第36話 ーーじゃあね……お兄ちゃん
「……終わった」
そんな言葉が力なく口から漏れる。
終わったのだ、全てが。俺は衛兵を、ジルさんを殺し尽くし、アイラを逃すことに成功した。自分は死ぬのだろうと思っていたこともあり、なんとなく夢を見ているような感覚だった。意識はフワフワと宙に浮いているようで、ぼーっとして頭もうまく働かない。
「ぐっ!」
だが左腕の強烈な痛みが、それを俺の中に引き戻した。興奮状態だったのだろう。痛みをあまり感じていなかったのもあり、左腕はなんの治療もせず、血は垂れ流し状態だった。それを改めて意識した途端に痛みが復活し、視界がぼやけ始める。
「とりあえず……止血しないと」
適当に服を破いて、それで傷口ーー左肘から少し先をきつく縛る。とりあえず応急処置はこれで大丈夫だろう。
これで本当に一息つける。血の池の中で座るのはもちろん嫌だったから、フラフラとおぼつかない足取りで壁まで歩き、もたれかかる。今度こそ安堵のため息が漏れた。
「……眠いな」
急激な睡魔が俺を襲った。おそらく今日のこれは俺の人生の中で最も大きな出来事になるだろう。それを終えて自分の人生の目的が失われたような、消失感。まさに燃え尽きたような感覚が俺を襲う。このまま身を任せて眠ってしまいそうになる。もう俺は疲れた。鉛のように重いまぶたを抵抗もせず閉じてしまいたい。でもそんなことはできなかった。
「ーーアイラ」
俺の大切な人。俺の人生。彼女がいる限り、休むことができない。
「アイラの元に……行かないと」
俺は集合場所に向かって歩き出した。地に転がる死体に一瞥もくれず、足を引きずって歩く。傷もひどいし血も流しすぎて意識も朦朧として、歩くスピードは遅い。それでも俺は前に確実に進んでいた。
あれだけうるさくしたんだ。住人も起きているに決まっている。実際に所々から視線を感じる。でもさっきの俺を見て恐れをなしているのか、誰として襲ってくる人はいなかった。
「はぁ……はぁ……」
もう気力だけで歩いている状態だった。アイラの元へと、ただそれだけを考えて必死で足を動かした。時折足がもつれて盛大に転んだ。それでも俺は歩くのはやめない。ひたすら前だけを見て歩を進めた。
どれだけの時間歩いたのかわからない。気が遠くなるようだった。普段の俺だったら、もう街の端から端まで歩けているだろう。それくらいでやっと外に続く門がチラと見え始めた。
(そうだ……衛兵……)
うまく動かない頭でそんなことを考えた。
ジルさんがすべての衛兵をあそこに連れてくるとは考えられない。外に出る門にも数人配置しているはずだ。
(アイラは大丈夫だろうか)
うまく注意をそらしたりして回避できただろうか。それともまだ街の中で震えている?
アイラが正面から突破できるとは到底思えない。あの子は普通の女の子なんだ。変異しているとはいえ、数人の屈強な衛兵に迫られたらどうしようもないだろう。
とはいえ、あの待ち合わせ場所に行かないことにはどうもできないし、俺自身まっすぐ通過するしか手段がないわけで、そんなことを考えながらも馬鹿正直に正面から門に向かった。何かで注意をそらし上手いこと通り抜けるのが最善なんだが、その方法を考えれるほど頭が働く自信がなかったし、考えたとしてもそれを実行することができるとは思わなかった。
アイラは大丈夫だろうか。
怪我をしてないだろうか。
恐怖に震えていないだろうか。
そんなことばかりどうしても考えてしまう。このまま門まで行ったら俺の命すら危ないというのに。
「ーーこれは……」
門に近づくに連れ、嗅ぎ慣れた匂いが鼻を打つ。さっきまで散々嗅いだというのに、思わず顔をしかめた。
それは血の匂いだった。もう家からかなり離れたから、あそこの匂いではないはずだ。
ーーなら、どこから?
それは当然の疑問だ。俺は今日あそこ以外で殺していない。だから血の匂いがするわけがないのだ。
(……嫌な、予感がするな)
他人事のようにそう考えた。視界に映る全てが、耳から入る音の全てが、鼻に感じる香りの全てが、ここではない別の世界で起こっていることのように感じるような、そんな感覚。だからそれに対してどうしようだとかは思わない。だというのに、嫌な予感だけは足を進めるにつれてどんどん膨らんでいく。
血の匂いはどんどん強くなる。それはつまり俺が向かっている方向にその原因はあるわけで、その向かっている方向というのが街の外に続く門なのだ。
(もしかして……アイラ?)
