塔の外はアリスベルダにとって初めての世界で、馬車の窓から見える何もかもが珍しかった。珍しさに心を奪われ、アリスベルダは初めて父親に会う不安を忘れていた。

 しかし、灰色の空を背景に宮殿の豪奢な姿が見えて来た途端、アリスベルダは不安になった。今まで一度も会おうとしなかった父が、何故急に会いたいと言い出したのか?


 宮殿には大勢の人々が集まっていた。皆、礼拝堂へ次々と入って行く。アリスベルダもまた、侍女エリーと共に礼拝堂に入った。

 アリスベルダは礼拝堂の美しさに息を飲んだ。

 緑の大理石で覆われた柱は高くそびえ立ち、アーチ型の天井を支えている。窓に嵌め込まれた色ガラスは空気を虹色に染め上げていた。中でも一際目を引いたのは祭壇に掲げられた大きな肖像画だった。


「ねえ、エリー、あの美しい人は誰?」


 アリスベルダは侍女エリーの手をひっぱって問いかけた。


「王妃様ですよ」


「え? 王妃様? 王妃様ってことは、私のお母様?」


 アリスベルダは驚いて侍女エリーを見上げた。侍女エリーの目がしまったといわんばかりに見開かれている。


「アリスベルダ姫様、お席にご案内致します。お付きの方は礼拝堂の外でお待ち下さい」


 案内の召使いが現れ、アリスベルダはエリーの返事を聞けないまま、召使いに先導されて王家の席に付いた。深紅の天鵞絨に覆われた豪奢な椅子が並んだそこには、すでに二人の少年が座っていた。物珍しそうにジロジロとアリスベルダを見る少年達。

 アリスベルダは取り敢えず、名乗ってみようと思った。


「あの、初めまして、アリスベルダと言います」


 二人の少年が顔を見合わせる。一人が立ち上がって腰をかがめ、アリスベルダの手を取った。


「初めまして、僕はリシャール、君の一番上の兄だ」


 アリスベルダはあんまりびっくりしたので、ぽかんと兄を見上げた。端整な顔の周りで真っすぐな金色の髪が揺れている。切りそろえられた前髪の下から青い瞳が覗いていた。


「初めて会った兄に何か言ってくれないのかい?」


 優しそうな兄がにっこりと笑う。


「あ、ごめんなさい。わたし、お兄様がいるなんて知らなくて。どうぞ、宜しく」


 アリスベルダは大急ぎでぴょこんと腰をかがめて挨拶した。

 もう一人の少年がくすくす笑いながら言った。


「僕はエドワード、君の二番目の兄貴」


 エドワードは、上着のボタンを外した、栗色短髪の、ややくだけた雰囲気の活発そうな少年だった。兄リシャールの柔らかい物腰とは対照的だ。

 アリスベルダは更に驚いたが、今度は二度目だったので、「よろしくお願いします。エドワードお兄様」と答えた。

 アリスベルダは何故、自分に二人の兄がいると、誰も教えてはくれなかったのだろうと思った。

 ざわざわした人々の間に、ドラの音が響き渡った。あたりが静まり返る。王の入場である。

 アリスベルダはベールの影からそっと父の姿を見た。黒い衣装を着て薄く顎髭を伸ばした王は堂々としていて、アリスベルダは(お父様はなんて立派な人なんだろう)と思った。

 僧侶が祭壇の横に設えられた説教台の前に立ち「ただいまより王妃様のツイトウシキを始めます」と宣言した。アリスベルダは隣にいたエドワードに小声で話しかけた。


「ツイトウシキって何?」


「母上を忍ぶお式だよ」


「どうして、お母様を忍ぶの?」


「亡くなられたからだよ。みんなが母上を忘れないように、父上が毎年亡くなった日に追悼式をやるんだ」


 誰かが後ろの方で、しっと言うのが聞こえた。

 アリスベルダは声が出なかった。

 自分に母がいると知り、嬉しくて舞い上がりそうだった。会いたいと強く思った母。それなのに亡くなられていたなんて。目から涙があふれた。

 アリスベルダは僧侶の祈りを泣きながら聞いた。僧侶の話す亡き王妃の思い出を一言も漏らすまいと聞き入った。母がどんな人か知りたかった。どんな些細な事でも良かった。


「……王妃様は心根のお優しい、常に国民の幸福と王の安寧を考える方でした。皆様もよくご存知でしょう、流行病に貧しい人々がばたばたと倒れて行った時、無料の診療所を作り私費で医師を派遣され、自ら陣頭に立って食事の世話をされたのです。医師や薬師を育てる学校も作りました。五つの言語を自由に操り、聡明でそれでいて奥ゆかしい方でした。今も天の国でにこやかにお過しでしょう……」


 僧侶の王妃を讃える説教が終わった。王が祭壇に歩み寄り肖像画の前で跪く。一心に祈りを捧げる王の肩がわずかに震えた。父王が泣いていた。


(お父様。お父様はお母様を忘れられないのですね)


