Episodi 7 薔薇と闇
「こんにちは!」
ジャクリーヌは花のように笑う。ジゼルは身を硬くしながら笑おうと努力したけれど、そんなのは気にしていない様子でジャクリーヌはよいしょ、と大きな荷物を扉の隙間からこじ入れる。その大きさに、ジゼルは目を丸くした。
「……なんでそんなに大荷物なんだよ……ていうかそれをもって行くつもりでいたわけ……」
「あら、これでも減らしたのよ? 女の子は大変なんだから……」
ふうふうと息を荒く吐きながらジャクリーヌは額の汗を拭うような仕草をして見せた。一つ一つの動作が可愛いから困ってしまう。ジゼルは俯いた。ヘロが軽々とそれを持ち上げてそっと床におろす。
「女の子は大変ったって……」
ヘロは嘆息する。
「だってねえ、いくら野宿もあるかもといわれても、最初からそのつもりで妥協するってかなりの勇気がいるのよ? それに、もしも恥もかなぐり捨てる日が来るならその時売ってしまえば資金の足しにもなるでしょう? まあ……そう思ってたし、少々重くても【勇者】様が持ってくれるかなあって期待はしてたけど」
「冗談だろ……勘弁してよ」
ヘロは嘆息する。
「もちろん、冗談のつもりよ」
ジャクリーヌは肩をすくめた。
「とはいえ……確かにこれは多すぎるわね。私なかなか取捨選択ができないのよ……多分、もし私が【魔道士】に選ばれても結局これをあなたに持たせてしまったんだわ。だから、選ばれなくて却ってよかったもって思っちゃって。三ヶ月も前から準備してたのに、減らして減らしてこの量なんだもの」
罰が悪そうにジャクリーヌは笑って頬をかいた。二人の会話を目で追うように眺めていたジゼルと目が合う。ジャクリーヌはジゼルにはにかむように微笑んだ。
「あ、でもね、使い捨てのものというか……絶対に必要なものもいくつかはあるのよ。だから持ってきたの。準備も追いつかないでしょう? 持って行っていいわよ。旅でしか使わないようなものもあるし。ね、ジゼル」
ジャクリーヌはジゼルの前にちょこん、と座った。
「あ……」
ジゼルは杖をぎゅっと握り締めて俯いた。
「名前……」
知ってたの?と言いそうになって、ぎゅっと口を引き結ぶ。どうしてだろう。彼女が自分の名前を呼んでくれたのが、とても嬉しくて涙が出そうだった。殆ど話したこともなかった。おちこぼれの自分と、優秀な彼女が、同じ教室にいることでさえ奇跡だと思っていた。覚えられていなくても当然だって。視界にも入っていないだろうって。
ジゼルの声はジャクリーヌには届かなかったようで、ジャクリーヌはきょとんとして首をかしげていた。
「何入れたらこんなに膨らむんだよ」
ヘロはじっと荷物を見つめている。ジャクリーヌはきっ、とヘロを睨みつけた。ヘロがひるむ。睨む姿まで可愛いだなんて。困ってしまう。ジゼルは二人から目を逸らせないまま、どこか怖いもの見たさな気持ちで二人を見つめていた。
「あのね! 女の子の荷物を覗こうとかしちゃだめ! それって基本でしょう? ほんっとに配慮が足りないんだから……さあさあ、ここからは女の子同士の秘密の話よ、ちょっと出てってくれる?」
ジャクリーヌは頬を膨らます。
「いや、ここ俺の部屋……」
「だまってらっしゃい!」
「はーい」
ヘロは首筋をかくと、すごすごと扉の向こうへと消える。ジゼルは呆気にとられてそれを見つめていた。ジャクリーヌがジゼルに向き直って、恥ずかしそうに笑った。
「ごめんね……私って結構気が強いでしょ?」
「え……そんなこと……」
ジゼルは俯く。ジャクリーヌはふわりと笑った。
「触っても、いい? 一度だけでいいの」
ふと、ジャクリーヌは寂しげな色を翡翠のような瞳に滲ませた。その視線は、ジゼルの抱えたヘルメスの杖に注がれている。
「あ、ど、どうぞ」
ジゼルはぐいっと杖を差し出した。ジャクリーヌは困ったように笑って手を振った。
「あ、いいのいいの。そこまでは……もうこれは私のものじゃないから……ただ、ちょっとだけ、触りたかっただけなの」
