Episodi 8 赤紫と星空

 灰色の空に紺の色が滲み忍び寄ってくる。

 白い星達がちかちかと満天に瞬く。二つの月が銀と金に翳って浮かんでいる。

 星の薄明かりの中でかろうじて見えるのは、前を歩くゲルダとジゼルの、靴の踵――銀色の足跡だけだ。

 ヘロは小さく息をついた。その形には旅立ちに抱えるつもりだった小さな荷物が吊り下げられている。

 明日はゲルダの家から直接寺院へ向かう。そこで皇太子様に謁見して、洗礼を受け、旅の目的を初めて耳にすることになるだろう。そうしたら、さよならだ。少なくとも、ヘロ自身の少年期を、アポロの土の上に置いていかなければならない。

――母さんと父さんに、きちんと行ってきますと言わなかったな。

 手紙を出せばいい。届くかはわからないけれど。きっと、いつかは謝れる。いつかは。

 今は、苦しい。こんなにも自分が、親への不信感を零さないようにと気を張り詰めてきていただなんて、今日まで自分でも気づかなかった。馬鹿だ。

 二人に喜んで欲しかっただけなのに。

「星……この惑星アポロもまた星。しかし空に浮かぶあの白い瞬きも星。奇妙なことだとは思わないか、少年」

 ゲルダが笑うような声で言った。ヘロは顔を上げる。

「何の……話ですか」

「いや、何。君はずっと星を仰いで歩いていたからね。夜空に興味があるのかと思ったのさ。君達の通う学校とやらは何一つ大事なことを教えやしないようだからね。誰もが一度は疑問に思うことを、その疑問さえすりつぶしてしまうのさ。林檎や茶の葉じゃないんだから、そんなことは必要すらないのにねえ。どうしたって人間というのは大人になればなるだけそういう疑問さえ考えなくなってしまうのにね。無理にすりつぶさなくたってねえ」

 ゲルダはくすくすと笑う。

 ヘロはその背中を見つめていた。自分よりもずっと大きく広い背。黒い外套に覆われて、闇なのか人なのか戸惑うことすらある。

「空にはなぜ星があるの」

 ヘロは呟いた。

「それを聞いただけで、俺達はぶたれましたよ。答えは、そういうものだから。そう考えるしかないんです」

「ふん、だから人間はたいした魔法を使えないのさ。愚かだねえ」

「まるで、あなたは人間でもないとでも言いたいような口ぶりですね?」

 ゲルダは足を止めると、ゆっくりと振り返った。レオフードの隙間から、にやりと三日月のように笑みを深める。

「お前、変わり者だといわれるだろう」

「生憎、俺は地味で目立たないように生きてきたのでそんなことはありませんでしたよ」

 えっ、とジゼルが小さく呟いた。ヘロはジゼルを思わず睨んでしまう。ゲルダは肩を震わせる。

「くく……そのなりで、地味だとはねえ」

「髪も好きでこうなったわけじゃないですよ」

「そういうことを言っているんじゃないよ、おちびさん」

 ヘロはむっとした。

「いいかい、このアポロも、そしてプルートやアフロディテ……この八つ星の全ても、またあの空に浮かぶ星も、宇宙という闇に浮かぶ一つの球体でしかないのさ。その球体に腰掛けて、宇宙を眺めてごらん。おや不思議。宇宙は途端に色づいて見える。青色、赤色、紫、白銀、緑、全ての色にね。けれどそれは錯覚なのさ。私が孤独ではないのだと、ここにいていいのだと思い込むためだけに、私達の目は世界を歪んで捉える。それは君達人間も同じさ。なあんにも変わりはしない。人間が星の真実を隠そうと躍起になるのは、過去に犯した罪をひた隠しにしたいからさ。なかったことにしたいのさ。消してしまいたいのさ。またそして、人間はそれを消してしまえるのだから恐ろしいねえ」

「過去に犯した罪って……」

 ヘロは眉をひそめた。

「それは、人間が神を裏切ったことを言っているんですか。昔」

「おや、それが罪だとでも思っているのかい?」

「いえ……そういうわけでは。ただ、神様から見れば、それは罪なんじゃないかなって」

 親から見て悪いことは、例え子供にとっては正義でもそれは全て【悪いこと】でしかない。

「神様って、要は親みたいなものなんでしょう。きっと、ずっと締め付けてきたんだ、人間を。だから人間は神様から逃げ出した。そう教えられたし、俺だってそう思ってる」

「ほう? 少年、君は親から逃げ出したかったってことだね」

「ちが……っ」

 闇夜に声がぴんと針金のように揺れる。

「君がそう思ってしまうのは、君が人にしては繊細すぎるからさ。けれどその繊細さがこの八つ星を蛇の道で繋ぎとめた。それなのに人間はその繊細さを恐れて、子供が世界に生まれ落ちるたびにそれを林檎のようにすりつぶしてしまうんだよ。必死でね。そうして土にばら撒いて、海に沈めて、命を繋ぐのさ。人間の歴史とはそういうものさ」

