Episodi 15 砂と塩

 話が通じないターシャをどうにか説得してジゼルだけを浴室に残した後、ヘロは深い溜息をついて絨毯の上で胡座をかいた。シクルがくすくすと笑っている。

『入ればよかったのに』

「あほか……大体、彼女がいるのにできるかよ」

『はて。相手がジャクリーヌならば入ったとでも言うのか?』

「入らねえよ!」

『ふむ。しかし、そなた達はもう別れたも同然ではないのか?』

「……は?」

「おい」

 周りに聞こえない程の小声で交わされるヘロとシクルの会話に、ゴーシェが眉根を寄せている。

「さっきから何をぶつぶつ言っている。お前が彼女と風呂には入らないという話は終わっただろう。しつこいぞ」

「ち、違うっつの! そうじゃなくて……」

 ヘロがぎろりとシクルを睨むと、シクルはくるくると螺旋を描く竜巻のように回って浮き上がる。軽やかな動きとは裏腹に、吐き出される言葉は鏃のように鋭い。

『そなたはジャクリーヌを捨て、ジゼルの手を引いてここまで来たではないか。あれはそなたがジャクリーヌを振ったということだと我は解釈したぞ?』

「な……そんなつもりじゃねえよ!? 俺はただ、ジゼルは俺の魔導士なんだから、仲間なんだから、守ってやらなきゃって……」

 ヘロは声が漏れないように口元を両手で覆った。

『ふむ。つまりそなたはジャクリーヌではなくジゼルを選んだと言うことだろう?』

「だからそう言うのじゃないんだって! どっちを選んだとかそういうことじゃねえだろ。ジャクリーヌだってわかってるってば……俺の気持ちはそうそう変わんないし、たとえ相方が女だからって俺にとっての、こ、恋人はジャクリーヌだけだっつの……」

『ふむ』

 ヘロが柘榴のように顔を真っ赤にしていると、ゴーシェがおもむろに立ち上がってどこかへ消えた。

『しかしな、ヘロ。そなたのやったことは、あの娘を捨てたと勘違いされたとしても文句は言えないことだよ。そなたはいささかジャクリーヌに心を許しすぎているくせに、そのことをきちんとジャクリーヌに伝えていない。たしかにあの娘は察しもよく頭のよいよくできた娘だが、娘は娘なりに不安を抱えているだろうよ。あの娘をつなぎ止めておきたいのならきちんと連絡を入れるべきだろう? なぜトゥーレには連絡を入れて、あの娘には入れなかったのだ。それはあの娘への答えに等しいよ』

「こた、え……?」

 ヘロは眉根を寄せる。

『ジャクリーヌに一言連絡を入れればよい。そうして、先刻そなたが言ったように、きちんとあの娘へ【お前は俺の恋人だから待っていてくれ】とでもたまには男らしく言ってごらん』

「な……本人に言えるか! こっぱずかしい……大体、いつ帰れるかもわからないのに、待ってくれなんて言えねえだろ。もしかしたら、帰れないかもしれないのに」

『ほう?』

 シクルは怒気を孕んだ鋭い声を放った。

『だから何も言えなかったと言うのか? つまり、そなたはあの娘が待てなくても仕方ないと思っていると言うことか? それなのに、【俺のことは忘れて幸せになってくれ】という言葉一つ吐けないのか。そなたはどこかであの娘にいつまでも待っていてほしいなどと願いながら、あの娘が心変わりすれば甘んじて受けようとでも言うのか。なんという侮辱だ。なんという狡さだ。ヘロ、さすがの我も怒るぞ』

 ヘロは何も言えなかった。その通り、としか言いようがなかったのだ。

 何も考えないことにしていた。先延ばしにして、見ない振りをして、考えないようにして。

 手放すのは怖い。初めて自分を好きだと伝えてくれた女の子を、誰よりも自分をわかってくれる子を――わかりたいといじらしく努力してくれているようなそんな女の子を、どうして手放したいだろう。ヘロはまだ、何もジャクリーヌに返せていないのだ。もらっただけの優しさを、気恥ずかしいからと言う自分勝手な言い訳で、何一つ返せていない。甘えてばかりだった。親でもないのに。ヘロは確かに、ジャクリーヌに甘え続けてきた。