そう言って、ジャクリーヌはおそるおそる杖の三日月を指で撫ぜた。
「お別れが……言いたかったの。今までありがとうって……馬鹿ね、私、この子に拒絶されたのに」
ジャクリーヌの指は、空で揺れた。
「ずっと、一緒にいたのにな……」
青緑色の瞳の側で、涙が滲む。ジゼルはそれを見つめていることしかできなかった。罪悪感が押し寄せる。この目は――この眼差しは……。
本当に、ジャクリーヌはこの杖を大切にしていたのだ。ただの道具としてではなくて、ジャクリーヌにとっての一部だったのかもしれない。それをわたしは、奪ってしまったのだ。わたしがいたから、この人はこの杖に拒まれなければいけなかった。
「突然来たからびっくりしたでしょう?」
ジャクリーヌは首をかしげて哀しそうに笑う。
「ヘロからね、荷造りの仕方とか、魔道士としての心得とか、私が今まで覚えてきたこと、あなたに教えてやってくれって頼まれたの。あなたは何も知らないだろうからって。きっとそうだわね……だって、みんな、昔から、私が魔道士になるって疑わなかったの。だからきっと、他の子は――あなたに限らず、みんな何も教わってはいないはずだわ。誰だって教わる権利があったのにね。でも私もそれに甘えてたんだ。だから罰が当たっちゃったのかな」
「そんなの……」
そんなことない、と言いたくて、けれど、その言葉はひゅうという喉から漏れる音となって消えてしまった。
「いいの」
ジャクリーヌは笑った。
「謝らないで。あなたは悪くないもの」
「でも……」
「でも、じゃないわよ。だって本当に誰も悪くないんだもの。なのに、みんな失礼しちゃう。私のこと可哀相だなんていうのよ。あなたのことをすっごく悪く言ってる。馬鹿みたいだわ。そんなことされたって全く嬉しくなんかないわ。言葉の表面だけで私の肩を持つような振りして、それで私が喜ぶとでも思ってるのかしら。浅ましいわ。ううん、そもそもあの子達は……私の味方をしてるわけじゃないのよ。ただ、選ばれなかったことに嫉妬してるだけ。その嫉妬を、あなたにぶつけて正当化してるだけだわ。くだらないわ。だから私言ってやったの。『じゃあもしも、あの子じゃなくてあなた達が私の変わりに選ばれてしまってたら、あなたは私がかわいそうだからって魔道士の権利を私に譲ってくれたの?』って。『私のために魔道士を辞退してくれたの?』ってね。だーれも何にも言えなかったわよ? ばっかみたい」
強い口調でそう言って、ジャクリーヌは笑った。まるで誰かを……蔑むように。
「私だってね、ずっと、嫉妬とかされて、すっごく息苦しかったのよ。だからね、選ばれなかったことは辛かったけど、でもそれでもいいかなって。私、やっとみんなの期待や嫉妬から解放されるんだ」
ジゼルはそう言って、荷物を綴じ付けた紐を解いていく。
「でもね、私、人間はできてないから……ヘロからこんなお願いされて、なんだか最初は嫌だったのよ。そっとしておいてほしいのになって。でもね、ヘロも悪気はないの。女ってなんというか、目先のことしか見えないのよね。それを私はすごく自覚してるの。ヘロはそういうところには鈍感だけど、でも私と違ってもっと先のことをいつだって見てるわ。あなたにとっては必要なことだもの。あなたはヘロの
ジャクリーヌは鞄を開く。
「これ、一応手とか体を洗うための石鹸ね。それでね、香りは白薔薇の香りなの。これはヘロがなぜだか好きな香りなのよ。ちょっと変わってるでしょう? これ、持っていって使って。なんならヘロにも使わせてあげて」
「えっ」
ジゼルは激しく戸惑った。まさか、最初に渡されるものがこういうものだとは思わなかったのだ。
「あ……ごめん、びっくりした? 数が結構多いし……これね、結構高いんだ……旅の途中で調達できる保証もないから結構詰め込んじゃって……あ、数の問題じゃないか」
ジャクリーヌは肩をすくめた。
「ヘロね……ああ見えて、
ジャクリーヌは静かに呟いた。