不思議なものだ。さっきまで何をしようとも思わなかったのに、アイラに何かあったのかもなんて思った途端に俺の足は早く動き始めるのだ。そしてついに、視界に例の門を捉える。そしてそこには、確かに何かが横たわっていた。
俺は走った。働かみたら走っているようには見えないだろう。歩くのとスピードは変わらない。だが俺は必死で足を動かした。
「はっ……はっ……アイラッ……アイラッ……!!」
どうか違ってくれ。どうか間違いであってくれ。
そんなことを神に祈りながら走った。ついさっきあんな酷いことをして、神が俺に救いをもたらすはずがないとわかっていても、藁にすがるような気持ちだった。何度も転びそうになりながら駆けていく。
そしてついに門にたどり着いた。
「はっ……はぁ……は……アイラじゃ、ない」
それはアイラじゃなかった。だが俺はどうしても素直に喜ぶことができない。
そこにいたのは五人の衛兵だった。その表情は絶望に染まり、目をこれでもかとおおきく見開いている。おそらくここを見張っていた奴らだろう。見るも無残に殺されていた。死因は見れば一発だった。どこかの潰れた村で見たような、切られたというより抉られたような傷。中には首がちぎられたような死体もある。
もう誰がやったかなんて頭がうまく動かない俺ですらすぐにわかる。
「アイラ……」
間違いない。アイラが彼らを殺したのだ。おそらく、何かしらミスをして見つかり、襲われたのだろう。そしてどうしようもなくなってーー殺してしまった。
さすがの衛兵も、生きるか死ぬかで必死になっている彼女に負けたのだろう。完全じゃないといえどハンニバルになりかけている彼女の力の強さは、俺が身を以て知っているのだ。
門で死んでいるということは、アイラは無事に外に出れたということなんだろう。それは確かに喜ばしいことだ。だがどうしてもまた彼女に人を殺させてしまったと後悔せずにはいられなかった。
「はやく……いかないと」
現実から目をそらすように、死体を意図的に視界から外し門をくぐった。
いつぶりだろうか。三年前に初めて訪れた、あの綺麗な池がある、命に溢れた場所へと俺は向かっていた。森を進むにつれ、かすかに記憶にある景色がちらほらと見えるようになる。今までなんとなくあの場所に行くのは避けていた。この森を歩く機会は何度かあったが、やはりどうしてもあの時のことを思い出しそうで、俺は意図的にあそこに近づかないようになっていた。
このボロボロな体で歩く森は、やはりそう楽なものじゃない。街と違って地面も平らじゃない。地面に飛び出した木の根につまずいたり、岩を飛び越えきれずに何度も倒れた。今の俺は相当無様なことだろう。血にまみれ、泥にまみれ、何度も転び、それでも前に進む。
そしてついに、開けた場所に出た。
そこはあの時とほとんど変わっていなかった。相変わらず綺麗だ。あの時訪れたのは昼間だったが、今も日中とはどこか違う雰囲気が漂っている。
そして、その池の淵に彼女は佇んでいた。こちらに背を向けて。
「アイラ……」
ポツリと、言葉が漏れ出した。決して大きな声じゃない。だが何故かやけにこの空間でよく響き渡った。
「……お兄ちゃん?」
ゆっくりと、彼女は振り返る。
青白い月光に照らされた純白の肌。紅白の髪もキラキラと輝いて、彼女の憂いの表情もあり、幻想的な雰囲気に俺は思わず見とれてしまった。
俺たちの視線が交差する。俺たちは互いに走ってーーなんてことはなく、むしろゆっくりとお互いに歩み寄った。
そして手の届く距離までくると、それこそまたゆっくりとどちらからとなく、相手を抱きしめるのだ。
強く、強くーー抱きしめた。その存在を確かめるように、もう離してたまるかと、絶対に手放さないと、手放してたまるかと。
(ーー温かい)
久しぶりに感じた人の温もり。冷たい命を大量に浴びた俺を、そしてそれによって冷え切った俺の心を温めてくれた。
それこそが彼女の生きている証で、その温もりを、彼女が生きているという温もりを、己の体に染み込ませるようにーー強く。
強く、強くーー強く。
「よかった……よかったっ……」
「お兄ちゃんこそ……本当に、よかった……」
俺たちはお互いの無事を喜びあった。心の底から溢れ出るような喜びが、涙となって目からあふれそうになるのを、なんとか抑え込む。
安心からかお互いに足腰力が入らずに、思わずその場で腰を下ろした。
それから俺たちは何も話さなかった。言葉なんて、会話なんていらないというようだった。
ーーただお互いの存在を感じることができる。それだけで十分だった。
「ごめんな……」
「お兄ちゃん?」
最初に口を開いたのは俺だった。
「ごめんな。門番を殺したのは、アイラだろ? 俺はお前に人を殺させてしまった……お前を守るって……約束したのに。そんなお前に無茶をさせてしまった……!」
