Episodi 4 銀と鉄琴

 あの舞を――一人の老婆、過去の【吟遊詩人】の祈りの舞を見て、涙さえ流し喉を震わせている女の子達もいた。いつも騒がしくしている男の子たちでさえ、見惚れたように、静かにそれに魅入っている。

 生徒達が密集している中にいることに耐えられず、息苦しくて、ジゼルは少しだけ離れていたところでそれを見ていた。人ごみを透かしてでは、それはほとんどよく見えなかった。少しの隙間を求めてふらふらと歩いていると、誰かとぶつかった。

「あっ」

 小さな声を上げる。すみません、と蚊の啼くような声で頭を下げる。おそるおそる顔を上げたけれど、その人は――教師の一人は、ジゼルのことをまるで見えもしないかのようにただ通り過ぎただけだった。大丈夫だよとも言ってくれない。他の生徒には優しい言葉をかけてくれるのに。

 ――ああ。

 ジゼルは無意識に胸元のペルフィアペンダントを握り締めていた。息が苦しい。早く、水の中へと戻りたい。もしも彼らが全て人間なのだとしたら、きっと私は人間の振りをしているだけの愚かしい魚なのだ。ここはわたしがいていい場所ではないのに、彼らの領域に居座って、世話をしてくれないと死んでしまうと言って、駄々をこねているだけ。

 ばぁばは――養母のゲルダ=フェルフォーネは、ジゼルがこのペルフィアペンダント)をつけている限り人間の敵意から逃れられないだろうね、といつだって薄ら笑いを浮かべるのだった。育ててくれたことは感謝している。けれど、ジゼルはばぁばに愛されたという感情をいまだに持てずにいる。育ててもらったのに。こんな、血の繋がらない、どこの誰ともわからない子供を、それでも守ってくれていたのに。自分はどれだけ薄情な人間なのだろうと思う。だからきっと、私は誰にも愛してもらえないのだ。

 何度も、このペルフィアペンダントを外したいと願った。けれどばぁばは「外すのは勧めやしないよ? それに、それだけが唯一お前が生まれ落ちたときからその手に握っていた宝物だろう。お前の母親の形見だったらどうするんだい」と、そう言った。なんてずるい言い方だろう。そんなことを言われたら、外すことができるはずがない。片時だって、手放すことなんかできない。寝ている時でさえジゼルはそれを抱えるように、抱きしめるようにして眠った。そうしないと息苦しかった。

『その模様の意味を判る者なんて、こんな片田舎じゃあいやしないだろうがね。けれどお前。その模様は本来、人間を脅かすものなのさ。人間の本能に、それが恐怖として埋め込まれているんだよ。【それとは相容れない】ってねえ。それにお前、未だに挙動不審で気味の悪い子供なんだろう。そりゃあ、好かれる要素なんかありゃしないね』

 ばぁばはそう言って薄く笑う。人とのうまい付き合いの仕方なんて教えてくれやしないのだ。一度、あまりにもやるせなくて、辛くて、「ばぁばも友達がいないからわたしに友達の作り方を教えることができないんでしょう? だったらばぁばとわたしは似ているのに、どうしてもう少し親身になってくれないの」と、感情をぶつけたことがある。けれどばぁばは分厚い本から顔を上げて鼻で笑っただけだった。「お前は私にとって友達ではないよ」。ただそれだけを言った。

 結局、ジゼルは舞にも全く集中できなかった。劣等感が、暗い感情がジゼルを苛む。どうしてわたしはこんなところにいるんだろう。嫌われたくないのに。嫌われたくないだけなのに。

『泣かないで、愛しい人』

 柔らかな、少年のような声が聞こえた気がした。

 愛しい人、だなんて。

 ついに、あまりにも思いつめすぎて、聞こえてはいけない声まで聞こえたつもりになってしまうようになったのだろうか。けれど今度は別の場所から、少女の泣き声のようなものも聞こえてきた。それはとても繊細で、鈴が鳴るような水色の声だった。こんな声、人のものであるはずがない。ジゼルは顔を上げる。アポロの縄の水色が震えた気がした。

 ――泣いているのは、あなたなの?