 でも、だからと言って、誰も味方のいないジゼルを、捨て置くことなんてできないのだ。ヘロには、できない。アポロでさえ、彼女の味方ではなかった。敵でないことと味方であることは違う。

 ジゼルには、誰もいないのだ。ヘロには、シクルも、ジャクリーヌも、トゥーレも、両親だって、いたのに。

 彼女の口から友達の名前を一人たりとも聞いていない。彼女はアポロの星を経つ時、凪いだ笑顔で、空を見上げていた。ヘロでさえ、母さんにあんな反抗をしたまま後足で砂をかけるように家を出たことを気に病んだのに。つまり、そういう事なのだと思った。彼女には何もない。首からぶら下げたそのペルフィアペンダント以外、何も無い。

 ジゼルをなぜ放っておけないのか、よくわからなかった。

 彼女が危なっかしく見えたからだろうかとぼんやり考えたこともあった。けれど、ジゼルはどうも、危なっかしいと言うよりは無謀な気がする。魔法を使った時もそうだった――酷く思い切りがいい。あんな風にあっけらかんと魔法を発動して、しかもそれを殴って壊した――あろうことか、神器であるヘルメスの杖で。知らない土地に来ても怯えるどころか、きょろきょろと物珍しそうに辺りを見渡す。大人しそうに見えて、肝が据わっているのだか、横着なんだか――ヘロが今ジゼルに抱いている印象は、そんなものだった。

 それなのに、放っておけないと思うのは――。

「俺は……」

 ヘロは俯いた。

「どうすれば、いいかな」

 ヘロはくしゃりと前髪を掻き上げた。結局、ヘロは自分の弱さをジゼルに投影しているだけなのだった。ジャクリーヌには恥ずかしくて吐露できなかったそれを、ジゼルに見たのだ。あの子を守ることは、自分を守ることだと思った。相方――なんて甘美な響きだろう。ジゼルと自分がエリゼアパートナーであると言う自覚は、ヘロを甘く包み込んだ。ヘロはあくまで、自分のためにジゼルの傍に居たいと思っている。その想いが、倒錯したものだと自覚もしている。

 シクルは小さく嘆息した。シクルにも、ヘロの内で渦巻くこのどうしようもなく悩ましい気持ちは伝わっているだろう。それでも、シクルはきっと、『馬鹿め』としか言わないのだろうけれど。

『そんなもの、ただ答えをあの娘に伝えてやればよいことだろう? 待っていてほしいなら待っていてくれと言えばいい。別れた方がいいと本当に思うのであれば、そう伝えればよかろう。それでもあの娘はあの娘のやりたいようにするだろうよ。そういう娘だと一番よく知っているだろう。だからといって、それに甘んじるなよ、ヘロ。そなたにそのような権利はない』

「はは……厳しいな」

『笑い事ではない』

「おい」

 力なく笑っていると、不意にゴーシェが投げつけた何かが頬に激突した。

「いてっ」

「お前、顔が赤いぞ。冷やせ」

 ゴーシェの抑揚のない低い声が頭上から降り落ちる。

「はあ?」

 ヘロは頬をさすりながら、手元に落ちたそれを眺めた。冷たく冷やされた白い布だった。

「ああ……もしかして、心配してくれたのか? ごめんな、ありがとう」

 ヘロは素直にそれを頬や額に当てた。正直なところ、冷えた布はとてもありがたかった。この星は暑すぎて、じっとしているだけでも汗がにじみ出てくるのだ。

「今は暑いのかもしれないが、安心しろ。夜は凍える程に寒い。着込んでおけよ。風邪を引かれても敵わないからな」

「そうなのか? なんで?」

「なんで、だと……」

 ゴーシェがぴしり、と固まる。

「砂漠は木々も育たず、街もこれくらいの面積だ。陽射しを遮るものがないせいで熱を防ぐことができない。夜は砂漠に水が少ないせいで熱がどんどん地表から奪われる……そうか、そんな俺達にとっては当たり前のことも、余所者にとっては知らないことなんだな……」