 亡くなった後も父を惹き付けてやまない母。素晴らしい方だったに違いないとアリスベルダは思った。

 王の祈りの後、アリスベルダと王子達の番になった。

 次兄のエドワードが振り向き、アリスベルダに囁いた。


「祭壇の前に跪いて祈るんだよ。僕らと同じようにしたらいいから」


 アリスベルダはエドワードを見上げてうなづいた。二人の兄の後ろから祭壇の前に歩いて行く。

 まわりからヒソヒソと声が聞こえた。


「まあ、あの方があの時の?」


「大きくおなりになって」


「確か七つでは?」


「塔でお暮らしだそうですわ。黒い服ばかり着てるんですって」


「まあ、なんて不吉な」


「下々の者は黒姫と呼んで、忌み嫌っているそうですわ」


 アリスベルダは見ず知らずの人達からの嫌悪を感じた。何故自分が嫌われるのか訳がわからなかった。

 僧侶の咳払いで、もう一度静寂が戻る。

 祭壇の前に跪きアリスベルダは肖像画を見上げた。こんなに美しい人が自分の母だと思うと誇らしかった。


(お母様、お母様、お会いしたかった)


 つつがなく祈りを終えたアリスベルダは、強い視線を感じて振り向いた。

 父王がアリスベルダを恐ろしい目で睨んでいる。アリスベルダは足がすくんだ。


「さ、こっちへ」


 エドワードがアリスベルダの手を掴んだ。さっと元の席に戻る。アリスベルダは何故父があんな恐ろしい目で自分を睨みつけるのか、わからなかった。


「僕達は君の味方だよ」


 エドワードが励ますようにアリスベルダの耳元で囁く。アリスベルダは小さく頷いた。

 次々と祈りを捧げて行く親族達、大貴族が続く。

 式が終わり国王と王子達の後についてアリスベルダは礼拝堂から出た。侍女のエリーが待っている筈だ。そこに、案内係の召使いがやってきた。


「アリスベルダ様、どうぞこちらに」


 アリスベルダは侍女のエリーを探した。果たしてこの召使いに付いて行っていいものか、アリスベルダは不安だった。

 人混みの中からエリーが現れた。


「姫様」


「エリー」


 アリスベルダはほっとした。


「エリー、召使いさんが一緒に来るようにって」


 侍女エリーが召使いと視線を交わす。


「大丈夫ですよ、姫様、さ、参りましょう」


 アリスベルダは侍女エリーと共に召使いについて宮殿の奥へ向った。辺りが次第に静かになっていく。長い廊下に三人の足音だけが響いた。


「こちらでお待ち下さい」


 案内されて入った部屋は意外にも質素な書斎だった。暖炉の上に王妃の肖像画が掛けられている。

 エリーと二人きりになったアリスベルダは早速、エリーを質問攻めにした。


「お母様が亡くなっていたなんて! エリーは知ってたの? 知っててどうして教えてくれなかったの? ねえ、一体、いつお亡くなりになったの? それに、お兄様達がいたなんて! どうして、私に家族がいるって誰も教えてくれなかったの?」


 侍女のエリーが俯いた。


「女官長様から姫様の前で、ご家族の話をしてはいけないと言われていたのでございます」


「どうして? どうして、私に家族の話をしてはいけないの?」


 突然、扉が大きな音を立てて開いた。目を爛々と光らせた恐ろしい形相の国王が入ってきた。


「私が禁じたのだ」


「お、お父様!」


 アリスベルダの体は小刻みに震えた。


「王妃が何故死んだか、私が教えてやろう」


 怒り狂った国王が激しく言い放つ。


「おまえが七歳になって、分別がついたら教えてやろうと思っていたのだ。わけのわからない子供に教えても無駄だからな。おまえの母はおまえを生んで死んだのだ。おまえのせいで死んだのだ」


 アリスベルダは知らずに侍女エリーのスカートにしがみついていた。太い眉を吊り上げ口を真横に引き結んでアリスベルダを睨みつける国王。国王がアリスベルダに向って指を突き出した。


「おまえは逆子で、なかなか生まれなかった。そのせいで王妃は力を使い果たして死んだのだ。今でも王妃の悲鳴が聞こえる。おまえを生む苦しさに思わずあげた悲鳴が。私の最愛の王妃をおまえが殺したのだ。私の愛する王妃を! おまえが苦しめて殺したのだ!」


 王の激高が続く。王の手が伸びた。アリスベルダは父に殺されると思った。首をしめられて縊り殺される。


「いやあ!」


 王の手がアリスベルダを掴んだ、首ではなく腕を。


「来い、母親に会わせてやる」


「ええ!?」


 王が大股でアリスベルダを引きずって歩いて行く。


「姫様!」エリーの叫び声が聞こえた。


「エリー!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る