Episodi 3 繭と蛾

「明日は、【試験】だろう」

 藤色が窓から染み渡る食卓で、ヘロはもそもそと夕飯を食べていた。同じように黙々と母さんの料理を口に運んでいた父さんは、不意に、殊更さらりとそう言った。

 ヘロは箸を口から離す。

「そうだよ」

「感慨深いですねえ」

 母さんが台所から隠元豆のエルラスープを鍋ごと抱えて、台所から顔を覗かせた。鍋をそっとフィールテーブルに乗せて、母さんはようやく椅子に腰掛け、息をつく。

「そうだなあ。長いようで、短かった。全て、この日のためにやってきたなあ。辛かったなあ、ヘロ。それも全部、明日で報われるかもしれん」

 父さんは、どこか遠くを見つめながらそう言った。眼鏡が、母さんのよそったエルラエルラの湯気で曇った。

「お前は父さんに似なくてよかったな。母さんに似て目はよくて」

 父さんはヘロの頭をくしゃりと撫でた。

「やめてよ。もう餓鬼じゃないんだぜ」

 ヘロは静かに言った。ちらりと上目で父さんの顔を見やれば、そこにはどこまでも温かで穏やかな笑みが浮かんでいる。

「目が悪いと、それだけで条件が厳しくなるからな……父さんも、それで色々と諦めたものがあるのさ」

「あら、それはあなたの実力が見合わなかっただけよ。ヘロは私の息子ですもの」

 母さんが冗談めかして言う。

「私に似て、運動神経がいいのよ」

「ああ。いい嫁さんをもらって俺は嬉しいよ」

「あらやだ。今更かしら」

 和やかに会話は進む。

 ヘロはどことなくやるせない気持ちを抱えて、黙々と食事を口の中へと詰める。

「まだ、決まったわけじゃないよ。浮かれないで」

 ヘロは静かに言って、お茶を飲み干した。

「そうだな、はは。だがお前みたいに優秀なできのいい息子は、世界中探してもいないだろうよ。……がんばれよ」

「うん」

 ヘロは目を伏せた。そうしてごくりと唾を飲み込むと、にこりと笑顔を作った。

「がんばるよ、父さん、母さん。楽しみにしてて」



     *



『親の癖にお前の視力の悪さも測りきれんのか。つくづく愚かな生き物だよ』

 シクルが鼻で笑ったような声を出す。

「それだけ……あなたが俺を支えてくれていたからだよ。俺とあなたの感応力が高かったから、誰にも気づかれなかった。それだけ」

『ふん』

「それに……」

 月白色の筋が零れる暗闇の中、ヘロは寝返りを打った。

「もしかしたら、気づいていたけれど、見ない振りをしてしまったかもしれねえじゃん。だって、視力が悪いってそれだけで不利なんだよ。【勇者】に求められるのは全ての身体能力の高さだ。大前提なんだぜ。……母さんや父さんだって人間なんだ」

『ふん。そなたと同じで賢しく愚かな人間というわけか』

「そんな言い方しないでくれって。頼むから」

 ヘロは腕で目元を隠す。

『ふん。人間とは子に過度の期待を寄せ押し付けるが性か。実にくだらない。己の子供がそこまでの人物かを量れもしないとはな』

「…………よっぽど俺の能力が気に入らないみたいだね?」

 ヘロが低い声で呟くと、シクルは一瞬押し黙った。

『そうではない』

「あっそ。頼むから、明日も力を貸してくれよ。一生のお願いだから。なんなら、それ以降はこんな愚かな人間、見限ってくれたっていいよ。ただ、それでも、どうか明日だけは」

『そなたは……』

 シクルはどこか哀れむような声を漏らす。

『そうまでしてなお、あれらに愛されたいのか……? そなた自身こそが、本当は望んでいないではないか。選ばれなければいいとさえ思って――』

「いくらシクルだとしても怒るよ」

 ヘロは棘のある声を放った。

『……わかった。もう何も言うまい。そなたは、我をさえ欺こうとするか。よいだろう。好きにすればいい。明日は力を貸してやろう。しかしその後のことは……考えさせろ。我は今のお前など不快だ』