「ばぁば」

 ジゼルがためらいがちに口を開く。

「あまり……ヘロをいじめないで。わたしは慣れているけれど……ばぁばの話はわかりづらいの……」

「お前も理解はしていないくせによく言う口だよ」

 ゲルダはジゼルの頬を軽くつねった。ヘロは思わず眉根を寄せる。

「さあ、着いた。ここが私の家だ」

 ゲルダは腕を上げる。

 たくさんの蔓に覆われ、葉を茂らせてはいるが、壁はまるで月の光のように銀色だった。屋根は煉瓦を重ねた三角屋根でもなく、透明な半球だ。梢から滴る夜露の雫が屋根にはじけて、すう、と円をなぞるように流れていく。

「こんな家……見たことがない」

「空を隠すなんてね、私の趣味にそぐわないのさ」

 ヘロの漏らした声にゲルダは微笑んだ。

「さあ、ジゼル。お前は風呂にでも入っておいで。そして荷造りをするんだよ。眠るのなんて後にしておいで。ぐずぐずするんじゃないよ。私は少年と話があるからね」

「はい……」

 ジゼルは不安そうにちらりとヘロを見ると、やがて部屋の明かりの中へ消えていく。

「君はこっちだよ、少年」

 ゲルダはヘロを手招く。やがて案内された部屋は、赤紫に輝いていた。沢山の五芒星形のエルリーモニュメントが天井から吊り下げられて揺れている。壁にはまるで夜空の星のように瞬く白い点が斑にちりばめられている。

 声が出なかった。こんな、不思議な空間は見たことがない。

「これは……魔法の一種ですか?」

 ヘロが溜息と共にそういうと、ゲルダはふん、と笑った。

「似たようなものさ」

「あなたは……先代の魔道士なんですか? 魔道士ならこういうことが――」

「私は魔道士ではないよ、少年」

 ゲルダは柔らかい声でそう言った。

「だって……この星型は……巡礼者の持つ印でしょう」

「星型? ああ……五芒星のことを言っているのかい?」

「はい。俺達は、これを絶対に描いてはいけないし、使ってもいけないと習ってきました」

「ふん、実にくだらないね。まあ、理由はわからんでもないが」

 ゲルダはそう言って、壁に立てかけられた緑色の黒板に白墨チョークでかつかつと五芒星を描く。

「この中心を取り出してよくご覧。シクルと同じ形をしているだろう。五角形の。この五芒星はすなわちシクルを表し、またシクルを扱う勇者を象っているのさ。君は、あの子の――ジゼルの首飾りはもう見ただろうね?」

「はい……」

「あれは六芒星」

 そう言って、ゲルダはかつかつ、とまたそれを描く。

「ジゼルは……自分があのペルフィアペンダントを身に着けているから嫌われるんだといっていましたけど」

 ヘロはゲルダを見つめる。

「どうして外させないんですか。おかしいでしょう」

「人間に嫌われたからなんだというんだい」

 ふん、とゲルダは鼻で笑った。

「あの六芒星をあの子はあの子のために身につけているのさ。またそうしなければすべてが無駄になるのさ。少年、今後、何があっても、あの子からあのペルフィアペンダントを取り上げてはならないし、あの子があれを外そうとしたときには死んでも止めるんだよ。君にできることなんてそれくらいさ。あとのことなんて全てとるには足りない」

「納得できません」

「本当に変わり者だねえ」

 ゲルダは楽しそうに笑う。

「いいかい、君は少しは頭が回るようだから、考えて答えを教えておくれ。この六芒星と、さっきの五芒星。一体何がそんなに違うというんだい?」

「は?」

 ヘロは眉根を寄せた。

「そんなの、五か六かって言う違いだけでしょう。それしかないですよ」

「その通り」

 ゲルダはにんまりと笑った。

「五が六になった……五という神聖な数字から一だけ増えた……そこが重要さ。一だけ増えた。何かの大事な数字から一だけ増える。そのことに、この八つ星の人間達は死ぬほど恐ろしい思いを抱くのさ。彼らの心の秩序が乱されてしまうのさ。だからこそあの子はこの六芒星を抱えている」

「話が……見えません」

「見えなくていいのさ。私は君に、一つの疑問を投げかけただけさ。それをどう解釈するかは君が見つけるべきことだよ。ねえ、私達の同胞」

 ゲルダはヘロの頭を掴んだ。広い手の細い指が――女にしては大きすぎるそれが、ヘロのこめかみに食い込んでいく。ヘロは目を見開いた。レオフードの向こうに見えた彼女の目は、燃えるような真紅だった。そして彼女は老婆ではなかった。まるで女神のような――人にしては美しすぎる造詣。燃えるような赤い髪。

「何を……言って……」

「神器があの子のエリゼアパートナーとして君を選んだということは、そういうことさ。さあ、君は一体どの子かなあ? 今度こそあの子を幸せにしてくれるんだろうね?」

 くすくすとゲルダは笑う。

「この世界はあの子を歓迎しちゃあくれないよ。正直に言うとね、私だってあの子のことを歓迎はしていないのさ。けれどね、これは私の友の願いだからね。別にあれに頼まれたわけでもないけれどねえ。私がしたいからしているのさ。私くらいしかする者がいないのさ」

