Episodi 20 光と影

 ゴーシェとヘロが連れ立って眩む光の中へ飛び込んでいく背中を、ターシャはじっと見つめたまま身動きもしなかった。ターシャはどこか懐かしいものを――そして忌々しいものでも見るかのように、目を緩やかに細めた。ジゼルは彼女の横顔を黙って眺めていた。ジゼルは待っていたのだ。ターシャが、話し出してくれることを。まだ会って間もないけれど、ジゼルには何となくターシャと言う少女がどういう子なのかわかる気がした。この子は、自分からでなければきっとしゃべれない。ターシャとゴーシェの力関係は、どことなくぎこちない。双子だと言うのに、まるでターシャはゴーシェを拒んでいるみたいだった。そしてゴーシェはそれに甘んじているのだ。この家は――もしかしたらこの星全体かもしれない――ターシャを中心に回っている。それが彼女自身が意図したことなのか、そうではなかったのかもしれないなんて、ジゼルにはまだよくわからないのだけれれど。

 ターシャは長い睫毛を蝶羽のように震わせて目を伏せる。やがて緩やかに頭を振った。ジゼルは小さな声で尋ねる。

「何を、見ていたの?」

 ――何が見えていたの?

 ターシャがはっとして、どこか追い詰められたような荒んだ目を見開き、ジゼルを振り返る。ジゼルはただその視線を静かに受け止めた。

 話したいことがあるなら、話してほしいと思った。憎まれているのかもしれない。嫌われているかもしれない。けれど、もしもわたしが女神で、彼女が英雄だったのなら、きっと心を交わすことができるのはわたし達しかいないのだ。

 ターシャは視線を落として、へら、と口元だけを歪ませた。皮肉めいた笑み。

「別に? ただね……少年たちの背中って、どうしてあんなにも……焦がれるんだろうねと思ってさ」

 ジゼルは黙って首を傾げる。

「なんとなく、あなたもわからない? 私はね、英雄だった頃から、あの背中に焦がれてきたよ。彼らはいつだって楽しそうで、いつまでも子供みたいでさ、笑ってた。光ある方向を向いてたんだ。私達が見つめてきたのは、いつだって影になった背中だった。女の子はそんなに無邪気になんてなれない。なんであんなことになっちゃったんだろうな。それを見ているのは……楽しかったのに。冒険なんてできない女の子のために、男の子が広い世界を見て笑うんだよ。ああだこうだ、粘土をこねるみたいに世界を造ってさ。楽しそうだった。羨ましかったよ。でも自分にはあんな風に笑えないってわかってた。だからね、見ているだけでよかったんだ。そのうち、私が見つめる背中はただ一人になっていた。その輪に入っていったのがプルートだったよ。あの子はね、私と一緒だったんだ。羨ましくて、羨ましくて……だからあの子はあの輪に自ら入っていった。私とプルートは何も本当は変わらないんだよ。私は……あの人が好きだった。愛してたの。でもあの人は私を抱きながら、別の人を見つめていた。ずっと……ずっと。私は、最後まであの人の向こう側へ行けなかった。プルートもあの中に愛していた人がいて、同じ世界が見たくて、並びたくて、一生懸命男の子っぽく振る舞って、求めたけれど、見てはもらえなかった。あの子が好きだった人も、私が好きだった人も、同じ人だけを見ていた。本人たちは絶対に認めようとしなかったけれど……ね。そんなところまでそっくり。私とプルートって同じなんだ。あの子はもう一人の私だった。あの子がやらなければ、私がやっていたかもしれなかった。だから私には、もう、何も残されていない私には、あの子と同じように狂うことくらいしかやることがない……」

 ターシャはどこか朦朧としたように不安定な視線でどこかをゆらゆらと見つめながらうわ言のように零した。

「ターシャ」

 ジゼルは柔らかな声で言った。

「それは、あなたじゃないわ。ターシャじゃないわ」

 ターシャは吐息を零す。頭を抱える。

「わかってる。……わかってるんだよ。でももう引き返せない。引き返したくない。やめたくない。このままでいたい。でも怖い。それでもこのままがいい。このままでなければ私は幸せを感じられない」

 ターシャはぎゅっと目をつぶり、苦しげに右の手で前髪をくしゃりと握りしめた。ジゼルはふと、ヘロを思い出した。苛々している時の彼の癖と、同じだった。ふと、聞いてみたくなった。

