第八話 歩く人体模型(前編)
窓から差し込む夕日が、旧校舎の廊下を赤く染め上げていた。血のように鮮やかな赤色。旧校舎が前よりさらに禍々しく思えるのはそのせいだろうか。
そんな気味の悪い廊下を、湯原絵里は同級生の岡野礼子と歩いていた。
「本当にビデオカメラなんてあるのかな……」
「きっと理科室よ。彩はそこで化物を見たって言ってたんでしょ」
弱音を吐く絵里に喝を入れるのは、二年四組の岡野礼子だ。彼女は城崎彩の友達で、旧校舎の肝試しに行こうと誘われていたらしい。体調が悪かったため岡野は断ったが、その際、森脇が旧校舎の中をカメラで撮って見せてやると言われたらしい。そのカメラが旧校舎のどこかにある、それが岡野の主張だった。
「深山君たち遅くないですか。何かあったのかもしれません、いったん戻りましょうよ」
旧校舎に入って五分が経ったが、雪仁も加奈恵もまだ来ない。
「そろそろ来るって。その前に、カメラを見つけて二人を驚かしてやろうよ」
そう言って不敵な笑みを浮かべる岡野は、一年生の頃、同じクラスだったが加奈恵から色々と街に広がる都市伝説の話をよく聞いたという。そのこともあって、岡野はカメラのことを加奈恵に相談し、一緒に旧校舎に探しに行くことになったそうだ。
「そういえば、深山君はどうして来ることになったんですか?」
雪仁は岡野とは違うクラスだし、加奈恵とも友達ではない。絵里だって、加奈恵と話したのは、昨日が初めてだった。
「あなたが授業中に倒れたから、深山君と滝沢が保健室に連れて行ったそうよ。その帰りに色々話して、放課後に部室で相談していたところに、私が来たってわけ」
「そうだったんですか。また迷惑かけちゃったな」
あんな騒ぎを起こしたのに、雪仁はまだ自分のことを心配してくれている。そのことが嬉しかった。だからこそ、旧校舎にカメラを探しに来たのだ。
「よし、じゃあ調べるか」
二階へ上がると、岡野が理科室の扉を開け、二人は理科室に入った。
理科室には、水道が右端についた机が並び、その上に背もたれのない椅子が六つ置いてあった。黒板の前には教師が実験を説明するための長机が一つ置いてある。二人は机の下を探し回ったが、何も見つからない。
「ここにはないか。じゃあ、あの部屋かな」
岡野は理科室の後ろにあるドアへ向かった。ドアの上には『理科準備室』と書かれたプレートが貼ってある。岡野がドアを開け、絵里も一緒に中に入った。
理香準備室は理科室の四分の一程度の広さで、空の棚とスチール製の机以外には何もない。その机の前の床に、引っ掻いたような痕があった。一体なんだろう。腰を屈めて、痕を調べようとした時、絵里は机の下にビデオカメラが落ちていることに気付いた。
「ほ、本当にあったんだ……」
恐る恐る手を伸ばそうとした絵里だが、先に岡野がカメラを手に取った。
「喜ぶのは早いよ。これが森脇のビデオカメラかは分からないし、映像が写っている保証もない。まぁ、とりあえず見て見ましょうか」
岡野はカメラの電源を点け、再生ボタンを押した。
「今から、旧校舎に入ろうと思いま~す」
カメラの画面に女子生徒の姿が映し出され、内蔵スピーカーから明るい声が聞こえてきた。行方不明になった斉藤だ。彼女は校舎裏の右から二番目の窓を開けて中に入る。
やはり、これは森脇のカメラだ。この映像を見れば、城崎の話が本当だったのかも、絵里の夢が事実なのかも分かる。
「じっくり見るのも面倒だし、早送りするね」
岡野が早送りのボタンを押す。早回しになった斉藤が職員室、保健室、多目的室と見て回り、音楽室の戸を開いたところで、岡野は早送りを止める。悪夢が始まった場所だ。
「おぉ、このピアノ、ちゃんと音出るじゃん」