 そう言って、ゲルダはレオフードを取り払った。

 滑らかな赤い長髪がさらりと揺れた。

「あなたは……男ですか」

 ヘロは眉を寄せる。ゲルダは目をぱちくりさせる。

「ああ、そういえば言っていなかったねえ。言う必要もなかったしねえ」

「ジゼルはばぁばって呼んでいたじゃないですか」

「ああ……別に、訂正する必要性も感じなかったからねえ」

 ゲルダは首をひねる。

 その前髪の向こう側に、金色の不思議な記号が透けて見えた。どこかで見たことがある。どこかで――。

 ヘロの視線に気づいたように、ゲルダは自分の額を指で撫ぜた。

「おや、これが気になるかい? こんなことも学校では習わないのかな」

「いえ……それは、星の記号ですよね……この星の……」

「そうだよ」

 ゲルダはにこりと笑った。

「【アポロ】の印さ。光って見えるだろう。これは女神の光を埋め込まれた刺青さ。お前達人間の額にも、本当はこれと同じ印が額に埋め込まれているんだよ。お前の額にもこれと全く同じ印があるのさ。お前はアポロの人間だからね。けれど、まあ、人のそれは見えないさ。海の水で潤した【ガイアの筆】でその額をなぞらないことにはね」

「じゃあ……あなたのは……どうして、見えて」

 声が震える。恐ろしいからではない。ただ圧倒されていたのだ。その赤い目に見つめられると、動けなくなってしまう。動いてはいけないような、神聖な空気。

「そりゃあ、私は【アポロ】だもの」

「そんな、あっさり」

 ヘロの口から間抜けな言葉が漏れる。ゲルダは――アポロは、笑みを深めた。

「けれど、こんな時代まで生き続けている、君達の言うところの【八英雄】は、私だけだよ。後は皆、命を捨てたのさ。ある者は戦って命を落とし、ある者は自害した。私はね、特に死ぬ理由もなかったからね、生きているのさ。死ぬ理由といえば、ようやく見つけられたようなものだよ。あの子を見つけたからね」

「じゃあ、ジゼルは、」

 ヘロはごくりと喉を鳴らす。

「八英雄の一人なんですか」

「いいや、違う。言ったろう? 生き残っている八英雄は私だけだってね。何度も名を変えて、この星を見守ってきたのだけど、実にくだらないよね。人間の寿命が終わる頃に別の名前を考えることくらいだったよ、私の暇つぶしはね。とにかく、私はね、君があの寺院のくだらない人間達に下手な先入観を植え付けられる前に、君と話したかったのさ。全てを理解する必要もないし、また理解できるわけもないだろうさ。あの子を守るも守らないも君の自由だ。だが、もしもあの子を守ってくれる気にいつかなれたなら、その時は、少なくとも世界で私だけは君の味方だよ。それだけを覚えておいで」

 ヘロは、柔らかく細められるアポロの目を見つめる。

「それは、俺がアポロの民だからですか。それとも【勇者】だからですか」

「神器が君を選んだからさ。私には魂の質まではわからないからね」

 アポロはくすりと笑う。

「少なくとも、神器はジゼルの味方だろうよ。そういうものだからだ。むしろあれらは私達を毛嫌いしているのではないかな。私達八英雄は、神器を裏切ったのだからね」

「ジゼルは、このことを知っているんですか? あなたが……アポロだってこと」

「知るわけがないじゃないか。また知る必要もないよ」

 アポロは肩をすくめる。小さく嘆息して、どこか寂しげに呟いた。

「あの子にできることなんて、あのペルフィア(ペンダント)を何があっても手放さないことだけだし、君にできるのは、例え誰が君を阻もうとも、真実を知る勇気をやめないことだけさ」

「それ以外、何も教えてくれないって訳ですね」

「卑しい人間風情に教えることなんて何もないさ」

 アポロは嗤う。

「卑しい、ですか」

「そりゃあ卑しいさ。人間のせいで私達八英雄の未来は狂ってしまったのだから。綻びはあったさ。けれど引き金になったのは紛れもない人間だからね」

「あなたが引き取って育てていたジゼルだって人間です」

 ヘロがアポロを睨みつけると、アポロは目をぱちくりとさせた。

「おや、あの子から聞いていないんだねえ」

 アポロはくすりと笑う。その形のよい薔薇色の唇から紡がれた言葉は、信じられないような物語だった。

「人間なわけないじゃないか。あの子はね、土から生まれたのさ。土が人の形を成して、あの金色の六芒星を糧にして、あの子になったんだよ。母親なんて居るはずもないさ。あの子はあの首飾りを母親の形見だと思い込もうとしているようだがね。そうか、まだその事実を受け止め切れていなかったか。ちゃあんと、私にしては珍しくちゃあんと教えてあげたのにね。嫌なことは全て忘れてしまうのも、記憶を歪めてしまうのも、あの子の実に悪い癖だよ」



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