 ゴーシェはどこか感慨深いような声で呟いた。表情があまり動かないのでわかりにくいが、どことなく目が輝いているようにヘロには見えた。知らないこと、日常とは違うものに触れることは、この少年にとってはとても心揺さぶられる体験なのかもしれない。ヘロはにかっと笑った。少しだけ誤魔化しも含まれていたかもしれない。ジャクリーヌのことを考えるのが少し怖かった。シクルは空気を読んで黙っている。

「なあ、ゴーシェ。俺達の星のこと、色々話そうぜ。お互いに知らないことはいっぱいあるだろ」

「ふん」

 ゴーシェは口元を緩めた。

「いいだろう。お前がそこまで言うなら」

「いや、そんなに強くも言ってねえけどな……まあいっか」

 ヘロは肩をすくめて、笑った。



     *



 一頻りアポロの星について語り終わると、ゴーシェは顔を真っ赤にしていた。

「信じられない……そんな生活があるのか……行ってみたい……」

「いや、多分大したとこでもないよ。何も変わり映えはしないし……時計城と、アポ――ゲルダの家だけは綺麗だったけどな。あとは普通の家しかないし馬牛羊くらいしかいないしな……」

「ゲルダの家って?」

 ゴーシェが眉根を寄せる。

「ああ、ジゼルの育ての親の家だよ」

「あの子はもしかして親がないのか?」

「ああ……うん、まあ」

「そうか、俺達と同じだな」

 ゴーシェが目を伏せる。少しだけ柔らかく笑った。

「この星の時計城はどうなってるの?」

 ヘロは純粋に気になって尋ねる。けれどゴーシェの返答は実にあっさりとしていた。

「ああ、もう取り壊した」

「は? どういうこと?」

 ゴーシェは首に巻いた布を鼻の頭まで持ち上げた。

「時計城の意味くらい、わかってるだろうな?」

「当たり前だろ……」

「ふん。じゃあ言ってみろ」

「は……」

 ヘロは唖然としそうな口元を指でつまむ。

「端的に言えば、その星の神器を納めている場所だろ」

「それは誰のものだ?」

「誰のものって……誰のものでもないだろ? 神器だぜ? その星の……それこそ宝みたいなもんだろ」

 ヘロは訝るようにゴーシェを見つめた。ゴーシェはすっと目を細める。

「わかった、質問を変える。それを支配しているのは、誰だ?」

「支配って――」

 言いかけて、ヘロは口を噤む。ゴーシェはふん、と鼻で嗤った。

「わかっているんじゃないか。そうだ、あれは、惑星プルートの王室が神器を管理するための建造物に過ぎない。神など滅ぼしたと言いながら、神器をあのような城に納め管理することで神格化している。滑稽な話だろう? あの城は、連合星全体を管理しているのは王室だと知らしめるためのでしかない。お前、まさか神器は全てご丁寧にもあの城の中に常に安置されているとでも思っていないだろうな?」

 ヘロは絶句していた。

「城の中に、安置? ……されて、る?」

「なんだ、さすがにそれくらいは気づいていたのか」

「違う……そうじゃない……今まで、考えたこともなかったんだ」

 ゴーシェの目が見る見るうちに見開かれ、やがてきっ、とヘロを睨みつけるように細められた。

「お前は……仮にも勇者候補だった身で、そんなことも考えたことがなかったとでも言うのか!」

「それが普通だったんだよ!」

 ゴーシェにつられる様に、ヘロも叫び返していた。否、それもヘロ自身が焦っていたからに他ならない。

「そんな簡単なことも……疑問すら持たないように、育てられたんだよ……親に、先生に……。それが、アポロの子供たちだ……他の星がどうかは知らないけれど」

「ふん、売国奴の巣窟なんだろうな」

 ゴーシェは嘲りを浮かべて口の端を引きつらせた。ヘロはむっとする。

「売国奴って、なんだよ」

「そのままの意味だ。お前の故郷は、アポロの星は、神器を売ったんだ。身の安全のために。プルートの王室に、アポロの縄を売った。だからお前達の星は王室の恩恵を受け、知らず守られているんだ。……守られていると思い込まされている」

 ――アポロの縄を、売った?