「あと、これ、下着ね。あ、心配しないで。これ一応まだ使っていないの。汗をかいてもさらさらする素材なのよ。いつお風呂に入れるかわからないしね。持っていっちゃって。あとこれが月のものが来たときのための使い捨ての……一応手洗いで使えるものもあるから、両方……。これは、香水。薬草の香りなんだけど、嫌な匂いを吸収してくれるから……女の子って月のものがある時は独特の匂いがするんですって。一応ね、男と女の二人旅だし、何しろお風呂に入れないし……そんなに量はないけれど、月のものが来たときにはつけておいてね。あ、あと頭皮にもつけるといいかも……殺菌効果もあるんですって。これもあげるから。あと、これは非常食。多分どこでも買えるとは思うけど、大切に食べてね。これはお茶の葉なんだけど……どうかな、いるかしら……」
ジャクリーヌは唸る。ジゼルはただ唖然として聞いていることしかできなかった。
こんなにも、気を使っていただなんて。
「あ、あとこれは燻し灰って言って、焚き火をするときに少し振りかけてみて。すごくいい匂いがするの。これもヘロにいいかと思って……。あとね、服は……身長が違うからあげても役にはたたなそうね。できれば
ジャクリーヌは、どこか辛そうに肩を震わせた。
「ジャク……リーヌ……?」
ジャクリーヌは深く息を吸って、吐いた。
「今から言うのが、多分一番……大事なことだから」
ジャクリーヌは何かを取り出して、ジゼルの手に乗せた。
「万が一何かがあっても、赤ちゃんができないようにするための、薬」
ジゼルの指の隙間からそれがぽとり、と床に落ちた。体が震える。血の気が引いた。何を――この子は、何を言っているのだろう。震えて、怖くて、顔が上げられない。
「ごめんね、怖がらせて。でも、大事なことなの。あのね、女の巡礼者はみんなこれを必ず配布されるのよ。本当はね、私もこんなことは言いたくないし、こんなもの、荷物に入れたくもなかったの。でもね、大事なことなの。ヘロには言わないで……嫌われたく、ないの」
「こんなの……」
ジゼルは唇をかみ締めた。
「こんなの、なくったって……いらないわ……」
ジゼルは声を振り絞った。涙が滲む。どうして痛いんだろう。どうして哀しいんだろう。どうして、こんなことをこの人に、言わせなければいけなかったんだろう。
「私も、最初にね、先生に言われたとき、そう思ったの。そんなこと知りたくなかったの。私ね、結局親にもこれを言えてないのよ。またお父さんも何も言わなかったのよ……もしかしたら、大人は当たり前のことのように知っているのかもしれないわね。こういう、ことを」
ジャクリーヌは苦しげにそう言った。
「巡礼は、神聖な儀式なの。だからね、万が一にも、子供なんてできたらだめなのよ。それが巡礼者に課された責任の一つよ。もしも……もしも万一のことがあったら、その日のうちに飲んでね。飲み込んで」
「大丈夫よ……そんなのないから……わたしは……わたしは、あなたから、彼を取ったりしないわ……とりたくなんか……わかって……お願い……」
「別にいいのに」
ジャクリーヌは笑った。
「いいのよ、だって私達、もう別れてるから」
「え?」
ジゼルは顔を上げた。ジャクリーヌは目を細める。
「あのね、まだヘロには言っていないんだけど。でも明日言うつもり。もう決めたの。みんながね、ヘロは私の恋人なのに、あなたなんかと一緒になってかわいそうだ、ジャクリーヌがかわいそうだって言ったのよ。だから私言ってやったの。とっくの昔に別れてるからそんなことなんてことないって。むしろ、一緒だと気まずかったから却ってよかったかもって。そしたらみんな黙っちゃった。ざまあみろだわ。私が……こんな薬を荷物に入れなきゃいけなかった気持ちも一つも知りやしないでさ。随分だわ。私、これを飲まなくていいし、もう二度とそんな薬持たなくていいならちょっとだけせいせいするわ。別に……あなたが嫌いであなたにこれを渡すわけじゃないの。ただ……持っておかないと、だめかなって。すごく迷ったの。でも、これは渡さないとって思ったから、来たの」
ジャクリーヌは吐き出すようにそう言った。