 そう言うと、シクルは漂うのをやめて、ぱたりと、ただの欠片のように床に落ちた。

 ヘロは毛布を頭まで被った。

 俺がどう思うかなんて関係ない。俺のやるべきことは、生まれたときから決められているんだ。

 親の期待に応えるんだって、決まっているんだ。この星の子供達は誰もが皆、同じ息苦しさを抱えているのだから。

 明日【誰か】が選ばれることで別の誰かが解放されるなら、悪くないだろ。ねえ。

「トゥーレが選ばれればいいのにな」

『無理だろうな。あやつは能力の絶対量がそもそも足りない』

 シクルが素っ気無くそう言った。ヘロはくすりと笑った。拗ねているくせに、独り言をこうして拾ってくれる。

「ねえ、シクル、明日、がんばろうな」

 シクルはもう、何も言わなかった。



    *



 アポロの星の、はずれにある銀色の洞窟。明かりに照らされ白銀色に輝く、鏡のように磨かれた床の上で、笛の根に乗せて、金の格子模様が縁に彩られた白装束に身を包む帝都プルートが一歩ずつあゆみ、神器を掲げた。

 彼らは正規の【勇者】でも【魔術師】でもなく、その実は惑星プルートの大学院でシクルと魔法について研究を重ねる人間たちだ。儀式の便宜的にそう呼ばれているだけで、彼らが神器に選ばれたわけではない。そもそも、先代の勇者と魔導士は存命していないという。

 彼らに囲まれて、齢八十を過ぎた老婆が神器の一つ――アポロの縄を恭しげに手に取った。それは藍色と水色、茜色の糸で編まれた、黄昏時を思わせる美しい縄だった。恐らく水色の糸は玻璃の繊維を捻ったものだ。すべての神器の中核は、玻璃が担っているのである。

 老婆は、裸足だった。やがて、つま先を洞窟の床に立て、ふわりと舞を踊り始めた。老婆が身に纏った鈴が、しゃらしゃらと耳に心地よい音を鳴らす。縄がまるで海の波のような弧を描いて、空中に揺蕩った。老婆はやがて歌い始めた。年老いた者の声とは思えない、美しく力強い歌声。瑞々しさを感じさせる声の調べ。いつしかヘロは、否、全ての学生が、彼女の美しい舞に――吟遊魔法に見惚れていた。

「あれ……先代の【吟遊詩人】なんだってさ」

 トゥーレがぽつりと呟く。

「祈りの舞だって。これが見られるだけで……なんだろう、オレ、生きててよかったかも、しれねえ」

 トゥーレの声は掠れていた。ヘロは何も言うことができなかった。踊り続ける老婆の双眸には涙が浮かんでいた。老婆が舞うたびに、それは透明な粒となって零れ、くうに散らばった。ヘロには、老婆がなぜ泣いているのかはわからなかった。けれどその光景さえも美しく、ヘロは魅了されていた。さぞ、若い頃は――神器に選ばれた頃は、美しい人だったのだろう。

