間章・1年前

第14話・一年前「大好きなの」


 目の前の景色がぼやけていた。

 視界が晴れず、霧に周囲を覆われてしまったかのような感覚。

 『俺』は、緩慢な動作で周囲を見渡して状況を把握しようとする。

 すると徐々に意識がはっきりとしてきた。

 立っている場所は、よく知る神社の境内。聴こえてくるのは篠笛の音色。そして篝火が、煌々と夜空を照らしている。篝火に照らし出された色とりどりの短冊を見て、ようやく状況が掴めてきた。


 あぁ、七夕祭の当日か。


 だが、前後の記憶がまるでない。

 あかりと一緒に寝たところまでは覚えているが、さていつの間にこんな場所まで来ていたのだろうか? いったいどうなっている? 疑問を感じている間にも、時間は変わらず進んでいく。

 ふと気づくと、隣には青山食堂の慎二兄さんが立っていた。


 「どうしたんだ貴史。今日はあかりちゃんと一緒に居たく無いなんて」


 そんなことは言っていないはずだが、慎二兄さんの表情はどこか貴史を責めているようだった。思い返してみても俺に心当たりはない。ついさっきまで一緒に寝ていたはずなのだ。だが、俺の口が勝手に答えを言う。


 「別に……喧嘩したとかじゃないんだ。ただ、あかりといるのが気まずいんだよ」


 体は俺の筈なのに、意識と体がリンクしていない。

 だが、そこでようやく違和感の正体にたどり着いた。

 なるほど、夢か。

 それも、俺とあかりが付き合いだしていない。一年も前の記憶だ。

 確かにそれなら思い当たる節がある。


 「あれだけ仲良くしていたのにか?」

 「あくまでも友達としてだ。恋人としてあかりを見ることなんて出来やしない」


 一年前の七夕祭で、俺は頑なにあかりを避けていた。

 それでも今付き合っているのだから、俺はこの後あっさりと手のひらを返すのだ。

 思い返してみれば、何をそんなに意地を張っていたのか……恥ずかしい思い出の一つになってしまった。

 しかし、記憶から消えている会話もある。


 「それに、その話はもうやめよう。慎二兄さんもわかっているんだろう?」

 「……貴史も、物好きだなぁ」

 「慎二兄さんには、わからないだろうな」


 一見矛盾しているようにしか見えな俺の言葉と、それを優しい目で見る慎二兄さん。信頼のおける空気がそこにはあった。

 ……こんな記憶、俺にはない。覚えていないというべきか。慎二兄さんは分かっているらしいが、当人の俺にはさっぱり記憶に無い部分だった。

 まぁ、そんなこともあるだろう。他人の会話を覗き見しているようで、居心地は悪いが、捉え用によってはいい機会だ。

 なにせ、記憶になかった場面を夢でもう一度見直せるのだ。一年前の七夕祭で事件の手がかりを掴めるかも知れない。忘れていた記憶が、何かヒントを与えてくれるかもしれない。

 そうと決まったら話は早い。俺は息を潜め、夢の細部に意識を集中させていく。



   ***

 俺は祭の人ごみの中を一人で歩いていた。

 立ち並ぶ夜店から漂ってくるソースの匂いに空腹感を覚えつつ、特にあてもなく彷徨っている。昨日までは、大学受験の為に部屋に篭ってひたすら勉強をしていたのだが「祭の日くらいは息抜きをしろ」と、じいちゃんに言われて渋々這い出てきたのだ。

 心境的には無駄なことは忘れて、帰ってしまいたいほどだった。

 景色は鬱屈としており、足取りは沼の中を進むように重い。

 それも全部、あかりのせいだった。

 いや、そうじゃない。この件は誰も悪くない。ちょっとしたすれ違いのせいで、妙に気が立っているだけだ。良くない精神状態だ。心が荒むとどうしても他人に当たってしまう。孤独な思考に没入している俺は、夜店を巡る参加者たちの流れに流されているうちに、とうとう境内の一番奥の本殿まで来てしまった。


 「……」


 振り返って見下ろすと、村の中心まで続く篝火の道。普段どこに隠れていたんだと、目を疑いたくなるような村人の群衆が巡る夜店。それらの光が連なって、出来損ないの天の川にも見えた。人目につかない静かな場所である。

