エピローグ 『ホワイト・ハンニバル』
肌寒い朝の空気に当てられて俺は目を覚ました。今日はやけに寒いな、なんて寝起きの頭で考えながら周りを見渡してやっと、ここが外だと気づく。どうりで寒いはずだ。
(だが……どうして外に?)
自慢じゃないが俺は朝は弱い方だ。余程の衝撃がない限り、頭はうまく働かず全てが上の空になる。今回も同じだった。仰向けで寝転がったまま、キョロキョロと辺りを見渡した。
(とりあえず起き上がるか)
このままずっと寝転がっているわけにもいかない。両手で地を押して起き上がろうとしてーー
「ぐっ!」
左手だけが空回りしバランスを崩し地面に倒れた。左手の欠損。それがきっかけとなって、昨日の出来事が高速で頭の中を駆け巡る。
(ああそうだ。昨日はメアを脅して、ジルさんにバレて……衛兵とジルさんを殺して、それからーー)
そこまで思い出して、俺はハッとした。
「アイラ……アイラはどこだ」
右手でなんとか起き上がり、アイラの元に向かうためにとりあえず足を動かした。
昨日の傷が完全に治っているはずもなく、少し動いただけで稲妻のように体の中を走る痛みに俺は思わず顔をしかめた。
アイラの元に向かうなんて言っても、周りを見る限りアイラは見当たらない。
まさか、昨日アイラを助けたのは全て夢だったのだろうかと、バカなことが頭に浮かんだ。
(いや、あの温もりは本物だった。アイラは確実に助かって、生きていたはずだ)
だがここにいないのは事実なのだ。
「アイラ……お前は今、どこにいるんだ?」
♦︎
「なあ! 聞いたか!?」
「何が」
ある前線付近の村。仕事がようやくひと段落し休憩していた男の元に彼の友人がやや興奮気味に走ってきた。余程大きな出来事らしい。早く男に知らせようと走ってきたのか、額には汗がジンワリと滲み、肩で息をしていた。
「他の村に行ってたやつが言ってたんだけどよ。その帰りに見ちゃったんだと!」
「だから何が!」
なかなか一番大事なところを言わない彼にイラつき、男は思わず強く言ってしまった。だがそんなこと気にならないとばかりに友人はまくし立てる。
「ハンニバルだよハンニバル!」
「ハンニバルって……あのハンニバルか?」
予想だにしなかったそれに、男は無意識に息を飲んだ。なるほど、ハンニバルならこいつがこんなに慌てているのも頷けると、心の内で男は納得する。
「で、どうするんだ?」
「どうするって……討伐を依頼する他ないだろ」
「忘れたのか? ハンニバル討伐は今まで衛兵がやってたんだ。そしてその産出工場であるカーテディアはーー」
「ッ!! そうか……滅んだんだったな……五年前に」
『カーテディアの衛兵大虐殺』
今から五年前に起こったこの国の歴史に残る大事件は、多くの人に衝撃を与えた。
この国や国民にとってカーテディアとはこの国の主な戦力を生み出す街であり、それ故に最大戦力を持つ街とされてきた。その中でも三人からなるカーテディアの先鋭部隊ーー悪鬼隊は五人いれば四人は知っているであろうと言われるほど有名なものだった。
その衛兵たちが悪鬼隊含めたった一晩で述べ九十一人殺された。誰もが耳を疑う話だった。
事件の詳細はよくわかっていない。目撃者のはずのカーテディアの住人たちはなぜか多くを語らなかったのだ。あまりにショッキングな光景だったからか、口を閉ざす者も少なくなかった。
それは衛兵の虐殺だけでは終わらない。衛兵のせいで肩身の狭い思いをしてきた賊たちが、今までの鬱憤を晴らすかのようにカーテディアになだれこんできたのだ。衛兵のいないカーテディアなんてただの少し大きな街だ。結局カーテディアが滅ぶのに一ヶ月とかからなかった。
まだ悪夢は終わらない。
その事件の影響はカーテディアだけに留まらなかった。
都も含め、大きな街の警備もカーテディアの衛兵たちに任せていたのもあり、この国は慢性的な戦力不足に陥っていた。賊や魔物の討伐など、どうしても武力でしか解決できない案件は解決されることなく、治安はどんどん悪くなった。
国としても衛兵を育てようと、それ用の訓練施設を作ったりしているが、やはりカーテディアと比べると実は格段に低いのが現実だ。
「じゃあ、何にもできないってことか?」
男の友人は顔を真っ青にしながらそう言った。男は重々しく頷く。何を言おうともそれが現実なのだ。
「ここに来ないように祈るか、もしくはーー」
「あの、すいません」
「「ッ!?」」
彼らはあまりに驚いて後ろに飛び退いた。
二人の会話に割り込んできたのは、これまた男だった。と言ってもそいつは真っ白なマントを羽織いフードを深くかぶっているので顔は見えず、当然性別も分からない。男と彼らが判断したのは、その声が男の声だったからだ。だが、彼らがこれほどまでに驚いたのには、他にも理由があった。