「あなたは……わたしが、嫌いになった?」
ジゼルはその翡翠のような光のない瞳を見つめて言った。ジャクリーヌは首を振る。
「そうじゃないわ」
「ヘロはそんなことしないわ。わたしもそんなことにはならないわ」
「そう? でも、あなたはヘロのこと好きでしょう?」
「あなたは勘違いをしているわ。別れる必要なんかないわ……わたしを、ほかの、あなたに悪意を向けるような、ほかの子達と一緒にしないで……」
「わかってるわ、ジゼル」
ジャクリーヌは苦しそうに呟く。
「あなたは、あなただけはね、私に嫌な目を向けないでいてくれた。知ってたわ。でもあなたがあの人をずっと見ていたのも知っていたの。だって、気づいちゃうじゃない。あなただって知ってたんでしょう? 私の気持ちを。私、こんな形でしかあなたを見送れなくてごめんね。でもね、本当に……私、あなたを恨んでなんかいないの。でも自分でもよくわからないの。だから私、別れるの。私と付き合っていることが、私とヘロの枷になっちゃうの。だから私は区切りをつけたい。でも、でもね、もしもいつかあなた達が帰ってきて、それでもあの人が私を忘れないでいてくれるなら、私はあの人を奪うわ。それでもいい? 私はあの人を待っていたいの。苦しまずに、待っていたいの」
そう言って、ジャクリーヌはもう一つ何かを取り出した。
「それから、これ。お金。本当は支給される以外には持っていちゃだめだけど、念のため」
「いらないわ!」
ジゼルは声を上げた。
「わたしは……何もいらない……いらないわ。全部いらないわ!」
涙が零れて止まらない。ジャクリーヌは捨て置かれた子供のような顔でジゼルを見つめていた。
「わたしは……」
ジゼルは、床に散らばったジャクリーヌの持ち物を、ヘロのためだけに集められたそれらを見つめてぎゅっと目を閉じた。目の中に残されていた涙がぽろぽろと粒になって落ちていく。
「石鹸と、薬、それだけもらう。あなたのために、それだけを持っていくわ。それがわたしの、あなたへの気持ち……それでもいい? わたしには、あなたみたいに彼を思いやることも彼のために香りを纏い続けることもできない。これが精一杯。お願い。これ以上、わたしに求めないで」
「充分だわ」
ジャクリーヌは哀しげに笑った。
*
ヘロは、食卓の上に並べられた食器を眺めて眉を寄せていた。
「母さん。明らかに数がおかしいと思う」
「うん? どうして?」
「一人分多い」
母さんは首をかしげる。
「何よ? あなたがジャクリーヌを呼んだんじゃないの。ジャクリーヌだけ、はい、あなたは無関係だから食べないで帰ってね、だなんて言えないわよ」
「でも……さすがにそれはおかしいよ。ジャクリーヌだって居辛いだろ」
「あなたこそ、何を言っているの?」
母さんは眉根を寄せる。
「じゃあ、どうしてあの子をここに呼んだの? 母さんが無神経だとでも言いたいの? ヘロ、あなたのやっていることのほうがずっと無神経よ。母さんはね、あなたの考えなしの行動一つで誰が傷つくのか、あなたにちゃんと教えなきゃいけないの。母さんを責めるなんて、お門違いなことはやめなさい。それに、子供は母親を責められる立場じゃないわよ」
ヘロは目を見開いた。震えた唇が、微かに開かれる。
「反抗と、親を責めるのは、違うよ、母さん」
「あら、これがあなたの反抗だというの? 反抗期がやっと来たの? なら母さんはますますあなたと戦わなければいけないわ。あなたと一緒に居られるのも今日で最後なんだから。最後まで、大人になるために必要なことをあなたに教えるのが母親よ。いい加減にして頂戴。後足に砂をかけてこの家を、この星を出て行くつもり? あの魔道士の女の子を家に呼んでまでお話しするよりも先に、あなたは母さんや父さんやジャクリーヌと話す時間が必要だったはずでしょう。大切だったはずでしょう。最後の最後で失望させないで頂戴。母さんは確かにあなたに勇者になって欲しかったわ。恐らく父さんは勇者に選ばれたんだからなんだっていいじゃないかと言うでしょうね。でも母さんは違うわよ。勇者にならなくたって母さんはあなたを責めなかったわ。母さんにとっては、あなたがちゃんとした大人になっていくことのほうがずっと重要なのよ」
