第九話 歩く人体模型(後編)
気が付くと絵里は机と机の間に立っていた。
一体なにが起きたのか、絵里は混乱したが視界は勝手に前に進む。最前列の机の前を横切ると、戸の前に倒れている女子生徒の姿が見えた。
それは絵里自身だった。
これは悪夢だ。気絶した絵里は眠っている時と同じように視覚を人体模型と共有し、今は人体模型の眼を通して気絶した自分の姿を見ているのだ。
起きてと叫びたくても声は出ない。
絵里は人体模型が自分の脚を掴んで、机の影に引きづっていくのを見ることしかできなかった。
このままじゃ、皮を剥がされて殺される。焦る絵里の服を脱がそうと、人体模型が手を伸ばす。
「湯原さん、どこにいるんだ!」
理科室の外から男の声が聞こえてきた。雪仁だ。彼が探しに来てくれたのだ。
来ちゃ駄目と叫びたいのに声が出ない。起きてよと念じても、目の前の自分はピクリとも動かない。行くなと願っても、人体模型は理科室の戸を開けて廊下に出る。
雪仁が階段を駆け上がってくる音が聞こえた。人体模型は後ろ手でドアを閉めると、ポケットから取り出したナイフを背に隠して彼を待ち構える。
「あんた、ここで何やってるんだ?」
階段から飛び出してきた雪仁は、驚いたようすで人体模型に近付いて来る。このままでは彼が殺される。なのに、絵里にはどうすることもできない。
「そ、そんなことより大変なの、人が、人が倒れてるの。湯原さんって子かも……」
「何だって!?」
化物の嘘に騙されて、雪仁は戸に手をかける。
止めて。
絵里の懇願空しく、人体模型は隠し持っていたナイフを振りかぶる。
次の瞬間、雪仁が体を反転させながら右足を振り上げ、視界が高速で真横に動いた。
景色が廊下から理科室へ戻り、斜め下へと落ちていく。
絵里は何が起こったか悟った。雪仁に蹴り飛ばされた化物が、ドアを突き破って、理科室の床に倒れたのだ。
今、見えるのは天井だ。そこに雪仁が現れ、右足を振り上げる。その右足が振り下ろされると、肉が潰れる音がして、視界が真っ黒に塗りつぶされた。
「湯原さん!」
真暗な世界の中で、自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
「あぁ、そんな……頼む、目を開けてくれ……」
男の逞しい腕が、絵里の肩を抱いて体を起こす。絵里はゆっくりと目を開いた。
「深山君……どうしてここに……」
自分の肩を抱く空の顔を見て、絵里は驚いてしまった。何時も無表情だった彼の顔が、今は泣きそうに歪んでいる。
「廃工場の死体が岡野のものだって分かったんだ。それで湯原さんが危ないと思って……とにかく無事でよかった……本当によかった……」
雪仁の言葉を聞いて、絵里は胸が一杯になった。絵里は彼の眼を見つめる。だが、雪仁は目を逸らした。照れたんじゃない。彼の顔は緊張で強張り、目には鋭い光が宿っている。まさかと思い、絵里はその視線を追った。
理科室の入口の前に、歪な女の影が立っていた。
体中にガラス片で裂けた傷があるのに血は一滴も流れていない。首がへし折れて、頭が後方を向いている。
にもかかわらず、岡野礼子を着た人体模型は立ち上がり、頭を両手で掴んで元の場所に戻した。
「湯原さん……下がっていてくれ」
雪仁はそう言って立ち上がり、近付いて来る化物を睨み付ける。
「ま、まさか戦うの? 無理だよ、首をへし折られても死なないんだよ」
「分かってる。けど、ここでアイツを倒さなきゃならないんだ。頼む、俺を信じてくれ」
目を真っ直ぐに見て信じてくれと言われたら、もう何も言えない。絵里は言われた通り窓際に下がり、雪仁は人体模型と向かい合う。
ここで人体模型を倒さなければならない理由は絵里にも分かる。ここで逃げても、人体模型は違う姿で再び襲いかかってくるだろう。その時、奴は絵里や雪仁の身近な人間を殺し、その皮を奪うかもしれない。だから、雪仁は立ち向かう決意をしたのだ。
雪仁は両手を顔の高さに上げ、左足を前、右足を後ろにし、腰を浅く落とす。
人体模型は無造作に歩み寄ると、ナイフを突き出した。
雪仁のシャツが裂けた。紙一重だ。ナイフを斜め前に動いて躱した雪仁は、右足の踵を化物の右膝に叩き込む。
化物が膝をついた。その右膝が本来とは逆方向に向いている。
膝を蹴り折られた人体模型の背後に、雪仁が回り込む。と、同時に雪仁の側頭部に向かってナイフが走った。人体模型が腰を捻りながら、ナイフを払ったのだ。人間では不可能な動きだった。下半身と上半身が反対の方向を向いている。
危ない、と絵里が叫ぶ前に、雪仁は左手を真横へ振った。彼の左手が化物の右手首を打つと、その手からナイフが零れ落ちる。
夕日に照らされたナイフの鈍い輝きが、床に向かって落ちていく。そのナイフの柄を雪仁が掴んで、化物の顔面に振り下ろす。
