第二章 惑星マルス
Episodi 12 氷と仔馬
頭がくらくらして、視界が揺らめく。
誰かの記憶、懺悔が自分の体に染み入ってきたような感覚があった。けれど、その内容を冷静に思い起こす余裕なんてなかった。朦朧とした思考の中で、視界 いっぱいの蒼の中で、風を切るような轟音から耳を塞ぎ、今自分たちがどこにいるのか状況把握をしようと、必死で頭を回していた。それなのに、まるでたくさ ん泣いた後のように胸が痛くて、体も気怠くて、思考はどんどんぼんやりと曖昧になっていくのだった。夢の中の誰かの心が、ヘロの心をたくさん引っ掻いて いった。
やがて視界に光が灯り、明るい青が目の中に飛び込んできた。いつしか轟音もやんで、聞こえてきたのは飛沫のような音だった。そのうち、ぽこぽこというこ もった音がヘロの耳腔を満たした。口や鼻から泡が漏れて、上へ上へと登っていく。ジゼルが咳込んで喉を押さえているのが、煌めく泡の向こう側で揺らめいて 見えた。ヘロはとっさにジゼルを抱き寄せた。足をばたつかせるけれど、人を一人抱えて泳いだことなんて初めてだから、なかなかうまく進むことができない。 ヘロは、水面に映る光の帯へと手を伸ばした。指の隙間から、ふわふわと光に透けて踊る、貝殻のような何かが見えた。水と同化して輪郭だけが七色に煌めくそ れを、思い切り握りしめる。五角形の角が肌に食いこんだ。――助かった!
ヘロは拳の中に閉じ込められたシクルを、親指でくるくると撫でた。ジゼルは息が苦しいのか、一層強くヘロにしがみついた。シクルは繻子織り《サテン》の
*
「くそ……死ぬかと思った……」
ヘロとジゼルは、しばらくげほげほと咳込んでは水を吐き、ぜえぜえと喘ぐことしかできなかった。唾液の混じった水がまとわりつく口元を乱暴に拭って、ヘ ロは顔をあげた。太陽がぎらぎらと光の筋をまき散らかしている。肌がじりじりと焼けていく。玉のような汗が滲んで、溢れる。
「どこだよ? ここは」
ヘロは叫んだ。
『ふむ。ここは惑星マルスのようだの』
シクルはぼそりと呟いた。ヘロは目を痛いほどに見開いた。
「はぁ? 星の反対側じゃないかよ。どうなってんだよ」
『知らない。ゲルダにでも聞けばよいのだ』
「くそ……っ。こんな風に移動するなんて聞いてないぞ」
ヘロは苛立ちのやり場もなく、シクルの羽から赤髪の縄を受け取り、手首にぐるぐると巻きつけた。顔を上げると、真っ青な雲一つない空が広がっている。眩しすぎて目がろくに開けられない。まるで晴天を睨みつけているみたいになってしまう。
本来、星々間の移動は蛇の道を通らなければならず、移動専用の列車が各惑星の駅を繋いだ線路――蛇の道の間を通っている。ただしその道筋は一本しかない ので、いきなりアポロから、アフロディテをすっ飛ばしてプルートの星だとか、それ以外の星に行く手段なんて本来ならばないのだった。
――『アポロの縄はねえ、本来、こういう事に使うために作られたんだよ。何も、家畜を躾けるためだけの鞭にするつもりはなかったのさ……まあ、鞭代わりにも使ったけどね』
アポロ自身の赤い髪に、玻璃を細く紡いだ糸を編み合わせて作ったものが神器【アポロの縄】の正体だとアポロは言った。一振りするだけで、惑星間を自由に 移動できる魔法なのだ。蛇の道が元々、アポロの縄を模して造られた物であり、八つの惑星を繋ぎ止める命綱なのだとヘロが知ったのも、アポロの言葉によるも のだ。
即席の縄だけれど、これでも充分に八回くらいの移動には耐えられるんじゃないかな、だなんて、実にのんびりとした口調で、自分の髪の四つ編みの房を掲げてアポロは言った。短くなった赤い髪を手で払い、随分とすっきりしたような表情で二人を見送ってくれた。
――『とりあえずは、私が最初の座標は設定しておくよ。一番いい場所をね。後は好きな場所に好きな時に移動するといい』
