Episodi 22 欠片と影絵

 ウラノス、という名前。

 何度も、何度だって、聞いた音だった。

 八人の英雄の一人として、何度もその名前を耳にした。彼らの偉業を習うことは、学校での座学の要だった。何度もその綴りを書かせられ、何度も書き間違えては墨で誤魔化す様に塗りつぶした。

 けれど、一度だって、その音に惹かれたことは無かったのだ。

 ジゼルの心を震わせたのは、ただ一人、ヘロ=ナファネと言う少年の名前だけだった。好きな人の名前はいつだって、心の中で呟く度にジゼルを幸せな心地にした。

 それだのに、ウラノスと言う名前に、今はこんなにも心がかき乱されている。

 ジゼルは肩を抱いて、床の絨毯を見つめた。

 瞼の裏に浮かぶ黒い闇を幾重にも引っ掻いたような傷の奥に透かされる透明な記憶の世界――。誰かが……背の高い誰かが、ジゼルを感情の無い眼差しで見下ろしている。その瞳はきっと、色があるはずなのに、記憶の向こう側で映るそれは白黒で、まるで影絵のようだった。

 はっきりと顔を認めることができない。それでも、ジゼルは彼をとても懐かしいと思った。

 『あまり、餓鬼が大人をからかうものじゃないよ』

 雑音が混ざっても尚、はっきりと聞き取れる声の透明感が、ジゼルの心に染みこんで色の無い世界に染め上げようとする。餓鬼、と言う声がジゼルの心を苛むのだ。ジゼルでない誰かの心が苛まれる。優しい声で、柔らかな声で、餓鬼だなんて折れた針のような言葉を刺す。彼の笑みは優しいけれど、きっと女神は、彼が本当はその甘い表情程に優しくはないことを知っていた。仄暗い笑みを浮かべて、彼はどこか遠くを見つめている。一緒に見たのだ。手を繋いで、銀河を歩いた。彼が世界に置いてきた、彼自身の子供の行方を探して。もう、いないのに。会えるわけがないのに。

 ――嫌……。

 ジゼルは瞼を開けていて尚見えるその影絵の世界をこれ以上見たくなくて、部屋の沢山の彩りで視界を焦がそうと必死で視線を彷徨わせた。見たくない。わたしは、女神になりたくない。わたしはそんな人知らないの。お願いだから、そんな、身も知らない人を想い焦がれさせないで。

「ヘロ……」

 ジゼルは呟いた。自分の声が音になって、鼓膜を震わせる。脳を巡って、ジゼルを宥めていく。ふわりと、心に彩りが滲んで戻ってきた。ジゼルは何度もヘロの名前を小さく呟いた。ターシャが不思議そうにジゼルを覗き込んだ。ジゼルは微かに荒い息を吐きながら、ターシャの瞳を見つめ返す。灰色の世界は消えて、ターシャの目が緑と藍色に染まっていると認めることが出来た。ジゼルは、小さく息を吐いて、左手をターシャの顔にそっと伸ばした。ターシャの右目の傍をなぞる様に触れていると、ターシャはくすぐったそうに笑った。

「なあに? どうかしたの?」

 ジゼルはその対を持たない緑の瞳に見入っていた。その色を見ていると、どこか遠くへ吸い込まれてしまいそうな心地になる。

 微かに震えるジゼルの指先を、ターシャはそっと握って頬をすり寄せた。

「片方だけ、前世のままでしょ」

 ターシャは目を閉じたまま笑った。

「私が前世に囚われていること、馬鹿みたいだと思うかい? でもね、この右目だけが、この星で一色異端なんだ。だから私は、自分を忘れることができない。忘れたらそれはもう、私ではないの」

 ジゼルはゆっくりと頷いた。

「なんとなく……わかるわ」

「へえ」

 ターシャは嬉しそうに微笑んだ。

「やっと、私を肯定してくれる人が現れた! 嬉しいなあ。水瓶も、ゴーシェも、アポロも、みんな馬鹿みたいとばかり言うからさ、酷いんだよ。忘れさせたいなら、この目を抉ってくれたらいいんだよ。そうしたら、私はもう過去の妄執なんか忘れられるんだから」

