Episodi 17 罅と夜
白い壁にぴたりと寄せて置かれた一つの寝台を背にして、ヘロとジゼルは床に敷かれた絨毯に座り続けていた。
りんりん、と鈴の鳴るような音が聞こえる。それは夜の虫が鳴いているんだよ、とターシャは言っていた。虫が鳴くだなんて初めて知ったけれど、今はそんな驚きと好奇心に身をゆだねる余裕も、虫たちの愛らしい音色に耳を傾け聴き入る余裕なんかも、残念ながら二人共にありはしないのだった。
「なあ……寝ていいよ」
ヘロが何度目になるかわからない同じ言葉を呟く。
「ヘロこそ……疲れてるでしょう?」
ジゼルの返答も先刻から寸分違わない。詰まる所、ヘロとジゼルは小一時間ほど、似たような押し問答を繰り返していた。
「いや、俺は別にそこまでないし。ていうかあんたが寝たら多分俺も寝れる……」
「嘘だよ……絶対わたしだけ寝台で寝かしたまま床で眠るつもりでしょう? 体が痛くなっちゃうよ……だめだよ」
「いや、だからさ、こう、これって完全に俺の事情なんだけどさ、あんたが起きてたら確実に俺は眠れないわけ。だからジゼルが寝てることは俺の安眠にとって必要条件なわけ」
「どうして? わ、わたしはヘロが起きてたら気になって眠れないよ……」
「なんで」
「だ、だって申し訳なくて……」
「だからさっきから言ってるじゃん。俺はジゼルが寝ないと寝れないの。じゃあ諦めてジゼルが寝ればいいだろ。大丈夫大丈夫、寝台に横たわったら最後、すぐ眠くなるからさ」
「うう……」
『そなたたちは本当に往生際が悪い。別に何事が起こるわけでもなし、さっさと思い思いに寝ればよいのだ』
シクルが嘆息する。
「そ、そうだ! シクルさんの名前を考えよう? とりあえずこの問題は横に畳んで置いておこう?」
ジゼルがおずおずと手を合わせてヘロをじっと見つめる。
「あー……別に俺、特に思いつかないし何でもいいよ……ジゼルが決めといて」
『実に遺憾だ! 大事な我の名前を邪険に扱うな! これだからヘロは駄目なのだ! 乙女心が実にわからん奴だ!』
「え……あなた乙女なの」
ヘロは訝るように眉根を寄せる。
『言葉の綾だ!』
「あのね、イルダと話して思ったんだけど……ヘロのシクルさんの声ってイルダよりもずっと高いよね。シクルにも声の違いってあるんだなあって。どちらかというと女の子のような声だなあって……」
ジゼルがおずおずと口を挟む。
『ふむ。確かにそれぞれに音色があるのだ。我らはすべて同じ素材で出来てはいるが、この形に削り取ったのは一つ一つ手作業、人の手によるのだ。すなわちそれぞれ微妙な匙加減による差異が生じる。故に我らは等しく同じ格は有さない』
シクルはどこか誇らしげに言う。
「そうだ、ずっと気になってたんだけどさ……なんでシクルってみんな五角形なんだ? 結局さ、五角形の板のことをシクルって言ってるだろ? それ以外の形はシクルとは呼ばないのは、なんでなんだ?」
ヘロは足を組み替えて姿勢を正すと、そう尋ねた。
『ヘロ……そなた、それを今更聞くか。十年以上共にあって、今聞くか』
「いや……だからさ、アポ……じゃなかった、ゲルダから色々話を聞いて、ゴーシェからも話を聞いて、ふと思ったんだよ。ほら、ゲルダが言ってたじゃんか。五芒星の角を取り払った中心が五角形――シクルの形だって。それにどんな意味があるのかなって。わからないことばかりでさ」
ヘロは両手の親指と中指の指先を合わせて五角形を作る。
『ふむ』
シクルは逡巡するように押し黙る。
『いかにもな、シクルは五芒星から来ているよ。元は女神の作った物質だったからの。玻璃はそもそもがとても微細な五角形の分子が最小単位となって連なって構築されているのだ。蜂の巣のようにな――と言っても、もはやこの世界に蜂がそもそもいないのだった』
シクルは暗い色を声に滲ませた。
「はち……?」
ヘロは首を傾げる。