 それが、より一層に孤独と空虚な気持ちを膨らませた気がする。

 柄にもなく感傷に浸っている俺へ、不意に隆太兄さんが後ろから声をかけてきた。


 「へぇ、ここは結構いい眺めだね」

 「あぁ、まるで地上の天の川みたいだ」

 「それは……なるほど、いい表現だね。来年のコンセプトにさせてもらおうかな」


 俺が投げやりに返答すると、どうやら隆太兄さんは気に入ったらしく、しきりに頷いている。一年後、まさか本当に隆太兄さんが声を大にして、七夕祭のコンセプトにするとも思っていなかったし、そもそもこの年度から七夕祭の実行委員長をしていることすら知らなかった。

 笑顔の隆太兄さんに、俺は一つ質問をしていた。


 「隆太兄さん。今山の方から出てきたけど、そんなところで何してたんだ?」

 「あぁそのことかい。七夕祭中は立ち入り禁止だからね。間違って誰かが山に入ると危険なんだ。とは言っても、今さっき松塚さんには登山の許可を出したんだけどね」

 「こんなに暗いのに? いったい何をするんだ?」

 「磐舟山の山頂からは、ここよりももっと良い夜景が見られるからね。それも七夕祭ともなれば格別さ。彼は登りなれているから、懐中電灯一本で軽快に登っていったところだよ」


 にこやかに微笑む隆太兄さんの話を聞きながら、俺は松塚さんの登っていったという山道の方角を眺めた。すると、時折懐中電灯の灯りが木々を照らすのが見える。


 「磐舟山からこの村を眺めることで、彼は達成感を感じられるらしい」

 「へぇ……」


 当時は知らなかったが、今ならわかる。松塚議員は、この村開発の第一人者だ。発展していく村を見ることが彼の最大の喜びなのだろう。


 「話していたら、体が疼いてくるね」

 「流石に何人も登ったら、何のために禁止にしているか分からなくなるだろう」


 今にも自分も登ろうと言い出しかねない様子の隆太兄さんに、溜息をついて釘を刺す。年齢が十も離れているとは思えない会話だったが、小さい頃からこれだったので今更である。


 「ははは、それもそうだね。それじゃあ、貴史君はどうしてこんな場所へ? 僕が言うのもなんだけど、ここは暗いばかりで賑やかさとは無縁だろう? 君の普段の行動とはズレている気がするね」


 確かに彼の言うとおり、普段の俺とは気分が違う。いつもはもっと騒がしいのが好みだった。


 「ちょっと、いろいろあったんだ」

 思わず言葉を濁す。あまり自慢できるようなことではない。


 だが、俺の心境はハッキリと顔に書いてあったらしい。

 「……そうか。じゃあ、僕はお先に失礼するよ」


 隆太兄さんはあれこれ詮索せずに、黙って手を振り人ごみの中へ溶けていく。

 気の利いた返事もできずに立ち尽くしてしまった俺は、しばらくその場で遠くの喧騒を聞いていた。静寂。境内の隅にある腰掛け岩に腰を下ろし、夜空を見上げていることが、今の俺の一番の息抜きとなっていた。

 


   ***

 また、場面が変わった。

 ドンッ!! と、南の空で、一輪の花が炸裂する。

 祭の中盤に打ち上げられる、恒例の花火だ。お盆に行われる御霊祭よりも規模は小さいが、それでも祭の夜空を彩るには十分な華やかさがある。人々は歓声をあげ、空に視線が縫い付けられていた。