「おい……気づいたか?」
「いや、全く気がつかなかった」
彼らは白い男に聞かれないよう、小さなこれで会話した。
そう、気配が全くなかったのだ。少なくとも彼らは感じることができなかった。
まさにいきなり、気がついたらそこにいた。純白のマントとフードで体と顔を覆うという不審極まりない風体だが、二人は近づいてきていると気づくことすらできなかった。今彼らは白い男が幽霊と言われても何の疑いもなく信じるだろう。
「誰だお前。見ない顔だな」
男は強めにそう言った。さっきの気配のこともあるし、チラリと見れば白い彼は背中に大きな刀を背負っているのを見ても、この白いやつは只者じゃないと、男は簡単に想像できた。
だがそこは男の性というやつだろうか。ついつい舐められないように強く出てしまっていた。
「ああいえ、怪しい者では。たださっき話していたことを詳しく聞きたいだけで」
「さっきのことって言えば……ハンニバルのことか?」
「ええ、それです」
どうする? と、男は友人に視線を向けた。別に話しても問題はないのだが、いかんせん彼は不審すぎる。そんな男の考えを無視して、いいんじゃないか? と、彼の友人は肩を竦めた。
「ここから東に行ったところにある森であるやつがハンニバルを見たらしい。ここから距離はそこそこあるから今すぐ逃げないといけない、何てことはないが、まあ注意するに越したことはないな」
「なるほど。見た目とかはわかります?」
「その見たやつもパニックたったらしくてな。そんなはっきり見てないらしい」
「そう……ですか」
白い男の言葉に影がさす。落ち込んでいる、というよりは思考にふけっているようだった。突然割り込んできたやつが黙ってしまえば、当然会話は途切れる。この場に何とも言えない気まずい空気が流れた。
「ま、まあ、お前さんもあのあたりを通る時は気をつけろよ。わかってると思うが、ハンニバルを見たら逃げるんだぞ」
「ーーえ? ああ、はい。わかってます」
まさに上の空のこの白い男は本当に大丈夫なのかと、思わず男は疑惑の視線を向けた。只者じゃないとはわかっていても、どうにも抜けているように感じるのだ。
「ま、ここであったのも何かの縁だ。気をつけろよ。あんたの無事を祈ってる」
そう言って男はゴツゴツした左手を差し出した。白い男はそれを見つめて首をかしげるだけで、何をするというわけでもない。
「握手だよ。お前の健闘を祈ってな」
男は呆れたようにそう言った。それを聞いても白い男はどこかためらうように差し出された左手を見つめるだけだったが、すぐに諦めたようにため息を吐いて男の手を握った。
「ーーん?」
「いろいろとありがとうございました。ではまた」
「え? あ、ああ」
白い男はすぐに手を離すと早口でそう言って逃げるように去って行った。
嵐のような男だったな……と、男に話しかけようと見たが、彼は握手をした手をじーっと見つめたまま動かない。
「どうした?」
「……いや、あいつの手、やけに硬かったなって思ってさ」
「お前の手だって力仕事ばっかしてカチカチになってるだろうが」
「そういう硬さじゃなくて、何だろうな……少なくとも人の肌じゃない」
はぁ? と友人はバカを見るような目で男を見た。人間なんだから人の肌に決まってる。
「ならお前はあれは人間じゃないとでもいうつもりか?たしかに不思議な雰囲気だったが……」
「そうじゃなくて……いや、あれはまさかーー義手か?」
男が白いあいつが去って行った方を改めて見るも、もう背中も見えなくなっていた。
「はぁ……どうしてあいつらはこうも森が好きなのかねぇ」
俺はさっき二人の男に教えてもらった森を草木を掻き分けながら歩き回っていた。目的はいわずもがな、ハンニバルである。
同じ森でもそれぞれ特徴があるものだ。この森はやけに虫が多い。さっきから耳元でブンブンと羽を鳴らしながら飛ぶやつが鬱陶しいことこの上ない。そのイラつきをぶつけるように思い切り真っ白なフードをめくり、強い足取りでどんどん森を進んでいく。
五年前から俺はアイラを探し続けている。そう、あの日からずっとだ。アイラを探してあちらこちらへとハンニバルの目撃情報を元に旅を続けていた。
気持ち悪いだなんて言われるかもしれない。狂ってるだなんて罵られるかもしれない。だがそんなこと知ったこっちゃないのだ。俺がそうしたいから、そうするべきだと思っているから、そうするだけ。
なぜアイラが俺を置いてどこかに行ったのか、俺なりに考えたことがある。結論としては、俺に自由になって欲しかったのだろう。アイラという存在を忘れて欲しかったのだろう。よく気を使う子だ。全く違和感はなかった。
