Episodi 21 水色と虹

 緑色の下扉を跨いで、ヘロは日の光の眩しさに目を細めた。階段の中途にあるゴーシェとターシャの家からでも、階段に家々が密に折り重なる眼下の世界はまるで広大な円形の闘技場コロッセウムを見下ろしているかのような錯覚を起こさせて、ヘロは眩暈を覚えた。この街には生々しく人々が生きているのだ。この岩塊のような街にだけ。アポロの星にいた時には考えたこともなかったことだ。あの星では、歩いても歩いても必ず誰かの住む家に行きついた。この惑星みたいに、人の息吹とそうでないものが明確に切り離されてなんかいなかったのだ。この世界はヘロには異質すぎた。この町を見下ろすだけで、世界で人間だけが孤立しているような不安と理由の見えない高揚感に押しつぶされそうになる。

「風が降るだろ」

 不意に、ゴーシェが柔らかい眼差しでヘロを見つめて、笑っていた。

「この場所は、この町で一番風が吹く場所だ。階段や坂道の途中にあるから、まるで上から風が駆け下りて降ってくるような感覚に陥る。だから俺は毎朝、閉ざされた家から玄関を潜り抜けて風を感じるこの瞬間が一番好きだ」

 ゴーシェは街の下を見下ろしながら呟いた。

「夜になると風が下から舞い上がって、見頃を迎えた咲き掛けの夜咲百合の花弁が空に吸い込まれていくんだ。だからまるで、階段を一段一段踏みしめて登る度に帰りを妖精シクルに祝福されているような心地になる」

妖精シクル?」

 ヘロはゴーシェの横顔を見つめた。

「シクルは、結局世界の妖精のようなものだろ」

 ゴーシェは事もなげにそう言った。

「そう、それと、夜に空に吸い込まれていく花弁を眺めるのも好きなんだ」

 そう言ってゴーシェは、階段の上に続く街の通りを見上げて目を細めた。

「ああ」

 ヘロはゴーシェの横顔から目を逸らして、ゴーシェと同じ視線の先を見上げた。なんとなく、ゴーシェの言いたいことが分かったのだ。

 ゴーシェは昨日ヘロが自分を認めたことに気付いている。ヘロがどういう答えをゴーシェに求めているのか、きっと理解している。昨日空を見上げて、ヘロと視線が交錯した。つまり、そういうことだ。

「ゴーシェって目がいいんだな」

「むしろ、お前が勇者の癖に近眼なことに俺は驚きだ」

 ゴーシェは鼻で笑った。そうして階段を降りていく。

「こうも周りが砂漠しかなければ、嫌でも目は悪くならない」

 ゴーシェは静かに呟いた。

「砂漠だらけの星ってのも大変だな」

 ヘロは後を追いながら階段を下る。

「違うんだ」

 ゴーシェはヘロの顔を見ない。

 こつこつと二人と住民たちの踵の音だけが響く。砂の吹く音がする。静かな朝だ。朝と言っても日差しが強すぎて、まるで昼日中みたいだけれど。

「この星はあえて貧しいんだ」

「え?」

 ヘロは首を傾げた。ゴーシェはしばらく黙っていた。

「マルスの水瓶は、この星が水で満たされ豊かな都になるようにかつて女神に渡された。それなのにマルスはそれを使おうとはしなかった。つまりそういうことだ」

 ヘロはゴーシェの背中を見つめた。

「わからないよ」

「……だろうな。俺だってよくわからないんだから」

 ゴーシェは乾いた笑いを漏らす。

「でも、お前が知りたいのはそういうことだろう」

「俺が、知りたいのは――」

 ヘロは凛とした声で応える。

「夜咲百合の話だけだよ、ゴーシェ」

「知ってる。だから早く寝ろって言ったのに」

「嘘ばっか。なんで俺がいる時にあんなことしてたんだよ。いつ見られてもおかしくないのにさ。あれは、でやってたんだ。あんたはターシャの兄妹なんだから、この星での発言権は一番強いはずだろ。別に昨夜はやめておくことだってできたはずだ、あんたの一言さえあれば。なのにあんたは、それをさせたんだろ」

