第10話 灰色街の画家
ユリヌスの肩にもたれながらエラーヘフは彼のスケッチが終わるのを待っている。
石造りの二階の窓辺は風が吹き込んで心地いい。
「ねえユリ」
エラーヘフは幾分か眠たげに声をかけた。ユリヌスは、んーと唸って線の一つに消しゴムをかけている。
「あんたの名前とあの子の名前が似てるのは偶然?」
部屋の中には絵の具を伸ばす油の匂いが染み付いていて、壁は木炭や絵の具で汚れていて、完成したカンバスにかけられた薄い布がゆっくりと波打っている。
外から子供の喧嘩が聞こえる静かな晩だ。
エラーヘフは恋人の胸に頭をこすりつけて目を閉じる。
「歳があべこべな姉と弟にそっくりな名前の父親。
別に構やしないんだけど。なんでだろうとは、思うよ」
「……話が長くなるよ」
いつの間にかスケッチの手は止まり、ユリヌスの目を空を眺めていた。星はそこそこ輝いて、星座なんて知らないけれどエラーヘフは綺麗ねという。
「長くても構やしない。
ユリは自分の話をしないじゃない。たまには聞いてあげてもいい」
にっこり笑い、コーヒーを淹れてくる、と彼女は立った。彼女はユリヌスをユリと呼ぶ。ユリアスはユリアと。
「ゆっくり聞きたいな、あんたのこと」
彼女の長いゆったりとした袖から指を滑らせ、空を眺めたままユリヌスはああと答えた。
大昔にユリヌスはジューダという名前を持っていた。
その名前は父親の棺を力一杯蹴り倒してひっくり返して葬儀会場を悲鳴で満たした夜に笑いながら捨てた。
彼は婚外子で、脇腹の子で、下賤の子だった。
ただ父の正妻の男児が死んだときにまたぐらにそれがあるからというだけで召し上げられたのだ。父の正妻は少しだけ優しく、それだけは覚えている。
あとはあまり覚えていない。
振るわれた鞭も、周りからの暴言と父の無言と祖父の冷徹な目さえ覚えていない。
本当は実の母の温かさも忘れたかったけれど。
そのジューダの育った国は灰色街から北東にある山岳の王国だ。ユリヌスは名前こそ変えたがしばらくはその国で遊んでいた。貴族のお遊びはよくある話だ。名前を変えることもそこに含まれ、非難は散々にされたものの許容されていた。脇腹の子はこれだからと。その脇腹が一生を使えば食い潰せられる程度の財産を手に入れ、ユリヌスはせっせと遊んでいた。酒を飲み貴族の女を口説き、そして絵をひたすらに描いていた。
絵は好きだった。
ジューダが鞭打たれる理由も往々にしてそれだった。
女を買うことはしなかった。母のような目に合わせたくないから。でも貴族の女は捨てたりした。誰かの代わりに。
ある日医者に、ジュストに会う。鬱屈とした連中の掃き溜めのような工房で医者は画家を探してると言いだした。
「腕のいい画家を知らないか?」
と、工房の主人に聞いているところにユリヌスはワイン瓶を片手に現れ
「俺だね」
と言う。今思えば自惚れていたが、事実も半分。もう一人抜群の腕の女がいた。女は仕事を選べるほどに人気の画家だったが仕事は選ばずもくもくと絵を描いていた。大して実績のないユリヌスは仕事なんてほとんどなかったがそれでも
「なかなかいいな……」
医者は山と積まれたキャンバスに描かれた作品を見、そういった。ヘラヘラ笑うユリヌスに実は絵の修復を頼みたいんだ、と言い出す。
ユリヌスは一瞬目を見開いて悔しそうに言う。
「絵を描くのと修復するのは違う仕事だ」
「描き直してくれてもいい。古い絵をもとに新しい絵を描く」
「そんならできるが、それでいいのか?」
医者は悲しそうな顔で笑っていた。
三十年ほど前の話だ。
「……それはあのジュストの話でしょ?」
甘いミルクティーの入ったカップを自分の座る床のそばに置いて、エラーヘフは不服そうに指摘した。
「その話なら聞いたことある。当時と変わらない変な医者ってんでしょ」
「この話に出てくる腕のいい絵描き」
「ああ女性の」
「彼女がユリアスの母親だ」
ユリヌスはミルクティーをすする。エラーヘフは眉をしかめた。
「どうして」
「俺は彼女を当時愛してた。
見りゃわかった、会った瞬間わかった、あれは彼女の娘だ。
画家になった俺の名前と似てるしな」
「そうじゃなくて。じゃあなぜ今まで……ユリアスはこんな街にいるの」
「それは謎」
なんだって? とエラーヘフが呆れると、ユリヌスは困った顔をした。
「あの子の口から聞いてない。
ただ」
気付いたらこの街で孤児院の真似事をしてる修道女崩れの世話になっていたそうだ。それ以前に覚えていることはない。修道女も何も語らなかった。
犯罪ばかりの街で孤児院は居を構えることもできず、路上で数人の子供たちと修道女で生活していたそうだ。それが孤児院と呼べるかはともかく、ユリアスはそう呼んだ。ある日ぼんやりとした娼婦が−−どうやら頭に障害があったらしくていつも笑っている代わりに何もできない女だったそうだ。その女が男の子を連れて修道女のところに来た。
女は共通通貨をたくさん修道女に渡して男の子を置いていったそうだ。ぺこぺこ頭を下げて、でも何にも喋らずただ笑顔で。その男の子がミラルダ。
ミラルダは泣いてばかりで自分と同じ歳なのにろくに喋れなかった。それでユリアスは自分がお姉ちゃんになってあげると約束したんだ。いつでも手を繋いでやって、寝るときは自分の毛布も貸してやったりした。なにより言葉を教えた。ミラルダ自身はどこか悪いわけじゃなくて、子供にわかる言葉を使う奴のいない環境のせいで喋れなかったらしい、まあ、今のあいつを見ればわかるな。
そうして姉弟は仲良く暮らしていたんだが、数の勉強をするうちにちぐはぐなことに気づいたってわけだ。ミラルダが気づいたんだってさ、自分は姉ちゃんより多く冬とか夏を経験してるってな。
「それで年が下のお姉ちゃん?」
「まああいつらもともと変わってるからな」
「それで」
エラーヘフは片眉を上げて先を促すように黙る。
「それで?」
ユリヌスは肩を竦めた。
「おわりさ」
「いいえ。画家とあなたの娘なんでしょ? ユリアは」
あああ、と頭をかくユリヌスに頬杖をついたエラーヘフは顎をしゃくって先を促した。
「いや、そりゃあ俺の子だとは思うよ。
でも認めない方が、いいんじゃないかなってその、あー」
「だから養女にしたんでしょ、弟も一緒で」
女流画家さんの都合は知らないけど。とエラーヘフが呟くと、ユリヌスは否、と小さい声で答えた。
「都合ならわかる」
「子供を捨てる都合?」
「当時貴族が、名前を変えて画家になるの流行ったんだ」
「へえ」
「だから、彼女は貴族で」
「へえ。あの子血筋はいいってこと」
「そりゃいいさ」
「今あの画家の彼女は、北東の王国の王妃だ」
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