アリスベルダは訳がわからなかった。


(お母様は亡くなったのではないの? お父様はどこに行こうとしているの?)


 アリスベルダは怖かった。恐ろしかった。逃げ出したかった。しかし、王の手はがっちりとアリスベルダの腕を掴んでいる。アリスベルダはかろうじて立った。小走りに走る。走らなければ、王についていけない。引きずられたままでは、腕が抜けそうだった。書斎のベランダから庭園に降りる。庭園の小径の先に小さな門が見えた。


「門番、開けろ!」


「は、はい、王様」門番が王の剣幕に縮み上がる。恐ろしさにおたおたしながら、門の錠を外した。

 王が門扉を荒々しく押した。

 アリスベルダは、扉の向うを見た途端、父王への恐怖も、掴まれた腕の痛みも、総て吹き飛んだ。 

 濃い緑の林を背景に、水盤のような池があった。透明な水の底には青いタイルが貼られ、優雅な欄干を持つ白い橋がかかっている。島には大輪の白バラが咲き誇り、強い香りを放っていた。絵のように美しい庭園だった。

 王の歩みが止った。

 アリスベルダは父を見上げてはっとした。深い悲しみが膜のように王の全身を覆っている。

 再び歩き出した王の足取りは、何か神聖な物に近づいて行くようにゆっくりとしていた。

 池にかかった小さな橋を父が進んで行く。相変わらず、父の手がアリスベルダの腕を掴んでいたが、もう恐ろしくはなかった。行く先に何があるかわかった。

 島の真ん中に水晶で出来たお墓が立っていた。


「ここがおまえの母の墓だ」


 父がアリスベルダの体をぐいと押した。アリスベルダの体が墓の上に倒れ込む。父王の大きな手がアリスベルダの頭をぐいぐいと墓に押し付けた。


「さあ、謝れ! 母に謝るのだ。申し訳ありませんでしたと。私が生まれたせいで亡くなったのだと、私は生まれてはいけなかったのだと。さあ、謝れ!」


 アリスベルダは押さえつけられた手の下から、かろうじて声をだした。言われた通りにするしかなかった。


「お母様……、ごめんなさい。申し訳ありませんでした。私のせいでお母様は亡くなられました。私は生まれなければ良かったのです。本当に申し訳ありませんでした」


 言いながらアリスベルダは泣いていた。父の言葉を繰り返せば繰り返すほど、父の言う通り自分など生まれなければ良かったと思えてしまう。

(だけど)とアリスベルダは思った。


「お母様、命を賭けて私を生んで下さって、ありがとうございました」


 王の手が緩んだ。


「は! 生意気な」


 王がもう一度アリスベルダを突き飛ばした。アリスベルダは白バラの茂みにぶつかった。白バラの花びらがあたりに舞う。弾みでベールが落ちた。ピンがはずれ、豊かな巻き毛が広がる。


(痛!)