そう言ったアポロの言葉に、すっかり任せてしまったのだけれど。
「こんな……空から真っ逆さまに落ちて移動するなんて聞いてねえっつの。落ちた先がまだ水だったからよかったようなもんで、もし岩山だったらどうしてくれんだよ? 打ち所悪かったら死んでるぞ。 ていうか溺れ死にそうだったんだけど! どうしてくれんの! ああもう!」
ヘロが頭を抱えて叫ぶと、ジゼルがまだ少し咳込みながらヘロの顔を覗き込んだ。
「というか……どうして逃げなければいけなかったの? あと、ヘロ……そんなにかっかしちゃだめだよ……」
「なんで! 死ぬところだったぞ? 何でよりにもよって水の中に振り落とされなきゃいけねえんだよ! なんで柔らかい地面じゃねえの!」
「その、あんまりかっかすると具合悪くなっちゃう……」
ジゼルが言いきらないうちに、ヘロは「あっ」と小さく声を漏らし、ふらりと揺らめいた直後、ぱさりと紙きれのように砂上に落ちた。
「あ……やば……目の前が白い……なんか白い……」
「だから言ったのに……お水汲んでくるね。シクルさん、ヘロのことお願いね」
ジゼルは深く嘆息して、荷物の中から小さな水瓶を取り出した。
『まったく、世話の焼ける餓鬼んちょだよ』
シクルが溜息混じりにそう言った。
「うっせえ……」
ヘロは深く息を吐いた。具合悪い。うえっ。
「あー……荷物もびしょびしょ……後で乾かさないとね」
ジゼルは苦笑しながら立ち上がった。ジゼルの汗がぽたりと雨の雫みたいにヘロの頬へ跳ねて、ヘロは目を細めた。
暑い。信じられないくらいに暑い。
一面の砂漠は、けらけらと嗤うように日の光できらきらと輝いていた。
*
とりあえず、街を目指して歩くことにした。ジゼルには、シクルがぽつぽつと説明をしていた。どうしてこんな風に、逃げるような真似をしなければいけな かったのか――時計城で言われた言葉、追われると言うこと、監視されること。ウラノスの地図を見つけても、その先に未来が見えないこと。だから、せめて逃 げること。どこにも居場所なんてないかもしれないけれど。何の解決にもなっていないけれど。逃げるなら、あの時、ゲルダの家で、あの瞬間しかなかったこ と。
正直、暑さでやられていたのもあるけれど、それを自分の言葉でジゼルに伝えるのはヘロには非常に辛いものがあったのだった。だからシクルが代わりに説明 してくれて、ほっとした。しばらくは二人して無言で歩いていた。けれどそのうちあまりの暑さに、神妙さは掻き消えて、ヘロもジゼルもそれぞれに苛々し始め た。
「なんでこんなに砂しかねえんだよ……可笑しいだろ、この星」
『ヘロ。別に我を使役すればいいだろうに。二人を抱えて飛ぶくらい容易いぞ』
「俺が嫌なんだよ!」
『なにゆえだ……あ、もしやそなた、プルートの鏡を見てから無駄に我を使うのが怖くなったか? 我が傷つき物言わぬシクルになるのが怖いのか? ん?』
「うるっせえ!」
「もう……どならないで……疲れるから……」
ジゼルがむすっとした声で呟く。ヘロは眉根を寄せた。
「って、そっちはさっきからなんにもひとっことも話して無かったじゃんか。何が疲れるんだよ。荷物だって持ってやってるだろ」
「それはありがたいけれど……あのね、怒鳴り声を聞いてるだけで人間は疲れるの……」
ジゼルが深々と息を吐く。ヘロは絶句した。
「ど、怒鳴り声って……」
『ふむ、確かにただでさえ暑くて敵わない時に、横でぎゃあぎゃあ騒がれたら煩いだろうなあ』
「ていうかジゼル、性格変わってないか」
「暑くて……気を使ってる余裕が……ない……」
「普段のあれは気を使ってる結果なのかよ!」
「叫ばないで……」
二人ではあはあと息をつきながら歩く。足が深くずぶずぶと砂に沈んで、靴は砂まみれだ。踏みしめる度にじゃりっと走る嫌な感覚も、ヘロ達の体力を削いでいくのだった。