 ヘロは目を見開いた。信じられなかった。あの星には英雄アポロ本人がいたではないか。誰が売ったと言うのだろう。どうしてそんなことがまかり通っているのだろう。

「アポロ、サタン、ヘルメス。これらの星の神器は、プルートに快く譲渡された。ガイアの筆は特殊で、最初からプルートの手にあったらしい。英雄ガイアは死して女神を滅ぼした。そのため惑星ガイアは後ろ盾を失ったんだ。その惑星ガイアを、歴史上常に支えてきたのが惑星プルートだ。いわば、惑星ガイアは惑星プルートの犬だった、ということだ」

 ゴーシェは水差しから器に水を注いで、ぐいと飲み干した。ヘロにも同じように水を与える。ヘロもからからに乾いた口を潤した。

「やがて、惑星プルートには神器や玻璃、魔術を研究する研究施設ができた。そうした研究の過程で、やつらには他の神器が必要になった。プルートの鏡とガイアの筆だけでは飽き足らず、他の星の神器を手に入れることを望んだんだ。その正当な理由を作るために、惑星プルートは唯一の皇室を作り、長い年月をかけて他の惑星に対する権力を……権力の行使力を手に入れた。そうして手に入れたんだ。【巡礼】というエロマシステムだって、プルートの王室と研究室が作り上げた慣習なんだ。俺達は千年の時をかけて、それが【当たり前】の【歴史】だと思わされてきた。時計城はその一環だ。神器が民にとって影響力を持つように、そしてそれに唯一触れていいのだと研究者と皇族……即ち惑星プルートの為政者が、連合星で権力を保持できるように。あれはそういうものだ」

 ヘロは器に注がれた水の水面を眺めていた。少し揺らしただけで、波紋は広がっていく。

「じゃあ、俺が……俺達が、過剰なほどに【教育】されたのも……余計なことは考えないように、歯向かわないように、疑問を持たないように育てられたのも、そんなくだらないエロマシステムの一環だったっていう訳か」

 声が擦れた。ゴーシェの瞳は射抜くようにヘロを見つめていた。今はその藍色の目を同じように真っ直ぐ見据えることなんてできそうにもない。

「なんで……ゴーシェはそんないろんなことを知ってるんだ? そんなに知っていて、どうして【勇者】になりたがったんだよ」

 ヘロは声を絞り出した。

「【勇者】なんていいもんじゃないぜ。勇者になれるような素質ってのはさ、神器にどれだけ共鳴できるかってことなんだ。神器に共鳴できるってことは、神器をかつて与えた憎らしい女神に共鳴できるってことなんだってさ。つまり、神器への共鳴力が強ければ強いほど、そいつは女神に近いから罪人なんだ。【巡礼】ってのは、そんな罪人が罪を償うために、王室の望むような罰を与えられて、それに報うための旅をするってだけだよ。本当に……あんなに努力して手に入れた【勇者】の地位なんて、そんな下らないものだったんだ」

 ヘロは震える手を固く握りしめた。自暴自棄な笑みを浮かべて顔をあげると、ゴーシェは長い睫毛を震わせて目を伏せていた。

「そんな……ことだったのか。そうか……俺はただ、その真実が知りたかったから、勇者になりたかった……だけど、こうしてお前に教えてもらったんだから、もうその願いは叶ったな。それに……俺は、ターシャを守りたかった……だから、能力がせっかく高いなら、勇者になるのも悪くないと思ってたんだ……。神器のことも時計城のことも、俺が知っていたわけじゃない……ターシャが、教えてくれた」