 そう言ってターシャはジゼルの両手を引いた。そっと、柔らかく、まるで踊るように優しくジゼルを促す。

 ジゼルは無邪気に笑うターシャを見て、俯くように唇を小さく噛んだ。

「少しだけ、あなた達が見えたような気がした、の」

 ジゼルの小さな声に、ターシャはこてりと首を傾げる。

「白昼夢? やだなあ、暑さにやられたの?」

「うん……そうかも、しれない」

「ウラノスも、同じ色の目だったでしょう?」

 はっとジゼルは顔をあげた。ターシャは糸のように目を細めて笑っていた。

「たまたま、なんだけどね。ははっ、この目も役に立ったなあ。ウラノスのこと、少しは思い出せたんだ。よかったね。ね、嬉しいでしょう? 好きだった人を思い出せるのは、嬉しいだろう?」

「うん……そうかも、しれない、けれど、」

 ジゼルは頭を振った。色なんて見えない。女神の記憶は色を持たなかったから、ウラノスの目がどんな色だったかなんて、わからなかった。そしてそれを、ジゼルは怖いと思ったのだった。悲しくはなかった。色がない世界は、怖かった。わたしにとっての色ある世界は、あの記憶にはもう、ないのだ。

「でも、ね、ターシャ。わたしは……わたし達は、あの頃の自分じゃないんだよ」

 ジゼルは、胸の鈍い痛みに耐えながらターシャの目を見つめた。

 わかってほしい。

 女神にとっての彩りは、もしかしたらウラノスだったのかもしれない。八人の英雄たちにあったのかもしれない。それでも、今のジゼルにとって、それらは全て白黒の影絵だった。息苦しくなる。死にそうだ。わたしにとっての彩りは、ただ一人だけなのだ。どうしてかだなんてわからない。それでも、気がついたら、色を感じられたのだから。ヘロのおかげで、わたしは世界の色を認めることができたのだから。

 ターシャの口元から笑みが消える。表情のないその目の光にジゼルは微かに震えた。それでも、わかってほしかった。あなたの彩りは過去にはない。わたしがそうであるように、きっとあなたも――。

「あのね、ターシャ……わたし、」

「聞きたくない」

 けれど、ターシャは拒むように顔を背けた。

「そうか、あなたもなのか……あなたも、過去を否定するんだね。私の大切な想い出を、大切にしてくれないんだね。ああ、きっとプルートだったらわかってくれたろうになあ。あなたさえいなければ、私達は親友でいられたのに」

「ターシャ、」

「聞きたくない!」

 ターシャは引きずる様な乱暴さでジゼルの手首を掴む。

「ターシャ、聞いて。わたしは、」

「嫌だよ! 聞きたくないんだ!」

「わたしは、ヘロが好きなの」

 ターシャは目を空いた左手で覆ってジゼルの目を見ようとはしなかった。それでも、ジゼルは震える唇で声を零した。

「わたしは、ヘロが、好きなの」

「は……なんで」

「わからない、けど」

 ターシャは嘲るように口の端で笑った。目を合わせてくれない。届かない。言葉が、届かない。

「そんなの、まやかしだ。乗り越えられない。乗り越えられるわけがない! あなたがそうなら、どうして私の気持ちは変われないの。おかしいじゃないか。女神なんて、がらくただったくせに! 人の心もわからないがらくた! あなたがそうだったから、あなたは人間から恨まれたんだ。それなのに今更、ウラノス以外のぽんこつを好きだって? は、笑える。あなたにウラノス以外を好きになる資格なんてないさ。ウラノスのことだって好きになる資格なんてなかったのに、あなたは、横取りしたんだ」

「わたしが横取りしようとしまいと、ウラノスがプルートを選ぶわけじゃないわ」

 ジゼルはターシャをまっすぐに見据えた。

「問題を、すり替えないで。それに、わたしのことは何を言っても構わない……でも、ヘロのことをぽんこつだなんて言うのは、許さないわ。わたしはあなたのことはまだ何も知らないんだよ……どうして、そんな悲しいことを言うの? わたしの好きな気持ちを、否定しないで……あなたのこと、嫌いになっちゃう……」

