Episodi 2 蜘蛛と檸檬

 朝、まだ教室には誰も来ていない。来る時間でもない。

 このしーんとした暗い部屋にいるのが、なんとなく好きなのだ。

 時計をちらちらと神経質に確認しながら、ジゼル=フェルフォーネは教室の真ん中で机と机の間を意味もなくうろうろする。歩くたびに、檸檬色の髪がさらさらと跳ねた。葡萄色の瞳は、不安そうに飴色の木の床を見つめる。

 人が来る前には、明かりを灯さなければならない。暗い部屋で一人じいっとしていたら、訝しまれるのは知っているからだ。何度も失敗した。だから、少しでも何か悪く思われる芽は摘んでおきたい。

 けれど同時に、なんとなく勇気も出ないのである。たった一人しかいないのに、明かりをつけていいものなんだろうか。油がもったいないのではないだろうか。たかがわたし一人のために、安くない油を無駄に使ってしまっていいものだろうか。

 そんなことを考えて、先刻から一人で右往左往している。どうしても一人きりの教室でじっと座っていられず、ジゼルは黒板を綺麗に拭き始めた。それはジゼルの仕事ではないのだけれど、何かをしていないと落ち着かないのだった。そんな風に毎朝、意味もない仕事に励むジゼルを教室に見つけ、他の生徒たちがいつも何とも言えない表情をするのも知っているのだけれど。それでも、じっとしたままその視線に耐えるよりは、動いて気を紛らわす方が楽だった。とはいえ、最近ではジゼルのそういった奇怪な行動に興味も示さない子供たちも増えていて――それはそれで針のむしろだった。自分がつきあいづらい性格をしているのはジゼルにも自覚があって、けれどこれでも、自分なりに頑張っているつもりなのだ。誰もがんばっているとは思わないだろうけれど。ばぁばでさえ、そんなのはただの自意識過剰だ、と厳しいことしか言ってくれない。わかっている。わかってはいるのだ。ただ、頑張ってるのにうまくやれないのだ。

 ――本当は、こんな風に気を揉むくらいなら、人が入った教室に遅れて入っていけばいいことなのだ。だけど、小心者のジゼルにはそれもできなかった。みんなが楽しそうに話をしている明るい空間に入っていけない。気おくれがする。あるいは、少人数しかいない空間に入っていくのもなんだか怖い。自分が入っていくと、それまで楽しそうに話をしていた子たちが気まずそうに黙りこむのだ――その気持ちもなんとなくわかるわけで。人が少ない教室は話し声が非常によく響く。だから、そういう時は席についてすかさず本を取り出す。本に集中していればジゼル自身も周りが気にならなくなってくるし、他の子たちもやがて気にしないで会話を再開してくれる。

 今日もジゼルは悶々と考えながら、意味もなく床を掃き、人が数名教室に入ってきたところで明かりを灯した。明るくなった教室から身を隠すように急いで席に戻り、本で顔を隠す。そのすべての行動がものすごく人目に付くのだということに、ジゼルは気づけない。

 はぁ、と小さく嘆息した。席が窓際であることが唯一の救いだ。右側は人による人のための圧迫感があるけれど、窓の方なら開けている心地がする。青い空。今日もたくさんの生徒たちが門をくぐりぬける。ぼさぼさ頭のジル先生があくびをしながら生徒たちに声をかけている。その人ごみの中にふと、軽快に走ってくる綺麗な影が見えた。ジャクリーヌ=ヴァルソアだ。黒髪が朝日を受けて艶めいている。たくさんの生徒たちがその姿に振り返るのだった。ジャクリーヌは、目を見張るほどの美人だ。ジゼルも、ひそかに憧れていたし、少し羨ましかった。美しいものは美しいすべてを手に入れている。もちろん、ジゼルが初めて、ちょっとだけ欲しいな、と思えたものも、すでに彼女が持っていたものだった。だからもう諦めている。せめて悪くは思われたくないけれど、いつでも愚鈍な自分は、彼や彼の友人たちにただでさえ迷惑ばかりかけていて――だけど、そもそも多分、自分は彼の眼中にもないだろうなとも思う。そう考えると、なんだか消えたくなった。



     *



 ヘロは、ジゼルの日々の景色で唯一絵の具のように滲んだ色だった。

 恐らくは彼自身はこれっぽっちも自覚していないのだろうけれど、彼は女子に密かに人気があった。

 男の子にしては小柄で華奢な体。けれど細すぎるわけでもなく、筋肉のついた引き締まった腕。空が暮れなずむ頃のような淡い色の髪。ふわふわで、風に揺れる儚い髪。夕焼けのような赤橙の瞳は、いつだって窓の外の景色をぼんやりと映していた。特に愛想を振りまくわけでもないし、言葉遣いがいい訳でもないし、表情もほとんど動かないけれど、例えばそれは、重い荷物を抱えている人がいたら男女問わず何も言わずにひょいっと持ってくれるさりげなさだったり、掃除の時間も皆がどことなく嫌がる雑巾がけをさっと一人で終わらせる潔さだったり、勉強もそれなりにできるというのに、眠い時は普通に堂々と寝てしまう変なところだったり。