「そうだよ」

 ゴーシェは笑った。

「でも、それを話すならマルスの水瓶の話は避けて通れない。そして、お前にはそれを知る権利があると思った。ターシャは……迷っているみたいだったけれど」

「迷ってるって、どうして?」

「お前は英雄の生まれ変わりじゃないからな」

 ヘロは足を止めた。数段先を降りて、ゴーシェが不思議そうに首を傾げる。

「どうした?」

 ヘロはゴーシェの藍色の目をまっすぐに見つめた。ゴーシェもまた、目を逸らさない。

 ヘロは首をふるふると横に振った。

「何でもない」

 ヘロは苦い気持ちを噛みしめる。

「なんで、今その話が関係あるのかなと思った、だけ」

「お前は意外と勘が鋭いな」

 ゴーシェもふん、と鼻で笑う。

「全部ターシャの差し金?」

「この星のことは、全て……な。ただ、俺が今からお前に見せるそれは、俺の一存だ」

 ゴーシェは砂漠を見下ろす。

「砂漠につくまで、黙ってろ。あまり他人に聞かれたい話じゃない」

「わかった」

 ヘロは頷いて、頭部を覆うように巻きつけた綴織の布の端を口元に引き上げた。後は砂漠に降り立つまで、二人は言葉一つ交わさなかった。



     *



 砂しか見えない砂漠の中心でまるで水色の染みのように広がるそれは、ヘロとジゼルが落ちた湖だった。

「なあ、水場ってここしかないのか?」

 ヘロは吹きすさぶ砂風に目を細めながら尋ねる。

「今は、な」

 ゴーシェは呟く。

「今はってことは前は他にも水場があったってことだよな? 砂に埋もれたの?」

「どうしてそんなことを聞く?」

「だって、違和感しかねえじゃん。なんでターシャがいて、水瓶もあって、この星は水の加護を受けるはずなのに、水場がこれしかないんだよ」

「ふん」

 ゴーシェはどこか楽しそうだ。

「水がとれる場所が一つしかなくて、統率者が唯一なら、人間は秩序を保って水を使おうとするだろう。言うことを……聞くだろう。死活問題なんだからな。言うことを聞かなければ爪弾きに遭う」

 ヘロは眉をひそめた。

「水場はこれの他に、あと九つあった」

 ゴーシェは遠くへと指を差す。

「それを全部、俺が塞いだ」

「どうして?」

「ターシャが望んだからだ」

「だから、それがどうしてだって聞いてんだよ」

「どうしてだと思う?」

 ゴーシェは目を細めて笑った。

 ヘロが素直に首を横に振ると、ゴーシェは吹きだした。

「お前、もっと悪意に敏感になった方がいい」

「悪意って……」

「俺の妹には、物心ついてからずっと悪意しかないよ」

 ゴーシェは柔らかく笑う。

「あの子にとっては、この星なんてまるで価値はないから」

 そう言ってゴーシェは砂の上に膝をつくと、湖面にそっと撫でるように指を浸した。

「なんで?」

 ヘロが眉根を寄せると、ゴーシェはくすりと笑う。

「英雄が女神からこの八つ星を勝ち取った話は知ってるだろ?」

「まあ……常識だし」

 ヘロは理由のわからない違和感に――先刻階段でも感じた小さな違和感に目を細めた。

「英雄達は、人間達の望みをかなえるために、この八つ星を女神の支配から切り離した。この星を、人間だけのものにするために。だけどそのせいで、英雄マルスは一番欲しかったものを失った。そしてその人もまた、一番欲しかった人を失わなければいけなかった。だからマルスにとってはこの星は業の証でしかないし、その記憶に縛られ続けるターシャにとってもこの星は愛すべき故郷なんかじゃない。どうでもいいものなんだ」

