Episodi 14 玻璃と名前

 ターシャを待つ間、三人は床の絨毯の上に思い思いに座っていた。ヘロのシクルとゴーシェのシクルはなおも戯れ合うように飛んでいる。それを、膝の上に頬杖をつきつつ、ぼんやりと見つめていると、ジゼルがおずおずと呟いた。

「な、なんだか……どっちがヘロのシクルさんかわからなくなったり、しない?」

「え?」

 ヘロは思わず頬を掌から持ち上げた。

「いや……そんなことは、ないと思う……多分」

 そんなこと、考えたことがなかった。

 言われてみれば気づくこと。そもそも、今まで自分のシクルが他人のシクルと見分けがつかなくなるようなことはなかった。ヘロはそれを、自分がシクルと言葉を交わせるからだと無意識に思っていた。トゥーレと一緒に遊んだ時も、決してお互いにわからなくなることはなかった。まるで、手を伸ばせば吸い付くように、シクルはいつだって持ち主の元へ戻って来た。きっとそれは、シクルとそのシクルに選ばれた子供達にしかわからないような絆だった。

「そうなの……わたしには、どちらかわからなくなりそうだなって思うくらい、似ているから……やっぱり持ち主にはわかるのね」

 ジゼルは恥ずかしそうにそっと笑った。

「手っ取り早い方法はあるぞ」

 ゴーシェが無愛想な声でぼそりと呟く。

「名前をな、つけてやるんだ。シクルは名前を大切にしてくれる。それを呼んだら、ちゃんと答えて来てくれるよ」

 そう言ってゴーシェは二つのシクルをそっと指先で撫でた。

「それは……例えば、わたしみたいな、勇者の蛹ではない人間だとしても?」

「もちろん」

 ゴーシェは柔らかく目を細めた。

「シクルが勇者の蛹だけのものだなんて誰も言っていないだろう? こいつらは、本当はとても人懐こいし、とても情が深い。いつだって俺達と仲良くしたいと思っているんだ。壁を作っているのは俺達人間の側だ」

「じゃ、じゃあ私も名前でシクル達を呼ぶことが出来たら、堂々と会話してもいいのね?」

 どこか興奮したような声で――と言っても蚊の鳴くような声なのだが――ジゼルは目を輝かせて身を乗り出した。ゴーシェが目をぱちくりさせる。

「いや……堂々と会話というか……シクルに話しかけることはあっても会話は成り立たないだろう……? 俺達はこいつらの声は聞けない。たとえこいつらがもし言葉を持っていたとしても、俺達人間にはそれが聞こえないんだよ。駱駝や牛の言葉がわからないように……でも、駱駝や牛には目がある。だからなんとなく、あいつらに好意を持ってもらえているかどうかはわかるよ。シクルにはそういう生き物の【顔】はないから……俺達は、名前を呼んで飛んで来てくれるこのシクルの行動でしか、こいつらの心を推し量れないんだ。それでも、心が繋がったらいいなと思うから、俺はこいつに名前を付けた。そうするといいって、ターシャが言ったから……」

 ゴーシェは小さく「な、イルダ」と呟いて一つのシクルをそっと掌に包み込んだ。

「そう、だよね……」

 ジゼルは目に見えてしゅん、と項垂れた。ゴーシェはふん、と鼻を鳴らす。

「でも、会話できるなら、それは嬉しいかもしれないな。懲りずに話しかけていたら話してくれたりしてな。考えたことがなかったから、少し驚いた」

 ゴーシェの声は優しかった。ヘロはその藍色の瞳を――曇りのない瞳を見つめながらぎゅっと胸元の服を握りしめていた。

「あの、さ。この星の子供達は……、シクルを生き物だと思ってるのか? 友達だって」

 ヘロは静かな声で尋ねた。ゴーシェは顔を上げる。

「そうだよ。シクルは俺達の一部だ。この星はシクルなしには成り立たない。お前の星もそうだったんじゃないのか?」

「その感覚が……ちょっとわからない、かな……」

 ヘロは俯いた。

「当然だと思ってた。相棒なのは当然だなって。名前を付けるだなんて発想はどこにもなかった。勇者が決まったら手放すもの。道具だった。多分みんなそんなものだったと思う。口では相棒って言うんだ。だって大切なものだから。だけど、それは、例えば誕生日に貰ったおもちゃと同じ感覚だったんだ。大事なもので、好きなものだけど、生きているだなんてそんな発想はきっとみんな持ってなかった。トゥーレとかは……あ、俺の親友なんだけど、そいつなんか、シクルはどっちかっていうとパーカトパーカトのための道具だって思ってたと思う。でもそれは別に意地が悪いとかそういうことじゃないんだ……好きだったんだ」