そう言って、母さんは深く溜息をついた。
「さあ、手伝いなさい。今日はお料理が多いんだから」
「食べない」
「何?」
「いらない……」
ヘロは呟いた。
「勇者にならなくったって別によかったって? じゃあなんで……なんで、今までのことは、なんだったんだよ。じゃあなんでそんな料理を作ってんだよ。矛盾してるよ。おかしいよ! ちゃんとした大人だって? 母さんは俺が……自分の息子が、まともじゃないとでも言いたいの!」
母さんは、深く深く息を吐いた。眉間に皺を寄せて。そうしてヘロを見た。その眼差しは、まるで憎むように睨んでいる。少なくとも、ヘロにはそうとしか見えなかった。
「こんな……おめでたい日に、あなたはそんなことしか言えないの? 自分の頑張りを認めて欲しいの? 母さんだってあなたと同じ人間よ。あなたと同じ子供だったのよ。あなたこそ、母さんの頑張りを認めないの? それで私に認めて欲しいだなんて駄々をこねるの? ヘロ、あなたは【勇者】よ。もう子供じゃないの。甘えたことを言わないで」
ヘロは、表情を消した。
「ごめんなさい、母さん」
母さんはどこか苦しげな、傷ついたような顔を浮かべた。ヘロにはどうすることもできない。何がだめだったんだろう。どうして、こんな風になってしまったんだろう。ヘロは口の端を吊り上げた。
「ごめんなさい、母さん……ちょっと……神経質になってたんだ……許してくれない? 俺……母さんを傷つけてごめんね、ちゃんと、食べるから……ごめんなさい」
「やめなさい」
母さんは顔を逸らした。
「いいから、母さんは別に怒っていないわ。ほら、手伝って頂戴。今日は大勢で食べるんだから。母さんはただ……あなたが美味しいって笑って食べてくれたら……」
ヘロはその言葉を殆ど聞いていなかった。母さんが望むように、母さんがこういうお祝い事で使おうとする皿を食器棚から取り出す。機嫌をとらなきゃ。母さんの機嫌が直るように。母さんが望むことを何も言われなくてもやらないと。椅子を揃えて、食器を拭いて、花瓶の水を替えて――。
母さんが哀しげに笑っているような気がする。どうしてそんな風に思わなければいけないんだろう。謝ってよ。少しは謝ってよ、母さん。何も、あんなに言わなくたって――でも、俺が、きっと悪いから。
ヘロは涙をこらえて、母さんの目を見ないようにした。
母さんはただ、鍋の中身をを静かにかき混ぜていた。
父さんだけが幸せそうに笑う食卓で、母さんが笑っていることにほっとして、ジャクリーヌの隣に座って、ジゼルの顔なんか見ないで食べたそのとっておきの料理は、味なんてよくわからなかった。母さんが作ってくれたのに。楽しそうに、嬉しそうに作ってくれてたのに。どうして、俺は、美味しいと思えないんだろう。それでも、美味しいって伝えたい。ありがとうって伝えたい。俺はただ、父さんと母さんを嫌いだなんて思いたくなかっただけなんだ。知らないうちに、ジャクリーヌの手を食卓の下できつく握り締めていた。ジャクリーヌは何も言わず、そのままにしていてくれた。早く、早く夜が明ければいい。そうして、笑って家を出るんだ。大丈夫、いつかはきっと帰って来られるから。その時にはこの日を謝ろう。それまではどうか、貼り付けの笑顔で星を出る俺を、見捨てないで。
「そうだ、ヘロ」
不意に、ジャクリーヌがよく響く声で呟いた。父さんと母さんの視線が――そしてジゼルの視線も、ジャクリーヌに集中する。
「あのね、明日の皇太子様への謁見だけど……あれ、私が出なきゃいけないみたい」
「は?」
俺は眉根を寄せる。
「どういう意味?」
「本当は、魔道士はジゼルだから……ジゼルが出るべきなのに、先生達も、向こう側も、私に代わりに出るようにって言うの。今まで私をあれだけ【魔道士】だって言ってたものだから体裁が悪いんですって。だから表向きは、私ということにして。でも、もちろんあなたと旅に出るのはジゼルよ」