「でも……あんたにとってはそうじゃないんだろ」

 ヘロは訝るように言葉を零す。ゴーシェは感情の見えない目をヘロに向けた。

「どうしてそう思う?」

「だって……あんたは、この星を好きなんだろ。そうでなければあんな優しい声であの街の話なんかできない」

「まあ、お前は自分の故郷を嫌ってるみたいだからな」

「な――別に、嫌ってなんか……」

 ヘロは気まずくなって目を逸らす。

「嫌いじゃ、ねえよ」

「だけど、厭わしいんだろ。それこそ、声に出てたよ。ターシャと一緒だ」

 ゴーシェは笑った。ヘロはその屈託のない笑顔を複雑な気持ちで見下ろす。

「なんか雰囲気違うな、昨日までと」

「ああ……昨日は、お前がガイアかもしれないと思ってたからな」

 ゴーシェは膝の上で頬杖をついて水面の煌きに目を細める。

「ガイア?」

「ターシャは今でもそいつが忘れられないんだと。勇者に選ばれるのが俺でないのなら、それはきっとガイアの生まれ変わりだろうと頑なに信じていたんだ。だから俺はてっきりお前がそうなのかなと思って、なんとなく虫が好かなかった。悪かったな」

 ヘロは黙っていた。ゴーシェの表情には、見覚えがあった。よく知っている。自分だってそうだったのだから。ジャクリーヌを同じ思いで見つめていた。トゥーレだって、同じ顔をして彼女を見つめていたのだ。だからヘロはトゥーレを差し置いて彼女に触れることに躊躇いを抱き続けた。ゴーシェが彼女を見つめる眼差しには、家族なら誰でも浮かべるはずの憤りがなかった。怒りも悲しみもなかった。ただ砂糖湯のような、こそばゆさだけだった。憧れだった。

「なあ、」

「何?」

「お前、ターシャのことが好きなの?」

「そりゃあな。家族だから」

「そうじゃなくて」

 ゴーシェは少しだけ驚いたように目を見張ってヘロを見つめた。

「お前……変なやつだな。引かないのか?」

「そりゃ……びっくりはするけど、別に。星によってそう言う感覚は違うかもしれねえし。俺にはよくわかんねえけど、そもそも俺姉妹いないからわからないだけかもしれねえし」

 ヘロは肩をすくめる。

 ゴーシェは一瞬押し黙って、盛大に吹きだした。

「普通それは気持ち悪いとか別に思ってもいいんだぜ?」

 ゴーシェは腹を抱える。

「この星でも、さすがに兄妹同士のそれはないからな」

 ゴーシェは小さく息を吐く。

「間違っているかもしれない。俺はターシャの唯一の家族で、兄妹だ。だから本当は、叱ってでも喧嘩してでも諌めなきゃいけないんだろう。なのに俺にはそれができない。甘やかすのとも違うんだ。俺には、こうすることでしか、あいつへ気持ちを伝える術がない。あいつも俺を利用することでしか答えを示せない。それでもいいんだ。元々、不毛だから」