「違うよ……全部私のせい。私がもっと上手くやってれば、あんなことにはならなかったのに。それに謝らないといけないのは私の方……」
「そんなことっ……!!」
俺は彼女の肩を掴んで引き離す。どうしてもこれは彼女の顔を見て、正面から言わないといけない気がした。
だが彼女の顔を見て、言おうとした言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。
聖母のような笑みを浮かべ、俺をまっすぐ見つめていた。その右目には涙を目一杯貯めて潤っている。
「もう……いいんだよお兄ちゃん。頑張ったよね。辛かったよね。私知ってるよ。お兄ちゃんが毎晩うなされてたこと。お兄ちゃんは十分頑張った。だから……もう休んでいいんだよっ……!!」
そこまでいってついに彼女の涙はその目からこぼれ落ちた。そして再び俺を抱きしめる。
ああダメだ。さっきまで耐えていたのに、もう我慢できなくなってしまいそうだった。
自分の顔に水気を感じた。多分俺は涙を流しているのだろう。その感情がこれ以上漏れ出すのを防ぎたくて、彼女を強く抱きしめる。
一度漏れ出してしまえば、きっと止まらない。止まれない。止まらせることができない。
でも、それでも耐えきれなくて、どうしようもなく溢れ出して。
俺はついに決壊しーー吐き出した。
ーー死にたい。
「死にたい……もう……死にたいんだよ……アイラ」
一度出たら、もうそれは止まらなかった。
「もう、嫌だ……なんで、なんで、こんなふうになっちゃったんだよ……」
目の奥が燃えるように熱い。湧き上がるこの衝動も、抑えることができそうになかった。
結局、俺は限界を超えていたのだ。とうの昔に、俺は限界を超えてぶっ壊れていた。
「みんなを殺したくなんかなかった……悪になんて……なりたくなかった!!」
「うん……私はわかってるよ」
一度漏れた心のうちは、堰き止めていたものを解き放ったようにとどまること知らない。
ポタポタと俺の頬を伝って雫が落ちた。
「俺は……俺はただ、アイラを……お前を守りたいだけだったのに!!」
「私もだよ……私だって、お兄ちゃんに傷ついて欲しくなかった……」
感じることがないはずなのに、アイラの体はやけに暖かく感じた。その暖かさが俺に染み込んで、理性を少しづつ溶かしていく。
いつだってアイラの前ではカッコいい兄でいようとした。かっこ悪いところを見せたくない人に、俺は甘えて無様を晒し続けた。
「あれしか方法がなかったから……仕方がなかった!! いつだって罪悪感で潰されそうでーー何度も、何度も死にたいと思った!」
いくら悪の仮面を被ろうが、いくらその場でなんとも思わなろうが、寝るときになれば俺に襲いかかった。今まで殺してきた人たちが俺に復讐してくる悪夢を何度も見た。何度だって飛び起きた。眠れない夜だってあった。
「辛かったよね……苦しかったよね……ごめんね、私のせいだよ……」
アイラはさらに強く俺を抱きしめた。ごめんね、ごめんねとつぶやきながら、その懺悔の大きさを示すように。
「俺はーーじにだい゛……」
それが俺の偽りない本心だった。それでも俺はアイラがいるからと、その本心から目をそらし続けた。
アイラには本心を教えてくれなんて偉そうなことを言って、一番本心から逃げているのは他でもない俺だった。
殺しても、殺しても、殺しても。
ーー終わりの見えない暗闇に俺はどんどん沈み込んで。
アイラのためだと自分に言い聞かせても。
ーー体に絡みついた罪悪感は消えてくれなくて。
もう嫌だ。殺すのは嫌だ。
もう嫌だ。戦うのは嫌だ。
もう嫌だ。傷つけるのは嫌だ。
もう嫌だ。ーー悪になるのは、もう嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だッ!!
「サラさんを殺したくなかったッ!! ジルさんを殺したくなかったッ!! メアをーー傷つけたくなかったッ!!」
だんだんと、意識が薄くなっていくのを感じた。もう寝てしまうのだろうか。だというのに、俺の口は溜め込んだ俺の心の内を溢そうと懸命に動き続ける。
「嫌だ……もう……いやなん……だ……」
そして俺の意識は、ここで途切れた。
「ごめんね……お兄ちゃん」
「全部、私のせい」
「お兄ちゃんがこんなになったのも、壊れてしまったのもーー私のせい」
「だから……だからね? お兄ちゃん」
「もう、自由になっていいんだよ?」
「だから私はーー」
「ーーッ! ううん。泣いちゃダメだよね」
「お兄ちゃんに元気でいて欲しいから、お兄ちゃんに笑っていて欲しいからーー」
「ーーじゃあね……お兄ちゃん」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます