Episodi 18 心と心

 眩しい日差しに眉根を寄せて、ぼんやりと目蓋を持ち上げる。目を擦ろうとして右腕を持ち上げると、ふと左半身に違和感を感じた。重たくて、温かい。

 顎を引くようにして頭をもたげると、檸檬のような淡い黄色が視界いっぱいに飛び込んできた。ふわり、またふわり、と持ち主が吐息を漏らす度に微かに揺れる。

 ヘロは石壁のように固まってしまった。どうしてこんなことになっているのかまるでわからない。寝台は広かったはずだ。ヘロは壁にぴったりと張りつく蜘蛛のような恰好で端っこで眠りについたし、ジゼルとは十分な距離を取っていたはずだった。ヘロは眠っている間そんなに動いたこともないから訳が分からなかった。どうして、今、ジゼルは俺の半身に乗っかる形ですやすやと寄り添うように眠っているんだろう。

 ぴりぴりと左腕に針刺すような痛みが広がる。違和感の正体はこの、痺れて感覚の無くなった左腕だったのだ。ヘロはぎょっとする。まるでにジゼルに腕枕をしてやったかのような体勢になっていた。目が冴えていく毎に、現状に頭を抱えたくなる。ジゼルの首の下からじんじんと痛む腕をそっと抜き取ろうとすると、ジゼルの眉間にぎゅっと皺が寄った。

「うー……」

 ジゼルが不機嫌そうな唸り声を漏らす。ヘロは声にならない乾いた笑いを零しながらそうっと腕を持ち上げる。けれどジゼルはますます眉根を寄せてぎゅっと口を引き結んだ。

「ちょ、」

 そうっと体を放そうとしたヘロの服をジゼルが掴んで引き寄せてしまう。ヘロの背中は再び寝台へ逆戻りだ。

 ――冗談だろ。これで寝ぼけてるって? あり得ないだろ!?

 何度も体を引き離そうと格闘したけれど、その度に元の木阿弥になってしまう。ヘロは深々と嘆息すると、今度はジゼルの耳に訴えることにした。

「ジゼルさん。起きて、ねえ」

「んー……」

「ジゼルさーん」

「……いや」

 ものすごく低い声で返された。

『ふむ。寝起きの悪い娘だの』

 メルディがふわふわと浮きながら近づいてくる。

「呑気な声出してないで手伝ってよ……」

 ヘロは空いている右の手の甲を額に当てた。

『ふむ。不埒だ』

 メルディは鈴が鳴るような声でそう言い切ると、またふわふわと部屋の隅へ離れて行ってしまう。

「ちょ、だから手伝ってくれよ……!?」

『ふむ。しかしそなた、おなごにそのように寄り添われて実は興奮しているのだろう? 実に遺憾だ……ヘロ、頑張れ』

「頑張れ。じゃねえよ!」

 ヘロは吠えた。ジゼルはますます眉間のしわを深く刻む。これでも起きないのだからさすがのヘロも腹が立ってくる。どういうことだ。

「大体興奮なんて別に……ていうか興奮って言い方がひどいな? どこで覚えたんだっつの……」

 どぎまぎしていないと言えば嘘になるし、それはもう、心臓はばくばくと鳴り響いて張り裂けるんじゃないかと言うほどで、ヘロ自身もまた焦る気持ちとどこか照れてしまうような気持ちが――ないとは言えないのだけれど。それはそれとして、いつまでもこれだと色々とまずいのだ。彼女持ちだからと言って女に慣れてるとでも思ったら大間違いだ。ジャクリーヌでさえか抱きしめたこともないし、そもそも手を繋いだことだってよく考えてみれば数えるほどにしかない。こんな至近距離にいられては、どぎまぎしない方がおかしい。だから今は必死で意識しないように自制を――メルディが興奮とか言うからなんか逆に意識してしま――いやいやいやいやいや!