『こんな舞、踊りたくないの』

 少女の声が掠れて空気に揺れる。

『泣かないで、愛しい人』

 先刻の声が、心を震わせるような音で空気を漂う。

 ――これは、神器の声なのかしら。

 ジゼルは、不思議なほどに冷静にそう思っていた。少年の声は、硬く閉ざされた、翡翠の埋め込まれた二つの扉の片方の奥からこもって届いている。

 ――ああ、わたし、本当に変な子なんだわ。

 ジゼルは俯いた。

 聞こえてはいけないはずのものが聞こえてしまうなんて。あるいは、聞こえた気になっているなんて。

 救いようがない。

「あなたの愛しい人は、わたしじゃないのね」

 どこかやるせない気持ちで、そう呟いた。

 神器に愛されるような子供ではないことくらいわかっている。愛される権利があるのなら、それはジゼルが【選ばれる】ということに他ならない。

 声が聞こえるのに。聞こえたのに。

 その言葉はわたしにではなく、あの美しい縄に届けられたのだろう。

 そう思ったら、泣きたくなった。


 俯いている間に、いつの間にか【試験】が始まっていた。

 少女と少年が、向かい合わせの扉の奥へと消えていく。この洞窟の中央に置かれた、銀色の水瓶から清い水を手に掬って、それを零さないようにして。ゆっくりと歩いていく。

 彼らは、扉の奥に潜って、そしてあまり時を置かずに戻ってくる。罰が悪そうに、照れたようになんともつかない笑みを浮かべながら、友人達に、だめだった、と一言漏らす。彼らはその肩を軽く叩く。手をぎゅっと握る。まるで、仕方ないよ、とでも言うように。誰も、選ばれるはずなんてない。あの黒髪の美しい少女と、夕焼け色の髪の少年以外は。わかっていたことじゃないか、いや、でもちょっとだけ期待してしまうじゃない? そんな声が飛び交っている。誰もが心を一つにしていた。選ばれなかったけれど、別にそれは僕たちが悪かったんじゃない。天才がいるから。さすがに彼らには敵わないから、だなんて。

 ふと、そんなことを影でこそこそと言われ続けるジャクリーヌとヘロは、どういう気持ちなのだろうとジゼルは考えていた。ヘロは相変わらずシクルを指で弄びながら、ぼうっと焦点の合わない目で自分の指先を眺めている。恐らく彼は、もう既に【諦めている】。そう思われてしまうことに。子供たちの感情の泥に飲まれてしまうことに。ジャクリーヌもまた、どこともつかないところを、真っ直ぐに見つめていた。どこか張り詰めたような、凛とした梢のような、光ある姿。彼女が強い女の子だとは、ジゼルには思えない。ジャクリーヌはジャクリーヌなりに、何か背負っているものがあるだろう。でもわたしはあなたみたいになれない。わたしだったらきっと、蹲って頭を抱えて、体を震わせることしかできない。誰もいない木陰に駆けて逃げることしかしないだろうから。

 ふと、ジャクリーヌがふわりと髪を揺らして振り返った。その目が誰を追っているのか、ジゼルにはわかってしまった。ジャクリーヌはヘロの後姿を――小柄だけど確かに男の子らしいその背中を、見つめて、どこか照れたようにふわりと笑った。顔からは張り詰めた色が消えている。