 ゴーシェは笑った。

「お前、シクルを使って水に潜れるか?」

「それは、息を止めるってこと?」

 ヘロは首を傾げる。

「違う。息をして、目を開けながら水に潜るってことだ」

「やったことないから……わからない」

「なんだ、そんなことも知らないのに勇者なのかよ」

「お飾りなんだよ」

 ゴーシェが笑って、ヘロが顔をしかめる。

「こうやるんだよ」

 ゴーシェはシクルを――イルダを撫でた。イルダは風船のように膨らんで、薄い膜でゴーシェを包み込んだ。

「深いところまで行くからな、こうした方が都合がいい」

 ゴーシェはそう言って、顎をくいっと持ち上げた。ヘロも見よう見まねでメルディを撫でる。

 ヘロが同じようにメルディの膜に閉じ込められるのを見届けると、ゴーシェは湖に潜った。ヘロも後を追いかける。



     *



 水はこんなにも色のある物なのかと思う。

 こんなにも、一つの色で絵の具を溶かしたみたいに染め上げられているものだろうか。

 湖底を目指して沈む間も、眩しい日の光に透過された世界は眩く鮮やかな水色だった。

 それは、昨夜あの藍と白の街を柔らかく包んだ光と同じ色だった。

 そうして、ヘロの心の中で芽生えた一つの仮定は、二人で湖底に足をつけるまでもなく、答えとなった。

 眼下に広がる水色の鉱石に、ヘロは目を細めて、苦しくて前髪を握りしめた。

 ゴーシェは振り返って、哀しげな微笑を浮かべた。

 笑わないでほしい。首を傾けて、そんな優しい笑顔を向けないでほしい。

 知りたくないとヘロは思った。こんなにも、知りたくないと、悲しくなったことは無い。辛くて、腹が立って、身体が震えた。

「こんなに……たくさんあるんだ」

 ヘロは蔑むような笑みを抑えきれなかった。

「こんなたくさんの原石があるんだ。だからここだけ残したの?」

 ゴーシェはふるふると首を縦に振った。この星では、首を縦に振ることが否定の証だと昨日話してもらったばかりだった。そうして一つ一つ知らないことを、お互いに違うことを知っていきたいと思っていた。友達になりたいと、思っていた。

「どこも、こうだった」

 ゴーシェは一言だけでそう言った。

「そう。じゃあ、他の湖はどうやって埋めたの?」

 ヘロの棘のある声にも、ゴーシェは柔らかくて綿のような中身のない笑顔を返すばかりだ。

「砂で埋めたよ。俺だけじゃない。この星は、ずっとそうしてきたんだ」

「そう。じゃあ、この星は、砂の下にこんなに澄み切った水があちこちで眠っているんだ。玻璃が水を支えているんだ。こんなに……たくさん、隠して、」

 後は言葉にならなかった。どうしてそんなことをするのかわからなかった。

「なんで腹を立てるんだよ。お前だって逃げてきたんだろう? 王室の言いなりになるのが嫌で逃げたんだろう? あの子の手を引いて」

「そうだよ……っ、同じだよ、同じだから、辛いんだよ。わかれよ。こんなの……ばれたら……」

「いいんだよ」

 ゴーシェは笑った。

「ばれていいんだよ。それを望んでるんだから」

「誰が、だよ」

「それは、もちろん――」

 ゴーシェはヘロから視線を逸らした。

「誤解しないでくれよ。ターシャの言いなりになってるわけじゃない。これは、この八つ星から女神を消そうと躍起になってばかりで何の真実も知らない世界への警鐘だよ。この星だけじゃない。他の七つだって同じだ。この八つ星はみんな、大きな玻璃球を包み込むように大地で覆って、そこに生き物が住んでいるだけだ。女神を消し去ることなんかできない。そうしたいなら、移り住めばいい。かつて英雄たちがそうして世界から置き去りにされたように、もう一度、俺達英雄をこの星に置き去りにして、どこへなりと行ってしまえばいい。人間達はそれを知る権利がある。もちろん、ヘロ、お前もだ」

「まるで、自分も英雄の側みたいな言い方をするんだな」

 ヘロは静かに呟いた。ゴーシェは微笑むだけだ。

「ずっと違和感があったんだ。八つ星だなんて、そんな言い方をするやつを俺は数えるほどしか知らない。一人はアポロ、そしてもう一人は俺のシクルだ。俺達は八つ星だなんて言い方を知らない。習ったこともない。そんな習慣もない。シクルのこんな使い方だって知らない。習うはずがないんだ。だって、俺たちの教育は全部王室で厳密に定められている。俺が知らないのにあんたが知っていることがおかしいんだ。あんたは――俺達と最初に出会った時、ジゼルの杖を【ヘルメスの杖】だと言った」