 ヘロはふと自分の下半身に視線を落とし、慌てたようにばっと乱れていた掛布団で隠した。男に生まれてしまったからには、そしてある程度の年齢になってしまっているからには、こんなことは毎朝のよくあること――家族に言うにも気恥ずかしいようなちょっとした生理現象なのだ。それに対して今まで特に何の感動も持ったことはないし、初めての時は確かに恥ずかしかったけれど、最近はほぼ意識したことなんてなかったのだった。何もやましい訳じゃないのだから。それなのに、この状況下でも起こってしまった自分の一つの生理的な無意識の習慣とも言えるそれが、今はヘロを酷く苛んだ。顔が熱い。罪悪感と病熱でおかしくなってしまいそうだ。頭蓋の内側ががんがんと熱に響いてヘロをくらくらとさせる。早くここから逃げ出さないと――。メルディに手を伸ばしたけれど、メルディはさして興味もないと言った風体でくるくると気ままに回転して離れていく。ヘロの手は宙をさまよって、またぱたりと寝台の上に落ちる。ヘロは「はあーっ……」と声に出して溜息をついた。

「大体……なんでこんな風になったんだ……?」

 ヘロが擦れた声で呟くと、メルディは再びふわふわとヘロの頭上を舞った。

『ふむ。なかなかに面白かったぞ。昨夜はそなたも熟睡していたから気づかなかったのだろうが、勇者の癖にそれではいかがなものか』

「何で面白がってんだよ……先に教えてよ……」

 メルディは楽しそうにからからと笑う。

『いやな、その娘、実に寝相が悪いぞ。昨晩もごろんごろんと縦横無尽に寝台の上を転がっていた。そしてある時ついに床へと墜落してな。むくりと実に座った目つきで起き上がると、ジゼルはのそのそと寝台に這い上がった。そしてぺたぺたと何かを確認するように寝台の上を触ったあげく、そなたの胸に行き当たってな。恐らく枕と勘違いしたのだろうな。そのままそなたの胸の上にごつん、と頭を下ろした。そなた、呻いていたが? 覚えていないのか』

「全く記憶にないな……」

 ヘロは深く息を吐く。髪のレルピンを外しているせいで重たく目元にかかる前髪を、くしゃりと掻き上げた。

『ふむ。疲れていたのだろう。とにかくの、そうして苦しんだそなたは、寝ぼけながらにジゼルの頭を腕で引き寄せて実に自然に腕枕をしてやっていたぞ。ジゼルはジゼルで、枕ができたこととそなたが腕でがんじがらめにしていたせいで身動きはとれなかったようでな。何度か寝返りを打とうとして離れかけたがその度そなたがまるで犬の首紐を引くかのごとく引き寄せたのだ。後は見ての通りだよ。実に面白……いや、なんでもない』

「嘘だ……それはきっと俺じゃない……」

『往生際が悪いの』

「何それ……」

 横目でジゼルを見ると、眉間の皺などどこへやらすやすやと気持ちよさそうに寝息を立てている。

 ――睫毛短けぇ。

 ヘロは眉根を寄せる。ジャクリーヌのそれとはえらい違いだ。全体的に地味な顔立ちのジゼルの寝顔は、けれどよくよく見るとこぢんまりと整っていて可愛い……くないことも、ない。あ、やめろこれ以上擦り寄るな……胸が、あた、

「~~~~~~~~っ!」

『顔が真っ赤だぞ~』

「うるさい!」

 ヘロは手加減をしながらジゼルの頬をぺちぺちと叩き続けた。ジゼルは眉間に皺を寄せたがやがて睫毛が震えてうっすらと目蓋が持ち上がる。

「ジゼルさん起きて。あと俺から離れてくださいお願いします」

「んー……」

 ジゼルがうつぶせの状態から足をずりずりと腹へと引き寄せる。その状態でのそりと頭をもちあげた。前髪がぴんと跳ねている。とろんとした目で両腕をついて首をこてりと傾げている様子はなんだかとても可愛らし、く、見え――。

「―――――っ!!」

 ゆっくりと瞬きを繰り返すつぶらな瞳と目があった瞬間、ヘロは首筋まで顔を一気に真っ赤に染め上げた。ジゼルが眠たそうに手で目をのろのろと擦る。寝巻の口の広い袖が肩までずり下がり、ジゼルの肌が――柔らかそうで真っ白な腕が露わになった。自分の胸にもそれが触れていたのだと思い出すだけで顔から火が噴きそうだ。ヘロは弾かれたように飛び上がって、部屋の入口まで全力疾走した。身体にまとわりつく薄い暖簾を半ば叩くように振り払って、とにかくその場を離れて、蹲る。メルディがふわふわと後を追いかけてきた。小刻みに震えるヘロの肩を見下ろして、呆れたような声をかける。