 だが俺は、そんな様子すら冷めた目で眺めている。だから気づけた。皆が顔を上げているその時に、脇目も振らず走る人影があったのだ。

 教鞭を取っている時と変わらないジャージ姿には見覚えがあった。


 「恵美ちゃん?」


 俺は思わず名前を呼んだ。

 それに気がついた彼女はこちらに走ってくる。


 「天野くん! いいところに!」

 息を切らし、肩で息をする彼女の額には、汗が流れていた。


 「恵美ちゃん。どうしたんだ?」

 何事かと思わず俺も近づいて、話の続きを促す。何やら緊急性を感じた。

 「コラ、恵美ちゃんって言わない! ってそれどころじゃない! 村長見なかった!?」

 「村長? じいちゃんか? いや、祭に来てからは見てないな」


 家を出るときに挨拶をして以来会っていない。


 「こっちもダメかぁ。参ったな」

 「要領を得ないな……いったい何があったんだ?」

 「あ、ごめんごめん。天野くんには知らせないといけないことだった!」


 俺が改めて尋ねると、彼女はハッとした顔で答えてくれた。


 「村長が予定の時間になっても来ないの。もう三十分も遅刻!」

 「何の予定なんだ?」

 「挨拶よ、挨拶。まぁ聞く人なんて限られている話だけど、一応それがないと七夕祭の進行に影響が出るの。あぁ参ったな」


 なるほど、それで息を切らして探していたわけか。

 恵美ちゃんも七夕祭の委員会の企画に深く関係しているなんて知らない俺は、なぜそこまでして彼女が汗水を流しているのかまでは理解が及ばなかったが、他人事ではいられない。


 「どうせこの後の予定も無いんだ。村長が見当たらないなら俺も手伝うよ」


 村長は俺の祖父である。家族の不手際。孫の俺が手伝うのは道理だろう。そう言って、俺はヒントのない村長探しの為に、祭の会場を走ることとなった。村長も歳である。胸中に嫌な予感があったというのも、手伝う理由の一つだった。


 だが結論から言うと、村長の遅刻はあまりにも間抜けというか何というか……笑い話で済むようなオチがついた。嫌な予感なんて余すとこ無く霧散してしまっている。


 「待たせて申し訳ないのぉ。実は子供らにせがまれて七夕伝説を話しているうちに、熱が入りすぎてしもうたわ」


 笑いながら頭を掻く村長に、待たされた一同は理由を聞かされて文句も言えずに苦笑した。村長の後ろには、一緒に話していたであろう神主と、ワイワイと騒がしく付いて来た子供たちがいる。どうやら子供らは、途中で途切れてしまった話の続きを聞きたいらしい。

 なんて純粋でいい子達なんだと、神主が勝手に感動していたが、それよりも俺は「まだ話終わっていなかったのか」と呆れて笑ってしまった。

 祭の雰囲気が、この場の人たちを大らかにしている部分もあるだろう。鬱屈とした気持ちが、幾分か晴れた。それだけで、ここに来て良かったと少しだけ思えた。

 村長が舞台で挨拶をするとわかると、子供たちは諦めてどこかへ走り去っていく。

 その時の会話が俺の耳まで届いてきた。


 「そんちょー忙しいみたいだから、あかりのねーちゃんに話聞きに行こうぜ!」

 「お、それいいな!」

 「でも、あかりお姉ちゃんどこにいるの?」

 「そういえば、今日会ってないねー」

 「じゃあ、あかりのねーちゃんを一番に見つけた奴勝ちな!」


 最後の少年の一声を皮切りに、子供たちは騒ぎながら散っていく。

 当初の目的は、もう彼らの頭の中からは消え去っているのだろう。

 そんな四方に駆け出した子供らのひとりが、一目散に貴史の方へとやってきた。


 「ねぇ貴史お兄さん。あかりお姉さんがどこにいるか教えてっ」

 その少女は、小さなささやき声で訊ねてくる。


 なるほど、賢い子だ。あかりと仲のいい俺に居場所を聞いて、華麗に勝つ腹積もりなのだろう。だが、今は時期が悪かった。


 「悪い。俺もあかりがどこに行ったか知らないんだ」

 客観的に見れば、俺があかりから逃げているのだが、そんな事情は少女には関係ない。

 「お兄さんも知らないの!?」

 少女は俺の返事を聞くなり飛び跳ねて嬉しそうに言う。

 「じゃあお兄さんとも競争だね!」

 「え?」

 一瞬、少女の言っている意味が分からずに唖然とする俺に、少女は指を指して宣言した。

 「負けないからねー!」


 とてつもない切り替えの速さで人ごみの中に走り去っていく少女。

 そこまで眺めて俺は、ようやく理解した。


 「あかりを探す競争の挑戦をされたのか……?」


 呟いて、思わず溜息をつく。少女は気付かなかったようだが、俺は鏡を見なくても、自分がひどい顔をしているがわかる。浮かれて騒ぐ祭の参加者たちと、今の俺の表情では、雲泥の差があるだろう。少女の弾けるような無垢な笑顔を見ても、今の俺の心にはなんの感慨もわかせなかった。