 ヘロは目の周りが熱く疼くのを感じながら、それでもゴーシェを睨みつけた。

「知ってるはずがない。ヘルメスの杖はヘルメスから王都に移されて、ガイアからアポロへ渡るジャクリーヌに直接手渡された。俺達は、アポロのやつらはみんなそれがヘルメスの杖だって知ってた。ジャクリーヌがずっと使っていたからだ。だけど、あんたが、マルスにずっととどまり続けたあんたがそれを知ってるはずはないんだ。おかしいんだ」

 ゴーシェは首を傾けた。

「何故泣く」

「そんなの、あんたが生きようとしてないからに決まってんだろ! なんだよその目は。やめろよ!」

 ゴーシェは凪いだ瞳でヘロを見返すばかりだ。

「あんたは……」

 ヘロは唇を噛みしめる。

「この使い方を知っている理由わけか? プルートがこういう風に鏡を使うのを見て知っていたからだ。他にも色々知っているぞ。お前の知らないやり方なんて腐るほどある。学校で習うやり方なんて、英雄ヘルメスが選りすぐった型にはまったそれだけだ。そうだよ、俺が――ヘルメスが、教育の方針は全て作ったんだから。世界が女神を忘れるように作ったんだ。俺は女神を恨んでいたから。マルスを苦しめた女神を恨んだ。だけどそんなのは間違いだった。世界が今日まで女神を憎み続けるのは俺がそれを誘導したからだ。俺は、今でもその考え方が深く根付いているのか確認したくて、勇者になろうとした。だけど、お前がこうして俺達の下に来て、ご丁寧にも教えてくれたから、そんな必要もなかったな。俺が分かったのは、もう、この八つ星は引き返せないところまで来てしまったと言うことだけだ。今更、女神を恨むのは間違いだ、などと叫んで何になる? 俺がヘルメスの生まれ変わりだと誰にでもわかるように証明する方法などないのに」

 ゴーシェは笑みを深める。

「ターシャはただ、自己満足でこの星を滅ぼしたいだけだ。それは俺にとってとても都合がよかった。この星の地底がむき出しになれば……むき出しの玻璃の岩塊が晒されれば、人々は己の星の地下もそうではないかと懸念するだろう。もし真実を知れば絶望するだろう。けれど知ったことではない。俺達は過ちを繰り返した。かつて俺達を捨てた人間に、また期待をして、本当に大事なものが何かもわからなかった。ヘルメスだった頃の俺は、英雄と言われた俺達八人のことが好きだった。俺達を拾い上げてくれた女神が好きだった。それなのに俺達は裏切った。人間の悪意に踊らされて、裏切った。こんな星なんてなくていい。それは、俺もターシャも想いの帰結は変わらない。だから俺は止めない」

「わからねえよ……」

 ヘロは蹲るように顔を両手で覆う。

「全っ然わかんねえよ……なんでだよ。わからないことが、多すぎるよ……」

「そうだろうな」

 ゴーシェは悲しげに零す。

「ターシャはお前に理解させる必要なんてないと言っていた。だけど俺はそうは思わない。お前には知る権利がある。その理由なんて、お前があの子を……ジゼルを連れて逃げようとしてくれた、それだけで価値がある。そうだよ、俺は知っていたよ。あの六芒星を抱えるあの子は女神に準ずる何かだとわかっていた。だけど俺の記憶は如何せん、決定的な欠落があった。俺はジゼルを見るまで自分が英雄の生まれ変わりだと言う確証がなかった。時に蘇る記憶も曖昧で、ターシャは俺のことをヘルメスだと知っていたけれど、実感はなかったんだ。だからターシャのいう事に引きずられてきた。けれど俺は、ジゼルと出会って徐々に目の前が開けたんだ。俺の心と、記憶が、ようやくうまく噛み合ったのは、昨夜夜咲百合に隠した玻璃の針を叩いていた時だ。お前と、目が合った時だった。それでも、俺は本当に全部を覚えているのか自信がない。自信なんて持てない。だからせめて、俺はこの記憶の欠片を、ジゼルとこれからも歩むであろうお前にだけは伝えておきたいと思った。愚かな俺達が辿ろうとする未来を、見てほしいと思ったんだ」