『かつて、女神がいた御代にはな、蜂と言う虫がいたのだ。花から花へと飛び移り、花粉を身に纏って、その繁栄を手助けする。花の蜜を集めて巣に蓄える、実に頭の良い虫がな。そやつらは、六角形を繋げたような不思議な形の巣を作って暮らしていた。けれど、女神の消滅後、人の手で絶滅させられたのだ。何故人がそのようなことをせねばならなかったか……いい加減、そなたにもわかろう。ゲルダも言っていた通りなのだからな』
「六角形、か」
ヘロは呟く。ジゼルが目を伏せた。
「六という数字が、忌み嫌われると言うこと?」
ジゼルは胸元の
――どうして、そんな風に、まるで大人みたいな顔をするんだろう。
どきりとした。胸の奥が無性にざわついた。空恐ろしいような、不安。
『否。六角形が疎まれるのだ。この世界には、かつて存在し、今は抹消されたとある数がある。そのために数の数え方は大きく様変わりした。図形の描き方も、事象の捉え方も、全てが変わってしまった。世界の在り様がずれてしまったのだよ。そして人類は、抹消したその数字の存在をなかったことにするためだけに、在るべき数より一つ多いものを忌避するようになったのだ』
ジゼルは小さく息を吐く。
「そういう……ことなのね」
どこか寂しげな、とても小さな声で、そう呟いた。
「ジゼル……?」
ヘロはジゼルの顔を覗き込む。ジゼルは床を見つめたまま、笑っていた。どこか諦めたように。そうしてジゼルは顔をあげると、小首をかしげるように傾けて、ヘロに笑った。
「ねえ、ヘロ。わたしね、ばぁばが……英雄アポロだったって知ってるわ。隠さなくて……大丈夫」
ヘロは目を見開く。
「あなたは……何を、アポロから聞いたのかな。ねえ、ヘロ。ずっと聞きたかったの。どうして、あなたは……わたしの手を引いてくれたの? ねえ、あなたなら、気づいてしまうはずだわ。だって、わたしは神器の声を聞けたし、こんなもの……こんな六芒星を抱えている。だったらわたしは、この世界に居てはいけない存在で――」
「俺は、何も知らない」
ヘロは硬い声でそう言った。
「何も知らない。何も思わない。俺のね、癖だよ。小さい頃から、俺達は皆、言われてきただろ。余計なことは考えるなって。それは罪になってしまうって。だから俺にはそんな、色々考えて答えを出せるほどの思考力も理解力もないんだよ。だからジゼルが何を言ってるか、俺にはわからない。わからなくていい。いいんだ」
「それは……」
ジゼルは目に涙を浮かべていた。
「何もわかりたくもない、ってこと?」
「わからないのとわかりたくないことは違う。わかることとわかりたいことも違うよ。ジゼル、俺、ジゼルの手をとったこと何も後悔してないし、これからもその予定はないよ。俺が決めたことだから。俺、自分の気持ちにはちゃんと責任を持つよ。例え世界に後ろ指差されてもさ、あんたが【魔道士】に選ばれたその日から俺も同じように【勇者】だった。だったら俺達は同じものだよ。俺はあんたが何者でも、あんたと道を違えないって今ここで誓うよ。もしも誓いを破ったらその時は、俺の頬を叩いて目を覚まさせて。俺ね、親からはずっと、魔道士を守れる立派な勇者になるようにって何度も何度も言い聞かせられてきたんだ。俺もそんな勇者になりたいんだ。そうしたら、俺は【勇者】を目指した俺自身を好きになれる気がする」
ヘロはくしゃりと顔を歪めた。ジゼルは俯いて目を閉じた。涙が睫毛を伝ってぽろぽろと零れる。絨毯に濡れた染みを広げる。
「あなたは……勇者になんか、なりたくなかったのね」
「な、」
ヘロは一瞬言葉に詰まった。
「違う」
「ううん、きっとあなたは他の子たちのように、勇者になりたかったわけじゃないわ。わたし、なんとなく知ってたの。あなたはいつでも真面目だった。誰よりも努力してた。けれど全然楽しそうじゃなかった。一つ一つできることが増えていく度、他の子たちはみんな喜んだのに、あなたはまるで一つ一つ荷物を下ろして楽になったみたいな顔をしてた。いつも疲れているみたいに見えた。だからきっと、あなたは勇者に本当になりたいわけじゃないんだろうなって思ってたの。それなのにどうして、あんなに努力できるのか、不思議だった……でも、こんな、わたしなんかの勇者にさせられて……ごめんなさい……わたしがいなければ、あなたは別の誰かの……もっと守る価値のある人の勇者になれた」