 ヘロは眉根を寄せる。

「ターシャが? じゃあ、なんでターシャはそんなこと知ってるんだよ」

「あの子は……自分は英雄マルスの生まれ変わりだと言っている。記憶を持っていると。俺は、それを信用している。実際に、あの子は誰よりも【マルスの水瓶】を正しく扱えるから」

「生まれ変わりって……そんなことあるのかよ?」

 ヘロは信じられない心地で呟いた。ゴーシェは首を横に振った。

「わからない。けれど、確かにターシャはそうなのだろうと思う。だから、俺は、あの子のように、きっと他の英雄も生まれ変わる場合があるのだろうなと思っている。だとしたら……お前のさっき言ったことが本当なら、英雄は全て神器との共鳴力は著しく高いかもしれないな。俺はもう、もしお前が英雄の誰かの生まれ変わりだとか言われても驚かない。現に、あの子は……ターシャは、お前を見て泣いたから」

「そんな、」

 ヘロは擦れた声で答えた。

「そんなの、あるわけ、」

 ごくり、と喉を鳴らして、僅かな唾を飲み込む。口の中は妙に渇いていた。自分が誰かの生まれ変わりだなんて、正直どうでもよかった。そんなことを言われたって、記憶もないのだし、どうしようもない。

 それよりもヘロは、思い至ってしまった可能性に恐れを抱いていたのだった。神器の声が聞こえる少女。シクルにさえ愛される少女。知らない魔法を使えて、忌み嫌われる六芒星を抱えて。土から生まれた、だなんて突拍子もない話。

 ――もしもジゼルが、滅ぼされた女神の生まれ変わりだとしたら。

 殺される。

 そんな可能性がヘロの脳を掠めた。

 そんなことさせない。させちゃいけない。

 ヘロは唇を噛みしめて俯いた。心が追い付かない。女神は憎い人間の敵だと教えられてきた。どうして憎まなければならないのかさえわからなかった。わかる必要などないと抑え込まれた。けれど、ジゼルは――あの子は、あんなにも頼りなくて、声が小さくて、おどおどしていて、本当は友達が欲しくて、何もかも諦めて、それすら自分で気づいてすらいない、あの疎まれるペルフィアペルフィアを母親の形見かもしれないだなんて思い込んでずっとお守り代わりに手放さない、そんなになりたいだけの女の子なのだ。

 巡礼者の仕事は女神の証を蠅を潰して回るように消していくことなのだとあの皇太子は言った。この世界は女神を望んでいない。欠片も望んでいないのだ。神器だって、いつか全ての女神の証が消えたなら壊されてしまうだろう。話せると言ったのに。人と会話ができるのだとシクルは言った。ジゼルだって、声が聞こえたと言った。心を通わせることができるのに。心があるのに。

 それらを全部消して、闇に葬り去るために、【ウラノスの地図】が欲しいのだと言われたのだ。探して来いと。お前達ならできるだろうと。できるだろう、と。

「俺達は、【ウラノスの地図】を、探せって言われたんだ。それを探すのが、見つけ出すのが俺たちの【巡礼】だって。俺は、そんなことに利用されるのが嫌で逃げたんだ。そうして、ここに辿りついた」

「そうか」

 ゴーシェは静かな声で応えた。

「ウラノスの地図、マルスの水瓶、アフロディテの竪琴。この三つだけが唯一、王宮の手中にない神器だ。アフロディテの竪琴は特殊だけれど。正しく言うなら、アフロディテの竪琴は、既に王宮の手がついていて、けれどあれの性質上、あれは惑星プルートでは機能しないから、だからあれだけは惑星アフロディテに安置され続けているんだ。だから、王宮はウラノスの地図とマルスの水瓶を手に入れようと必死なんだ。ウラノスの地図はどこをどう探しても見つけられない。誰も居場所を知らない。その探索を命じられるなんて、お前達のどちらかがウラノスの生まれ変わりなのかもしれないな?」

 ゴーシェはふん、と笑う。

「マルスの水瓶は、代々この星で守られ、決して王宮の手に渡ったことは無い。けれど俺達の両親が――長が亡くなってから、王宮からの圧力が酷い。近々戦争になるかもしれない。けれど、俺達は水瓶をプルートに明け渡すわけにはいかない」