 胸の奥に、ちり、と額に焼きごてを当てられた日のような、痛みを感じた。

「これが【吟遊】なのね……そりゃあ、そうそう誰もなれないはずだわ」

 ジャクリーヌの声が耳に触れる。はっとして振り返ると、ジャクリーヌは上目遣いで肩をすくめて見せた。

「これが……八つの星を巡礼した生きる証の、重みなのね」

 ジャクリーヌは真っ直ぐに老婆の舞を見つめる。

「私、生まれ変わったら、吟遊詩人になれるような能力を持って生まれたいなあ」

「馬鹿」

 思わず低い声が零れる。ヘロのとげのある声に、ジャクリーヌは目を丸くし、けれどすぐにふわりと笑いかけた。

「ほら、緊張しないで頂戴。大丈夫よ。やることはやってきたのだもの。あとは天に運命さだめを委ねるだけだわ」

 ジャクリーヌは自分にも言い聞かせるようにそう言うと、ふわりと髪を棚引かせて踵を返した。

「そっちも頑張れよ」

「うん。ヘロも……」

 ジャクリーヌは向日葵のような笑顔を咲かせた。

「待ってるわ」



    *



 笛が一際高らかに鳴り響く。その音に合わせて、白装束の誰かが、銀色の床に土を無造作にばらまいた。

 土は道筋だ。洞窟の中には、重い鉄の扉が向かい合わせでそびえている。扉には、瑠璃石ラピスラズリが三つ埋め込まれていた。二つは大きくて、間の一つは小さな粒だ。それぞれの扉の両脇には、二本の燭台が置かれている。蝋燭には靑金石ラズライトと玻璃の粒が混ぜ込まれていて、明かりは魔法で灯されていた。

 アポロの惑星にあるこの洞窟に、なぜこんな人工的な扉があり、床はきれいに舗装されているのか。言い伝えでは、英雄アポロがかつて女神と戦った時、ここを隠れ家とした名残だといわれている。けれどヘロにはどこか引っかかるのだった。戦争の最中さなかの隠れ家にしては洞窟の内部があまりに洗練されていて。

『あの蝋燭に埋め込まれた玻璃のかけらはの、シクルになりそこなった玻璃の破片だ』

「え?」

 不意に呟いたシクルの言葉で、ヘロははっと我に返る。

「どういうこと?」

『言葉通りの意味だよ。シクルはかつて、英雄サタンが玻璃を削り生み出した宝石。英雄サタンがシクルを削り取り捨て置いた屑を集めたのが、英雄アポロだ。そうしてあれは、玻璃の粒を蝋燭に埋め込んだ。蝋燭だけではないよ。家の壁に土とともに埋め込み、床の土にも埋め込み、この星の道路にもばらまいた。このアポロの星は、人が気づいていないだけで、たくさんの玻璃の欠片に取り囲まれている……巧妙にな』

 ヘロはあたりを見回した。洞窟の床も扉もまるで鏡のようで、不純物など入っているようにはとても見えない。

『そう、この洞窟だけはそれをしていないんだよ。隠れ家だからの。けれど外に出たら、道や、時計城の壁を今一度見てみるがいい。キラキラと日の光に輝くのはすべて、玻璃の欠片の反射なんだよ。この星だけの、特徴だ。ちなみにの、このことはアポロと我々シクルしか知らないことでの』

「へえ……」

 よくわからない。シクルが八英雄のことを話すのは珍しかった。もっと話を聞きたい気がしたけれど、周りには人がたくさんいる状況で、をぼそぼそ呟くわけにもいかない。ヘロは並んだ列の前方を見つめながら、唇を閉じた。

 子供たちは土の小道の上で列を作り、順繰りに、その中央に置かれた大きな水瓶から掌に水を掬った。その水を零さないように土の上を裸足でそろそろと歩いて、白装束の人が開けた扉の向こうへと消えていく。片方の扉は勇者を選ぶ部屋への扉で、もう片方は魔道士を選ぶ部屋への扉だ。その扉を潜り抜け、神器と相対するまで、掬い取った清き水を一滴も零さないこと、そして、一言も言葉を発しないこと――それが、儀式の条件だった。持てる能力のすべてを神器に捧げる、という意味があるらしい。掌に掬った水も、声も、己の能力の暗喩だった。それを緊張で取りこぼすようでは、【巡礼者】にはふさわしくない、ということなのだ。

 ヘロの前に並んでいた子供たちは、やがてすべていなくなった。彼らは扉を潜り抜けた後、肩を落として再び光の当たる場所へ戻ってくる。まだ、勇者は選ばれていない。

 ――そもそも、アポロここで勇者が決まると思ってんのがおかしいんだよな。

 ヘロは肩を片手で揉みながら、首をかしげて子供たちの様子を眺めていた。

 本来であれば、勇者を選ぶ試験は太陽オケアノスから最も遠く離れた星、サタンから、魔道士を選ぶ試験は太陽オケアノスに最も近い星、マルスから始まるのが常である。そしてそれぞれの星から順繰りに、それぞれの巡礼者を選ぶ神器――プルートの鏡とヘルメスの杖は、人の手によって互いに近づき、交錯し、遠ざかって、八つの連星を縦断していく。例外的に、吟遊詩人を選ぶ試験だけは惑星アフロディテから始まる。吟遊詩人になる子供が惑星アフロディテ出身であることが多いからという理由らしい。