 アリスベルダは手の平を見た。バラのとげで裂けたのだろう、血が流れていた。

 倒れ伏したアリスベルダに王が冷ややかな声で言う。


「おまえは、一生かけて償うのだ。おまえは、決して黒以外の衣装をきてはならん。常に母の喪に服するのだ」


 アリスベルダは悲しくて、悲しくて、必死に父である国王を見上げた。涙があふれ、頬を伝って流れて行く。アリスベルダの血と涙が地面に吸い込まれた。


「おまえのせいで死んだのだからな。決して忘れるな……」


 急に王の声が小さくなった。アリスベルダの顔を食い入るように見つめる。王の顔から怒りが消え驚きへと変わって行く。


「マルガレーテ!」


 王がアリスベルダの前に膝をついた。


「おお、なんという事だ。マルガレーテにそっくりではないか」


 突然、王の背中から黒い影が飛び出した。真っ黒な体、耳元までパックリと裂けた赤い口。


「ま、魔物!」アリスベルダが叫んだ。

 魔物が王の首に巻き付き締め付ける。


「ぐわっ」


 王が魔物を引き剥がそうともがく。にたにたと笑いながら魔物が国王の耳元で囁いた。


「この娘は、おまえの王妃を殺したんだぞ! さあ、ののしれ! 痛めつけろ!」


「お父様! だれか! 助けて!」


 アリスベルダの叫びと共に、王妃の墓から白く光る稲妻が国王に向って放たれた。


「うわあ」


 倒れる国王。悶える黒い影。墓の上に白い影が浮いている。


「くそお! おまえは死んでいるんだ。何も出来ぬわ! 娘の血と涙などすぐ乾く」

魔物がわめく。


「父上!」兄達が走って来る。「姫様!」エリーが門番と一緒にいるのが見えた。

 リシャール王子が黒い影に向って剣を振るう。エドワード王子も切りつける。

 しかし、王子達がいくら切りつけても、魔物はすぐにくっついてしまう。


「剣などで切れるものか」


 魔物がせせら笑った。


「こいつの歪んだ執着が俺様を生み出したのさ。もっと、娘を痛めつけさせようと思っていたのに。娘を痛めつければ痛めつけるほど、こいつの魂は黒く染まる。真っ黒な魂を喰うつもりだったのに。くそぉ、王妃め。染まり切っていないが構うものか、こいつの魂を喰ってやる」


 魔物が国王の体に腕を突っ込んだ。

「ぎゃあ」倒れた王が背中を弓なりにして悲鳴を上げる。


「アリスベルダ、その白バラの枝を魔物に向って投げなさい。白バラは魔を払うと言われています。さ、早く!」王妃の霊が叫んだ。


「えいっ!」


 アリスベルダは目の前に落ちていた白バラの枝を拾って魔物に投げつけた。


「ギャア、キサマ!」


 魔物がアリスベルダに襲いかかった。間一髪、白バラの茂みに逃げ込むアリスベルダ。王妃の霊が稲妻を放つ。王子達が白バラの茂みに剣を振るい落ちた白バラを次々に投げつける。


「ギャアアアア」


 とうとう魔物は塵になって消えて行った。




 墓の上に倒れていた国王がうめき声を上げた。二人の王子が国王を助け起す。


「マルガレーテ」


 国王がそっと名前を呼んだ。王妃の霊が国王の側に跪く。


「あなた、私達の子供達をお願い」


 ふわりと浮き上がり、光の中に消えて行こうとする王妃。


「お母様!」


 アリスベルダは母に向って駆け寄った。母の霊がアリスベルダの頭を撫でる。


「大きくなったわね、私の愛しい娘。お父様はもう大丈夫よ。私はもう、行かなければならないの。アリスベルダ、リシャール、エドワード。いつもあなた達を見ていますよ」


「母上!」リシャールとエドワードが同時に叫ぶ。母の霊がゆっくりと消えて行った。

 父が起き上がった。アリスベルダを抱きしめる。


「すまない。すまなかった。アリスベルダ、長い間、すまなかった。私は王妃を失って、闇に落ちていた。おまえに王妃の死の責任を押しつけなければ、気が狂いそうだったのだ。いや、すでに狂っていたのかもしれぬ」


「お父様」


「王妃が死んだのは誰のせいでもない。それが運命だったのだ。おまえは私と王妃が愛し合って生まれたのだよ。さ、行こう。王宮で一緒に暮らそう」


 国王が立ち上がった。


「父上!」


 二人の王子が父に駆け寄る。リシャールが言った。


「父上、これからは家族一緒に暮せるのですね」


「そうだ、おまえ達にも心配をかけたな。これからは皆で一緒に暮らそう」


 いつのまにか雲が切れ、暖かな日射しが降り注いでいた。国王がアリスベルダを抱き上げた。


「姫よ。七歳の誕生日おめでとう」


「お父様!」


 アリスベルダは父を思いっきり抱き締めた。




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黒姫アリスベルダの受難 青樹加奈 @kana_aoki_01

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