 ――わかるわ。なんとなく、わかるわ、ジャクリーヌ。

 ほとんど話したことはないけれど。ジゼルはなんだか泣きたいような気持ちだった。

 応援しているわ。あなたたち二人が選ばれたらいいと思うわ。

 だって、憧れだった。

 やがて、ジャクリーヌが扉の向こうへと消える。少しだけ、ヘロがそれを振り返ったのも見えた。いいなあ。あんな風に、見てもらえて、いいなあ。

 羨ましい。

 泣きたくなった。ジゼルはいつしか、ヘロの横顔ばかりを見つめていた。

 いつまでも、本当は見ていたかった。

 あなたのことを、何も知らないのに。

 こんなに、彼女のことが羨ましい。

 ヘロの夕焼け色の髪を眺める。その色だけが、私を安心させてくれた。ほとんど話したこともないような私なんかにこんな風に思われて、気持ち悪いかもしれないけれど。

 あなたに片思いしていたから、叶わないけれど、それでもあなたの姿を見られる日があったから。

 ヘロが水瓶に両手を沈ませる。

 ああ、行ってしまう。行ってしまう。行かないで。

 私があなたを見られなくなってしまうところへ、行ってしまわないで。

 どうか、お願いだから。叶わなくたっていいから。あなたと目なんて合わなくていいから。

 ヘロが扉の向こうへ消える。苦しくて、ペルフィアペンダントを握り締めた。指にあざができる。金属が食い込んでいく。

 辛い。辛い。辛くてたまらない。

 ジゼルは自分のことばかりだったから、周りが騒がしいことに気づくことができなかった。

 ふと、ようやく周囲の音が戻ってきて、顔を上げると、誰もが恐ろしいものを見たような蒼白な顔をしていた。気まずそうに。何かから視線を逸らして。

 その、青緑の目と目が合ってしまう。

 ジャクリーヌは、硬い笑顔を浮かべていた。

 ジゼルを見ると、心なしかその硬さがやわらぐ。その理由は、ジゼルには量りかねた。ジャクリーヌはちら、ともう一つの――勇者の扉を見やると、胸を押さえるようにして洞窟の入り口へと風のように駆けていってしまった。

 何が起こったのか、わからない。

 どうしてみんな、そんな顔をしているのだろう。顔を見合わせているのだろう。

 どこか嬉しそうな、罰が悪そうな、辛そうな表情をしているのだろう。

「ジゼル=フェルフォーネ。お前の番だ」

 一人の教師が、ぞんざいにジゼルの名を呼んだ。

「え?」

「早くしろ」

 背中を押される。

 水瓶に満たされた水面に、ジゼルの顔が映る。

 どういうことなの?

 わたしは成績が悪いから、順番も最後だった。ジャクリーヌの後だったのだ。だって、ジャクリーヌが選ばれるのは自明だったから。わたしには、【試験】を受ける権利すら、与えてもらえていなかった。表向きは順番なんかつけて、その実、わたしにはあの杖に触れる機会さえ、なかったはずなのに。

 手が震える。

 ぼろぼろと、指先から水を零してしまう。白装束に身を包んだ誰かが顔をしかめたのがわかった。

 やり方なんてわからない。だって、【試験】は受けさせてもらえないはずだったから。教えてさえもらえてなかった。ジゼルは体を震わせながらもう一度水を掬った。白装束の誰かは咳払いをする。本当は、二度掬うなんてだめだったのかもしれない。けれどジゼルの頭は真っ白だった。

『……で、……ひと』

 誰かの声が耳を掠める。扉へ近づく毎にそれははっきりと鼓膜を振るわせた。

『泣かないで、愛しい人』

 扉が開く。石と石を擦り合わせるような、かすれた音を立てて。

 銀色の冷たい空間で、ヘルメスの杖がくるくると回っている。その大部分を、ヘロの瞳の色のような茜色の繭に包んで。

 扉が、ばぁん、と閉められ、ジゼルはびくりと肩を跳ねさせた。そのせいで、掌にためていた水をほとんど床に零していく。銀の床をつう、と伝う水溜り。

『愛しい人』

 どこか泣きそうな声で、少年の声は言った。

『待ってた。待ってた。ありがとう。ありがとう……!』

「あな、た、が、」

 ――ずっと、話していたの? わたしに? こんなわたしに……?