 今回は特例で、魔道士を選ぶ試験も勇者を選ぶ試験とともに、惑星サタンから始まった。その理由はおそらく、ジャクリーヌがサタンの隣星アポロにいるからだヘルメスの杖が惑星サタンに持ち出された間、ジャクリーヌは木の杖を使って授業を受けた。惑星サタンでは結局今代の巡礼者は決まらず、杖はジャクリーヌのもとに再び戻ってきた。戻ってきたヘルメスの杖にジャクリーヌが穏やかに笑いかけたのを見ながら、ヘロは複雑な気持ちになった。

 まだ試験は始まったばかりで、他の惑星にももっとたくさんの候補者がいるはずで、この星で勇者が決まる保証なんて、本当は一つもないのだ。だからむしろ、ヘロはだと思っていた。子供たちだって、それはわかっているはずだ。それでも彼らが己の結果に落胆するのは、きっと生まれてから今までずっと、それだけの期待をそれぞれの親に掛けられてきたからなのだろうとヘロは思って、急に、胸が苦しくなった。

 目を伏せて、服の上からぎゅっと胸のあたりを握りしめる。ジャクリーヌを守りたいという気持ちと、選ばれたくないという気持ち。選ばれなくてかまわないという気持ち。

 もしも俺が選ばれなかったら、父さんも母さんもひどく落胆するんだろう。きっと、俺にあれだけのことをしておいて、何者にもなれなかったことを嘆くに違いない。

 口の端から、自嘲のような吐息が漏れた。選ばれたくない理由は簡単だ――きっとヘロは、両親のそんな顔が見たいのだ。俺にあれだけ厳しいをした結果がこれだよって、意味なんてなかったんだよって、わかったほしかった。なんて自虐的なんだろう。ヘロは片手で目を覆う。肩を叩かれて顔を上げれば、白装束の人が扉を指さした。ヘロの順番が来たらしい。

 水瓶に両手を差し込む。ひんやりとした水が肌にまとわりついた。ヘロもまた、手に掬い取った水を、できるだけ零さないようにしながら、ゆっくりと土を踏みしめた。淡い水色の灯りが揺れる暗闇に、ヘロは足を踏み入れた。洞の奥に、白い杯がぼんやりと浮いて見える。近づいてみると、それは花崗岩の杯だった。その底に――水底に、プルートの鏡は沈んでいた。

(これが、鏡?)

 声を出さないように息を潜めながら、ヘロは眉を寄せた。

 それはシクルと似ていた。シクルと同じ、五つの角を持った平たい鏡だ。違うとすればそれは、その表面に三つの爪跡のような傷がついていることだった。傷跡は水の中でわずかな光を反射して、銀色に輝いている。

『これはそもそも、この世界で始めて使われ、そして壊れてしまうまで酷使されたシクルの祖だよ。言うなれば、こうか。我らシクルが英雄サタンの作った玻璃の宝石であるなら、これは女神が作った玻璃の宝石ということだ』

 無言のまま呆然としてたたずむヘロの心を汲んで、シクルは鈴の鳴るような音で言葉を零した。

『それを人間が鏡と後世に伝え、我らにはシクル羅針盤という名を遺し、欺いた。欺かれたまま容易に人々は騙され、鏡とシクルは別物だと思い込んだのだ。ゆえに人々は今もなお、女神を憎みながら、女神の玻璃で作られたシクルを使役するのだよ。シクルは女神と何ら関係がないと信じているゆえに。呼んだのだ。……くだらない逸話だがな。実に、くだらん』

 ヘロは黙ってそれを見つめた。どう見たって、それはシクルでしかない。角すらも欠けて、丸みを帯びたようにも見えるけれど。杯に手の中の水をぽたぽたと注ぎ、ヘロは目を瞑った。深く息を吸って、吐く。