「どうして、そこまで」

 ヘロは擦れた声を零す。

「わからないよ。何が正しいのか、もうわからない……他の惑星は神器を明け渡しているんだろ? どうして……マルスは渡さないんだよ」

「お前は、それが最善だとでも思ってるのか?」

「渡さなきゃ、殺されてしまうんじゃないの?」

 ヘロは膝の上で拳を握りしめた。

「言っただろ? 神器に近いってことは女神に近いってことだって。それは罪人ということなんだって。真実がどうかは知らないや。だけど、俺達の――この連合星に深く根付く倫理観ではそういうことなんだよ。その神器を、【あるべき場所】に素直に渡さずに固辞し続けたら、お前達は女神に与する罪人って、そういうことなんじゃないのか」

「そうかもしれない」

 ゴーシェは目を泳がせた。

「俺にも、何故かつて女神を倒した英雄のマルスが……そのマルスの生まれ変わりが、マルスの名の下にあの水瓶を頑なにこの星に留めようとするのか――あるいは、プルートに渡したくないのか――わからないんだ。だけど俺はターシャを守るよ。この星の民もまた、ターシャの思うようにしか生きられない。俺達の生活は全てあの水瓶にかかっているんだ。あの水瓶があるから、俺達はこんな過酷な星でも水に飢えず生きることができる……だから俺達は、ターシャが嫌がることを望めない。それに俺はターシャの味方でありたい。最後に残るのがたとえ俺だけになってでも、それでもあの子の傍に居たいんだ」




     *




「これは……砂?」

 ジゼルは案内された浴室の白くざらついた壁をそっと撫でる。地は白いけれど、ところどころ赤い粒子が混じったそれは、遠目で見ると白みがかった淡紅色に見えた。後ろからくすりと笑うような息づかいが聞こえる。

「砂と岩塩をね、いい感じに混ぜてるんだよ」

 ターシャが曖昧な笑みを浮かべて首を傾ける。

「マルスは、砂漠の星だから、本当はこんなお風呂も贅沢なんだけどね。でも、私がこの星に生まれてからはみんな毎日のようにお風呂に入れているの。この星はね、水がないから砂漠な訳じゃないんだ。水はね、砂に隠れているだけで本当は有り余るくらいあるの。他の星の人には教えていないけれどね」

「あなたが、生まれてから……?」

 ジゼルは小首を傾げる。

「それに、どうしてそんなこと、わたしに……」

「あなたは……別に、どこかの星の人ではないでしょう? それに、あなたは追われる身だ。だったら、密告なんてしようがない」

 ジゼルはびくりと身を震わせた。

「わ、わたしはアポロの――」

「どちらかと言うとあなたはガイアの民だよ。成り立ちから言うならね。でもそんなことはどうでもいいんだ。確かに、あなたがアポロの大地から生まれた事実は覆しようがないもの」

「な、何を言っているの?」

 ジゼルは震えた。ターシャは柔らかい笑みを浮かべている。

「ごめんごめん、ちょっと虐めてしまいそう。女の醜い嫉妬ってやつだよ。あ、でもね、私自身の――ターシャ=テフテナの嫉妬ではないんだよ? 私の前世の嫉妬の話」

「前、世……?」

「うん」

 ターシャはジゼルの右手をとって、再び優しく、愛おしむように撫でていた。

「さっき、私が生まれてからこの星は水に困っていないって言ったでしょう? それはね、私が唯一、【マルスの水瓶】を正しく扱える人間だからなんだよ。私は、英雄マルスそのものだから」

 ターシャは笑った。

「私はね、マルスの生まれ変わりなんだ」

 ジゼルは、ターシャの色違いの瞳を見つめた。

「どうして……そんな話を、わたしに?」

 声が震える。ターシャは小首をかしげた。

「あれ? アポロがあなた達をここへ寄越したのでしょう? 私の役目はそれだと思ったのだけれど」

 ターシャは微笑んだ。

「アポロ……なんて、どういうことなの?」

「あなたの育ての親は英雄アポロその人のはずだよ。名前は変えていたかもしれないけれど。あ、生まれ変わりじゃないよ。あの人はね、命を捨てなかったから、まだ英雄の時のまま生きてるの。あなたを待っていたんだよ、彼は」