『何を兎のように飛び出している……何もそこまで怖がることも無いだろうに』

「違、う」

 ヘロはひゅうひゅうと鳴る喉を押さえた。

「俺……最低、かも」

 ヘロは緊張しすぎたせいで上手く動かない顔の筋肉を無理やり動かしながら呟いた。

『何が最低だと言うんだ?』

 メルディは呆れたような声で言った。

『なんだ、そなた、あの娘を少し可愛いとか思っただろう』

「言わないでくれよ……そういうことは……」

 ヘロは深く息を吐いた。

『だから、さっさとジャクリーヌに別れを告げればよいと言ったのだ。柵が無い方が楽だろうに』

「ジャクリーヌは柵でも枷でもねえよ。俺の……その、」

 大事な人だ、と言いかけて、ヘロは口を噤んだ。

 大事な人だなんて心の表面では思いながら、自分のやっていることと言ったら、こんなことばかりだ。中途半端で、情けない。きちんと話をする勇気も出ない。こんなことでもなければ、ジャクリーヌのことを忘れている自分がいる。それは、とても彼女に対して不実だと思った。ヘロは鳥の巣だらけの頭を更にぐしゃぐしゃと掻いた。

「もう、あいつの近くでは寝ない」

『またそういう事を言う』

「なんだよ」

 ヘロはメルディを睨みつける。メルディはどこか悲しげな声で呟いた。

『そなたはジャクリーヌのことばかりなのだな』

「はあ? それの何がいけないんだよ? あいつが俺の恋人なんだから、あいつを一番大事にして何が悪いんだよ?」

『ならばなぜそなたはジャクリーヌの手を取らず、あれを置いてジゼルと共にこんな星まで来た』

「ああ~~~~っ、もうっ」

 ヘロはぐしゃぐしゃと頭を掻き毟る。

「またそれ!? いつまで言うつもりなんだよ! わかってるよ!」

『わかっていない。そなたはあの時の選択を間違ったとでも言うつもりか。今のそなたの心持ちでは守りたいものを何も守れまい。そなたはジゼルと共にあることの意味を……それがどれだけ危険をはらんでいるのかも何もわかっていない』

 メルディは尖った声で言い放つ。

『そなたのジャクリーヌが、ジゼルに何を渡したか知らないのだろう?』

「なんだよ」

 ヘロはむすっとして言った。大体、女同士の話に首を突っ込むだなんて野暮だ。だから何も聞かなかっただけなのに。

『あれはジゼルに、避妊薬を渡したのだぞ』

 メルディの声が無機質に響く。

「……は?」

 ヘロは思わず喉をごくりと鳴らしていた。血の気がさっと引いた。メルディは尚も淡々とした声で続ける。

『そして、それをそなたには言わなかった。あの娘にだけそれを言った。口では、ジゼルを労わるようなことを言っていたが。けれど確かにジャクリーヌはジゼルに釘を刺したのだ。【に手を出さないでね】と。あれはそういう事だ。ジャクリーヌがそなたの性格を知らないはずがないだろう? そなたは決してあの娘を裏切らないだろう。そなたの中にあの娘以外の女はありえない。それがわかっていて、あの娘はジゼルにそれを渡したのだ。牽制したのだ』

 ヘロは何も言えなかった。ジャクリーヌのことは悪く思いたくはない。例え、メルディの言葉に棘があったとしても、メルディが彼女のことをよく思わないのだとしても、それでもヘロはジャクリーヌを悪く思いたくはないのだった。そういうのは嫌いだ。誰かを悪く思うのは嫌いだった。大好きな人を厭わなければならないのは大嫌いだ。

