃の欠片を拾ってくる遊びなのだそうだ。それを使って、衛星と同じものを――五角形の星を作る実験をするんだなんてウラノスとヘルメスは楽しそうに笑っていた。俺は人間だった頃から、外で遊ぶ子供たちに混ざって遊ぶことが酷く下手で、とても不安だったのだけれど、プルートが俺を誘ってくれたことが酷く嬉しくて、舞い上がっていたのだった。
「あ、あのさ」
「ん? なあに?」
俺が兎の縫いぐるみを抱えながらどもる声で呟いた言葉に、プルートは暗い苔色の髪をさらりと流れるように肩に零して葡萄のような赤紫色の瞳で俺の顔を覗き込んだ。
「その……今日はなんで、俺のこと誘ってくれたの?」
「んー?」
プルートははて、と言うように顎に人差し指を当てて考えていた。自分でも特に理由はなかったらしい。
「んー……ほら、サタンっていつもこっち見てたからさ、本当は混ざりたいのかなって思って。あとなんとなく、こういうのだったらサタンも好きそうかなって思ったんだー。いつもは私たち、体使って遊びまくってるからなんとなくサタン誘えなかったんだけどね、でも今日のはほら、採取系だからいけるかなって!」
「あ、うん……ありがとう」
インドア派と思われていたらしい……まあ、当たっているけれど。
俺は少し複雑な気持ちで、それでもやっぱりどうしても緩んでしまう口を抑えながら、彼らに混ざり湖の冷たさに震えながら水底をまさぐって笑いあった。
それを皮切りに、俺はプルートやウラノス、ヘルメス、アポロ、たちと――時々はそこにガイアも加わって――一緒に遊ぶようになった。それなのに俺は、縫いぐるみを手放すのをやめなかった。ぼろぼろになりながら、駆け回った。とても楽しかった。兎も随分と汚れてしまっていたけれど、俺はあまり気にしなかった。けれどある時、兎の足が茨に引っかかって、縫い目が解れて千切れてしまった。あれだけ無造作に扱っていたのは自分だったくせに、俺は自分の世界が終わってしまったような心地になった。何も言えなくなったままその場に蹲って、いつまでも縫いぐるみを凝視したまま立ち上がらない俺を見て、ヘルメスとプルートは気まずそうに顔を見合わせた。きっと彼らはこう言いたかっただろう。『それはお前が悪いんだろう?』と。『それなのにどうして、俺達が、私達が、悪かったなって気持ちにさせられなきゃいけないのか』って。
それから、俺達の間に流れる空気はとてもぎこちないものになって、次第に彼らは俺を誘ってくれなくなった。俺はまた、孤独に戻ってしまった。俺のことなんて、それくらいにしか思ってくれなかったのかとプルートに対して分不相応な恨めしささえ抱えた。どうせ、俺は根暗だよと。いつまでも縫いぐるみを手放せずにいる女々しいやつなんだって。俺は不器用すぎてうまく縫いぐるみの足を繕えもしないままに、ずっと日陰で蹲っていた。
彼女が――アフロディテが、俺に声をかけてくれたのはそれがきっかけだった。
俺はその時、初めて彼女の声をまともに聞いたと思う。いつも黙っていて、どこか遠くを見つめている女性(ひと)。時々俺達は彼女がいると言うことを忘れることさえあった。彼女はいつだって、孤独の中で、陽炎や霞のように揺らめいて生きていた。
「縫ってあげましょうか?」
アフロディテは、夕焼けのような茜色の柔らかい髪をふわりと風に揺らして、水色の透き通った目を柔らかく細めて笑った。その温かな笑顔は、あの船に遺してきた……俺の突発的な心で船に置いてきた可哀相な母さんを思い出させて、思わず俺は泣いてしまった。男なのに泣くなんてとても女々しかったろうなと思う。それでもアフロディテは黙って俺の頭を撫でてくれた。まるで、歳の離れた姉さんのような、あるいは母親のような、温かい人だった。
俺はそれから、アフロディテと毎日を過ごす様になった。彼女は日がな一日ぼんやりとしていた。俺も、何も話さないでいるのは心地よかった。彼女は編み物や縫物が得意だったようで、時々綻んだ俺の着物や縫いぐるみを縫ってくれた。そうしてしばらく経った頃だろうか。アポロが何故か、とってつけたように頻繁に彼女に服を放り投げるようになった。
「それ縫っといて。穴空いた」
「はいはい」
アフロディテはアポロの顔さえ見ず、アポロもまたアフロディテと目も合わせずに、それでもまるで当たり前かのようにその一連の動作は続けられた。アポロが、遊びすぎてぼろぼろになった服をアフロディテに投げる。アフロディテが淡々とそれを繕って、寄越す。アポロは無言で受け取るとさっさとヘルメスたちのところへと帰っていく。