 ゴーシェは自分の胸に手を当てた。

「この八つ星は全て、元々女神が戯れに作った八つの鏡だ。プルートの鏡も、シクルも、星の欠片を切り取ってこれを模したものに過ぎない。女神はこの鏡を衛星と呼んでいた」

 ゴーシェは目を閉じる。

「こんなこと、言っても信じられないかもしれない。けれど、聞いてほしいんだ。それは、恐らくお前の言ったウラノスの地図を探すために必要なことだから。ジゼルのために必要なことだから。それを知らないで、お前達はウラノスに寄り添うことなどできない。できるはずがない」

 ヘロは目を擦って鼻を鳴らした。水色の世界で、ゆっくりと頷く。まるで、時がそこだけ止まったようだった。ゴーシェは穏やかに、そしてどこか嬉しそうに微笑んでいた。

「この八つの星は、宇宙と言う暗闇の中にぽつりと浮かんでいる丸い玻璃の球だ。宇宙には、沢山の太陽と言う輝き燃え続ける星と、その引力に引き寄せられ周りをまわり続ける惑星がある。八英雄と呼ばれる俺達は、昔別の惑星――地球と呼ばれた惑星の人間だった。そしてその惑星は寿命を迎えた。惑星は命を失うとただの塵になってしまう。だから地球に生きる人々は、他の星へ――生きることのできる惑星を求めて船に乗った。宇宙を漂う船だ。そうしてその移住の旅で、八人の子供たちが振り落とされた。お前達はいらないと宇宙に捨てられた。星ではないただの人である俺達は、宇宙に投げ出された途端屑と消えた。

 それをかき集めて、俺達を生き返らせてくれたのが、女神アルテミスだ。俺達の――この八つ星の、かつての女神だった惑星だ。俺達がかつて住まった惑星は、マグマと言う物質でできていたけれど、アルテミスにとってのそれは玻璃だった。女神は自分の一部である玻璃を使って、衛星と言う命を持たない球を作った。そして俺達を衛星の一部として再生した。だから俺達の魂はこの玻璃の星に縛られていて、生まれ変わっても尚この八つ星に在るんだ。もう、ゴーシェとしてのこの身体はただの人間だから、恐らく宇宙に飛び出せばかつて地球人であった頃のように、すぐに塵になって死んでしまうだろうな。今度はもう、俺達を拾い集めてくれる女神もいない。