「そんなこと……しなくても、別にジゼルだって、わかってるだろ……」

『無論』

 メルディは吐き捨てた。

『我はあの娘のことは嫌いではなかったが、今では気に食わない。我はジャクリーヌのそれを、美徳だとは思わない。あれはジゼルに浅ましい牽制をした……人ならば仕方のない業であろう。嫉妬もするだろう。愛する男が別の女と二人きりの旅路につくならば、不安で仕方なかろう。だがあの娘はこうも言ったぞ。【私はヘロと別れるつもり】だとな。あの娘は、そなたが言いだす前にそなたに言うつもりだったのだよ。【待つのは耐えられない、不安と嫉妬で苦しみ続けるよりは、さっぱり別れて見送りたい】とな。そなたは恐らくそれを美徳だと捉えるであろうな。誰もがそう捉えるであろうな。しかし実に小狡い女の性よ。そう言えばそなたの中で彼女は永遠になる。そなたはジャクリーヌを永遠に忘れることはできないだろう。別れたくなかったのに、旅のせいで、勇者に選ばれてしまったせいで、魔道士がジゼルなんかだったせいで、自分はジャクリーヌと別れなければいけなかったと、恨みにも似た気持ちはやがて少しずつ大きくなるよ。さすればそなたがジゼルを愛することなど永遠にあり得ぬ。そなたがどれほどに潔癖か、我は理解しているつもりだ。ジャクリーヌにどれほど依存していたかもな。だがヘロ。お前のそれはお前のためになるかはわからない』

「あなたが……ジャクリーヌを嫌いになったと言うことは十分わかったよ」

 ヘロはメルディを睨みつけ、震える声で言った。メルディを責めるつもりはない。けれど、悪態をついてしまった。ヘロは混乱していた。震える右手で前髪をくしゃりと握りしめる。親指が額の傷跡に触れた。普通の肌と違う感触。それをヘロは無意識に撫でた。心がついて行かない。――裏切られた? 違う、そんなことない。結局は裏切ったのは俺だ。ジャクリーヌは何も悪くない。何も、悪く――別れるつもりだった? どうして? 俺だけが勇者になったから? なのにあの日食事をしていった? どうして? なぜ? 笑っていたのに? 何がいけなかったんだ?

 ――赤い、靴。

 ヘロははっと顔をあげた。あれは、あの色は、あの靴は、そういうことだったのだろうか。嫌な色を履いてきたのは――。あの場所にいることだけじゃなくて、嫌だったのだろうか。もう、自分といることさえ。

 メルディはどこか哀れむように間をおいて、再び静かに声を零した。

 『否。我は女神の味方というだけだ。これは本能だ。そなたが両親に失望しながらもなおあの二人に縛られているように、我もまた女神に縛られている。ヘロ、そなたがジゼルを愛する理由などない。またそうする必要もない。だが、そなたはジゼルの手を取った。ジャクリーヌではなくジゼルの手を取ったのだ。そしてあの子にはそなた以外、誰も真の味方はいないのだよ。そのことを深く肝に銘じておけ。そなたが優先すべきはジャクリーヌではない』

「それは……あなたの考えだ」

 ヘロはがんがんと響くように痛む頭を押さえながら呟いた。

「俺が優先すべきは俺自身だ。俺は俺のために生きてるんだ。ジゼルの手を取ったのだって、我が身かわいさだった。俺は狡い人間だよ。だから、あなたの言う通りにはできない。だけど……あなたの考えも、受け止めるよ。考えるから……時間が、欲しい」