「それ以上言うと怒るからな」
ヘロは思い切り顔をしかめて、ジゼルの頬を引っ張った。
「いひゃいよ……」
「そこまで痛くもしてねえよ。ったく……さっきから聞いてりゃなんでそんなに自分を卑下すんだよ。こんな自分の勇者に選ばれて可哀相、だなんてそんなこと思うくらいなら、そんな風に思われなきゃいけない今の俺の立場の方がずっと可哀相だって気づけっての。ていうかそもそも俺は可哀相でもなんでもないからな?」
「だって……」
「だっては禁止!」
ヘロが語気を荒くすると、ジゼルはまたぽろぽろと涙を流した。
「ヘロ……ばぁばがくれた財布の中のお金、数えてくれない?」
「は? 急になんだよ」
「いいから……お願い」
ヘロは眉をひそめながら、荷物の中から焦げ茶の布袋を取り出した。中に入った金貨や銀貨、銅貨を一つ一つ数える。
「|一ユーベルス六ルテ二ルーヘル一ユテア五ユーベラ《十六万二千百五十》。半端だな……」
「貸して。今度は、わたしが数える番」
ジゼルは目尻を拭って手を伸ばした。ヘロは首を傾げる。
ジゼルはしばらく黙って貨幣を数え続けていた。
そうして最後の一枚を床に置き終えると、渇いた笑い声にも似た溜息を漏らした。
「
「なんだって?」
聞きなれない言葉が幾つも聞こえて、ヘロは顔をしかめた。
「あはは……ばぁばったら酷い……本当にわたし達が使う前にこうして数えるかどうかもわからないのに、こんなところまで小細工してたのね……酷いよ……こんなのってない……」
ジゼルはぼろぼろと涙を零しながらヘロを見つめた。口を歪ませて、肩を震わせて。
「九、よ。シクルさんだって言ったでしょう? きっと、これがなくなってしまった数字だよ。ばぁばがね、わたしは小さい頃から九を入れて数を数えてしまっていたから、絶対に他人の前でその数を言ってもいけないし、書いてもいけない、って強くわたしに言い聞かせた。だからわたしは数学の試験もいつだってうまく計算ができなかった。九を書かなきゃいけない計算では空欄にしたし、きちんと計算してもいつだってひとつも答えは合わなかった。みんなと同じように線を引こうとしても、円を描こうとしても、いつだってうまく描けなかった。数字の計算がうまくできないのに、それを組み立てて陣を描くなんてできるはずないじゃない……だからわたしは思うように絵を描いて魔法を使いたかった。だけどばぁばは絶対にだめだっていうから、わたしは皆の前では何もできないふりをしたの。本当はそれくらいできるのにって。もっとすごいことできるのにって。わたし、本当は優越感を持っていたの。だからどんなに馬鹿だって言われてもちっとも辛くなかった。やりすごせた。だけど、こんなのってないよ。だって、ヘロには分からないんでしょう? 九って数字が分からないんでしょう? ねえ、わからない? もう、これだけでも、わたしはあなたとは違うの! あなた達とは違うんだよ!」
きゅう、という言葉が、ヘロの頭の中では意味をなさない音として響く。聞きなれない違和感と、理解できない気持ち悪さが、胃をむかむかとさせた。けれど、ヘロはジゼルが顔を両手で覆い隠そうとするのを遮るように、その手首を掴んだ。ジゼルはいやいやと駄々をこねるように首を振る。
「シクル、きゅうってなんだよ」
思いの外、低く無機質な声が自分の喉から震えて零れたことを頭の隅で理解しながら、ヘロはシクルを見つめた。
『失われた数字だよ。その昔、この八つ星は自らの数に女神の星を頭数として足した九つの数字を用いていた。一、二、三、四、五、六、七、八、九、そして位が上がって十、だ。時計の針は今のように一から十三ではなく、十二までだったのだよ。けれど女神の存在を消した世界は、九番目の数字を――八より一つだけ多い数を消すことに躍起になった。そうしてそなたたちの魔法は全てつくられた。九つの数字を用いて象られた魔術は全て、闇に葬り去られた。禁忌として。それをこの娘が知っていると言うことは、この娘の素体が葬り去られた歴史の中に存在することの証明に他ならない。身に染みて、知っているのだからな。そなたも不思議だったのではないか? 巡礼者が選ばれるのは七十一年毎だった。しかしな、これは葬り去られた九つの数で数えれば、六十四年となるのだよ。八を二つ掛けた数は、かつての世界では六十四だったのだから。七十一とはそれを置き換えた数に過ぎない』