どうして突然アポロが話しかけてくるようになったのかはわからなかった。アポロが俺にかける言葉はとてもぎこちなかった。ふと、俺はアポロもアフロディテと同じ青の目をしていることに気付いた。顔は似ていないけど、髪も、目も同じ色。
「ねえ、もしかして、アポロとアフロディテって……」
ある時、俺がそう彼女に呟くと、アフロディテは首を横に静かに振った。
まるで、その先は何も聞かないでとでもいうように。
だから俺はもう何も聞かなかった。
「ねえ、サタン。私達も、どこかへ遊びに行きましょうか」
ある時、アフロディテはそんなことを言った。
「何をするの?」
俺が言うと、アフロディテは柔らかく笑った。
「宝石、作ってみない?」
「宝石?」
「そうよ。知らない?」
俺は首を振った。
「いや、知ってる……母さんが……指にはめてた」
「ああ、それ、ダイヤモンドね。左の薬指でしょう?」
アフロディテはどこか楽しそうに笑って、自分の薬指を指した。
「うん……うろ覚えだけど、そうだったと思う」
「それはね、結婚指輪というのよ。愛している人にね、病める時も健やかなる時も、共に生きてくださいと男の人が女の人に渡すの。ダイヤモンドは傷つくことなく永遠に輝き続ける宝石だから、それを渡して永遠の愛の証にするのよ」
そう言って、アフロディテはどこか悲しそうに地平線を見つめた。
「この八つ星にも、あるといいんだけど……」
「欲しいの?」
俺は首を傾げた。アフロディテは、しばらく躊躇うように目を泳がせて、くしゃりと笑った。
「そうね、欲しいわ」
「誰からの指輪が欲しいの?」
俺はアフロディテをまっすぐに見つめた。本心を聞きたかったのだけれど、アフロディテは誤魔化すように笑っただけだった。
「やだ、指輪だなんて言ってないのに……宝石を見つけに行くのよ?」
「でも、欲しいんでしょう? その、ダイヤモンドの指輪ってやつ」
俺が食い下がると、アフロディテは儚く微笑んだ。
「そう、ね……私は、結局もらえなかったから……」
どうして突然アフロディテがそんなことを言い出したのかは分からなかった。けれどそれでもいいと思った。俺達はそれから、アポロ達に会わないように気をつけながら、八つ星を巡って地中や谷底の鉱物を探し続けた。アフロディテはアポロを避けたいのだと思った。理由はよくわからなかったけれど、でも、アフロディテは動きにくい表情の中で、それでもアポロと対している時は、どこか辛そうだったから。
散々鉱物を探し続けて、俺達はある時色ある原石を見つけた。濃い紫の、美しい石だった。
「ああ、これ……
アフロディテは笑った。
俺はその色から目が離せないでいた。鮮やかな色……俺は、抑えたはずの胸の内の想いが、熱く血潮を巡らせるのを感じていた。何かを悟る様に、アフロディテはそっと俺の頭を撫でた。
「これ、プルートの瞳と同じ色ね」
アフロディテは穏やかに笑う。
「うん……」
俺はそう頷くことしかできなかった。ダイヤモンドではないけれど、これをもしも渡すことができたのなら……けれど、あの子は自分のその瞳の色を厭っていた。それに、きっと俺のことなんてなんとも思っていないのだから、こんなものをもらっても困るだけだ。あの日……俺が自分の不始末で壊してしまった縫いぐるみを見て、アフロディテのように気にかけてくれるわけでもなく、気まずさから離れていったような子だ。優しさなんてない子なのだ。
「ねえ、宝石をもらって嬉しくない女の子はいないと思うわ」
アフロディテは笑う。
「そう……かな」
「そうよ」
アフロディテは笑った。
「でも……それは好きな人にもらった時だけだろ」
俺は菫泥石だとアフロディテが言ったそれを握りしめたまま俯いた。
「そう、ね……」
アフロディテは目を伏せる。
「好きな人にもらうのが、一番、嬉しいのは、事実ね」
「だったら、俺はこれを渡せないよ」
俺は首を振った。
「あの子に渡すくらいなら、気遣いでも、愛想だとしても、きっと喜んでくれるだろうあなたに俺は渡すよ。待ってて、あなたの瞳と同じ色の石を、きっと探すから」
「私を身代りにする気?」
アフロディテは悲しげに笑った。