右目を貫いたナイフの刃先は、頭を貫通して後頭部から飛び出した。
それでも化物は死なない。腰を戻しながら立ち上がり、消えた視界を探すように左手を前へと伸ばす。
その手を雪仁が掴む。化物の腕を引っ張りながら、彼は腰を返して化物を背負うと、そのまま投げ落とした。柔道の技、一本背負いだ。ただし、投げた先は畳じゃない。
投げとばされた人体模型の頭頂部が、机の角にめり込んだ。
化物の手足が力なく床を叩いても、頭は机の角に刺さったままだ。雪仁は立ち上がると、ビニールのようなものを床に投げ捨てた。それは脱げた岡野の腕の皮だった。
「す、すごい……」
筋肉質な体をしているから何かやっているとは思っていたが、こんなに強いとは。ナイフを躱し、骨を砕き、机の角に投げ落とす。武術の達人でなければできない芸当だ。
だが、頭を潰しても化物は死ななかった。
人体模型の両手が机の縁を押し、突き刺さった頭部を角から引き抜く。変形した岡野の顔が雪仁を睨み付けた直後、人体模型は目に刺さったナイフを引き抜いて真横に振った。
「深山君!」
机に飛び乗って向かい側に下りた雪仁に、絵里は駆け寄った。彼の右腕に斜めに走った傷から血が溢れ出している。
「浅く切られただけだ。それより……」
雪仁は机の向こうに立つ人体模型を睨み付ける。岡野礼子の顔は頭頂部が凹んでU字になり、皮が寄って皺くちゃになったせいで笑う老婆のように見えた。
「何なの、こいつ……粘土みたい」
「そんな感じだよ。蹴った時に分かったんだけど、アイツには骨格がないだんだ」
雪仁の話を聞いて、一つの疑問が解けた。歩く人体模型が身長も体重も性別も違う人間に化けられるのは、着る皮に合わせて体を伸縮させていたからだ。目を盗むのは光彩を変えられないからで、舌を奪うのは声を真似るためだ。
「殴っても、刺しても、潰しても駄目……となると、やっぱり焼くしかないか」
彼の言う通りだ。十七年前、この化物をうちの女子生徒が焼き殺している。でも、奴を燃やすものなんて旧校舎にはない。
化物は机の上に乗り、二人に近づいてくる。どうする、どうればいい。
突然、理科室の戸の方が明るくなった。見れば、女子生徒が一人立っている。吊り目の背の高い少女、滝沢加奈恵だった。彼女はライターで、ガラス瓶の栓に詰めた布に火をつけていた。新たな来訪者に気付いた化物が振り返る。
「こいつを喰らえ、化物!」
加奈恵がガラス瓶を放り投げた。布についた火がオレンジの弧を描いて飛んでいく。
鮮烈な光が薄暗い理科室を照らした。
ガラス瓶が化物に当たって砕けた瞬間、布についていた火が巨大な炎と化したのだ。ガラス瓶の中には可燃性の液体が入っていたらしい。
轟轟と燃え盛る炎の中で、人影が揺れている。その影がゆっくりと振り返った。
「湯原さん!」
燃える影が両手を広げて飛び掛かってきた瞬間、絵里は雪仁に押し倒された。頭上を炎が駆け抜け、ガラスの割れる音が鼓膜を震わす。
顔を上げると、窓が一枚割れていた。化物が窓をぶち破って、外に落下したのだ。
火は机や窓の桟、カーテンに燃え移っている。このままじゃ火事だと心配した時、加奈恵が消火器で炎を消したので、用意がいい人だなと絵里は妙な感心をした。
「怪我はないか」
「う、うん、大丈夫だよ」
雪仁は絵里に怪我ないことを確認すると、辺りに漂う煙を掻き分けて、割れた窓の向こうを覗きこんだ。その顔が瞬時に青ざめる。
「くそ、まだ生きてやがるのか!」
雪仁は忌々しげにそう言うと、理科室から飛び出して行ってしまった。絵里と加奈恵も窓を覗き込むと、旧校舎の下で炎上する人影が林の方へ這って行くのが見えた。火炎瓶じゃ火力不足だというのか。だが、弱っているはずだ。今なら止めを刺せる。
絵里と加奈恵は理科室を出て、階段を駆け下り、鍵の壊れた窓から外へと飛び出す。
旧校舎の裏へ回ると、雪仁が炎の前に立っていた。燃えているのは人体模型のはずだが、それはもう人の形をしていなかった。
燃え盛る炎の中で、幾千の蛇が絡み合ってできた球体のような影が揺れている。その影から蛇が一匹、また一匹と離れていくが炎からは逃れられず、すぐに動かなくなった。
「……終わったの?」
「ああ、終わったよ。もう大丈夫だ」
雪仁の優しい声を聞き、麻痺していた恐怖が一気に蘇った。体がガタガタと震え、視界が涙で歪む。雪仁を見ると、心配そうな目が自分を見つめていた。
もう耐えられなかった。絵里は雪仁の胸に飛び込んで、子供のように泣き始めた。
炎は徐々に弱まり、やがて消えた。もう陽が沈んでいる。夕闇に沈む旧校舎の前に残る焼け焦げた無数の残骸が、人体模型の化物だと誰も信じはしなだろう。
でも、それでいい。悪夢はもう終わったのだから。
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