「どう、して?」

「それは……」

 ターシャはジゼルから目をそらす。

「奇跡を、見たかったから、じゃないかな。あのね、ごめんね、勘違いはしないでほしいのだけど、私は――マルスは、あなたの敵でもないし味方でもないんだ。アポロにあなたを託されたからには、今だけはあなたを匿うよ。けれど、そこから先は私達の仕事じゃあない。私はこの星を守らなければ行けない。私があなた達を匿うのは、全部私達のためなんだ。それが都合がいいからなんだ。ごめんね、マルスはあなたのことを嫌いじゃなかったんだ。だけど……だけど私は、マルスの記憶を抱えているだけ。マルスではないの」

「わたしが……わたしが、何者だと言うの……?」

 ジゼルは喉が絞まるような息苦しさを感じながら声を振り絞った。

「ヘルメスの杖も、アポロの縄の声も、わたしは聞くことが出来た。誰も聞こえていないのに。ねえ、どうしてなの? わたしもいつか英雄だったの? あなた達と同じなの? どこか……どこか懐かしい気がするのはそのせいなの? わたし……ばぁばが……わたしの血縁だって言った時も何のためらいもなく信じたの。だって、とても、懐かしかった、から。なのに、ばぁば、わたしが土から生まれた子だって……別の時は、このペルフィアペンダントがお母さんの形見かもって言ったのに、そんな、わからないことばかり言うから、わたしぐちゃぐちゃで……」

「アポロったら、そんなこと言ったの……捻くれてるなあ。きっとあなたに情がわいちゃったんだよ。だから、傷つけたくて、傷つけたくはなかったんだ。きっとね」

 ターシャは苦笑した。

「ごめんね、あなたは人の子ではないんだ。そして私達は前世で縁があったよ。けれどあなたは英雄ではないんだ。この意味が分かる? ごめんね、きちんと、はっきりとは言えないし、言いたくないんだ。恐ろしいんだ、言ってしまうのが。あなたが自分で消化していかなきゃ」

「ターシャ……」

 ジゼルは涙を浮かべながら呟いた。

「この、ペルフィアペンダントには、どんな意味があるの? これは、一体どういうものなの? あなたなら、あなたがばぁばと同じ仲間なら、知っているんでしょう?」

「それは……」

 ターシャは悲しげに眉尻を下げた。

「地図記号だよ。あなたの、あなただけの地図記号だ。ガイアが作って、ウラノスが定着させた、あなた自身の万有引力だ。それを……アポロが、土に埋めた。自分の星の大地にね。そうしたら、何百年も経って、ようやく、あなたになった」

「万有、引力……?」

「内緒だよ」

 ターシャは笑った。

「そういう知識、もうこの八つ星では誰も教えていないから。知っていること自体が禁忌なんだよ。私達はね、英雄だって、女神だって、惑星も、恒星も、衛星も、ただの人間ですら、みんな地図記号があるからここに在るのさ。額にね、地図記号を埋め込まれている。地図の中に描かれた記号が。地図に描かれた記号を身に宿す者だけが、この八つ星に存在することができるんだ。かつて女神が戯れに作って、ウラノスが完成させた最高で最悪の魔術だ。葬り去られた世界の秘密さ」

「ち、地図って……」

 ジゼルは震える声で呟いた。

「それは……【ウラノスの地図】のことを、言っているの?」

 ジゼルはかたかたと体を震わせる。

「神器が……ヘルメスの杖が……わたしに、言った……ウラノスの地図が、わたしを待っているって……ヘロも、言ってた……わたしの、わたし達の巡礼は、ウラノスの地図を探す旅なんだって……」