「それに、私はダイヤモンドが欲しいんだって言ったでしょう」
「自分で自分のために探して何になるって言うのさ。そんなの、虚しいだけじゃないか」
アフロディテは目を見開いた。そうして苦しげに自分の肩を抱いたのだった。
「そう、ね……そうかもしれない」
「あいつは、きっとあなたにそれを一生かかってもくれやしないよ」
俺がそう言うと、アフロディテの瞳に、絶望がヴェールをかけたような気がした。ああ、やっぱり、と俺は思った。アポロと彼女がどんな関係なのかは俺にはよくわからなかった。けれど、少なくとも……二人は本当は狂おしいくらいにお互いを求めていて、だからこそ生まれ変わった今は互いを拒んでいるのだとわかるようになっていた。だって、俺だって、アフロディテと過ごした穏やかな時の中で、いつしかプルートに対して――まともに話せもしなくなった彼女に対して、似たような苦しさと恨めしさを抱えるようになってしまっていたのだから。
俺は相変わらず女々しくて、目尻に浮かんできた涙を拭って、吐き捨てるように言ったのだった。
「あなたにあげる宝石は俺が探すし俺が渡すよ。愛情はあげられないけれど、あなたのことは大切な友達だと思ってる。あなただってそうだろう? 俺の愛情なんていらないだろうけど、俺に声をかけたこと、後悔はしてないんだろ」
「ええ」
アフロディテは俯いて、声も出さずにはらはらと涙を零した。土に灰色の濡れた染みが小さく広がる。
「ええ、後悔なんかしないわ」
アフロディテは唇を噛んだ。そんな仕草は彼女には似つかわしくなくて、なんだかとても不思議なものを見るような心地で俺はそれを見つめていた。
「絶対に、後悔はしないわ」
「それだけで十分だよ、アフロディテ」
俺は、安堵した。少し楽になったような心地がした。
それから、俺は一人で鉱石を探すようになった。女神からもらった天秤を使って、沢山の石の重さを調べた。その中にある炭素や珪素や銅や亜鉛やハロゲンや……色々な成分の割合を量って、俺なりに細かく分類をしたのだった。俺はいつしか、色ある石を介して世界の在り様を調べることに躍起になっていた。黄色の鉱石を――恐らくは、玻璃の亜種だろうと思われる美しい薔薇の形をした結晶をマルスの星で見つけた時には思わず振り返って、ああ、けれど、アフロディテはここにもう居ないんだと肩を落とした。そのうち、俺はダイヤモンドも見つけ出して、アポロに伝えるだけは伝えたのだった。アポロは眉をひそめていた。戸惑うように瞳を揺らした。俺は、ダイヤモンドは造りたいなら加工はできるから、とだけ伝えた。欲しくなったらいつでも言って、と。
俺は青い石を探して、見つけてはこの色じゃないと置き捨て続けた。菫泥石を再び見つけた時は、それを捨て置くことがどうしてもできなかった。俺はその塊を自分の服の中に押し込んで、また青い宝石を探し続けた。
そうして疲れ切った頃、ふと景色を眺めて俺は気づいたのだった。世界はどうしてこんなに綺麗なんだろう。どうしてこんなにも、湖面や海の色は俺の目に美しく艶やかに映るのだろうと。それは俺が幸せだったころの記憶だった。プルートに誘われて、浮かれて見つめたあの景色の色。
玻璃の色――深く鮮やかな水色は、俺の大切な色だった。そうして、同じくらい、それはアフロディテと過ごした時間(日々)の色だった。彼女の瞳は、玻璃の色だったのだ。それに見守られて、俺は今まで孤独を感じずにいられた。俺にとってはそれが世界だった。俺は、あの人に何も返せていない。傷つけてしまった。同じくらい、幸せを願っているのに。
俺は玻璃を削ったのだった。一番美しく輝く厚さと大きさを考えて、唸り続けては指も玻璃の塊もぼろぼろにした。
そうしてやがてできたのは、宝石と呼んでいいのかよくわからないものだった。五角形の薄い小さな板切れ。まるでそれはプルートが女神にもらったあの鏡のようで、俺は初めて、この世界に来て初めて、らしくもなく大きな声をあげて泣いた。俺は結局、あの子の面影から逃れることはできなかった。あの子に惹かれて、あの子を追いかけて宇宙の海に飛び込んだ。母さんも父さんも兄さんも置き去りにして堕ちてきたこの世界で、あの子以外を愛したかったけれど、
こんなもの、あげたって、冒涜でしかないじゃないか。それでもきっと、アフロディテなら……優しい彼女なら、喜んでくれるだろう。受け入れてくれるだろう。俺はただ、あなたの幸せを願いたかった。