「へえ」

 ターシャは蔑んだような眼差しを向けた。

「そんな気持ち、よくまあ今更持てたことだね。もしかして、アポロのおかげ? あいつがあなたを人らしく育ててくれでもしたのかな? は……あの卑怯者アポロがねえ。最悪」

 ターシャはそう吐き捨てるように言うと、くるりと踵を返す。

「もういい……あなたにも期待なんかしない……でも、情はあるから、水瓶くらい、見せてあげる……そうしたら、さっさとこの星から消えて。もう……顔も見たくない」

「ターシャ、」

 ジゼルの言葉を遮る様に、ターシャは荒んだ眼差しでジゼルを酷く睨みつけた。ジゼルはもう何も言えなかった。

 ターシャの手が緩んで、そっとジゼルを促す様にその手首を引き寄せる。

 ジゼルは数歩先を歩くターシャの背中を見つめながら、涙がこぼれないように唇を噛みしめた。

 嫌いだなんて、そんな目を向けるのに。

 どうしてそんな風に、優しく触れるの。

 ――そんなに優しいのに。

 ジゼルは声を飲みこんだ。

 ターシャの悲しみに寄り添えないことが、辛かった。



     *



 乾物や布や紙の束を壁に留めた太い縄に紐で縛って括り付けている。そんな、倉庫みたいな部屋にジゼルを招き入れて、ターシャは茜色と茶色の糸で織られた絨毯を床から引き剥がした。そこに、丸い扉があった。ジゼルは目を細める。水色の透き通った扉。

「何か言いたげだね。この扉が玻璃細工でできているのがそんなに気に入らないわけ?」

 ターシャは嗤うように言う。ジゼルは何も言う事が出来なかった。

 ターシャは扉の取っ手に手をかけ、一気に引き上げた。眼下に黄褐色の岩石を無造作に削って形を整えたような階段が見える。

「おいで」

 ターシャはジゼルの手を引いた。声には棘があるのに、まるで大切なものを扱うようにそっと触れてくる。それが、ジゼルにとっては辛くて、心が痛くて、唇をきゅっと噛むことしかできない。

 階段を降りた先は、半透明で黄色に染まった岩石の洞窟だった。所々で薔薇のような形に盛り上がっている。それを不思議な心地で見つめていると、ターシャが視線を寄越して、小さく呟いた。

「薔薇みたいだろう、この石。砂漠の薔薇って私達は呼んでいるけれど。地下深くでどろどろに融けた玻璃の液体の表面だけが冷えていくと、むらができてこんな形に固まっちゃうんだよ。どうしてこんな風に黄色になるか知らないだろう? 女神はとんと人間の世界には無関心だったからね……。地下で生きる微生物がいるのさ。そいつらは地上――気温の低い場所では生きられない。玻璃の液体が地震やら何やらでこうして空気に触れることがあるのさ。何百年に一度くらいのものだけれどね。そうすると、微生物は死んで、その死骸が玻璃が固まると同時に閉じ込められる。この黄色は微生物の死骸の色さ……死の色だ。この薔薇が削れて粉になって、砂漠ができた。だから砂漠は、死に満ちている。私が女神に分け与えられた星なんて、所詮そんなものだった」

 ターシャは目を細めた。

「まあ、全部サタンの知識のうろ覚えだけれど」

「サタン?」

 ジゼルは声を零した。ターシャは笑う。

「あなたがサタンに天秤を渡したんじゃないか。サタンはその天秤を使って、沢山の鉱石の重さを量って、それを財産にした。そのおかげで、あの貧しい星は豊かになったのさ。サタンはきっと、私達三人の中で誰よりも玻璃と玻璃によってできる色ある石達に詳しいよ。サタンの仮説じゃあ、シクルや神器なんかも、玻璃に閉じ込められた微生物が意思を持っているだけじゃないかって言っていたけどね。どうせ、あなたはそんなことも思いつかないんだろ?」

 ジゼルは俯いた。

「それは……わたしじゃないわ、ターシャ。決めつけないで」

「はあ? 今更何? 女神だった過去を消し去れるとでも思ってるの?」

「あなたの言う事は、何もかも急すぎて、心が追い付かない」

 ジゼルは顔をあげてターシャを見つめる。

「わたしは女神かもしれないけれど、女神じゃないわ。知らないことが沢山あるの。わたしは女神にはならないわ。あなたが、ターシャ=テフテナであるように、ゴーシェの妹であるように、わたしはジゼルよ。それ以外の何物でもないの」