 ジゼルはごくりと喉を鳴らすと、震えてうまく動かない足をもつれさせながら杖の側へと歩んだ。

 金色の杖。細い滑らかな軸の天辺に、三日月を模したオルガオブジェが輝く。その内弧に、水晶玉のような水色の球体が浮かんでいる――これは、シクルと同じものだと、ジゼルは直感的にそう思った。夕焼け色と緑の二つ光の筋が惑星の輪のように球を取り囲んで、くるくると回転している。ふと、ジゼルは、どうして惑星に【環】があると知っているのだろうと恐ろしく思った。知らないはずなのに。そんなことは、教わってすらいないのに。知らないことを知っているのが恐ろしい。

 杖の脚には、小ぶりの球体が――水色の球体がついている。これは恐らく、魔法を発動するための陣を――絵を描くための筆先だ。

 杖は、夕焼け色の繭に今にも覆われようとしている。

「どうして、そんな繭に包まれているの?」

 ジゼルは震える声で尋ねる。

『触れられたくないんだよ。もう、あなたを憎むような人間達に、触れられたくなかったんだ。だから僕は、閉じこもろうとした。けれど、あなたは来てくれた』

「わたしのことを、知っているの?」

 声が震える。どうして話せるの、とか、色々聞きたいことはあったのに、他に何も言葉が紡げない。

『待っていたよ、愛しい人。僕らは、僕らだけが、待っていたよ。ああ、かわいそうに。そんな土の体がなければ、あなたはあなたを保てないんだね。愛しい人。どうか……どうか、僕達をこんな儀式から解放して。僕達はもう、このぼしのための神器でいたくない。あなたを裏切った、あなたを苦しめたこんな人間達の希望になんて――』

「ま、って、お願い。わからないわ。あなたは何を言っているの? わからないわ……っ」

 喉からひゅう、と耳障りな音が漏れる。

『触れて、愛しい人。それからその印、絶対に失わないで。ウラノスの地図があなたを待っているから。せめて、あれに出会うときまでは。どうか。ウラノスの地図に……あの子に……』

 ヘルメスの杖は声を震わせてる。その声は小さく収束していく。とっさにジゼルはその杖を抱えた。細そうに見えて、天辺の三日月のせいで随分と重い杖だ。こんなものをずっとあの子は、ジャクリーヌは抱えていたのか。この重みを、背負っていたのか。

『ありがとう、ありがとう……僕達はもう、限界なんだ。もう、話せ、な……最後に、会えて、嬉しい』

「し、し、死んじゃうの?」

 ジゼルの声は震えた。ヘルメスの杖はきょとんとしたかのように一瞬押し黙って、くすくすと笑い声を上げた。

『僕達に、死はない、よ、愛しい人……ただ、もう、話すことが、できなく……これも、本来は、魔法……あなたの、与えた……、また――』

 ヘルメスの杖は、ふるりと震えた。

 そうして、ぴたりと、話すのをやめてしまった。

 ジゼルはふと、自分の体中に、ヘルメスの杖を纏っていた繭の糸がまるで蜘蛛の糸のように絡み付いていることに気づいた。それを解こうとするけれどうまくいかない。ジゼルは杖を抱えて、扉へと向かった。糸の引力は強くてジゼルごと呑みこもうとする。それをどうにか振り切って、半ばぶつかるように扉に触れた。糸がしゅるしゅるとジゼルの右手の小指に巻きついていく。熱を持って。

「開けて……開けてください! 助けて……」

 ジゼルは、ジゼルなりの声で叫んだ。それはまだまだ、随分と小さな声だったのだけれど。

 扉が開く。

 子供たちの視線がジゼルに集中した。扉の側に控えていた白装束の誰かが、ジゼルの右手をつかんで、その小指を凝視する。

 ――あ……。

 そこには、あの糸と同じ色の指輪がはめられている。

「嘘でしょ……?」

 誰かの声が響いた。

「なんであの子が?」「なんで、あいつおちこぼれじゃんか」「どうして」「何であの子に負けなきゃ……」「ジャクリーヌがかわいそう」「裏切り者」「ジャクリーヌがかわいそうだ」「卑怯者」

 声が洪水のように降り注いで、ジゼルの首を締め上げていく。苦しい。苦しくて、たまらない。

 怖い。そんな目でわたしを見ないで。嫌わないで。これ以上、わたしのことを嫌いにならないで――!