 あかりの名を聞いて、再び精神的にどっと疲れたのだ。


 「参ったな。全然そんな気分じゃねぇ……」


 祭の陽気に当てられたのも束の間でしかなかった。勝負を挑んでくれた少女には悪いが、今日はもう疲れたし帰るか。心の中で呟いて、挨拶を続ける村長を尻目に俺は祭の灯りから遠ざかる。



   ***

 夢の時間が少し進んだ。

 俺は頭を空っぽにして、篝火を目印に神憑川沿いの道を下っていく。

 すると「貴史君! いいところに」と、河原から声が掛かった。

 どうやら、一人で静かに過ごすことは出来ないらしい。


 「隆太兄さん。こんな所でどうしたんだ?」


 諦めた俺は、手招きする彼に従い土手を降りていく。彼は懐中電灯で水面を照らして、顎で指して見せた。


 「あの木箱を待っていたのさ」

 「どうしてこんなところに木箱が?」

 「僕の家で採れたスイカを、村長たちに差し入れしようと思ってね。それを入れていたんだけど、途中で落としちゃったんだ」


 スイカを入れた木箱を落とすなんて、隆太兄さんに似合わずドジなことだ。


 「ほら、今木箱が浮いている場所。ちょうどあの辺りが伏流の出処でね。そこから出てくる木箱を待ち構えていたのさ。出てきてくれて良かったよ」


 木の枝を持って引き寄せて、木箱を川から取り上げる。隆太兄さんは中身が無事なことを確認して、安堵の溜息をつく。丁寧な包装のおかげで、スイカには傷一つ無かったらしい。


 「大事なものだから、壊れていたらどうしようかと思ったよ」

 「そりゃ良かったな。じゃあ、俺は帰るよ」


 隆太兄さんはその後、一緒に来ないかと引き止めてくれたが、断ることにした。

 今日は帰ると決めている。だから、俺は偶然の出会いと考えていたし、この時の会話になんの意味も感じていなかった。そもそもこんな会話、記憶の片隅にすらとどめていない。

 それも当然だ。なぜならこの時、事件は起きていない。全て事件が起きなければ必要のない情報である。夢を見ている俺の脳裏に、一つのキーワードが浮かび上がった。


 『寺さんの遺体がどこから流されたか分からない』


 この一つ目の謎。

 これを解く鍵はもう手に入ったかもしれない。木箱が通るほどの伏流が地下に流れているのなら、そいつを辿れば見つかるはずだ。警察はこの伏流に気づいていない。

 だから、目を覚まして調べよう。早ければ早いほうがいい。

 

 ――だが、夢はそう簡単に終わりを告げてくれなかった。

 


   ***

 祭の喧騒も遠くなった夜の九時半。微かに聞こえる祭囃子が哀愁を誘う。


 「貴史……」


 そんな篝火だけが頼りの薄暗い夜道。色とりどりの短冊の下。神憑川の畔に腰掛けるあかりに声を掛けられた。本当に、今日は一人になれないらしい。薄地のシンプルな浴衣を着た彼女は、俺と遭遇したことに驚いている。俺もこの想定外の遭遇に、思わず押し黙ってしまった。


 「……」


 立ち止まり目が合ってしまった今では、流石に無視することは出来ない。

 立ち止まる俺に、あかりが申し訳なさそうに謝罪する。


 「いろいろごめん」


 なんのことだ? なんて野暮なことは聞かない。

 一年前にムードも何も無いまま、何やら焦ったあかりが唐突に告白してきた件のことだろう。あれ以来、二人の間にはずっと気まずいものが残っている。俺の気分を意図せず害してしまった事を後悔している表情だった。

 友達としてしか見ていなかったあかりからの、突然の告白。困惑して逃げてしまったのも無理はないと、何度も自己弁護してきた。だから言ってしまったのかもしれない。時間が経ったから、今更だから、聞けたのかもしれない。