 ターシャはジゼルを睨みつける。

「私にその屁理屈が通用するとでも思ってるわけ?」

「何度だって言うわ」

 ジゼルはきゅっと服の裾を握りしめた。

「わたしが好きなのはヘロだわ。ウラノスを好きだった女神とは違う。好きだったかどうかさえわたしにはわからない。それだけでも、わたしと女神は違うと言えるわ」

「は……そんなものでしか証明できないってわけ。つくづくおめでたい頭だ」

 ターシャは目を細めて再び歩き出す。

「ま、あなたもいつか、自分が女神とは別物だっていう確固たる証拠を自分の中で見つけられるといいね。せいぜいがんばりなよ」

「ターシャ!」

「あなたがそれを自分である証と言うならね、ジゼル」

 ターシャは声を荒げた。

「私は私の意思で、マルスが誰にも吐き出せなかった恨みを抱えて生きることを決めたんだ! だとしたらそれだけが私が私である証明だ! あなたの理屈は聞かない! それに、私には、愛せる人さえいない」

 ジゼルはきゅっと目を瞑る。どうして涙が浮かぶのだろう。どうしてわたしはターシャの気持ちに寄り添えないんだろう。

 目を擦って、ふと天井を見上げると、水色の線で描かれた模様が見えた。それが淡く光って、この薄暗い洞窟を照らしているのだった。

「ターシャ……あの天井画は、誰が描いたの?」

 ターシャは立ち止まって天井を仰ぐ。

「ああ……ゴーシェだよ。この洞窟は、私が通るために道を切り開いたからね。私が躓いて転んだりしないようにってさ、灯りをつけたんだよ。石を削って、その中に溶かした玻璃を流し込んだんだ。急激に冷やさないように気を使いながらね。でも所々失敗して茶色になってるでしょう」

「だと……思ったわ」

 ジゼルは鼻をぐすりとすすった。

 こんな絵を描いた。灯りを灯そうと努力して。これだけの絵を描くことは、どれだけ大変だったのだろう。ターシャはこれを大切に観てくれやしないだろうと、きっとわかっていたはずだ。観てほしいのなら壁や床に描けばよかったのに、きっと描き辛かったろうに。

「ターシャは、ゴーシェが嫌いなの?」

 ジゼルはターシャの後を追いながらその背中に話しかけた。ターシャはしばらく黙っていた。ややあって、

「嫌いなわけじゃ、ないよ……双子だし。家族、だし」

と、小さく呟く。

「でも、ゴーシェは私を妹だから愛しているわけじゃないんだよ」

「どうして、そう言い切れるの?」

「だって、ゴーシェはヘルメスの生まれ変わりだもの」

 ターシャは嗤った。その声はどこか悲しげに響く。

「ヘルメスもマルスを愛してくれた。だからゴーシェも私を愛するのさ。決まってるじゃない」

「ターシャ、ゴーシェはゴーシェよ。ヘルメスじゃないわ。例えそうだとしても、あなたがさっき言ったじゃない。マルスの恨みを抱えると決めたのはあなた自身だって。だとしたら、あなたをまた愛するって決めたのもゴーシェだわ。ヘルメスじゃない」

「そんなことは……わかってるんだよ。でも、そんな簡単に気持ちの整理がつくわけないじゃないか。愛するなんて簡単さ。恨みを忘れるのは……とても難しいんだ。私だって苦しいんだ。偽善なんかいらないよ……いい加減、私を責めるのはやめてよ……。あなたには、結局わからないんだよ。馬鹿だな。だからウラノスはあなたを愛しきれなかったのに」