「ねえ、ターシャ。それって、癖なの? 誰かの……真似?」

「え?」

 ターシャは前髪からゆるく手を放して目を見開く。ジゼルは自分の前髪を手でぐしゃりと握って見せた。ターシャは自分の右手をのろのろと見つめた。

「うん……」

「誰の?」

「誰の……だろう。わからない。忘れた」

 ターシャはどこか疲れたような声で言った。

「真似だっては認める?」

「なんで、そんなこと言うのさ」

 戸惑うように、どこか怖れるようにターシャは震える声で応える。

「そういうの、女の子はあまりやらないよ」

 ジゼルは困ったような笑顔を浮かべた。

 ターシャは口をきゅっと引き結んだ。泣きそうな顔をしていた。ターシャはばっと俯いた。柔らかい砂色の金髪が顔を隠すように垂れ落ちる。

「ガイアが……してたんだ」

「ガイア?」

「うん」

 ターシャは震えた声で呟いた。やがてぽとりと雫が零れて、ターシャの裸足の足を濡らしていく。指先を伝い落ちた涙は、白い床に灰色の染みを作った。

「ガイアに……会いたい」

 ターシャは両手でぐしゃりと顔を覆った。細い身体はとても弱々しくて、折れてしまいそうなほどに傾く蝋燭みたいだ。

「私、アポロがあなたの誕生を知らせてくれた時からずっと待っていたの。あなたがいつか、あなたの勇者を連れてここへ来てくれることを……私の目の前に来てくれることを心待ちにしていた。女神そのもののあなた以外が神器に選ばれるなんてありえない。そうして、あなたに引きずられて選ばれてしまう勇者も、きっとあなたと同じくらい女神に近い魂を持った人だと確信していたの。私はそれが、きっとガイアだと信じて疑わなかった。ガイアだったらきっとあなたの傍に舞い戻る。何度でも、何度でもあなたの傍に来て、あなたの知らないところであなたを守ろうとすると思った。あの人はそれだけあなたを愛していた。私を愛してくれないことは知っていたの。でも……あなたが連れて来たのは……ガイアじゃ、なかった……」

 ターシャは顔を両手で覆った。肩が震える。

「愛してくれなくてもいい……から……もう一度だけ、会いたい。会いたかった。もっと会いたい。もっと声が聞きたい。生まれて来たかったわけじゃない。私は……あのままでもよかった……だから、自殺したのに……ガイアがまた生まれてきてくれるなら、会いたかったから……またまっさらな状態で、出会いたかったの。そうして、頑張りたかった。今度こそ同じ世界を見られるようにって……なのに、どうして私は、私だけ、生まれてきたの? あのね、」

 ターシャは嗚咽を漏らす。ジゼルはその背中にそっと触れた。

「マルスの長の祖……その双子はね、私と……マルスと、ガイアの子供なんだ」

 ジゼルは黙って聞いていた。

「ガイアはね、マルスを抱いたんだ……マルスがそう望んだから。だから女神を愛せない代わりに私を抱いた。けれどガイアは結局、女神のために死んじゃった……。ガイアが女神を殺したんだ。それが彼なりの愛情だった。彼なりの、多分、諦めだった。私が……マルスが、お腹に子供がいるってわかったのは……それより後で……私は、双子を、産んで、この星で、育てて、ヘルメスが……そうだ、ヘルメスが、助けてくれて……サタンも、助けてくれて……でも私は、耐えられなくて……あの子たちを愛せなくて……なのに私は、ゴーシェと双子で……」

 ターシャは頭を抱えて震える。

「私は……ゴーシェの気持ちには……応えられない……私には……無理だよ……」

 ターシャが鼻をぐずらせ、落ち着くまで、ジゼルはターシャの背中を撫でていた。

 ターシャの鼻は赤い。それを見ているうちに、ジゼルは自分も熱に浮かされていくことに気付いた。頭がぼんやりと靄を張る。わたしは、何かを聞かなければいけない……何かを、知らなければいけない……。

「あの、ね」

 ジゼルは半ば浮ついたような具合の悪さを抱えながら、声を零した。

「プルートは……誰が好きだったの?」

 ターシャは一瞬信じられないような眼差しでジゼルを見つめて、ああ、と力なく笑った。

「そうか……あなたは、覚えてないんだ」

 ターシャは、はは、と乾いた声で笑う。

「ウラノスだよ」

 その言葉に、ジゼルは眩暈を覚えていた。立っていられなくなった。よろよろと、縺れるように床に崩れ落ちる。胸が痛い。胸が……苦しい。

「ジゼル、大丈夫?」

 ターシャが戸惑ったようにジゼルを揺すぶる。

「プルートが、ウラ、ノス……」

 ジゼルはうわ言のように呟いた。目を見開いているのに、視界に飛び込んできたのは、白い砂の天井ではなく、藍色の空――紫や青や黄色や撫子色や……色んな光の屑が渦を巻いている世界。コウコウと喉の潰れた狼が鳴くような音がジゼルを溺れさせる。ジゼルは力のなかなか入らない腕を伸ばして光の屑にずぶずぶと手を差し入れた。ここに……ここに、わたしの、大事な、ものが――。

「ガイアは、わたし――」

 覚えている。覚えている。あの光の屑の中、水色の光がなんだかとても綺麗に見えて――まるでかあさまのようで、かあさま?