「なんとなく……は、わかる」

 ゴーシェは考え込むように眉間にしわを寄せながら呟いた。

「俺が……この皿を大事にするような感覚ってことだろう。ちなみにこの皿は、親父が作ったやつだ。もう死んだけどな。親父が作った、俺のお気に入りだ。絶対に割りたくないやつ」

 ゴーシェは棚から白と薄紫の淡く混じった不格好な皿を取り出した。

「星によって違うんだな……」

 ゴーシェは皿を撫でながら鼻をすすった。ぽつり、と言葉が零れて落ちる。

「うらやましい」

 ヘロは黙って、その言葉の先を待った。

「お前は……勇者として八つの星を回るんだ。きっと全然価値観の違うような色んな星だろうな。それを知ることが出来るなんて、羨ましいよ。もちろん、行こうと思えばどこだって行けるさ。でも俺達はみんな、そうやって夢見ながらこのマルスからほとんど外へは出ないままに終わるんだ。生活ってそう言うことだろう? 家族を持って、ここで生きていかなきゃ行けないんだから。それに、イルダともお別れだ。勇者が決まったらシクルは王都に返却しなきゃいけないんだから。俺とお前、何が違ったんだろうな? 俺、連合星で一番能力が高い勇者の蛹だって言われてたんだけどな」

 そう言ってゴーシェはヘロの瞳と視線を重ねた。

 ――魔導士枠はジャクリーヌで決まりとして、問題は勇者枠だもんな? お前はそこそこ秀才とはいえ、天才じゃねえもん。特にマルスのゴーシェ=テフテナって奴は今世紀の宝と言われてる名高い天才だし? 他の星にもお前よか能力高いのはごろごろいるかもしんねえし。

「思い出した……」

 ヘロは呟いた。

「ゴーシェ=テフテナだ」

「は? 今更どうした。さっき名乗っただろう」

「違うんだ、そうだ、俺知ってたんだ、あんたの名前。だって、あんたが選ばれる可能性が高いって、アポロの人間でさえかみんな聞いたことは一度ならずあったんだ」

「へえ、なのに、お前は俺の名前聞いた時大した反応は見せなかったぞ」

 ゴーシェは鼻を鳴らす。

「今代の巡礼者は非常だな。今まで能力が最も高いもの以外が選ばれた前例などなかったはずだ。勇者の蛹では俺が、魔導士の蛹ではジャクリーヌ=ヴァルソアが、最もその資質があるのだと聞いていた。なのに選ばれたのはお前達だと言うんだろう? ふん、なぜお前達が選ばれたのか、なぜお前達でなければいけなかったのか……その意味を重く受け止めて行くがいいさ。俺に少しでも悪いと思うのならな。まあ、別に悪いとか思うこともないけど」

 ヘロは俯いた。ジゼルが心配そうに横顔を見つめているのがわかる。

 ――俺は……わからないよ。

 ジゼルが選ばれた理由なんて、ありすぎる程にある。彼女は神器の声が聞こえたと言った。全てのシクルの声も聞こえるのだと言っていた。なら、きっと今もゴーシェの――イルダという名を貰ったシクルの声も聞こえているのだろう。それがなぜかはわからないけれど、英雄アポロが特別視して手ずから育てた子供だ。特別じゃないはずがない。

 それに。

 ヘロはジゼルの葡萄色の瞳をじっと見つめた。ジゼルが少し怯むように体を後ろへ傾ける。

 ジゼルは、魔法が使えないと言っていたのに。

 訳の分からない絵を描いて、作り出したあの氷の一角獣は、確かに魔法そのものだった。

 どうしてあんなことがジゼルには出来てしまうのか、ヘロにはわからない。ヘロは知っていた。魔導士の蛹達が、絵を描く練習でめちゃくちゃな絵を書いては魔法陣ごっこだなんていってよく遊んでいたこと。そんなことをしても、彼らがその絵から何かの魔法を発動させることなんて一度もなかった。それを、この落ちこぼれだとか劣等生だとか言われ続けて来た一人の少女は、できるのだ。こんな偶然があるだろうか。