 ターシャは小さく鼻を鳴らした。ジゼルははっとして、視線を伏せた。ターシャの顔を、今は見てはいけないと思った。

「いつか、あなたもわかってくれるといいなあ」

 ターシャは顔をあげる。

 強い水色の光がふわりと靄のように漂っていた。

「あなたが、私を恨んでくれたらいいなあ」

 ターシャは凪いだ声で言った。

 洞窟の先にあったのは、小さな湖だった。その湖面に、沢山の硝子のような破片が浮かんで散らばっていた。ジゼルは息ができなかった。声が聞こえた。悲鳴が。悲しんでいる。マルスの水瓶が、ばらばらになっても尚、ターシャを想って泣いている。近くに寄らなければ聞こえないほどの、弱々しい声で。言葉さえ組み立てられない、支離滅裂な音色で。

「あなた……」

 ジゼルの声が震えた。かちかちと歯が重なって小さな音を立てる。体中が小さく震えた。これが、怒りなのだと気づいたのは、少し経ってからだ。

「私が憎い? 女神にもらった水瓶を、こんな姿にしたこと、憎い?」

 ターシャは嗤う。

「生きているとわかっているのに……こんなにも、あなたを呼んでいるのに、その声さえ聞こうともしないで、あなたはこんな風にばらばらにしたのね」

 ジゼルはターシャを見つめた。ターシャはふと、腕輪をそっと撫でた。その腕輪の先で、水色の欠片が小さく揺れる。ジゼルは目をわずかに見開いた。

「それ……水瓶の破片の一つね?」

「そうだよ」

 ジゼルの声に、ターシャは瞼を閉じる。

「あなたは……覚えていないかもしれないね。この星は砂漠だらけで水もろくになくて、生きるには厳しい土地だった。だからあなたは、水を無限に溜めることのできる水瓶を私にくれたんだ。そうして、造った水瓶に最初の一滴を零したんだ。水瓶はその一滴を使って気の遠くなるような日々だけ、水を複製し続けた。私達人間が喉の渇きに飢えることの無いように。私はそろそろ解放してあげたかった。この子はね、それでもそれを不幸だとは思っていなかったよ。だけど私は不幸だと思った。だから喧嘩になったんだ。私はこの子を割った。そうしたらね、この子ったら、破片になったくせにさ、尚も水を造りつづけるんだよ。おかげでこうして水たまりができて、湖ができて、やがて砂を押しのけて地下は水で満たされた。水に飢えていた世界が、海で覆われたんだ。だけど、そんなこと知ったら人間は水を求め続けるだろう? 感謝の心すら忘れるだろう。だから私はゴーシェにこの星を砂で隠し続けさせたんだ。でも、もう疲れちゃった。水に浸かれて、秘密に疲れて、段々私は、私達は英雄なんかじゃないんだって真実を隠し続けることにも疲れちゃった。世界の盲信に応え続けることに、疲れた。この星から解放されたくなったんだ。この星がある限り私はここに縛られるのなら、壊しちゃえばいい。だから水瓶を壊したことも後悔していない。私には……最初の一滴を閉じ込めた、この破片だけでいい。この破片だけが、私の最初の願いだから。私の好きだった私自身の欠片思い出だから」

 洞窟が僅かに小刻みに揺れる。やがて揺れは大きくなって、風が唸るような轟音が籠って聞こえた。強い水色の光がジゼルの目を眩ませる。必死で目蓋を開くと、天井に描かれた水色の線が、魔方陣を浮き上がらせていた。

「ああ、やっと来たんだ……遅いなあ」

 ターシャは無感動な目で天井を見上げて呟いた。

「どういう、こと、何が、」

 ジゼルは天井から降り注ぐ石の粉に咽せながら声を上げる。

「あなた達のことをね、王室に連絡したのさ。裏切り者を匿ってるってね。惑星マルスは、王室に反抗するって。そうしたら、あちらが攻めてくるだろうなと思った。力ずくで従わせようとするだろうってね。はは、案の定だ。人間って本当に醜いなあ」

「なんて、こと、して」

「私を蔑めばいい。恨めばいい。失望すればいい。悲しめばいいよ」

 ターシャは跪いて、ジゼルの涙をそっと指で拭った。

「ウラノスの地図はね、そのために作られたんだよ。そう、ヘルメスは言っていた」

「え……?」

「あなたを痛めつけるためのものなんだよ、あれは。それでも、探す?」

 ターシャは悲しげに笑う。

「あなたがいつか、辛くて、悲しくて、世界を恨んで、助けを求めたら……」

 洞窟が割れていく。湖の水が揺れて、大きな波を浮き上がらせた。ジゼルはその中へと引きずり込まれる。手を伸ばしたけれど、ターシャはその手を取らなかった。どこまでも悲しげな、それでいてどこか温かい眼差しで、ジゼルを見つめていた。