 ヘロは立ち上がった。すこしだけ、ふらりと上体が揺れた。

「ジゼル……起きたかな。部屋に戻るよ、メルディ」

 ぽつりと零れたヘロの声はどこか空虚で、そして優しかった。メルディはヘロの背中を追いかけた。

『ヘロ、ヘロ』

「なんだよ」

 メルディはどこか悲しげな声で呟く。

『ヘロ。我はただ、そなたに辛い思いを――これ以上辛い思いをさせたくないのだ』

「うん」

『だから、わかってほしかったのだ』

「うん、わかってるよ。怒ってないよ。あなただって怒ってないでしょう?」

『うむ』

 メルディはふわふわと舞った。

『そなたがの、あまりにも――ウラノスに似ているから、不安なのだ。そなたの心があまりにも似通っているから。あまりにも……そなたは生きるには繊細すぎる』

 ヘロの背中が暖簾をくぐって中へと消える。一呼吸おいて起きろー!と言う声と、ジゼルの小さな悲鳴が聞こえた。メルディには、その声が彼に届かないことはわかっていた。

『そなたには……ウラノスのようになってほしくないのだ』

 メルディの声はぽつりと零れて、朝露のように消えた。



     *



 ジゼルに昨晩の話をする。ゴーシェが円錐の玻璃に罅を入れていたというところまで話終わると、ジゼルはまだ少し眠いのか、目を擦りながら不思議そうに首を傾げた。

「それの……どこがいけないの?」

「ああ……ジゼルは魔道士枠だったからあまり習ってないのかな……。シクルの数が王室に管理されていることは知っているだろ? 俺達はみんな、子供の頃にそれに触れ、巡礼者が選ばれ次第それを手放す。手放されたシクルはまた次の世代の子供たちに引き継がれる。そうしてシクルは循環してる。だから、王室は玻璃の扱いに細かい規定を設けているんだ。シクルは、詳しくは知らないけど、ある一定の厚みと密度、半径を満たした玻璃鍛冶による精巧な作品なんだ。逆に言えば、一般人はある一定の密度と厚み、半径を満たした玻璃の加工品を作ってはいけないことになっている。シクルを増やさないためだ。掟で決まっているんだ。もしもその掟を破れば、重罰が与えられる……ぶっちゃけて言うと、一家殲滅」

『酷い話だの』

 メルディが嘆息する。ヘロは頷いた。

「そして、一つの星が扱える玻璃の体積と密度は予め規定されているんだ。それを超えて玻璃鍛冶を行うことはできない。玻璃は全て王室によって管理されてる。今のところ、天然の玻璃は惑星サタンとヘルメスにしかないと言われているんだけど……」

「待って。天然って言ったわね? 天然じゃない玻璃もあると言うこと?」

「……人工的に玻璃を錬成しようとした歴史は昔からあるんだ。玻璃ってさ、いわば女神の時代の、女神による財産の一つなんだよ。それに頼り切りってことは、それだけ女神に縛られてると言う解釈にもなるだろ? だから、天然の玻璃に代わる物質を見出そうとする動きがあったそうなんだけど……うまくはいかなかったらしい」

「そう……」

 ジゼルはこめかみを指で強く抑えながら視線を泳がせた。ヘロはジゼルの顔を覗き込む。

「どうした?」

「ううん、なんだか頭が痛いだけ……」

 女神の話は――まだ酷だったのかもしれない。ヘロはジゼルの頭をぽんぽんと撫でた。

「話、辛かったら言えよ?」

「うん……」

 ジゼルは俯いて視線を伏せる。

「つまり、昨晩街中で見られたその円錐形の玻璃は、明らかに掟破りだということを言いたいのね?」

『ふむ。そしてそなたらは覚えているか。あのゴーシェが言ったことを……ヘロがあの夜咲百合について尋ねた時、あの少年は【夜に咲く、星明りを弾く花だ】と言った。しかしあれではあの花はどうやら、星明りよりも玻璃の発光を誤魔化すためにあるのではないかと我は思うぞ』

「虫が鳴くってのも嘘だしね」

 ヘロは嘆息する。

『否、夜鳴虫は実在するよ。ただしこのような砂漠では生きていないだろうな。あれは主に惑星アフロディテで見られる虫なのだから』

「はあ? なんで知ってたなら言わないのさ」

『……我とて、【ふうん、そっかー、砂漠にも夜鳴虫がいるのかー】なんて信じてしまう純粋さくらいは持ち合わせているのだぞ!』

「要は騙されたんだろ」

 ヘロとメルディの睨み合いを見つめながら、ジゼルは額に掌を当てて何事かを考えていた。

「あの、ね……確認なんだけど」

「何?」

「その……わたし達が、そのことを詮索する必要って、あるのかな……」

「はあ?」

 ヘロは眉根を寄せる。

「なんで……だって、なんかこの星危ないことをしてるかもしれねえじゃんか」

「うん……それは、わかるよ」

 ジゼルは視線を泳がせた。

「ヘロがね、なんとなく、焦っているのも……わかるよ……だって、どうしたらいいか、本当にわからないよ、ね……ごめんね……わたしなんかを逃がしてくれようだなんてしてくれたせいで、ヘロも追われる人になっちゃったの。わたし達、これからは手探りで進まなきゃいけない」

「な――だからなんで謝るんだよ! そういうのやめろって言ってるだろ! そういう……自虐とか……やめてくれよ……」

 ヘロは俯いてぎゅっと自分と前髪を握りしめた。ジゼルは困ったように笑っただけだった。

「でもね、ヘロ。わたし達は勇者と魔道士だけど、パーカトゲームみたいに世界を救うための勇者と魔道士じゃないんだよ。ヘロが言っていたでしょう。わたし達は世界を救うためにあるんじゃなくて、罪を償うために星を巡る罪人なんだって。そしてわたし達の仕事は……【ウラノスの地図】を探すことだよ。もしもこの星が危ないことをしていたとして、わたし達にはどうすることもできないかもしれない。それでも、足を踏み込める?」