「はあ?」
語気が荒くなる。ジャクリーヌを思わず睨みつけていた。
「なんでそんなのはいわかりましたなんて受け入れるんだよ! おかしいだろ! そんなのお前だって恥かかせられるようなものじゃねえかよ! ジゼルだって蔑ろにされてんじゃないか! おかしいだろ!」
「そういうものなの。仕方ないじゃない……私だってやりたくなかったわ」
「ヘロ、巡礼者は個人のものでもないし、アポロだけのものでもない。連合星全体の問題だ……大人しく、言うことを聞きなさい」
父さんが、痛ましげな様子でヘロの肩に手を置く。母さんは何も言わなかった。
顔を上げると、ジゼルはただ、表情のない顔で俯いていた。ヘロの視線に気づくと、へら、と笑った。
ヘロは必死で言葉を飲み込んだ。早くこんな家から出て行ってしまいたい。こんな星から。知らない場所へ、あんな変な笑い方しかできないジゼルを連れて逃げださなければならないような気がした。こんなの、正義じゃない。俺には、理解できないし、それを肯定なんてできない。したくない。
ヘロはジャクリーヌに腹を立てていた。そんなこと……ジャクリーヌは受け入れるような娘ではないと今までは信じていたのだ。ふとその横顔を見ると、ジャクリーヌは妙に大人びた表情でお茶を飲んでいた。一人だけ先に大人になってしまったんだろうか、それとも、ずっと前から、大人になっていたんだろうか。悔しかった。そこに追いつけないで居る自分が、とてつもなく情けなかった。
味のしない食事を喉に流し込んで、皿を片付ける。ジャクリーヌが当然のようにヘロと並んで、食器を洗う。やがてジャクリーヌは、遅くなるからと言って赤い夕焼けの中を一人で帰っていった。今日は、家まで送っていってやる気持ちになれなかった。母さんは送って行けといったけれど。赤い色が薄く灰を帯びていく。苛立ちが落ち着いて、明日会えるのだから、その時謝ろうとヘロが溜息をついた頃、玄関の扉がこつこつと鳴らされた。
「ごめんください」
小さな声が、扉の向こうから篭って聞こえる。父さんがゆったりと立ち上がって、不思議そうに扉を開く。
「こんばんは。長くお世話になるわけにも行きませんので、うちの娘を迎えに来ました。ご挨拶が送れて申し訳ない」
装飾品をジャラジャラと身に纏い、頭をレオ(フード)で隠した老婆がそう言って口元に笑みを浮かべた。
「ばぁば……」
ジゼルが小さく声を零す。
「私はご馳走など作って上げられないのでね、いや、あり難いことです。うちの娘が本当にお世話になりました。さすがに泊まらせるわけには行きますまい。いや、そう硬くならないで頂きたい」
ゲルダ=フェルフォーネはにっこりと笑って見せた。父さんと母さんは顔を見合わせる。
「それで……礼と言っては何だが、今晩は息子さんを……【勇者】をわが家に泊まらせてはもらえないだろうか? 何、勇者の心を説いて聞かせる必要があるのですよ。本当は光の色づく明るいうちに私の元に寄っていただく予定だったのですがね。話がきちんと伝わっていなかったようだ。明日は時間もないでしょうから、今日のうち。何、無理にとは言いませんよ。その分明日の出立が遅れてしまうことにはなりますがね」
「ですが……」
父さんが言葉を濁す。母さんは、ゲルダとヘロの顔を見比べて。胸の前できゅっと手を握った。
「わかりました。私たちは充分に【勇者】と【魔道士】に手向けました。次はあなたの番でしょう。先代の【魔道士】」
「おや」
ゲルダは口の端を吊り上げる。
「知っていましたか」
「ええ、有名ですわ」
「そうですか」
ゲルダはくすくすと笑う。
「ではお借りしましょう」
老婆にしては朗々とした声が、灰色に暮れた夕闇に溶ける。
「まあ、そんなものは噂ですがね」
ゲルダは楽しげに呟いた。
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