 目を開けて、ヘロは濡れた指でプルートの鏡をつまみ、掌に乗せた。

 間近で見ると、それは他にも随分と痛めつけられたような跡があった――小さく細かな傷が、幾重にも網目を縫うように表面を覆っている。水の中では透明に見えた鏡は、水から取り出すと杯と同じ、透明感のないただの白い石に見えた。どうしようもなく口の中が乾いた。ヘロはもう一度深く息を吸って、吐き捨てるように言葉を零した。

「そもそも、別に欺く必要はなかったんじゃねえの」

『……声は出してはならないのではなかったか?』

 シクルはどこか面白そうに言った。

「別に……もう、どうでもよくなったよ」

 ヘロは歯噛みする。

「これがシクルと同じものだと聞いたって、きっと何の疑問も疑念も持たないのに、人間はこれを鏡だと嘘をつくんだろ? 神器が聞いて呆れるよ。なんだか、もう、馬鹿らしくなった」

 ヘロは息をついて、ぞんざいにそれを杯の中へと投げ入れた。

『ほう?』

 シクルはくすくすと笑う。

『何故、その程度のことに、今更怒りなど覚えるのだ』

「怒ってなんかない。ただ、ものすごく、馬鹿らしくなった。あなたが話せるということは、そしてあれもまたシクルだったってんなら、あれも心を持っていたんだろ? なのにあんなにぼろぼろになるまで使われたってことだろ。そうまでしてようやく【神器】の名を勝ち取ったって? 馬鹿らしいや。そんな神器に選ばれるってことは、【勇者】もまたシクルを酷使しなきゃいけねえんだろ。そういうことなんだろ。繰り返しだよ。馬鹿みたいだ。それくらいだったら、俺は棄権する。勇者になんかならなくていい。なりたくもない」

『ほう、そうか』

 シクルはけたけたと笑い始めた。ヘロは眉根を寄せる。

「なんだよ」

『しかしそなたが勇者にならぬことには、いつの日かそなたはこの我を手放さざるを得なくなろう。シクルの研究をするような玉でもあるまい?』

「下品な言葉遣いすんなよ……」

 ヘロは嘆息した。

「それでも、あなたはいつか別の子供を選ぶために生きることができんだろ。別にかまわねえしさ」

『ふむ。しかし我はそなた以外の子供はもういらない』

「は?」

『……そして、【鏡】もそう思ったようだぞ、ヘロ。そなたはやつの心を揺り動かした。何もせずともな。しかし、かけがえのない心をそなたはあれに注いだのだ』

「え?」

 ヘロは振り返る。杯はひびを広がらせ、粉々に割れていた。鏡が宙に浮かんで、回っている。五つの角からは音もなく夕焼け色の光の糸が伸びて、編みこまれ、鏡を包み込む繭を作った。繭からも同じ光の糸が伸びて、ヘロの左手の小指にぐるぐると巻きついた。ヘロは痛みに顔をゆがめた。夕焼け色の糸は束をなして、指輪になってしまった。ヘロは茫然として、自分の小指を眺めた。

『ヘロ。残念だったな。我はお前自身のためにも、お前は選ばれないほうがよいと思っていたが……なかなかどうして、お前はシクルの凍てつく心を溶かす音を、その心の臓で奏でているらしいの。あの吟遊詩人の老婆など足元にも及ばないよ。観念することだ。なんだ、その間抜けな面は』

 ヘロはきゅっと口を引き結んだ。 

『アポロの縄は本来、シクルと共鳴する魂を選び縛り付けるための道具でな。だからその指輪と同じ色が、あれにも編みこまれてあったろう。あの糸は神器の繭の糸なのだ。同じように、神器がその繭から吐き出した糸で、魂を縛り付けようとするのだよ』