「落ち着いて。皆まで言わなくていい」

 ターシャはジゼルの肩をそっと支える。

「ねえ、不思議だね。どうしてあなたはそんなに震えているの? 私が怖い? それとも、ウラノスの地図が怖い?」

「いいえ……! いいえ……」

 ジゼルは首を何度も横に振った。

「そうじゃないの……そうじゃない……」

「かわいそうに。何も覚えていないんだね。ずるい人。【私】から大好きな人を奪って逝ったくせに」

「何、を――」

「あなたが言った通り、世界の、いや宇宙の地図記号が記されたそれがウラノスの地図さ。そして、そこにはあってはならない地図記号が描かれている。七色の絵の具でただ一つ、描かれているんだ。アポロの星のとある場所に、ぽつんと。どうしてアポロの星だったのか――私にはわからないけれど、案外適当だったのかもしれないね。ガイアがね、女神の【記号】を……女神が元々持っていた五芒星地図記号をガイアの筆で消したんだよ。だから女神は世界から消えた。だけどその女神の絵の具に濡れた筆で、ガイアは自殺する前にウラノスの地図に落書きしたんだ。それをウラノスは消さなかった。あろうことか、同じ落書きで地図を埋め尽くしたんだ。そうしたらどうなると思う? 世界はどうなっちゃうと思う? ウラノスはね、それを壊されたくなくて……消されたくなくて、破り捨てられたくなくて、隠してしまったんだ。誰にも見つからないように。あなたのために!」

 ターシャはくすり、と笑った。目は鋭く、舐め回すようにジゼルの体を見つめていた。

「だからそれを、プルートの残党が卑しくも未だに執着して探しているんだよ。馬鹿みたい。ウラノスはどうしたってあの子を愛さなかったのにね。本当に血眼になって探しているんだよ。神器を集めるのもね、神器に端緒を得たいからだよ。でもね、私は許さない。私だけは絶対にプルートを許さない! たとえガイアが許してあの子を誤魔化しても、誰もが騙されて仲間だと思い込んでも……私だけは許さない! だから私は、絶対にあの惑星に水瓶を渡さない。言いなりにはならない……たとえこの星が滅びたとしても、絶対に屈しはしない!」

 ジゼルは、肩に食い込むターシャの爪の鋭さに唇を噛みしめて耐えた。ターシャは激しい怒りをその緑の目に宿していた。ジゼルはただ怯えることしかできなかった。不意に、ターシャは手の力を緩めて、腕を下ろした。穏やかな笑みを張りつける。

「怖がらせてごめんね。じゃあ、私は一旦外すから」

 そう言って、踵を返す。暖簾を持ち上げて、ターシャはふと立ち止まった。

「ああ、そうだ。もしもあなた達が、少しでも私達の味方になってくれると言うならね、」

 そう言ってターシャは首を傾けて柔和な笑みでジゼルを見つめた。目は笑っていなかった。

「ウラノスの地図は絶対に探し出してよ。そして、絶対に誰の手にも渡さないでよね。例え宇宙の果てまで逃げなくちゃいけなくて、塵になったとしても、絶対に渡さないでよ。わかるよね? プルートの手に渡ったら負けなの。【私】、あなたのことも正直恨んでるけど、ガイアが愛した人だから許してあげる。でもプルートは許さない。ガイアを唆して【私】達の幸せを奪って、のうのうと生き続けたあの子を許さない……罪の意識に苛まれて自害なんかして、そんなことするくらいならもっと早くに死んでおけばよかったの。なのにあの子の子孫は未だにウラノスの地図なんかに執着するのよ。絶対に許さない。絶対に」

 ジゼルが耐え切れずに俯くと、ターシャは乾いた笑い声を零した。それはどこか空虚で、哀しげだった。

「じゃあ、怖い話は終わり。お風呂から上がったら、楽しい話をしよう。ターシャはジゼルと友達になりたいよ」

「うん」

 ジゼルは小さな声で、それでも必死に言葉を紡いだ。

「わ、わたしも……っ、わたしでよければ……」

 ターシャはくすりと笑った。

「ゆっくりあったまっておいで。夜はとても冷えるからね」



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