*
「アルテミス」
「うん?」
「あのさ、いい言葉がないか探しているんだ。これに、名前をつけたくて。宝石の名前をつけたいんだ。成分とかじゃなくてさ」
俺が掌に載せたそれを見つめて、女神は目をぱちくりとさせた。
「これ……プルートの鏡に似ているのね」
「うん」
「どうして?」
「わからない」
「そっか」
女神は柔らかい微笑みを浮かべて俺の頭を撫でた。俺の方が、彼女よりもうんと背は伸びたと言うのに。
「これが、あなたにとって大切な
女神は笑った。
「鏡、って名前は嫌なんでしょう?」
「うん」
「どんな名前をつけてあげたいの?」
「俺の大切な友達の、未来が幸せでありますようにって願いたい」
俺は女神の瞳を見つめた。
「『あなたは迷っているかもしれない、行き場を見失っているかもしれない。自分の心のやり場さえ分からないのかもしれない。それでも、あなたがきちんと道を見つけられたらいい。俺はそれを後押しするよ』って……伝えたいんだ。俺にとっては、その人に傍に居てもらえたことが、本当に、嬉しかったから」
「そっかぁ」
女神は嬉しそうに笑って、俺の作った宝石とも言えない何かを優しく慈しむように撫でた。まるで、その表情はアフロディテや、俺が置いてきた母さんみたいだった。結局、俺は母性みたいなものを
「じゃあ、
「うん」
女神は訳の分からないことを言ったけれど、俺は、せりあがってくるどこか温かいものを堪えたくて、俯いた。
「きっと、この宝石は命を持つでしょうね。貴方の心が籠っているのだもの」
女神は楽しそうに笑う。
「でも……元は貴女の一部だ。俺は、貴女を超えられなかった」
「あら」
女神は笑った。
「あなたの友達にだって、あなたはわたしのおかげで出会えたのでしょう? これくらい許してほしいわぁ。わたしだって、あなたの心を祝福したいもの。見守りたいの。あなたも私にとって大切な星よ」
どこかおどけるように女神はそう言って、俺の頬をそっと撫でた。
俺は目を閉じて、その手の心地よさに心を預けた。
俺がシクルを渡すと、アフロディテは目をぱちくりさせて、そうしてやっぱり、ふわりと笑ったのだった。
「ありがとう。これだけが、私がこの八つ星で生きた証だわね」
どこか泣きそうな声でそう言った。俺は、それを凪いだ気持ちで見つめていた。
終わった。
俺の心がようやく終わったのだった。俺は、いい加減自分を捨てなければいけない。俺は懐から菫泥石を取り出して、見つめた。
傷つくことが怖くても、あの子に惹かれてしまうのなら。渡さなければいけない。
たとえそれで、俺の心がいつか壊れてしまっても。
俺はあの子の無邪気さと、残酷さに向き合おう。
俺の想いを、伝えよう。
俺がアフロディテを見たのは、それが最後になった。
アフロディテを殺したのが、プルートだと知ったのは、もっとずっと先の話。
それを吐露したプルートが自殺してしまったので、俺は、半ば狂ったようにシクルを造り続けて生きた俺は、もうやめようと思ったのだった。
俺は、そうして、自ら命を捨てた。プルートの後を追って。
二回目、だね。
ふと、今なら思う。
俺達はガイアに、人間だった頃の記憶があることを誰一人伝えなかった。皆が忘れたふりをするから、俺もまた告げなかった。だから俺達は、ガイアを孤独にしてしまったのかもしれない。俺はアフロディテといられて孤独に苛まれずに済んだけれど、きっとガイアにとっては世界が孤独ばかりで、女神はあいつにとって唯一だった。だからあいつだけが女神を冒涜したのだし、それに付け込んだのはプルートだったのだ。だけど、俺はそれを見てさえいなかった。彼女が誰を好きで、愛していて、苦しんでいたのか、自分のことばかりで、何も見ていなかった。もう少し俺が自分の気持ちに素直になっていたら、何か変わっただろうか。
間違っても、俺の好きな人が俺の大事な人を殺すだなんて、そんなことは、起こらなかったんじゃないだろうか。
どうしたらよかったんだろう。
最後に女神の天秤を手放したとき、天秤は小さく俺に呟いた。
いつまでも、君の帰りを待っているよと。菫泥石を乗せたまま、彼はそう言った。
俺は、血溜りの海の中で、はは、と乾いた笑みを漏らしたのだった。
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