 ヘロは、舞に揺れていたアポロの縄のいろを脳裏に思い浮かべた。茜色――夕焼けの色。

『そなたの瞳も……望んだわけではないにせよ、黄昏と同じ色をしている。アポロから勇者が現れて、さぞあの縄も喜んでいるだろう』

「そん、な」

 ヘロは、震える声で、呟いた。



     *



 ヘロが扉を開けると、白装束の人々が指を祈るように折り、ヘロの足元に跪いた。ヘロはぎょっとして後ずさった。視線を感じて顔を上げると、子供たちが羨望ともつかない、形容しがたい感情を孕んだ目でヘロを舐め回すように見つめていた。

「【勇者】は選ばれたり」

 白装束の男の一人が、朗々と響く声でそう告げた。冷えた洞窟に垂れ下がる氷柱から、雫がぽたりと落ちて、音を奏でた。

 トゥーレが駆け寄ってくる。その目にも、複雑そうな色が浮かんでいる。ヘロは思わず呟いた。

「ごめん……」

「いや、何で謝んだよ。こうなるのは予想がついてたじゃねえの。別に……妬ましいとか思っちゃ居ねえって」

 トゥーレは笑う――その左の口の端は、不自然につりあがっている。

「あのな……」

 トゥーレは話を逸らすように眉根を寄せて、視線を揺らした。

「何だよ」

「【魔道士】も、ついさっき出てきたんだ。選ばれて」

「そう」

 ヘロはそっと息をついた。とりあえず、無事に儀式は終わったらしい。ひとまず、ジャクリーヌは体調を崩したりはしていないんだな、と安心する。

「でも、ジャクリーヌは選ばれなかった」

「そう。…………今なんて?」

 ヘロはぽかんと口を開いた。トゥーレは青ざめた顔で、俯いた。

「その……ヘルメスの杖は、ジャクリーヌを選ばなかったんだ。変わりに、別の子が――」

 トゥーレは唇をかみ締める。

「もう……、見てらんねえっ」

 トゥーレは顔を掌で覆った。ヘロは顔を上げて視線をさまよわせ、を見つけた。

 【魔道士】の扉の前で、ひと際蒼白な顔で震えている、檸檬色の髪の少女。小柄な子だ。ジャクリーヌが軽々と片手で持っていたヘルメスの杖を、両腕で抱えている。

 ヘルメスの杖は、その天辺でくるくると光を回転させていた。杖がそんな風に光るのを、ヘロは今まで見たことがなかった――まるで、喜んでいるみたいだ。意思をもって、嬉しいと体全体で表現しているみたい。

 じっと見つめていたら、目が合った。菫色の目だ。なんだか懐かしさを感じさせるその瞳は、ヘロと目が合ってもなお、ゆらゆらと揺れていた。

 少女は、ぎこちなく、へら、と笑った。怯えている。自分に向けられる悪意に、怯えているのだ。なぜお前が、と、棘を指すような視線の渦に。

 その右手の小指に、ヘロと同じ夕焼け色の指輪がはめられていた。ヘルメスの杖は繭に返りはしなかったらしい。それもそうか、と、妙に冷静な頭でヘロは考えた。これから【魔道士】は、その杖を持って星を巡るのだから。

 ジャクリーヌがいつだって大切に握り締めていたその杖が、他人の手に渡っている。

 それを、怒っていいのか、悲しんでいいのか、哀れに思えばいいのか、よくわからなかった。

「あいつ……めちゃくちゃおちこぼれじゃんか……なんで、ジャクリーヌじゃなくて、あいつなんだよ……おかしいだろ。おかしすぎるだろ……! なんでジャクリーヌが、恥をかかされなきゃいけねえんだよ!」

 トゥーレが毒を吐いている。ヘロは、苦しい気持ちでトゥーレの横顔を見つめた。トゥーレのそんな言葉なんて聞きたくなかった。そして自分が、これから片割れとなる目の前の少女をろくに覚えていなかったことに、わずかに衝撃を受けていた。

 おちこぼれ、だとか、俺は知らない。そんなことも知らなかった。名前だって思いつかない。覚えてすらいなかったのだ。同じ学校に通っていたはずなのに。俺、なんで、ジャクリーヌが絶対に選ばれるって思ってたんだろう。