「馬鹿じゃねえの」
ヘロは低い声で言い捨てる。
「それのどこが俺と違う証明になるっての? 馬鹿じゃねえの。大体、女神がいた時代を知ってるんならターシャだって英雄の生まれ変わりなんだから知ってるだろ。アポロだって覚えてるんだろ、だからこんな陰湿な数だけ金を用意したんだろ。もっと堂々と胸張ってろよ! 別にそれくらいであんたが……ジゼルが女神だって証拠にはなんねえんだよ! 誰も証明はできねえんだよ! 大体、それくらいで怯むくらいなら最初からあんたを連れて逃げてねえよ! 何回言えば分るんだよ! 卑屈になってんじゃねえよ!」
ヘロは叫んだ。
ジゼルははらはらと涙を零しながらヘロを見上げる。その顔は寄る辺の無い幼子の様で、なんて馬鹿な子なんだろうとヘロは思った。どうしてこいつは、こんなにも人を信用できないんだろう。
「大体な、もし自分が禁忌の存在で、世界に存在しちゃいけないって、消されちゃうかもしれないってわかってんなら、なんでこんなあっさり俺に言っちゃうんだよ。そんくらい思いつめるならもうちょっと黙っとく努力しろよ。俺がもしあんたをあっさり裏切るような人間だったらどうするつもりなんだよ?」
ため息交じりにそう言うと、ジゼルは鼻をぐすっと鳴らした。
『こやつは無計画にそなたを連れてアポロの星から逃げ出したが、それはこやつにとっては、あの場合には他に手がなかったからだよ、ジゼル』
シクルが優しい声で囁いて、ジゼルの掌にぽとりと落ちた。
『王室は、ヘロとそなたの役目はいまだ行方知れずな【ウラノスの地図】を探し出すことだとし、そなたらが言うことを聞かぬようであれば、あるいは役立たずであれば、殺すと脅したのだ。巡礼者は最も女神に近しい罪人であると。だからこそ王室に課された使命を全うすることでその罪を雪ぎ落とせとな。ヘロはそれに憤ってな、そなたを連れて逃げることを選んだのだよ。無論、こうなってしまっては捕まり次第処刑されてしまうだろうがな。最悪、殺されるのだろう。その点においてはヘロの行動は短慮には違いないがな』
「わかってるよ」
ヘロはむすっとした。
「俺はただ……そこまでして女神にまつわるものを罪だのなんだのって、大した理由も教えずに排除しようとするのが嫌なだけだよ」
『ふむ。そういう点ではそなたは随分な異端児に相違ない』
シクルはくつくつと笑った。
ジゼルは手の甲で目をごしごしと擦った。
「わたし……ヘルメスの杖に言われたの。ウラノスの地図がわたしを待っているんだって。だからね、こんな形で逃げなくてもよかったんだよ……わたしの役目はきっと、それを見つけることなんだから。そのためにわたしはきっと生まれてきたんだから。それは王室の要求に
「だから、何でそう思考が卑屈かなあ」
ヘロは眉間に皺を寄せた。
「なら、旅の目的は、ウラノスの地図を見つけることで何も問題はないじゃんか。俺は、結果はどうであれ、馬鹿の一つ覚えみたいに女神を悪だのなんだの罵って肝心なことは何でも隠し事ばかりなやつらの言いなりにはなりたくないだけだよ。あんなやつらの言うことを信じるくらいなら、こんな風に自分を卑下して泣いてばっかりなあんたについて行く方がずっと信用できるや。あの皇太子は、ジゼルが女神に誰よりも近しいということは察しているみたいだった。そんな【最悪の罪人】を利用してでもウラノスの地図を見つけたくて仕方ないんだろ? だったらそれだけの何かがウラノスの地図には隠されてんだよ。見つけようぜ。俺はあんたを守るだけだ」
ヘロはにっと笑って、ジゼルの頭を撫でると、手を放す。ジゼルは撫でられたつむじに触れながら、恐る恐ると言った風に顔をあげた。