 女神は俺達を救ってからしばらくして俺達の孤独が癒される様にと女神の惑星にいた人間達を衛星に移住させた。俺達は人間だった頃の心の傷を忘れられなかった。だからそうして迎え入れた人々に必要とされることが嬉しかった。けれど人々は女神を厭っていた。あんな、人を顧みない女神なんか要らないと言った。俺達は人々に説いた。ここが衛星である以上、本体である惑星が、女神がいなければ俺達は生きてはいかれないこと。だから女神は愛さなければいけないんだと。けれど彼らは『ならば俺達が女神の代わりに惑星に成り代わればいい』と言った。。それが不幸の始まりだ。だって玻璃を持つ俺達にはそれが可能だったのだから。俺達は、人間に押し負けた。女神と同列の、惑星になると言う欲望に負けた。俺達には女神のような太陽がなかったから、作ったんだ。ウラノスと俺で心なき太陽、ただの灯りを作った。そうして俺達は、星々を繋ぎとめる万有引力を捻じ曲げて、女神の軌道から飛び出して、惑星になった。そうしてみたら、俺達の中から女神への思慕がどんどん薄れていくんだ。俺達を繋ぎとめていた心の絆が――万有引力の証が、薄れてしまった。俺達の中で、女神はただの同じ女性に成り下がってしまった。そうして俺達は、ただの人間のように互いに恋に落ちて、そのせいで、誰かを恨んだ。恨んだ結果、女神は殺された。歯車が狂いだしてからは、もう止められなかったんだ。俺達はその罪を正当化したくて、女神の存在を握りつぶした。記憶も、過去も、すべて。元々移り住んだ人間達は女神を恨んでいたから、洗脳するのは容易かったんだ。これが、俺達の罪だ。英雄なんて、ただのお飾りだ。玻璃の音を聞ける勇者が罪人な訳がないじゃないか。英雄が、罪人なんだ。未だ罪を償いもせず、のうのうと生きている、罪人なんだよ」

 ゴーシェは自嘲するように笑う。

「俺は――マルスが恋しくてターシャの傍へ生まれて来たんだ。けれどターシャにとっては、俺は絶対に愛せない存在だった。お前みたいに、ただの人だったらそれも可能だったかもしれないな。ターシャももう前世のことなんか忘れて、人になれたかもしれない。兄妹だとか、そういうことすら関係ないんだ。俺がヘルメスだったせいであの子は俺を愛せない。あの子はもう人間になれない。俺にできるのは、あの子の願いを叶えてあげること。そして、罪を暴露すること。それだけだ。ジゼルの幸せを願うことすら烏滸がましいな。それでも……俺は、ゴーシェである俺自身までが、あの子に嫌われるのは耐えられない。だから、ジゼルには俺がヘルメスだなんて言いたくなかった。馬鹿馬鹿しい話だ。自分から裏切っておいて。今更償いようもない。でも、お前には伝えておきたかった」

 ヘロは妙に凪いだ気持ちで、落としていた視線を持ち上げた。誰かに対して本当に腹が立つ時、心がこんなにも揺れないものなのだと知った。低く静かな声が口をつく。

「そんなこと、聞かせて、俺にどうしろって言うんだよ」

 ヘロはゴーシェを睨みつけた。到底理解できるような話でもなかった。受け入れられるはずがない。

「だって、あの子は……ジゼルは、ウラノスの地図を探すんだろう? あの子がこの世界で人形ひとがたを取り戻すきっかけになったそれを、探すんだろう。だったらウラノスの心を知らないと探せやしないよ。ウラノスがあれを隠したのも、ジゼルが生まれたのも、何もかもきっとそれが引き金だったのだから。俺にはウラノスの地図のありかなんてわからないし、きっと見つけることすらできないだろう。でも、何も知らない、何の柵も持たないお前なら、只人のお前なら、あの子を導いてやれるのかもしれないから、教えておこうと思った。今は理解しなくても構わない。でも、覚えていてほしい。あの子のために」

「あんたのジゼルへの気持ちなんて、そんなの、自分で言えよ」

 ヘロは唇を噛みしめて俯いた。

「そんなにジゼルのことを想うなら、直接言ってやればいいじゃないかよ」

「懺悔と祈りは違う」

 ゴーシェは首を縦に振る。

「俺達ではあの子を幸せにできない。これだけは……わかるんだ。ウラノスはあの子が幸せになればいいと願って地図を書き換えた。そしてあいつは結局生まれ変わらなかった。自分では幸せにできないとわかってやがる。そしてガイアも多分……そうなんだろう。俺がマルスを幸せにしてやろうなんて烏滸がましい話だった。それなのに俺は気づきもしないで生まれてきたんだな。前世で幸せにしてやれなかったのに、生まれ変わってできるはずがない。それができるのは、同じ業を持たない別の人間だけだ。俺は今なら、そう思うよ」