 喉から嗚咽のようなかすれた音が漏れる。恐ろしくて涙さえ滲みはしない。

 わたしは選ばれてしまったんだろうか、そういうことなんだろうか。どうして? どうして……。

 重い扉が開く音がした。

 向かいの扉の闇から、夕焼け色が滲んで、光を浴びる。

 茜色の瞳が、ジゼルを見ている。

 何の感情も持たない目で。蔑みも、哀れみも、憎しみもない光で。

「ヘロ……」

 恐らくは誰も聞き取れなかったであろう、掠れ声でジゼルは呟いた。

 あなたはどうして、いつもわたしの世界の色でいてくれるの。

 期待させないでよ。わたしに祈りを抱かせないで。だって、あなたには大切な人がいるんだから。

 わたしの人にはなってくれないのだから。

 ジゼルはぎゅっとヘルメスの杖を抱えた。今はその重さが、かろうじてジゼルの脚を支えてくれていた。よろめかないように。転ばないように。

 ヘロが目を細める。ああ、よかった、彼にはこの顔がまだ見えていない。きっと、今のわたしは酷い顔をしているから。

 俯くと、足音が響いた。ジゼルを覆っていた重い空気の壁が引いていく。ジゼルは息を深く吸い込んだ。少し楽になれた気がした。ぼろぼろの茶色いヘリヤブーツが見える。顔に、影が落ちる。

 見上げると、ヘロがジゼルを覗き込んでいた。思わず後ずさってしまう。

「ごめん。名前覚えていないんだ。俺はナファネ家のヘロ」

 ヘロが、鉄琴のような声でそう言った。おもわず、腰のあたりがぞくり、とした。

 心臓が煩い。今わたしは、自己紹介をされたの? 名前を、聞かれているの?

「知っ……て……」

 ジゼルは声を振り絞る。けれど、口が固まってしまって、うまく言葉をつなげることができない。苦しい。息が出ない。喉が、気管が、肺が痛くてたまらない。

「わた、しぁ……ジゼ…ゥ………ゲルダ、フェルフォーネ、の、養、女」

 ヘロは眉をひそめた。ジゼルから顔を逸らすと、後ろを振り返って、ゆっくりと周りを見回す。なんだかとても怖い顔をしている。何かに怒っているような――怒る? ヘロが? ヘロも怒ったりすることがあるの?

 ジゼルはただ、至近距離にあるその大好きな顔をじっと見つめることしかできなかった。視線を逸らせない。わたしはどうしてしまったんだろう。逃げなきゃ、この人の視界から逃げなければ。わたしなんかを映しちゃいけないのに。どうして足が動いてくれないの。

 ヘロは突然、ジゼルの手をとって、吃驚するような速さで走り出した。

「まっ――」

 待って、という言葉が銀色の床に零れて跳ねる。わたし、そんなに早く走れない。待って。苦しいの。苦しくてたまらないの。肺が痛い。体中が痛いの。

 息の仕方も忘れて、ただジゼルの手首を痛いほどに握って引っ張る大きな手から振り落とされないように脚を一生懸命動かすことしかできない。正しく動かせているかどうかすらわからない。涙が風で飛ばされていく。髪がぐちゃぐちゃだ。顔に張り付いて、口の中に入って、何度も咳き込んで、嗚咽を漏らした。涙で滲んだ視界の端で、ジゼルの手を握るヘロの手に――左手の小指に、ジゼルのそれと同じ指輪があるのが見えた。それを認めて、ジゼルは声を上げてしまった。

「うああああ……ううう……」

 思えば、こんな風にぐちゃぐちゃになりながら泣いたのは初めてなのかもしれない。生まれたときは赤子だったのだから、存分に泣いていただろうけれど、そんな昔のことをジゼルは覚えてなんかいない。

 何をどう考えたらいいのかわからなかった。けれど、一つだけじわじわと、画用紙に絵の具が染み込むように、ジゼルは理解しようとしていた。

 わたしは、選ばれてしまった。

 そうしてこの人は、わたしの憧れていた人は、わたしの手を握ってくれるこの人は、


 わたしの、勇者なのだ。




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