「辛くは……ないの? 怖く、ないの?」
「何が?」
ジゼルの小さな声に、ヘロは歯を見せて笑った。
「別に、大したことない」
ヘロは寝台に腰を下ろすと、体を横たえた。
「寝ようぜ。泣いたら疲れただろ。寝て起きたらまた気分も晴れてるかもしれねえじゃん。明日のことは明日考えようぜ」
そう言って、ごろんとジゼルに背を向ける。
やがてすう、すう、というヘロの寝息が聞こえ始める。ジゼルは苦しそうに微笑んだ。寝ていないことは知っている。私が眠れるように、気遣ってくれている。
「ねえ、ヘロ」
ジゼルはそっと呼びかけた。返事はない。ジゼルは微笑む。
「シクルさんの名前、メルディでもいいかな」
『おお、
ジゼルはシクルを――メルディをそっと撫でた。ヘロからの返事はない。けれどきっと、明日には何事もなかったように「メルディ」と呼ぶのだろうと思った。ヘロはそういう人なのだろうと、ジゼルにも少しずつ分かりつつあった。
ジゼルはそっと間を開けて寝台のヘロとは反対の淵に寝転んだ。それでもしばらくはあれこれと思い悩んで眠れなかった。そうして虫の声がようやく鳴りを潜めた頃、ジゼルは穏やかな寝息を立てた。
ヘロはそれからややあってゆっくりと体を起こした。格子窓からは明かりが差しこんで、藍色に染まる部屋の闇に正方形の白い光を映している。ふと、ヘロは眉をひそめて窓際へ歩み寄った。空は満天の星空だ。けれど、夜空の星だけでこんなにも闇夜が明るいはずがない。マルスには、月がないはずなのだから。
『ヘロ』
シクルが――メルディが、小さな光の羽を羽ばたかせながらヘロの頬の隣で舞う。
「なんだよ、メルディ」
ヘロは、優しい声をかけた。目線は街の景色から逸らさないまま。
『これは我の老婆心――忠告だが』
「なんだよ」
『あまり娘に深入りするなよ』
ヘロは眉根を寄せた。
「何言ってんの?」
『そなたは結局、まだジャクリーヌの恋人であるつもりなのだろう? ジゼルとは一線を引いておけ。このままだとそなたはずぶずぶと沼へ陥ってしまいそうだ』
「はあ? なんでそんなこと急に言い出すんだよ?」
『ふむ。そなたのジゼルへの介入は、やや度を越しているような気がするのだよ』
メルディは溜息をついた。
「なんでだよ。俺は、ジゼルが俺の仲間だから、つまりそれは友達ってことだろ。だからあいつがあまりに自分を卑下するのは嫌だし、泣いていたらどうにかしてやりたいって思うんだよ。何も悪くは……ないだろ」
『無論、悪いとは言っていない。だがな、ヘロ。これは我が幾人もの人間を見ていて感じたことだが……』
メルディはそこで言葉を濁した。
「なんだよ?」
『ふむ。男女の友情と言うのは、時として愛情よりも成り立たせることは困難だ。肝に銘じておくがいい。それを意識せずに深入りすれば、それはただの依存へと容易に成り下がろう。そなたはあの娘にいささか思い入れが強すぎるように思うのだよ、ヘロ』
ヘロは目を伏せた。髪と同じ淡い色の睫毛が二、三度揺れた。
「あのさ、例えばだけど」
『何だ』
「俺が英雄の生まれ変わりってこと、あるかな。そうでなければ、俺がゴーシェを差し置いて勇者になるなんて、考え付かないかなって。それにさ、自分でも自覚はしてるんだよ。多分、女神だなんて単語が出てきただけで普通の人間は怖れると思うんだ。アポロの星でのみんなのジゼルへの態度は……きっと普通で当たり前のことなんだよ。それをおかしいと思う俺の方が異端なんだ。それって、なんだか、おかしいだろ?」
『濁したところで事態が好転するわけでもあるまい。はっきりと言っておくが、少なくともそなたは英雄の生まれ変わりなどではないよ。また、そうであればあのようにプルートの鏡があんな無礼を働いたそなたを受け入れるはずはない。よいか。神器も含め、我々玻璃から造られた者達は全て女神を悼んでいるし、女神を裏切った八英雄のことは誰よりも軽蔑しているよ。我々が許すとすればそれはただ一人、ウラノスだけだ――だが、彼が生まれ変わることはありえない。そなたもまたウラノスにはなれない』