 ゴーシェが吐息を漏らす。それに中てられたように、玻璃が鈍い光を放った。

「時間だ」

 ゴーシェは小さく呟いた。

「何がだよ」

 ヘロは眉をひそめる。ゴーシェは、どこか諦めたような眼差しで水面を見上げた。

「昨夜、ターシャがお前達を匿ったことを、イルダを使って王室に密告した」

「な――」

 ヘロはゴーシェの肩を揺さぶった。

「なんでだよ!」

「ターシャがそれを望んだから」

 ゴーシェの声は、何の感情も滲ませなかった。

「裏切り者を匿った星がどうなるか、お前自身の目でしっかり見ておけ。それが――俺達の業の行き止まりだ。お前は、【勇者】なんだから」

 ゴーシェは笑みを浮かべると、そっとヘロの手を払いのけて、その場に膝をついて腰を下ろし、人差し指で湖底の玻璃をなぞった。その痕が、金色の光を放ってヘロには解読できない不思議な文字の羅列を浮かび上がらせる。

 地響きがして、水が空へ吸い込まれていく。あちこちで虫の鳴くような音が反響する。玻璃が、罅を刻み付けている。まるで自虐するかのように。音はやがて合わさって悲鳴のような咆哮を挙げる。

 頬に刺さる水の槍に目を細めて耐えながらヘロは叫んだ。

「何をするつもりだよ!」

「戦争だ」

 ゴーシェはよく通る声で笑った。

「惑星プルートが攻めてきた。だが簡単には屈してやらないぞ。俺を誰だと思っている。この星々の魔術の礎を作った英雄ヘルメス様だ。夜咲百合の中に埋め込んだ玻璃の針が、ただ夜道を照らすためだけにあったと思うか? あれは、この瞬間ときのために、魔方陣を、あの町全体に、張るための、」

 ゴーシェの声が耳障りな水流の雑音にかき消されていく。ヘロはゴーシェに手を伸ばした。届かない。ヘロはそのまま、砂の混じった濁流に押し流され、空へ放り投げ出された。

 空に張り巡らされた幾つもの緑色の魔方陣と、合間を縫うように羽ばたくシクル達の群れを見つめて、ヘロは涙を拭った。眼下に広がる世界は藍と白の街だけをぽつりと残して全て水色の海になって行く。砂が金色の魔方陣を形作って波打った。巨大な、途方もない大きさの円形。そして、長い長い、物語にも勝る魔法の文字。街が水色の半球に覆われている。ヘロは張り裂けそうな心臓の鼓動に耐えながら、もう一度目を擦った。ジゼルをあの半球から連れ出さなければいけない。この星の未来なんて見えない。わからない。勇者なんて、何の力も持たない。俺には結局、あの子しか守れない。あの子一人さえ、守れるだろうか。

「メルディ!」

 ヘロは叫んだ。メルディは六枚の鋭い羽根を伸ばしてヘロの背中に寄り添う。ヘロは羽を震わせ空と海の両方から迫りくる光の矢を必死で避けて突き進んだ。海が爆発するような音を立てる。水面は痛々しい穴を広げていく。水の刃が空を切る。空に描かれたプルートの魔方陣を消し流すように。

 ――もっと、もっと早く!

 街を覆う半球が少しずつ罅割れていくのが見えた。ヘロは歯を食いしばる。ちらつく視界の先で、眩い七色の光が空へと刺さった。ヘロは思わず安堵して笑みを浮かべた。虹のような光で得体のしれない巨人のような化け物が形作られる。それが、街に刺さり続けるシクル達の矢を弾き飛ばしている――あんな魔法、見たことがない。最高だ。最悪だ。ヘロはまだ到底届かない手を怪物に向かって伸ばした。怪物が空洞の目でこちらを振り返る。

 星が、割れていく。



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