月明かり - 現代(川瀬巴水『七里ヶ浜』)

 ずいぶんと、日が沈むのが早くなったものだ。

 散歩の足を止め、そのようなことを思いながら、私は赤くなった太陽を見ていた。


「ほら、ゆき、帰りましょう」

 女性の声に惹かれ、そちらに視線を移せば、波紋柄の紫色の着物に楓柄の黄色い帯を締めた女性が、白い犬の手綱を引いていた。

 犬の方は、女性の声に従わず、私に向かって尾を振っている。


 飼い主の女性の顔と、雪という名の白い犬に、私は覚えがあった。

佳代子かよこさん?」

 その呼び掛けに、犬に向かっていた女性の視線が、私へと移動する。

隆行たかゆき、さん?」



 私と佳代子さんは、同じ小学校に通っていた。

 当時は、仲がよかった方だと思っている。

 よく一緒に遊んだし、勉強を教え合ったこともある。


 珍しく雪が降ったあの日、ともに遊んでいた私と佳代子さんは、白い仔犬を見つけた。それが雪だ。

 雪の日に見つけた白い犬だから、雪。我ながら、なんとも安直な名付けだった。


 雪は佳代子さんの家で飼うことになったのだが、私も雪と遊びたくて、一緒に散歩をすることも多かった。

 雪が来てから、佳代子さんと遊ぶことが増えたように思う。

 雪と遊びたかったのか、佳代子さんと遊びたかったのか。ああ、どちらもだ。


 小学校を卒業して、私たちは違う学校に進学した。

 最初の頃は、まだ遊ぶこともあったが、時が経つにつれ、疎遠になった。

 お互い、新しい学校で、新しい友達ができたのだ。



 雪はまだ、私を覚えてくれていたのだろう。

 嬉しそうに尾を振る雪に近づき、しゃがみ込んで撫でてやる。

「お着物に毛が」

「いえいえ、白い浴衣ですし、目立ちませんよ」

 あの頃と比べ、なんとも他人行儀になってしまった。

 水色の円模様がびっしりとあるので、白いと言い張るにはいささか難があるが、それはなかったことにしておこう。


 一通り撫で終わり、腰を上げて、軽く毛を払う。雪も身を震わせ、抜けた毛を飛ばしている。

 これでお別れというのは、後ろ髪を引かれる。

「よろしければ、少し海辺でも散歩をしませんか」

 私の精一杯の勇気だった。



 人気のない浜辺を、二人と一匹で歩く。

 波の打ち寄せ戻る音と、かすかな足音だけが耳に届く。

 誘ったはいいものの、何を話せばよいのか途方に暮れていた。


「雪を放してやりましょう」

 ようやく思いついたのは、そんなことだった。

「えっ、でも」

 戸惑う佳代子さんから、手綱を取り、雪の首輪から放した。


 自由になった雪は、駆けて行でもなく、手綱に繋がれている時と同じように、私達の前を歩いている。

「ほら、大丈夫でしょう」

「ええ」


 再び、二人の間に沈黙が戻る。

 変わったのは、佳代子さんと雪を繋いでいた手綱が、私の右手からぶら下がっているだけである。


 何か話題をと景色を見る。

 前方の家々に、ともり始めた。

 左手には海の向こうの江ノ島にも、民家にあかりがいている。

 そのような時間にもかかわらず、江ノ島の形がはっきりと見えることに気付き、見上げた先に、満月が煌々こうこうと輝いていた。


「佳代子さん、見てください。月がとても綺麗です」

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