そして、俺は自由になった。あんなに壮大な経験をしたんだ。このままのんびりと過ごすのもよし、自首をして罪を償うのもよし。他にも色々と道はあった。
ーーだが、それでも俺はアイラを探すという道以外に選べるものはなかった。
それほどまでに狂ってしまっているのだ。
溺れてしまっているのだ。
浸ってしまいたいと、心から望んでしまっているのだ。
「ーーお、いたいた」
視界の隅に今まで幾度となく目にしてきたあいつがチラリと見えた。と言っても体の一部だけだ。全貌が見えるように、体勢を低くしながら足音や息を殺し、ゆっくりと近づく。
「……また、ちがう」
俺は重々しく息を吐いた。そのハンニバルは完全体だった。山のように大きく、鉄よりも硬い鱗のような肌で覆われた体。あらゆるものを切り裂かんとするその爪。初めて見たハンニバルと、全く同じだった。
アイラはまだ半分しか変異していなかった。だから違う。
五年も経ったんだ。変異の度合いも変わってきているかもしれないが、目の前のハンニバルは緑がかった茶色だ。アイラは真っ白だから、どちらにしろちがう。
「アイラ……どこにいるんだよ」
これで何度目だろうか。ハンニバルの目撃情報を手に入れてはアイラかもしれないと希望を抱き、崩される。何度もくじけそうになりながら、ここまできた。
果てのない暗闇に意識を持ってかれそうになるのを首を勢いよく横に振って振り払う。
「さて……やりますかね」
気だるげにそう言って、俺は背中の刀を抜いた。ギャリィィイン! と、普通の刀だとまず出ることがないだろう音が出る。
この刀は普通のものとはちがう。この刀はハンニバルから作られたものだ。鉄をも簡単に切り裂くハンニバルの爪を加工して作られた。
アイラがいなくなって半ば自暴自棄になってフラフラと放浪していたとき、何を思ったのかたまたま出会ったハンニバルに俺は襲い掛かった。
まさにあれは死闘だった。文字通り三日三晩戦った。骨が何本も折れた。傷だってもちろんいくつも負った。何度も地に倒れ伏せた。その度に俺は起き上がってやつに襲い掛かった。
我ながらバカなことをしたと思う。最終的に勝てたし、蝕鬼病にも感染しなかったからいいものの、次同じことをやったら確実に死ぬだろう。
そして俺はその死体を使ってこの刀を作った。ジルさんの持っていた刀を彷彿とさせるこれは、ハンニバルの肌さえも切ることができる。
そして奴らを殺す牙を得た俺は、ハンニバルを狩り始めた。
もちろん簡単にはいかない。何度だって死にそうになった。だがハンニバルと戦っているとき、アイラのために戦っているとき、俺は生きていると実感できる。
目の前のハンニバルが抜刀の音でこちらに気づき、振り向いた。それでも俺はあわてない。何度奴らと対峙してきたと思っている。今更怖気付くなんてことはない。怖気付くどころか、むしろ興奮していた。全身の血が煮えたぎるような、そんな感覚。
チラリと空を見ると、快晴だった。ちょうど今いるところは上に枝がすくなく、太陽を見ることができる。
神が俺の罪を見守っているからか、俺がハンニバルを殺すときはなぜか晴れている時が多いのだ。
俺は刀を構え、不敵に笑ってみせる。
最強と呼ばれる魔物に挑む人間。まさに魔王に挑む勇者のような構図だった。それでも俺の浮かべる笑みは勇者というには残虐非道すぎる。
「さあ、ハンニバル。お前に用はない。だからと言って見過ごすわけにはいかないんだよ」
俺の独白に応えるように、ハンニバルは低く唸った。
「だから俺はお前を殺す。アイラを見つける糧にする。お前の死体を踏み台にして、アイラを見つけてやる」
だからーー
「すまないが、俺らのために死んでくれ」
俺はあの時と同じ、やつの命を刈るべく、刀を携えて脱兎のごとく駆け出した。
この国には一人と一匹の悪魔がいる。
それは人間だった。白装束に身を包み怪物を蹂躙する。誰もが恐れる怪物をまるで赤子のように弄ぶ。単体で唯一ハンニバルを殺せる人間だった。
たまたまその場面を見た人は言った。
ーー白装束を漆黒の血で黒く染め上げ、不敵に笑いながら絶対的強者であるハンニバルを狩るその姿は、まさに純白の悪魔であったと。
それはハンニバルだった。ハンニバルであるというのに、見た目は神々しく思うほどに白い。しかも人の言葉を話し、人を助けることすらあるという。
目撃情報は限りなく少ない。が、目撃した人は口を揃えていうのだ。
ーー見た目こそ恐ろしいが、あれば決して悪魔なんかじゃない。天から降り立った天使であると。
悪魔のような人間と、人間のような悪魔。彼らは畏怖と敬意を持って人々にこう呼ばれている。
『ホワイト・ハンニバル』
ホワイト・ハンニバル こめぴ @komepi
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