 息苦しさを感じながら、ヘロは視線をさまよわせた。ジャクリーヌの姿は見えなかった。

 ヘロは、少女のもとへと歩み寄った。自然と避けるように人の波が引いていく。

「……ごめん。名前覚えていないんだ。俺はナファネ家のヘロ」

「知っ……て……」

 少女はか細い声で答えた。まだ顔は引きつっている。

「わた、しぁ……ジゼ…ゥ………ゲルダ、フェルフォーネ、の、養、女」

 掠れた声で少女は言った。口がうまく動かないみたいだ。足ががくがくと震えていた。ヘロはどうしていいかわからなかった。ヘロは、どうしてやればいいか、わからなかった。

『手をとってやればよいのに』

 シクルが、彼女には聞こえないほどの小さな声で、呆れたようにそう囁く。

 ヘロは眉をひそめて、けれど手を出した。少女は怯えたようにその手とヘロを交互に見つめる。

「おいで、ジゼル」

 ヘロは呟いた。

 ジゼルは目を見開いて、おそるおそる震える手を伸ばした。しゃらん、と音がして、彼女の首飾りが揺れる。円の中に三角形と逆三角形の線が重ねられた、星のような模様のペルフィアペンダントだ。その見覚えのない模様に、ヘロは思わず目を細めた。

『この娘……!』

 シクルが息を呑んだ。ヘロはその声に眉根を寄せた。周りを見回しても、子供たちも、白装束の人々も、少女を嫌悪するかのようにぎらぎらと睨みつけているばかりだった。ヘロは目を伏せて、洞窟の出口へと踵を返した。

 そのままジゼルの手を引いてやると、彼女は一生懸命に足を動かしてついて来た。ヘロ自身も小柄なほうなのに、この少女はさらに小さい。まるで、幼い子供の手を引いているみたいだとヘロは思った。

 外に出ようとして、入り口の側で、帝都の研究員と先刻舞を踊った老婆がなにやらひそひそ声で毒を吐いているのが聞こえた。老婆が振り返る。老婆の目は、落ち窪んでいた。何より、憎悪を浮かべたその深いしわしわの顔に、足がすくみそうになる。なんて醜い顔をしているのだろう。

 彼らを突っ切って、外へと駆ける。本来は、【選ばれた巡礼者】は惜しみない賞賛と祝福をあびるはずだった。けれど誰も何も言わない。ヘロにでさえ、恐ろしいものを見るかのような眼差しを向けてくる。おそらくは、ヘロが彼女と手をつないでいるからだ。居た堪れなくてヘロはどこまでも走った。後ろで、やめて、待って、と糸が切れるような声が何度も聞こえたけれど、立ち止まれなかった。立ち止まるのが恐ろしかった。ヘロ自身だってまだ、心の整理がついていないのに。それなのに。今はとにかくジゼルを――自分にとって相方になるのであろう少女を、少しでもあの蜘蛛の巣のような悪意から引き離してやりたかった。それだけをひたすら、胸の内で繰り返していた。何かに追い立てられているかのように、肺が悲鳴を上げるまで走り続けた。

 小高い丘の上でようやくヘロが立ち止まった頃には、ジゼルはがくがくと足を震わせて、その場にへたり込んでしまった。ひゅうひゅうと苦しそうな音が気管から漏れている。それを荒い息遣いで見下ろして、ヘロはふと、走ってきた方角を振り返った。

 背筋が泡立った。

 彼らの顔は見えない。けれど、小さな人影は、固まって、まとまって、群れを成して、二人を見つめていた。その表情が、眼差しがどんなものかだなんて、知りたくもない。

 逃げたと思われたのだろうか。ここから、もう一度あそこへ戻らなければならないのだろうか。この子を連れて。ぎらぎらと日の光が二人を照らしている。雲ひとつない青空。首筋がじりじりと焼けて、痛む。けれどヘロはわずかに動くことさえできなかった。息の仕方さえ、もうわからない。


 小さな星の奇跡を恨んで、誰もが、【魔道士】を拒絶していた。



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