「な――」

 ヘロは眉間に皺を寄せる。ジゼルは困ったように眉尻を下げていた。けれど、眼差しは凛としてヘロの瞳を見つめている。ヘロは戸惑っていた。こんなに、ふわふわと地に足がついてなさそうなジゼルが、そんな現実的な話をしたことに虚をつかれていた。ヘロは逡巡する。

「【ウラノスの地図】のありかなんて何も見当がついてないじゃんか」

 声が動揺で微かに震えた。

「うん。だからね、わたし……ターシャに話を聞いてみようと思うの。マルスの水瓶と、話ができるなら――してみたい。神器同士ならきっと何か知っているかもしれないから。それからわたしは考えるつもりだったの」

「それで、もし水瓶が『関わるな』って言ったら放っておくってわけ?」

「それは、その時考える……」

 ヘロは些か混乱した。ジゼルが肩をすくめる。

「つまり、何? あんたは俺の言う事に賛成はしてくれるってこと?」

「うーん……」

 ジゼルは困ったようにはにかんだ。

「わたしじゃ、止められないかなって」

 なんだか、目の前の靄がすうっと晴れていくような心地がしていた。どうして、そんな気持ちになったのかはわからない。けれど、初めてだった。ヘロを否定するわけでも、拒絶するわけでもなく、苦言を呈するわけでもなく、ただ緩やかに自分の言葉を零すだけでヘロを諭してしまうような人は、初めてだった。

 ヘロは無意識に自分の服の胸元を握りしめていた。心臓が、ぴり、と微かな痛みを覚えたのだった。ジゼルの笑顔は、ジャクリーヌのそれとはどこか違って華やかではないのに、ヘロの心にすうっと滲んでくるのだ。

「目的はね、見失わないでほしいかな、って……」

「うーん」

 ヘロは唸った。眉間をぐりぐりと押さえて考える。今はぼうっとしている場合じゃない。頭を……いい加減、働かせないと。

「俺……」

 ヘロは呟いた。漠然と抱えていた不安に似た何かを、今なら、言える気がした。ジゼルなら聞いてくれるのではないかとふと思っていた。

「どうしたの?」

 ジゼルは小首をかしげる。ヘロは顔をあげてまっすぐにジゼルを見つめた。

「俺、本当は……なんでウラノスの地図を探さないといけないのかわからないんだ」

 ヘロの言葉を、ジゼルは静かに聞いていた。ヘロは俯いてへら、と笑った。

「王宮の言い分は分かる。 ……だけど、なんでジゼルがそれを探さないといけないのかわからない。ジゼルはここに居るんだぜ。いくら巡礼者に選ばれたからって、そのペルフィアペンダントを持っていたからって、そんな……わざわざ隠された神器なんか見つける必要あるのかなって。だって、ジゼルはヘルメスの杖にそう言われたから探そうと思ったんだろ? でも、ジゼルは……」

 ――女神は、その神器のせいで、皆から恨まれてるんだぜ。

 そう言おうとして、言えなかった。

 ――『我々が許すとすればそれはただ一人、ウラノスだけだ』

 メルディの言葉が蘇る。胸に浮かんだよくわからない感情に、ヘロは戸惑っていた。英雄は女神を歴史から抹消しようとした。だから女神の玻璃達は彼らを恨んでいると言ったのに、ウラノスだけは許せると言う。ウラノスの地図に対して漠然とした不安を抱えてしまう理由が、自分でもわからなかった。けれどヘロはどうしても――ジゼルがこれ以上女神に近づくのは本当にいいことなんだろうかと悩まずにはいられなかったのだ。それが何故かは、本当にわからないのだけど。

「うん……」

 ジゼルは苦笑する。

「あのね、変かもしれないけど……ウラノスの地図がわたしを待っててくれてるのかなって思ったの。神器が言葉を話してくれるから、まるで同じ人みたいで……わたし、あまりそんな風にお願い事をされることがなかったから、なんとなく嬉しかったの。だから、探してみたいって思ったの」

 ふわりと笑う。

 ヘロはその笑顔を不思議な心地で見つめていた。ジゼルは、随分と柔らかく自然に笑うようになった。どうしてだろう。昨日までは、ヘロの印象に残るジゼルと大した違いはなかったのだ。