 「……どうして、あんな唐突に告白なんかしてきたんだ?」


 この質問は黙っておくべきだった。

 聞かずに、何事もなかったように立ち去ればよかったではないか。

 フッた相手に、図々しくも訳を聞く。今この時、この一瞬。俺の心が荒み、あかりが下手に出たこの瞬間に聞いていなければ、一生話されることの無かった話題のはずだ。

 それでも、言葉は俺の思考よりも先に飛び出していた。


 「どうして、俺に告白しようなんて考えた?」


 声音はあくまで穏やかだったが、口調には刺がある。そんな言い方しか出来ないのかと、自己嫌悪に陥りつつも、俺は糾弾めいた質問しか出来なかった。


 「……最後に、一つだけ言いたいことがあるの」


 俺は彼女の返答の意味がわからなかった。


 「最後?」

 「ここじゃなんだし、場所を変えよ」


 不自然にもひどく落ち着いた様子のあかりは、そういって俺に背を向けて歩き出す。俺は仕方なくその後をついていくことにした。

 ここで、ハッキリとさせておかなければならない。


 神憑川のせせらぎと二人の足音。篝火に照らし出された夜道に伸びる二本の影。遠目に見れば、仲のいいカップルに見えたかもしれない。

 だがそんな光景の全てが、積み重なる疑問に塗りつぶされて息苦しささえ感じる。気づけば俺は、祭の花火が打ち上げられる湖に来ていた。

 もう彼此一時間。ゆったりとした間隔で、湖に浮かぶ船上から夜空に花火が打ち上げられている。ここに来るまでの間にも、二発ほど打ち上げられていたはずだ。どうしてこんな場所を選んだのだろうか。尋ねようと口を開く直前に、再び花火が打ち上げられた。それも、一際大きな花火が連続で夜空を明るく染め上げる。


 七夕祭最後の花火だ。


 それを見上げるあかりと共に、俺も花火に目を奪われるだけの一時を過ごす。

 そして火の粉が闇に溶けた。あかりは深呼吸して振り向く。答えてくれるのだろうか。祭の会場は遠く、篠笛の音も太鼓の音も聞こえない。完全な静寂。

 俺は息を飲んだ。あかりが口を開く。その一挙手一投足に目を奪われた。


 「最後に……確認しておきたかったの」


 俺は黙って聞いている。彼女は、必死に言葉を選んでいた。


 「貴史が、私のことを……どう思っているのか。私には分からない。分からないから知りたかったの。今日ここで、確認しないといけなかったのよ」


 何かに突き動かされるように、あかりは言葉を紡ぐ。だが内容が見えてこない。


 「どうしてそうしたのかは言えない。でも最後にもう一度だけ伝えさせて」


 あかりは、俺の理解を置いたまま意を決したのか息を吐く。

 その頬には汗が流れていたが、彼女は気にする様子もなく自分の胸に手を当てる。

 その手に握られているのは絹の短冊。それが何を意味するのか。貴史にはわからない。

 

 そして、何の前触れも無く世界が一転した。


 突然、心に何か沸き立つものが溢れてくる。

 ……暗がりでもハッキリと見える彼女表情に、思わず俺は息を呑んだ。

 なぜなら――


 「私は、貴史のことが何よりも大好きなのよ」


 ――これほどまでに、あかりの事が愛おしく感じたことはなかったからだ。

 今日この時、この一瞬で世界は見違えた。


 彼女の、感極まって涙する表情が愛おしく感じた。彼女の、思いの丈をぶつけて荷が降りたような、爽やかな笑顔が輝いて見えた。彼女の、不安そうに返答を待ち泳ぐ目が、何より守らなければならない物に思えた。


 もしかしたら、ずっと己を偽っていたのかもしれない。

 親友という間柄を壊したくないがために、素直な気持ちを伝えることを忘れていたのだ。どうしてそんな単純なことに、今の今まで気付かなかったのだろうか。

 だから俺も男を見せるべきだろう。


 「俺も……あかりが好きだ」

 だから――


 「これからは、何があってもあかりは俺が守る」


 ――もう、彼女を不安にさせない。

 俺の返事に立ち尽くすあかりを抱きしめて、自分の心に偽らず、あかりのことを愛そうと誓った。二度と彼女を離したりはしない。

 

 だが、当時の俺は見落としていた。

 抱きしめたあかりの表情に、喜びが無かったのだ。

 あるのは諦観。

 全てが終わってしまったかの様な絶望と後悔。

 その意味が俺には分からない。

 そして彼女は、誰にも聞こえないように言葉を紡ぐ。

 

 俺の夢は、言葉を聞く直前で急速に暗転した。

 


 「ごめんなさい」

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