斉藤が黒板の前に置かれたピアノの鍵盤を叩き始めると、映像は音楽室の中をぐるりと一周する。山積みになった段ボール、壁際に並ぶ机、音楽家の肖像画などが次々と映し出されれるが、化物の姿は見当たらない。
「幽霊もいねえし、もう行こうぜ」
カメラを撮影している森脇がそう言うと、キラキラ星を弾いていた斉藤は音楽室を出て行った。彼女は女子トイレに入り、手前から三つ目のドアが壊れた個室の中を覗き込む。
「ちょっと座ってみてくれよ、ドロドロが本当に出るか試そうぜ」
「遠慮しとくわ。こんな汚え便座に尻を乗せるのは十万もらっても嫌よ」
斉藤の言う通り便座はかなり汚れている。その汚れの原因を想像すると背筋が凍った。十七年前に、このトイレに女子生徒が引きづりこまれて消えた。その際に飛び散った血が、今も個室の床や壁に染み込んでいるのかもしれない。
トイレを出た斉藤は二階に上がり、教室を二つ覗いた後、理科室の引戸を開ける。いよいよだ。理科室で城崎が見た化物が本物か否か、もうすぐ明らかになる。
「ここにも何もねえなぁ……」
懐中電灯の光が理科室の中を照らしても何も見つからない。
「まぁ、いいじゃん。城崎の驚いた顔でも撮ればさ」
「そうだな。じゃ、着替えて来るわ」
画面から斉藤の姿が消え、埃の積もった床が映し出された。停止ボタンを押し忘れたらしい。バタンと扉の閉じる音がした後、カメラが準備室の棚を写し出した。
森脇は準備室で人体模型の仮装に着替え、斉藤は理科室で彼が着替え終わるのを待っている。
絵里の心臓が早鐘のように鳴る。絵里の見た夢に森脇は出てこず、斉藤は一人で理科室の机に座っていた。あの夢が現実なら、もうすぐ斉藤が襲われ――
鈍い音がした直後、女の悲鳴が聞こえた。
悲鳴が聞こえなくなると、椅子が倒れる音や床を叩く音が聞こえてきた。誰かが争っている。一人は斉藤で、相手はきっと人間じゃない。
そこで画面が暗転したので、録画が終わってしまったのかと思ったが、音声はまだ聞こえる。森脇が懐中電灯を消したらしい。すぐに画面に理科室の映像が映し出される。
ヒドイ男だ。森脇は斉藤を助けに行かず、扉を少し開けて、何があったか撮っているのだ。
斉藤の懐中電灯は壊れてしまったのか、見えるのは机の上で暴れる二つの人影だけだ。誰かが誰かに跨って、口に口を寄せている。下になっているのが、おそらく斉藤だ。上になった影が身を起こすと、彼女の口から液体が噴き出す。きっと血だ。
上になった影が今度は両手で斉藤の顔を掴んだ。斉藤は苦しそうに血を吐く。影は彼女の顔から両手を放すと、その手を自分の顔に押し付ける。すると影の顔に二つの光が浮かび上がった。斉藤の眼を抉り取り、自分の眼底に押し込んだのだ。
さらに、影は斉藤を仰向けにして、右手を振り上げる。その手に握られた鋏が振り下ろされ、周囲に血が飛び散った。月明かりで鈍く光る鋏が、斉藤の背を縦に走り抜ける。頭頂部から臀部まで、次は左右の脚を縦に、最後は両腕に。それが終わると、影は鋏を机に突き立て、斉藤の体を表に返し、彼女の両手を引っ張る。
ベリベリと音を立てて、斉藤の体から皮が引き剥がされた。
皮を引き剥がされた斉藤は、机の上で溺れたように手足を動かしている。悲鳴を上げようとしていらしが、その度にベチャベチャと周囲に血が飛び散った。彼女が最初に何をされたか分かった。舌を食い千切られたのだ。
斉藤の皮を剥がした影は、斉藤の皮に、まずは右足を、次は左足を、次は右腕、左腕と通して、最後に頭の皮を被る。影は斉藤の皮を着ぐるみのように着てしまった。
痙攣する斉藤が机から落ちた。濡れた肉の潰れるような嫌な音をカメラが拾う。
誰かの話声も聞こえてきた。楽しそうに会話する男女の声。徐々に大きくなる彼等の声を絵里は聞いたことがあった。