「あなたが助けを求められるようになったら、ウラノスがきっと来てくれるよ。あれは、そういうものなんだってさ。あなたってほんと、恵まれてる」

 ターシャは、首をこてりと傾げて、ははっ、と明るく笑った。激流がジゼルを飲みこんで、深く深く、水底へと引きずり込んでいく。ターシャの柔らかな笑顔は水面に溶けて見えなくなってしまった。ジゼルは咳込みながら喉を押さえる。溺れてしまう。抜け出さなければ。ヘルメスの杖をぎゅっと握りしめた。けれど、ヘルメスの杖はびくりと体を震わせ、ジゼルがまだ願ってもいないのに白く輝く魔方陣を浮かべた。やがて針が落ちるような音を鳴らしてヘルメスの杖は陣に吸い込まれるように消えてしまった。ジゼルの頭は真っ白になる。

 ――どうやって……どうやって、抜け出せば……。

 咳をする度に肺が水を吸い込んだ。頭がぼんやりとして何も見えなくなる。ジゼルはふと、右手の指先に鋭い痛みを感じた。白んでくる視界の中でぼんやりとその先を見つめると、マルスの水瓶の破片が、ジゼルの指と指の間に挟まっていた。血の紅が水に溶けていく。ジゼルは破片を掴んだ。どくどくと手が軋んで、血を次々に水へ滲ませていく。ジゼルはその指で血を揺らした。記号を描く。絵を描く。水の中で揺れているせいで、絵はとても不恰好で歪だった。それでもジゼルは血の紅で人形(ひとがた)を描き終えた。紅色は眩い光を放つ。水色と溶け合って、夕焼けのような色の諧調グラデーションを滲ませた。ごおお、という唸り声のような音がジゼルの耳を苛む。やがて命を得た化け物は、ジゼルを抱きかかえ体をゆったりと持ち上げた。ジゼルの頬を何かが掠めた。酷く咳込みながら、霞む視界の中ジゼルはぼんやりと青空を見上げる。光の矢が雨のように降り注いでいる。怪物の足元には、水色の半球が輝いて、光の鏃を反射していた。怪物はジゼルを守る様に光の矢を振り落としていった。視界が白んでいく。化け物はやがて薄く空気に溶けていく。ジゼルの血がもう足りないのかもしれない。指先の傷を彩る血は、風に当てられ早くも固まりかけていた。怪物の腕からジゼルは零れ落ちていく。空に手を伸ばすけれど、届かない。怪物が消えていく。ああ、何も考えられない。

 こんな時、なんて願えばいいのだろう。

 最後に、何を願えば。

 ふと、ちらついて行く視界の端で、右の小指に見える赤い血の色が見えた。指輪……ヘルメスの杖が、わたしにくれた指輪。これは、お揃いの――。

「ヘ、ロ……」

 そう擦れた声で呟いた。その瞬間、ふわりと温かさがジゼルを抱きとめる。

「馬鹿!」

 大好きな声がそう叫んで、ジゼルの意識にかかっていた靄を晴らしていった。

「何してんだ! 無茶すんな! いや、正直助かったけど……でも戦わなくていいから、頼むからどっかに隠れといてくれよ。何顔に傷つけてんだよ、馬鹿」

 ヘロがジゼルの額に自分の額を触れさせる。安堵を滲ませたかのように深く息を吐くヘロの肩は、小さく震えていた。

「ヘ、ロ」

「ああもういい、しゃべんな!」

「どう、しよう」

「知らねえよ……もう、どうしたらいいのか俺だってわかんねえよ。ジゼルはどうしたい?」

 ヘロの瞳には、戸惑いや悲しみや、不安が色濃く揺れている。

 ジゼルはぼんやりとそれを見つめながら、ヘロの頬に手で触れた。ターシャにしたように、目の端をそっと撫でる。ヘロはぎゅっと目を閉じた。左目の端から、涙が一滴頬を伝って、やがて右の目からも滲んで零れた。ジゼルは指でそれを拭う。どうしてヘロが悲しんでいるのかわからなかった。どうして、今自分が心が痛いと思っているのかも、上手く考えられない。