「ウラノスも……」

 かあさまみたいだから、集めた。指でひとつひとつ摘み取って、集めて、鏡を作った。八つの鏡。わたしは、八番目の、娘――。そうだ、同じだと言ったのは、誰だったっけ。私も同じなんだって。なのにどうしてわからないの、……って。あれは、あの勝気な声、は――。

 寂しくて、鏡じゃ殆どかあさまが映らなくて、辛くて、もっとおもちゃを作ろうと思って、歩いたの。そうしたら、宇宙の果てで、子供が……子供たちが、ぱらぱらと落ちてくるのが、見えた。ぱらぱらと、足をもがれた虫の死骸みたいに。そうして光の粒になってしまった。わたしは、それを、集めようとして――それを誰かと、見ていた。手を繋いで――違う、誰もいなかった。わたしが、彼と、見たのは、何もない――空洞が――。

「ウラ、ノス、が、わた、」

 胸がずきんずきんと激痛を訴える。ジゼルは蹲った。これ以上は考えちゃだめだと誰かが言っている。わたしの中の誰かが。期待しちゃだめなんだって。

「ジゼル? ジゼル!」

 ターシャが怒鳴る。ジゼルははっと顔を挙げた。

「大丈夫? 水……飲んで」

 ターシャに渡された椀を震える両手で包み込んで、水をぐいと飲み干す。冷たく味のない何かが、管を通って、去って行く。

「ウラノスに、反応したの?」

 ターシャが色の無い声で尋ねた。ジゼルはまだ虚ろな頭で頭を振った。

「違う……わからない……だって、今まで……【ウラノスの地図】って何度も聞いてきたし、自分でも何度も、口にしたの……こんなこと、今まで、なかった」

「【ウラノスの地図】?」

 ターシャが訝るように繰り返す。

「なんで、今更……誰かに何か言われたの?」

「皇太子様がわたし達に課した罪の償いは……ウラノスの地図を見つけてくること、なの……。それに、ヘルメスの杖も、そう言ったわ……声がもう、聞こえなくなるまで」

「ヘルメスの杖が喋ったの?」

 ターシャはどこか驚いたように言った。

「驚いた……私にはもう声が聞こえないのに、あなたには今もなお聞こえると言うの……? はは……なんだ……やっぱり、あなたは、あなただけ、特別なんだ……当然か」

 ターシャはくしゃりと前髪を掴む。そうして、ジゼルの体を支えるように立ち上がらせた。

「ウラノスの地図なんて、本当に見つけたいの? 後悔するかもしれないのに? それでも探したい? あなたは今でもウラノスのことを愛していると言えるの?」

「な、何の話……」

「ウラノスの全てを受け止められる? あなたが? 一度逃げてしまったあなたが? あの人を置いて行ったあなたが? だってあなたは……ウラノスが怖くて、逃げ出したでしょう」

「ちが……わから、ないよ」

 ジゼルは俯いた。涙がぽとぽとと零れ落ちる。どうしてこんなに胸が痛いのだろう。息がうまくできなくなるほどに、苦しくなるのだろう。

「違うの? あんなの、探したって……もしかしてあなた、それだけのためにまた生まれてきたの?」

「わからないよ!」

 ジゼルは叫んだ。両手で顔を覆う。

「わからないよ……覚えてないのに……何もわからないのに……わかるわけがない、よ……」

 ターシャはそっとジゼルの肩に置いていた手を放した。

「ごめん……そうだね。私も……少し、気が動転していた」

 ターシャは乾いた笑いを漏らす。

「ウラノスの地図、本当に探したい?」

 ジゼルは一瞬、身体が強張るのを感じた。けれど、ゆっくりと、頷く。

「そう……」

 ターシャは哀れなものを見るかのようにジゼルを見下ろして、哀しげに微笑んでいた。

「覚えてないのに、探すんだ……馬鹿な人だね……でも、そうだな、私だったら……やっぱりそうしてしまうのかも、しれないな。ねえ、ジゼル。いや、アルテミス」

 ターシャは聞きなれない名前でジゼルを呼んだ。

「私達八人は、みんな似たり寄ったりだったんだよ。みんな同じような傷を抱えていたんだ。だから出発点は同じだったはずなのに、なぜか、……今思えば、きっとウラノスだけが、救いようなんてなかった。だからあんなもの作ったんだ。そのせいでまだみんな苦しいんだ。だって、これ全部ウラノスのせいなんだもん! そう思わなきゃやってられないんだよ。でも、恨みたくも、ない……あなたが、あの地図のこと、知りたいなら、もう止めない。私だって本当の姿を知らない。あなたが、見てくればいい。探せばいい。そうして、ウラノスを……救って」

 ターシャはくるりと背を向けて歩き出す。

 ジゼルはただ、その場で凍りついたように身動きさえできずにいた。ターシャは振り返る。

「おいで。最後に、私の水瓶に会わせてあげる。もうあの子は私に話しかけてはくれないけれど、あなたになら、心を開くのかもね」

「最後……?」

 ジゼルが言い知れぬ不安に眉根を寄せると、ターシャは笑った。

「うん、最後。これが最後」

 ターシャの頬を、正方形の影と光の筋が撫でていく。

「この星の、終わりだよ、女神。こんなことなら……あなたがウラノスの地図を探すために生まれて来ただなんて知ってたら……早まったな。でも、もう遅い。私は私なりに決着をつける。私なりに、これが……私の、答え」

 ターシャは暗い、暗い声で呟いた。


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