アルバム
西寺
第1話
「私は昔、優也に殺されかけたことがあるわ」
そう姉に言われた。僕はちょっとした冗談的な意味合いだと思ったが、姉は本当に殺されかけたのだと言った。
僕は大学進学に向けての一人暮らしのために、実家の部屋を片付けていた。僕と姉のアルバムが出てきて、興味は移ろい、掃除はたやすく中断された。文庫本サイズの冊子が三冊。市販のインスタントカメラで撮った時代のもので、僕たちが小学生低学年くらいまでの写真が収められてあった。
澄香姉ちゃんにも見せようかな、とも思ったけれど、姉は昨日の夜から高熱を出していてダウンしていた。お昼時で、なにか作って部屋に持っていこうか、とさっき姉に声をかけたのだけれど、「大丈夫だから」とひとりでリビングに行った。
少しは良くなったのかな、と思いつつアルバムを持ってリビングに行くと、姉はご飯を食べながらテレビを見ていた。自分で作ったおかゆを食べる動作は、やはりどこかけだるげに見える。
「澄香姉ちゃん、ほんとに大丈夫?」
「うん」
姉はあやふやにつぶやく。長い髪をまとめ上げて普段より露出している頬が赤らんでいる。大丈夫そうにはあまり見えない。
僕は姉の向いに座って、アルバムを差し出した。
「昔のアルバムが出てきたよ。僕と澄香姉ちゃんの」
「へえ……」
姉はスプーンを持った手を止めて、アルバムをぱらぱらとめくりだす。
「懐かしいわね。幼稚園、小学校くらいのとき? もう十年以上も昔なのね。早いというか、なんというか」
「写真の中の澄香姉ちゃんの年齢を追い越した今でも、いつまでも姉は姉なんだなって不思議に思うよ」
「どういう意味?」
「小学生の澄香姉ちゃんを一七歳の僕が見ても、年はとっくに追い越したのに姉って感じる。いつまでも永遠に追いつけない存在だなって」
「ああ、まあ確かに、中学校の時の先輩とかも、実年齢はとっくに追い越してるのに、記憶の中でいつまでも先輩でありつづけるものね」
しばらく姉はぼんやりした目つきでページをめくっていた。そして姉は言った。
「アルバムなんて持ってくるから、昔話になっちゃうけれど……私は昔、優也に殺されかけたことがあるわ」
「それ、なんのこと?」
「たしかヨーグルトを優也の分を食べてしまって、それで優也がぐずったのよ……そういえば冷蔵庫にヨーグルトあったよね、見てくれない?」
冷蔵庫を開けた。三つ入りパックのアロエヨーグルトが卵置き場にあったので、僕はその一つを姉に渡した。姉は残りのおかゆをちびちび食べている。
「殺されかけた、って、僕なにかしたっけ。全然覚えてない」
「小学生の時だったかしら。確かその時も私、風邪引いていたんだと思う。私、風邪引いたらヨーグルト食べたくなるのかな、昔から。で、最後の一個を食べちゃって、僕も食べたかったって優也はだだこねて。風邪でしんどかったから面倒くさくって相手にもしなかったわ。そしたら、優也、私が部屋で寝てるときに首を締めにきたのよ」
殺されかけた、という言葉が首を締める、という行為に結びついて、空恐ろしくなった。
「え、うそ。まじで僕そんなことしたの?」
「刃物持ってこられるよりましね、と思ったわ」
「いやいや、そういう問題じゃなくって……で、なに、喧嘩でもしたの?」
「ううん、静かなものだったわ。私の上にまたがってスッと首に手をかけられて、ああ、首締められるんだな、って私は呑気に思ってた覚えがある。けれど力は入れられなくって、そのまましばらくして、黙って優也出てった」
姉はおかゆを食べ終えて、そのままスプーンでアロエヨーグルトを口にした。
「夢でも見てたんじゃないの? 熱でうなされた悪夢とか」
「さあね……そう言われればそうかもしれない。でも悪夢だろうとなんだろうと、もとよりもうずっと昔のあやふやな記憶よ。変わりはしないわ」
「僕は僕がそんな怖いことやったとは信じたくないし、そんなことをする人間だと澄香姉ちゃんには思われたくはないよ」
「そう言われてもね……私も記憶の中で、優也は首を締める優也で永遠の存在になっちゃってるから、いまさら言われても変えられないわ」
冤罪だ、と主張しても無駄なようだった。なんともいやな記憶を呼び覚まさせてしまって、アルバムなんて安易に見せるもんじゃないな、と僕は思う。
「ま、どうであれ、優也はそれだけの存在じゃないから安心しなさい。ちゃんと可愛い面も嫌な面も私は知っているんだから……。幸い、今ならヨーグルトはまだ残っているわよ」
「じゃあ今食べてるの、一口ちょうだい」
「風邪、移すでしょう。冷蔵庫にまだあるでしょって言ってるの」
「平気だよ。僕はちょっとだけでいいんだ」
僕は姉のヨーグルトを一口食べる。こんなことで昔は泣いていたんだな、と思うと味わい深いような気がする。
再びアルバムをめくっていた姉が「あれ」と呟いた。
「なに?」
「見て、これ」
アルバムに、四葉のクローバーが挟まっている。
「澄香姉ちゃんが入れたの?」
「いいえ、知らない」
「僕も記憶にないな。お母さんとかが挟んだのかな」
「干からびていても、縁起物は縁起物ね。大学進学の門出じゃない? どうする、このアルバム。持ってく?」
「いいよ。家に置いとく。澄香姉ちゃんの風邪が早く治りますように、って願うよ」
「流れ星じゃないんだから。四つ葉のクローバーは、また違うんじゃない? 流れ星ってもっと即物的なものって気がする」
「じゃ、澄香姉ちゃんの健康祈願ってことで。養生してください」
僕はヨーグルトを姉に返す。
僕がこの家で姉の首を締めた、なんてまやかしだってことを今更祈ってもしょうがないけれど、そんな縁起の悪い記憶は四つ葉のクローバーと一緒に相殺しとけばいい。
アルバム 西寺 @saidera
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