「ヘルメスの、杖に、置いて行かれちゃった」

 ジゼルは小さく呟いた。ヘロがはっと顔をあげる。

「どこかに、行っちゃった、よ」

 ヘロはしばらく何かを考えているみたいだった。そうして、どこか苦しそうに笑った。

「なあ、一つだけ確認したいことがあるんだ。それ確認してもいいか? それで、もしヘルメスの杖が見つかっても見つからなくても、どこかへ逃げよう。狡いかもしれない。卑怯者かもしれない。でも、ここにいるのは、ジゼルが怪我するばっかりだ。俺達がいるだけで世界が壊れてしまうなら、俺達にできることなんて、逃げ続けるだけだろ」

「うん……」

 ジゼルも目を閉じて、泣いた。ターシャはあの後どうしただろう。置いてきてしまった。手を取ってくれなかった。手を取れなかった。あの水の中で、苦しんでいるだろうか。それとも、穏やかに笑っているだろうか。

 ヘロはジゼルを抱え直すと、シクルの羽を羽ばたかせ、砂漠の方向へ――今は水色の海底を剥き出したその景色に向かって風を切った。

 ジゼルは、穴だらけになった海底を見下ろした。広大に削り取られた玻璃の上で、生き物が沢山倒れて死んでいる。いつしか空からの光の矢は勢いを鈍らせていた。玻璃の海底に、いくつもの白い魔方陣が見えた。否――マルスの星の大地一面に、魔方陣が敷き詰められている。そうして一つ一つ瞬時に消えてなくなっていく。その魔方陣はまるで、時計城に飾られていた時計盤のようだった。八つの星の記号が描かれた円形。魔方陣の中央で短針がぐるぐると回る。やがて針はぴたりと止まって、円を描くように並んだ八つの星の記号のいずれかを指し示す。選ばれた星の記号は淡く白金色に瞬いて、その上に蹲る人々を飲みこんで消えてしまう。

 かつて深い海の底だった玻璃の大地の中心で、一際輝く金色の光が見えた。ヘルメスの杖を握りしめて、自ら流し落とした血だまりの中でかろうじて立っているのは、ゴーシェだった。ヘロはゴーシェの傍へふわりと降り立つ。ゴーシェは青白い顔で笑った。

「なんだ、戻ってきたのか」

「戻ってきたのか、じゃねえよ。あんたがヘルメスの杖を取ってるから、返してもらいに来たんだよ」

「そうか」

 ゴーシェは笑う。

「ヘルメスの杖には、もう嫌われただろうなと思っていた。こんなことを……したから。だけど、来てくれた」

 そう言って、ゴーシェは柔らかな眼差しでジゼルを見つめた。

「ジゼルが、寄越してくれたのか?」

 ジゼルは首を横に振った。

「違うわ。その子が……自分から、あなたの元へ飛んで行ったんだわ」

「そうか」

 ゴーシェは、深く息を吐いて、ヘルメスの杖に寄りかかった。

「はは……嬉しいなあ……もう、喋ってはくれないけどな……でも……嬉しいよ。ありがとな」

 そう言って、ゴーシェは杖に額を触れた。

「その子、もう言葉は話せないの……だけど、きっとそれでも、あなたに伝えたかったんだと、思う」

 ジゼルはたまらなくなって俯いた。血が滲むほどに唇を噛んで堪えていたのに、ぽたぽたと涙が零れて落ちて行った。

「みんな消えたみたいだけど、何したわけ」

 ヘロが辺りを見渡しながら呟く。ゴーシェはくすりと笑った。

「この杖が来てくれたからな。多少の無理も効くから、星の人間、生き物、全部他の星に転送した。プルートの軍勢にも強制的にお帰り頂いたよ。ただ、もうがむしゃらだったから、誰がどこに行ったかはわからない……せめてこれから穏やかに生きていってほしいけれど、この星の人間だからと迫害されるかもしれないなあ……でも、これ以上は、もう、」