「水くれ」
「はい」
ジゼルが両手に抱えた水筒から水を注いで、渡してくれる。ヘロは温い水を一気にあおった。二人共、時間が経つにつれ、それ以外の会話ができなくなってきていた。
「ヘロ……あのね」
「なんだよ……」
不意に、ジゼルが呟いた。
「わたし……魔法、使ってもいいかな……」
「えー……使えるなら使ってー……」
暑さに朦朧として、頭がうまく回らない。
「もう、いいよね……どうせわたし達お尋ね者だもの……どうせ見つかったら捕まっちゃうんでしょう……なら別にいいよね……もうなんだかとってもどうでもいいの……」
「……うん? なんかよくわかんねえけど、待てな……諦めるのはまだ早いって……ていうかお前ほんと暑さに弱いな……声の出し方めっちゃ投げやり……ていうか何してんの?」
立ち止まったジゼルをヘロは振り返った。
ジゼルは、物凄く虚ろな目でヘロを見つめ返した。あ、これはやばい、とヘロの本能が訴えかけてくる。これは、倒れる寸前の顔をしている。
「何って……あは」
ジゼルは笑った。やばい。やばいやばい。何この子いっちゃってんの。というかこんな子だっけ? おかしくないか? 頭の中が混乱するし、暑いし、なんだかもうわけがわからない。
ジゼルは口元に怪しい笑みを浮かべながら、ヘルメスの杖の先で砂の上に何かを描き始めた。
「氷……氷……氷の結晶……いっそ氷のお馬……たてがみも氷……そうね、そうだ……それがいいよ……あは」
ぶつぶつと呟くそれは、非常に気味が悪かった。
「おいお前……まじで大丈夫か……とりあえず水飲めよ、な? 絶対お前、今脱水状態でやばいって……」
「黙ってて……あとこっちによらないで……線消したら怒るよ……? あは」
――まじでだめだ、こいつ、やばい。
ヘロは青ざめた。ジゼルは顔を真っ赤にして、変な笑みを浮かべていた。これは完璧に、具合が悪くなる一歩手前だ。
「なあ、お絵描き?とかいいから水飲もうぜ、あと俺が悪かった。シクルでもう飛ぼう。普通に最速で街に――」
どん!
「へ? うわっ―――――」
ジゼルが、描いていた絵の中心に杖の先を振り下ろした。何か気に障ったのだろうかとヘロは思わずぎゅっと目を閉じた。ひんやりとした粒がぱらぱらと頬に降ってくる。これは――氷? 冷たい何かの舌がぺろりとヘロの頬を舐める。
「うわぁ!?」
反射的に飛び退いた。目を開けると、ヘロの目の前に人懐っこい目をした小さな青い仔馬がいた――
一角獣だ。角はまるで氷柱のようで、たてがみも雪のようにふわふわとなびいている。真っ白な馬――その頭上には白い雲が浮いていて、絶え間なく雪を仔馬に降らしている。
「ああ……冷たい」
ジゼルが仔馬にすり寄った。仔馬は嬉しそうにジゼルの額を舐めた。ヘロはただ唖然として、その光景を眺めることしかできない。
「な……なんだよ、これ?」
『魔術のようだな』
「な……こんなもの見たことないぞ!?」
ヘロは叫んだ。シクルはヘロの顔の周りでくるくると回転した。
『ふむ。我にもよくわからないが、その娘の描いた通りのものが出てきたぞ。実に絵心のある娘だ』
「いや、俺が知りたいのはそういう事じゃなくって! ていうかジゼル、お前魔法使えないんじゃなかったのかよ?」
「教科書通りの魔法は使えないの」
少し冷えて体調がよくなったらしいジゼルは、いつものはにかんだような笑みで答えた。
「教えられたとおりに計算をして、図を正しく描こうとしても、上手く描けないの……でもね、わたしが好きなように絵を描くと、絵に描いたものがこうやって 具現化するんだ……一日に一回しか使えないんだけど……眠くなると使えないし、消えちゃうんだけど……ばぁばに人前で見せるなって言われてたの。それは 使っちゃいけない魔法だから、使ったら捕まえられて牢屋行きだよって。だけど……どうせ見つかったら捕まっちゃうなら、隠さなくてもいいよね? だって、 暑かったんだもの……」