「ウラノスって、本当に何をしたの? なんだか英雄の中でも異端みたいだね?」
『いかにも。その辺りはそなたと似た立ち位置ではないか。だがそなたの思考は異端ではなくそなたの感受性が強すぎたことの証だ。そなたはとても弱い人間だ。そなたはそなた自身の持って生まれた才能によって、既存の慣習に囚われぬ生き方を求めてしまうのだ。それは異端ではない。八英雄の中でウラノスもまた、異端ではない。そなた達は特別だというだけだ』
「特別?」
ヘロは眉根を寄せる。メルディは微かに笑ったようだった。
『ウラノスは愛を知った。そなたは愛を求めている。それだけだ。それだけのことなのだよ。だからこそ、忠告はしたぞ。深入りするなよ。深入りするなら他を全て諦めろ』
「ほんと、変なことばかり言うなあ……」
ヘロは嘆息した。
「そんな、愛だとか恋だとかはこっぱずかしすぎるからあんまり連呼しないでくれる? それよりさ、なんか、変じゃねえ?」
ヘロは鋭く目を細めた。濃紺の空の下で、水色の街並みが広がっている。
「この星には月がない。闇夜に包まれておかしくないはずなのに、この星の夜はまるで月を欠片にして敷き詰めたみたいに明るい。明るすぎて夜の街がまるで水中都市みたいだ。水の色だ。この光って、まるでシクルの色みたいだと思わねえ? 神器に埋め込まれていた玻璃と同じだ……この星の人間はシクルをどうしているんだろう?」
『ふむ、シクルは全て王室が管理しているから、数には制限があるのだよ。であるからこの灯りがシクルだという線は否定できよう。ここまで街を照らせるだけの数をこの星に返却もされず隠し持っていられるはずもない。だが、そなたの読みは概ね間違ってもいないな。この光は玻璃の割面が空気に触れ、熱を帯びる時に発せられる光だ。問題は、これだけの玻璃をどこで手に入れたのかと言うことだが――、ん? ヘロ、下を見よ』
メルディがふわりとヘロの眼前へ躍り出て、水色の光を凹
「ゴーシェだ」
窓から見える白い細道を、ゴーシェが頭巾も被らずゆったりと歩いているのが見えた。手に持っているのは松明と、金属の細い棒――金槌だ。それで何かを数度叩いては、また歩みを進める。
「玻璃……だ……玻璃の円錐だ……!」
ヘロは息を飲んだ。家々の玄関先や壁に絡まる蔦から、沢山の小さな玻璃の細い円錐が吊り下げられている。あの階段を上った時には気が付かなかった。白い花の蕾の中で花弁に覆われ姿を隠していたそれは、夜を迎え蕾が花開いたことで露わになっていた。ゴーシェはそれに、慎重に罅をつけている。金属の棒の先で叩くことによって。その罅から漏れた淡い光が家々の壁を照らす夜の灯りとなっているのだ。リーン、リーンと音がする。あれは虫の鳴き声なんかじゃない。ゴーシェが玻璃を砕いて回る音だったのだ。目を凝らすと他にも同じ棒を持って家々の隙間の小道を行き交う人々がいる。
この星で何が起こっているのだろう。なんだかとてつもない胸騒ぎがしていた。不意にゴーシェが立ち止まると、振り返って顔をあげる。どきりと心臓が跳ねた。目が合ったような心地に苛まれる。だとしたらなんて感情の無い眼差しだろう……ヘロはメルディを撫でて光を焼失させた。
そうしてもう一度寝台に潜り込む。相変わらずジゼルは何事もなかったかのように、幼い寝顔ですうすうと寝息を立てていた。ヘロは深く息を吐いた。ウラノスの地図を探すにしても、手掛かり一つない。ゴーシェはこの星にはマルスの水瓶が、王家の手がつかないままに残っていると言っていた。ジゼルはヘルメスの杖にウラノスの地図のことを言及されたというのだから、マルスの水瓶も何か知っているかもしれない。目が覚めたら、ターシャに話をきちんと聞かなければいけない。それに……ゴーシェ達のやっていた、あの不思議な灯りをつけるための儀式めいた行動も気になる。
「どうするか、どうしていくか……決めなきゃ」
ヘロは小さく呟いて瞼を閉じた。深い眠りが、ヘロを引きずり込んでいった。
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