 ゴーシェは俯いて乾いた笑いを零した。そうして小さく息をつくと、ヘロとジゼルを見据えた。

「お前達も転送してやるよ、せっかくだからな」

「いや、あんたはもう力なんて使うなっての。俺達にはアポロからもらった即席の縄があるから。好き勝手に逃げるさ。……俺達のせいで、すまなかった……」

 ヘロは俯く。ゴーシェは緩やかに首を振った。

「いや、お前達の存在を利用して目的を果たしただけだ」

「ターシャが、水に、飲まれたかもしれない」

 ジゼルは震える声で言った。けれどゴーシェは小さく首を縦に振った。

「いや、生きてるよ。ほら、あそこ……瓦礫の山に立って、こっちを見てるだろ」

 ゴーシェは目を細めて街だったものを見つめる。

「いや、見えねえよ。どんな目をしてんだよ」

 ヘロは首を横に振った。ジゼルにも、はっきりとは見えなかった。けれど、光の奥で、影が見えたような気がした。

「ああ、お前、近眼だからな」

 ゴーシェは笑った。ヘロは頬を掻く。

「悪かったな」

 ゴーシェはそう言って、ジゼルの頬に触れると、傷をなぞった。

 その時だった。

 空に小さな翠色の魔方陣が浮かんだ。ヘロがそれに逸早く気づいて、メルディを槍に変形させて空に向かって投げた。槍は陣を貫いて、陣はかき消えた。けれど、魔方陣が消える刹那、翠の光は針になって、落ちた。

 一瞬のことだった。

 ゴーシェが焦点の合わない目を見開いたまま、崩れ落ちた。翠の針はゴーシェの側頭部を貫いて玻璃の海底の上に落ち、霧散した。ゴーシェの口から泡が零れる。体が小刻みに震えている。

 ヘロがゴーシェの名前を呼び続ける。ジゼルは思わず街を振り返った。小さな影は光の中に佇んでいた。けれどやがて、背を向けるように溶けて消えてしまう。まるで、大切な影絵が一枚、破り捨てられたような心地がして、ジゼルは口を両手で覆って蹲った。なんてことだろう。

 ヘロが荒んだ目でどこともない場所を見つめながら、腰に巻きつけていたアポロの三つ編みを解いた。

「どこか……医者のいる星に……どこに行けば……」

 ジゼルは震える手でゴーシェが取り落としたヘルメスの杖を握りしめた。何か、何かわたしにできることは……何を描けばゴーシェは助かる? どうしたら、

『何やってるんだよ、馬鹿』

 不意に、ヘルメスの杖から気怠そうな声が響いて、ジゼルはぎょっとした。ヘロも固まる。

 ヘルメスの杖が話したのかとも思ったけれど、声は聞きなれない青年の声だった。ジゼルの記憶にあるヘルメスの杖の声は、もっと少年らしい愛らしい声だったのだ。こんな、無愛想で冷たい声ではない。

「だ、誰……?」

 ジゼルは呟く。

『話は後だろう、罪人。貴方達は早急に僕の所へ来るべきだし、その馬鹿者を医者に見せる必要だってあるでしょう、今から陣を敷くから、そこから動かないで下さいよ。全く、馬鹿』

 呆れたような声が零れて、ぷつりと途絶える。

 やがて、紫色の大きな魔方陣が――先刻ゴーシェが描いていたそれによく似た時計盤のような円陣が、ジゼル達の足元に広がった。短針がかちり、かちりと動いて、ある記号の前でぴたりと停止する。

「サタン――?」

 ヘロが小さく呟いた。紫色の光が三人を包み込む。思わず目をぎゅっと閉じた瞬間、頬に何かがこつんとぶつかって、ジゼルははっと目を開けた。少しだけ罅の入りかけたシクルがふわふわと浮いている。

「イルダ?」

 ジゼルが名前を呼ぶと、イルダはジゼルの掌の上にことりと落ちた。ジゼルは涙を拭って、抱きしめるようにイルダを握りしめ、ヘルメスの杖を脇に抱える。

 やがて三人は絵の具が水に溶けるように紫に吸い込まれて消えた。

 後に遺されたのは、誰も居なくなった閑散の風だけだった。


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