ジゼル小首を傾げ、輝くような笑顔でそう言った。
「はあ……」
ヘロはぽかんとしながら仔馬の鼻筋を撫でた。仔馬は気持ちよさそうに鳴いた。
*
仔馬の背中にジゼルを乗せて、仔馬の手綱を引きながら歩いてしばらく経った頃、真っ白な何かが遠くに見えてきた。
「なんだ? あれ……」
ヘロは手招きするようにシクルを呼び寄せると、いつものように指先で表面をくるくると撫でた。シクルは五角形の光を四つ、縦に浮かび上がらせた。ヘロはシクルとその四つの光を望遠鏡のように透かし見て、遠くの景色を観察した。
白い砂でできた直方体の石を、互い違いに積み重ねた箱型の家が立ち並んでいる。その合間合間に、枝の細く背の低い木も見える。
「街だ……」
『ふむ。やはり水場の近くにあるのだな』
「近くだぁ? どこがだよ? 随分歩いたぞ」
ヘロはシクルから目を離した。
『それはそなた達が、この星の環境に慣れていないせいだよ。この星の民にとってはこの暑さも普通のことだろう。そなたがアポロの星で端から端までひょいひょいと歩いていたように、このくらいの距離は彼らにとっては大したことなかろうよ』
シクルは五角形の光をくるくると回した。
「ああ……なるほど」
ヘロは嘆息した。
「ジゼル、さすがにこの馬、あの町に持っていくのはアレじゃね? 人目があるしさ。消せない?」
「うん、わかった」
ジゼルはもぞもぞとよじ降りるように体を動かした。ヘロはやれやれと嘆息しながら腕を伸ばしてやった。仔馬と言えど、身長の低いジゼルにとっては降りるのも容易な高さではない。
「あっ」
「ちょ」
ジゼルはぐらりと体勢を崩した。その身体をとっさに抱きとめて、ヘロは深く嘆息した。体が小さいと言っても意外と重い。赤ん坊を抱くのとはわけが違 う。………死んでも言わないが。腰を痛めたような気がして、ヘロはジゼルの身体を離しながら腰をさすった。ジゼルは顔を真っ赤にしていた。
「あ、ありがとう」
「いいえ」
『青春だの』
「はあ?」
ヘロがふわふわ舞うシクルを振り返った途端、ジゼルはヘルメスの杖を大きく振り回した。
「ちょ、何?」
ヘロは思わずしゃがみこんだ。ぶん、と音がして、杖がヘロの頭のあった場所を旋回する。シクルも慌てたように砂の上へぱたりと落ちた。ぱりーんと言う音 が響いて、仔馬はきゅう、と鳴くと氷の破片になってしまった。破片は熱を持った砂に触れて、あっという間に溶けてしまう。ヘロが緩慢に視線の先を移動する と、ヘルメスの杖を砂の上に振り下ろしたジゼルの姿が見えた。ヘロは擦れた声で言った。
「あのな……ヘルメスの杖はそういう使い方をするためにあるんじゃねえし、大体その退場のさせ方はさすがに仔馬がかわいそうだし、お前そのなりでなんでそんな意外と豪胆なんだよ……引くぞ」
「あ……うん……ごめんなさい……」
ジゼルは肩をすくめて背中を丸めた。
「いや、俺に謝られても……」
他に言葉も浮かばず見つめ合う。ジゼルの行動が衝撃的過ぎて、周りに気を配っていなかった。だから、自分の身体に大きな黒い影が差したことにも、すぐに気付かなかった。はっとして振り返った時には、丁度澄んだ水のような若々しい声が、降ってくるところだった。
「おい、お前達。何者だ」
ヘロとジゼルはびくり、と肩を震わせた。ジゼルは俯いて、両手で顔を覆った。ヘロは自分に影を作ったものの正体を見つめて、口を引き結んだ。
背中に二つの瘤を持った奇妙な四本足の馬。その背中に跨っていたのは、灰青の布を頭と首の周りに巻いた、金髪に褐色の肌の少年だった。少年は、濃い藍色の眼で、二人を射抜くように見降ろしていた。
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