 けれど、ヘロには……ヘロ自身には、何も特出したものなどない。

「俺には、何もないんだ……空っぽなんだ。俺は、何も、あんたに勝るようなものなんてきっと持ってないよ」

 ヘロは膝の上で拳を握りしめた。

 シクルが話しかけてくれたから、ヘロはシクルを【生き物】だと認識することが出来た。もしそれがなければ、ヘロだってシクルのことをトゥーレや他のアポロの子供達のようにただの道具だと思って過ごしただろう。ヘロはシクルから救いを沢山与えられたけれど、シクルを思いやったことなんて一度もなかった。名前を付けてやろうなんて考えたこともなかった。心があるだなんて、自発的に気づくことなんか出来なかった。シクルはヘロの心の空洞を埋めてくれたけれど、それがシクルの心だったと自発的に気づけたことなんてなかったのだ。

 トゥーレやゴーシェのように、冒険が出来るだとか、違う世界を見られるだとか、そんなことすら夢を描いたこともなかった。ただ、父さんと母さんがそれを望むから――予想以上に才能を持って生まれた我が子に夢を託そうとするから――がむしゃらに努力して来ただけだ。

 俺は、父さんと母さんが、俺に何を夢見たのかさえ知らない。知ろうとさえしなかった。

 ただ、早く終わってほしかったのだ。

 勇者になれれば問題ないでしょう? 勇者になれなかったら諦めがつくんでしょう?――だなんて。

『馬鹿め』

 ヘロのシクルが呟く。ふわふわと漂って、ヘロではなく、ジゼルの膝の上にぽとりと落ちた。ジゼルはそれをそっと手で拾い上げる。

「ねえ、ヘロ……」

「何」

 少し気持ちが沈んでいたせいだろうか。思いの外素っ気なく冷たい声が零れて、ヘロは思わず自分の唇を指でつまんだ。

「このシクルさんにも名前、つけない?」

「は? ……ああ、いいんじゃない」

 ヘロはシクルを見つめる。

「でも……何がいいかわかんねえや」

「うん……ヘロはそういうの苦手そう」

 ラベリュイアラベンダーの花が薫るように、ジゼルはふわりと笑った。その笑顔を見て感じた、虚をつかれたような心地をごまかすように、ヘロはむすっとした。

「はあ? 俺の何を知ってるの」

「ご、ごめんなさい……」

「え……なんで謝るわけ?」

 萎縮するように身を縮めるジゼルにヘロはぽかんと口を開ける。ゴーシェがふん、と鼻を鳴らす。

「つけるなら中性的な名前にしてやれよ」

「えっ、なんで?」

 ヘロがきょとんとすると、ゴーシェは肩をすくめた。

「シクルの性別なんて誰もわからないだろう」

「えっ、性別とかあるわけ?」

「……」

 ヘロとゴーシェはしばらく無言で見つめ合った。

「ないのか?」

「あるのか?」

 言葉が重なる。

 くすくすと笑う声が聞こえた。顔を上げると、ターシャがたくさんの服を手に抱えて立っていた。

「ゴーシェはね、意外と乙女みたいなところがあるんだよね」

「違う」

 ゴーシェはむすっとした声を出す。

「名前なんて、好きなようにつけてあげればいいよ。呼びたいように。あなた達がその子をどう呼んであげたいのか。大事なのは気持ちだよ」

 ターシャは微笑んだ。

「湯が沸いたから、先に身を清めてもらえるかな? その後食事にしよう。さあ早く、どうぞ」

 そう言って、にこにこしながらヘロとジゼルに着替えを手渡した。背中を押されながらヘロとジゼルは顔を見合わせる。

 入り口に、恐らくは駱駝の皮で出来た暖簾が掲げられた一室まで歩かされる。その向こうに見える白い部屋の床には、丸く掘られた不思議なくぼみがあった。中に澄み切ったお湯が張られている。

「は?」

「え?」

 今度はヘロとジゼルの声が重なった。

「あのさ、もしかして、お風呂に一緒に入れって言ってる……?」

 ヘロが確認するように呟くと、隣でジゼルの顔がみるみるうちに青ざめていく。ターシャとゴーシェは顔を見合わせて不思議そうに首を傾げた。

「うん? もしかして、あなた達の星では男女はお風呂に一緒に入らないのかな? マルスでは、水ももったいないし、普通は一緒に入るんだよ? ただうちのお風呂は狭いから……二人までが限度かな。だからね、お客人、お先にどうぞ?」

 ジゼルがふらりとした。おっと、と声を漏らしてターシャがそれを支える。

「無理……つらい……帰りたい……もう帰る……」

 ジゼルは泣きそうな声でぼそぼそと呟く。今更どこに帰るのかと言うつっこみはさておいて、ヘロは引きつった笑みでターシャに向き直った。すう、と息を肺に吸い込む。ゴーシェが何かを察して両耳をばっと手で塞いだのが見えた。ヘロは口を大きく開けて叫んだ。

「混浴とかあほか!」



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