 実際に、ジゼル自身も親切にされた記憶がある。親切に慣れていないジゼルは、だからこそ彼をすぐに好きになってしまった。安直だ。それは自分でも痛いほどに自覚はしている。

 けれどジゼルは、彼の――ヘロ=ナファネの、そういった所だけに惹かれたわけではなかった。

 彼は【勇者の蛹】なのに、視力が悪かった。時々とても目つきが悪くなるときがある。あれは、見えづらくて、目を細めているのだ。ジゼルも視力は悪かったから、すぐにわかってしまった。だって、少し離れた人の顔を見る時、いつだって焦点が合っていない。他の子供達は、それは彼のぼんやりとした性格によるものなのだと思い込んでいる節があるけれど、ヘロは確かに、何もはっきりとは見えていないのだ。それは【勇者の蛹】としては、不利な欠点だ。なのにどうしてだか、彼はどの視力検査でもそれを暴露されることはなかった。

 いつだったか、一人の少女の髪の毛に蜘蛛が潜り込んでしまって、彼女が泣き出して大騒ぎになったことがある。彼女は蜘蛛も隠してしまうくらいの艶やかな黒髪だった。ジゼルは蜘蛛くらいは平気だったから、取ってあげようかとも思った。

(でも、今まで一度も話したことなんてないのに、声をかけたら変かな)

 戸惑っていた。どうするのが正解なのかよくわからなかった。それでも勇気を振り絞って、震える手を伸ばそうとした時、声が聞こえたのだ。少し掠れた、ぼそっとした声。

「何騒いでんの」

「あっ、そのっ、蜘蛛が……! 髪の毛に、蜘蛛が」

「はあ……」

 ヘロは目をすっと細めた。周りの女子は少しだけびくっと震えた。ものすごく不機嫌そうに見えたから。

「えー……どこだよ」

「わ、わからないわよ!」

 黒髪の少女はぽろぽろと涙を流していた。よほど蜘蛛が嫌いなんだろうな、とジゼルはかわいそうに思った。わたしも、もし蛾が髪の毛に潜り込んだら泣いてしまうかもしれない。

 ヘロは物凄く不機嫌そうな顔で、近すぎるほどに彼女に顔を近づけた。

 恐らくは、彼は不機嫌だったわけではなかったのだ。彼は本当に視力が悪いのだ。だから、それくらい近寄って見なければ、黒い髪に混じった黒い蜘蛛だなんてきっと判別できなかった。

 けれど、それはあまりにも自然な動作で、そして誰もが息を止めて見惚れてしまうような鮮やかな光景だった。ヘロは蜘蛛を指でつまむと、窓の外にぽいっと投げた。

 その後彼は、何事もなかったみたいに自分の席について、欠伸をするとうつ伏せに寝てしまった。彼の耳は酷く赤かった。ジゼルは、彼の肌が日の光に弱いこともなんとなく知っていた。それも自分と同じだったからだ。その日男子は外で訓練を受けていた。だからおそらくあれは、ただの日焼けだった。

 けれど、黒髪の少女も、そして成り行きを見守っていた少女達も皆、誤解をした。

 あれは照れているのだと。少しは意識してくれているのだと。脈があるんじゃない?、と聞こえるひそひそ声。

 黒髪の少女が――ジャクリーヌが、彼に想いを伝えたのはそれからすぐ後のことだった。思えば、元々ジャクリーヌが彼を好きだということは女の子の間では有名だったのだから、それも自然な流れだった。もしもジゼルがジャクリーヌだったとしても、あの出来事なら同じように舞い上がってしまっただろう。けれどそれでも、きっとジゼルには告白する勇気は出なかった。ヘロはすんなりとジャクリーヌの想いを受け入れた。当たり前だ。

 だって、ジャクリーヌはとても可愛かったし、笑顔が本当に綺麗だった。

 いつだってどこか陰のある目で窓の外の青を眺める彼には、必要なひだまりだった。

 ジゼルには、彼の真似事をすることくらいしか、想いを滲ませる術がない。

 だからジゼルは、俯くのはやめて、窓の外を眺めるようになった。

 青い空。土の色。木の色。風の色。風が運んでくる葉っぱの色。そして、朝学校の玄関を潜り抜けるヘロの眠そうな顔、とか。そして、その子の大好きな、綺麗な女の子の姿とか。

 ジャクリーヌの姿を見た後、ジゼルは窓から目を逸らして傷だらけになった自分の古い机をじっと見つめた。

 なんだか少し落ち込んでしまった。今日はもう、ヘロの姿を見る勇気が出なかった。

 明日には、【試験】が始まってしまう。

 嫌でも、結果を見ることになってしまう。

 その中に彼が、彼女がもしいたらと思うと、いたたまれなくて、そして、同じくらい早く終わって欲しいとさえ思った。

 二人がもしも巡礼の旅に出るのなら。

 わたしはもうきっと、彼を見ない努力をしなくてもいいのだ。

 きっと、ようやく息ができるようになるだろう。

 ようやく、水からあがることができるだろう。


 そう、信じていた。




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