「何やってんだ、斉藤……ど、どうしたんだよ、何があったんだ!?」
戸が開く音の直後に叫んだのは山田大悟だ。懐中電灯の斉藤を着た化物を赤く照らす。一糸まとわぬ斉藤は、頭から赤いペンキでもかぶったように真っ赤だった。
「おい、森脇、ふざけんじゃ……」
赤い斉藤に歩み寄ろうとした山田大悟が画面から消えた。
絹を裂くような女の悲鳴が響く。城崎の声だ。彼女は人体模型の化物が机の下に隠れていたと言ったが、そうじゃない。城崎が見たのは、皮を剥がされた斉藤だったのだ。
「斉藤、何やってるんだ、逃げるぞ!」
山田はすぐに立ち上がり、窓際に立つ血塗れの女の腕をつかんで、一緒に逃げようとする。だが、山田が背を向けた瞬間、赤い斉藤は彼の首を右手で叩いた。
「痛っ、何すん……だ……」
驚いたように振り返った山田は、フラフラと左右に揺れた後、前のめりに倒れて、画面から消えた。その際、カメラは彼の首から生えた鋏を写している。
赤い斉藤は山田が転んだ机に行く。その直後、何かが潰れるような音が響いた。
斉藤の顔がカメラの方を見る。映像が暗転し、荒い男の呼吸音が聞こえる。数秒後、ドアが軋みを上げて開く。ペタペタと濡れた足音が近付いて来る。男の悲鳴が聞こえた後、何かが床にぶつかった音がして何も聞こえなくなった。
その後も、映像は続いた。頭を潰された皮のない死体が映り、首の後ろを鋏で貫かれた山田が映り、最後に斉藤の血塗れの顔が映った。そこで録画された映像は終わった。
絵里は自分の知る世界が崩れ去るのを感じた。
この映像と同じ惨劇を、絵里は夢の中で見ている。あの夢は現実だ。城崎の言っていたことは本当のことだ。子供の頃に怯えた闇に潜む怪物は、本当にいたのだ。
絵里の頭を占めているのは恐怖よりも混乱だった。これからどうすればいいのか、絵里は混乱する頭で考える。一連の事件の犯人は、歩く人体模型だ。そんなことを話しても普通は信じてもらえないが、このビデオカメラを見せれば――
絵里の頭にある疑問が浮かび上がった。斉藤を着た化物は、このカメラを見つけ、殺した二人を映像に収めている。なのに、どうして準備室の机の下にカメラが落ちていたのか。
「そんな、まさか……」
奴が置いたからだ。それに気付いた絵里は、映像が終わってもカメラの画面を凝視している岡野から離れる。岡野がゆっくりと振り返る。彼女は作り物のような無表情な顔をして、ガラス玉のように生気のない目で絵里を見つめていた。
「ど、どうしたんですか?」
映像にショックを受けているのか、それでそんな顔をしているのか。いや、違う。自分の知っている穏やかな世界なんて本当はどこにもなかったんだ。
奴が回収したカメラを、わざわざ机の下に置いたのは、驚かせたかった、怖がらせたかった、そんな下らない理由に違いない。きっと肝試しに誘われたというのも真っ赤な嘘だ。自分をここに誘い込み、怖がらせ、殺して皮を剥ぐための方便だ。
「来ないで、化物!」
絵里は近付いて来る岡野礼子の姿をしたものに怒鳴る。しかし、それは歩みを止めない。殺される。絵里は背を向けて、理科準備室から飛び出した。
足がもつれて上手く走れない。理科室の戸が果てしなく遠く思える。それでも逃げなければ、岡野礼子の皮を着た化物から。あと少しだ、もう戸に手が届く――
後頭部に激痛が走った。絵里は前のめりに倒れて引戸に頭からぶつかり、そのまま床に崩れ落ちた。揺らぐ視界の中に、床に転がる椅子が写る。あの椅子を化物が投げたんだ。それが後頭部に当たったんだ。そのせいで体の自由が効かないんだ。
行かなきゃ。その思いすら消え去り、すぐに何も分からなくなった。
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