「なんだか……」

 ヘロは呟きかけて、やめた。ターシャが暖簾を手で掬って、ご飯だよ、と顔を覗かせる。ジゼルは笑ってふわりと立ち上がった。ヘロはその後ろ姿をじっと見つめていた。

『どうした? ヘロ』

「うん……」

 ヘロは眉根を寄せた。

「なんか……ジゼルって、あんな風に綺麗な人だったっけ?」

『お、なんだ、惚れたか?』

「だから……またすぐそういう方向に話を持っていく……。ちげえよ。なんか、上手く言えないんだけど。なんだか、俺の見間違いなのかな」

 ジゼルはふわふわと漂うように歩いて行く。現実感のないその姿に、どうしようもない焦りを感じた。ヘロは戸惑っていた。どうして、そんな気分になるんだろう。だって、あれじゃ、まるで――。

『ふむ』

 メルディはどこか考えるように頷いた。その声で、ヘロは現実に引き戻される。

『そなたはよくジゼルを見ているな』

「え?」

 メルディはそのままふわふわと漂ってジゼルの後を追いかける。

 ヘロは頭を振って、立ち上がった。



     *



 床に敷き詰められた皿の数に、ヘロは閉口していた。昨晩の食事もえらく量が多いと思ったが、今朝もまた、朝っぱらだと言うのに大量の食事が並べられている。ヘロは床の上に胡坐をかいて座ると、ごくりと喉を鳴らした。隣をちらりと見ると、ジゼルも口をきゅっと引き結んで皿を凝視していた。顔が青ざめている。

「なあ……」

 ヘロは呟いた。ゴーシェが視線を寄越す。

「皿の数、多くない?」

「そうか?」

 ゴーシェは目を瞬かせる。

「これくらい普通だと思っていたんだが……」

「いや、朝ってこんなに食べないと言うか、食べられないと言うか……」

「えっ、そうなの?」

 ターシャはさらに三つの皿を持った状態で立ち尽くした。ヘロはぎょっとする。さらに増やすのか!

「へえ……よその星の人は小食なんだねえ……でもほら、この星では基本的に朝と晩しか家族と一緒に食事なんてできないでしょう? だから朝と夜はしっかりゆっくり食べるんだよ」

「なあ……まさかとは思うけど、昼食は?」

「え?」

 ヘロの言葉にターシャは目をぱちくりさせた。

「昼って食べなくない? ていうか、食べてる暇ないでしょう?」

「そうきたかー」

 ヘロは苦笑した。ゴーシェとターシャはまたも左右対称に首を傾げている。

「まあいいや。頂きます」

 ヘロは手を合わせた。ジゼルも合わせる。ゴーシェとターシャはしばらくぶつぶつとお祈りをしていた。この星では、食事の前に祈りの言葉を呟くのだと言っていた。今日も恵みをありがとうございます、と、摘んだ命に感謝と懺悔をするのだ。

 ――食べ物が簡単に手に入る土地と、そうでない土地の違いなんだろうなあ。

 ヘロは二人を静かに眺めていた。やがてお祈りが終わってゴーシェも手づかみで食事を始めた頃、ヘロは声をかける。

「なあ、さっき昼間は家族で食事できないって言ってたけどさ、昼って何やってんの」

 ゴーシェは目線だけちらりとあげた。

「色々だ。女は家のことをしてくれるし、男は外だ。そう言えば分かるだろ」

「ああ、砂漠ね。何? 水でも調達しに行くの?」

「まあ、そんなところだ」

「他は?」

「は?」

 ヘロはにっこりと笑った。

「いや、水汲みだけで終わるはずないだろ? 昨日いて感じたけど、この星って昼がすっげえ長いじゃん。他は何してんのかなって思ってさ」

 ジゼルがちらりとヘロを見る。

「まあ……色々」

 ゴーシェは小さく嘆息した。

「そんなことを言うなら、ついて来るか? 口で説明するのは面倒だ。へばるなよ」

「いいの? じゃあ行く」

 ヘロは笑った。そうしてターシャにもにっこりと笑いかける。

 ターシャはヘロをじっと見つめていた。感情の無い瞳で。

 彼女がゴーシェを睨んでいたのを、ヘロは見逃さなかった。ゴーシェが、小さく分からないようにこくりとターシャに向かって頷いて見せたことも。

 ジゼルは黙って三人の顔を目だけで見比べていた。


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