◇拾った小石はモザイクの欠片

 「この世界における“赤”の流通量は絶対的に多い。大きいは強い重いは強い多いは強い単純な理屈よロラン君」


 今は雪に、色の無い白に覆いつくされているこの国の大地は赤く、そこから収穫される産物を口に運んだ人々も赤くなる。当然の摂理だ。

 ただひとつの赤い大陸、何もない青い海、そこにやって来た黄色い島。

 「僕たちは全くの異物なんでしょうか? 先輩……」


 でたらめに選び取った本を片手でばさばさと取り扱って、それでも最低限の礼儀は尽してあげようとでもいうのか机の角と本の角をぴたりと合わせた。

 それでも滅茶苦茶に踏み砕かれて赤さが散らばっている床を見るに、ガラスの容器部分まで紅く染まったワインボトルの代償には程遠いと思うのです。

 

 それを糾弾する勇気はないのですが。

 このかぐわしき人は年上ですし。流石に男子たるもの上背で負けてはいないとはいえ、相応の丈もありますし。

 

 「血の色は赤い。たとえばこの本の著者だってそういうと思うよロラン君」

 ぺろり、おそらく血ではない赤で汚れたチーズを舐め取るとグロッタ先輩は苦々しげにそう言い放ちました。

 汚れたなどと思っている内はまだ価値観は変わっていないと思うのですが、それとは別に自分の中での優先順位が大きく入れ替わった、そう感じました。

 まぁ、大したことではありませんね。いささか飲み過ぎたか、身体が痛むというか頭とか足とかが重いのですが、たぶん気のせいでしょう。


 「二十一日の決闘は確実にあの女を仕留めるつもりでお願いするわ」

 「はい! 元よりそのつもりですよ」

  

 元気は基本だ。先輩は上機嫌だ。

 僕はずっと用意していた言葉を使う。嘘はついていない。

 リンゴの色に似たとびっきり素敵な瞳を見る度に子どものように輝いているなと思って、ついうれしくなってしまう。

 移りげな性分かもしれないけれど、審美眼だけには嘘を付けないんだ。グラスの底に最後に残った赤い雫を喉の奥へと持っていく。

 色を失った透明なガラスが光を反射する。


 少々頭に血が上ったみたいだ。顔色が赤い、淡い色のワインばかり飲んでいてもこうなるのだなあと、相変わらず僕は間の抜けたことを言っている。


 「ここは治外法権だから河岸を変えましょうか」

 「一騎打ちですか、ちなみに今回用意した演舞場は帝都中央練兵場だったりするんですが、先輩はどこへ僕を連れて行ってくれるんでしょう」

 

 楽しみにしていると、先行して扉を開けてくれた。

 おや、今日もお隣さんは八月八日の愉快なお姉さん、ちょうど帰って来ていたみたいだ。横目に通り過ぎてちょっと会釈。ちょっと怪訝な顔をする、今日は酔ってないみたいだ。

 先輩が睨んでくるんだから仕方がないじゃないかと肩をすくめて見る。まるで背中に刃を突き付けられているみたいな悪寒を感じるから仕方がないんだ。


 ここは僕の前を通り過ぎるまで少しだけ待つことにしようか。

 男子たるものエスコートの権限を時に譲り渡してもいいんじゃない? との有難き仰せは毎回僕が彼女の背中を観察する形になることで満たされる。


 本来ここ、世界中に乱立する十二月同盟カレンダー本部は原則部外者立ち入り禁止だ。

 僕ことロラン=ガナも半年前までは部外者だった。スーラは今も部外者である。

 

 ところで僕が三月生まれで先輩が十月生まれなので、部屋割りはランダムだとしても半年くらいを挟めばあまり縁のない間柄ということになる。

 だけど、ここ首都を主な活動場所に選んだスーラに合わせる形でいつしか国家憲兵隊にお勤めの先輩と巡り合ったかたちとなった。


 「そういえば最初にお会いした時は……僕の方からお声がけしたんでしたっけ?」

 「逆だよ逆逆逆私から声をかけたんだよ」

 

 ふと、いつもお世話になっている足の踏み場を見た。

 廊下は会員たちみんなで持ち寄った共有物であるし、つぎはぎだらけで節操がないのは置いておいて散らかしたら掃除しないといけない。だからいつも綺麗で、それでも飽きない。

 床の材質が木材から高級そうな石材に変わる。細まっている向こうは客船の持ち分だろうか、海の向こうにあるけれど特に島国と言うわけでもない栖国祖国でそんな趣味を持つ人は珍しい。

 

 微妙に揺れるその空間を遠慮したのか、それとも入ってくれるなよと念じた僕の願いがどこぞやに通じたのか、先輩はその直前に置かれた小部屋に入っていくと手招きをした。


 「あっちもこっちも増改築というより作っては壊しの珍道中ね。道がまだ通じているうちに早く行ってしまいましょ?」

 「あっちが立てばこっちが立たず、よくこんな狭い空間に色々と詰め込んだものだ、僕も思います」


 その気になればここA地点から遙か遠方のB地点まで瞬間移動テレポーテーションを成しえるこの幻の塔は、たとえば運送業で小銭稼ぎを目論んだ邪な連中が多少なりとも存在したせいでひどく混沌としていたりする。

 なにせこの本部は幻の建造物だから、会員には莫大な研究費が支出されている以上、住居の手当ては自前でしろと言う。


 そのせいで変わり者が疾走する列車の一等客室を自室に申請してみたり、主にいやがらせとして死体置き場を寝床に設定してしまった連中もいる。……周囲は大迷惑に決まっている。

 そんな馬鹿野郎たちを認める会長たちも大したものだけど、各国の上層部も籍を置いているという噂もあるのだから無闇に文句も言えない。

 

 この前なんか生姜の先物取引で早急に現物を生産地から送り届けることを目論んだ某会員が農場の貯蔵庫と港の埠頭丸々ひとつを繋げるため申請をやたらめっぽうに突っ込んだせいで、他の連中は大いに割を食った。

 

 本来の空間の割り当てを取り上げられたせいで、普段は目当ての地点に辿り着くまでに色々な経路が認められている中で一本道を強要されたのである。

 具体的には一月から二月まで――建物の一階を上るのに四月、七月、三月、十二月と……往復を強いられたりとか。


 今はなぜか女性用更衣室を歩かされているが、ああ嫌なことを思い出した。

 「流石に洗面室に突撃して石鹸で殴られた時は死を覚悟した覚えがあります」

 「シャワー室に目をつぶって押し入ったって聞いたけど……?」 


 だなんて、思い出話だか無駄話の中でいけないな、怒っていなければいいのだけど。

 弁明しておこう。ちなみに今慎重に足を運んでいるココにも幸いなことに人はいない。


 「僕があの時見たのは断じて! 顔と手だけです。恐ろしいことを言わないでくださいあんな行為が許されるのもしようと思うのも会長連でもヴァン会長くらいでしょうよ。あの女たらしめ」

 「違いないわ私あなたのことを信じてるもの」


 根回しが不十分だったのか、あの事件を起こした連中は極刑に処せられたらしくその後の風聞を聞かない。

 

 ……よその目から見た文明と不釣り合いな高度な技術も、結局は中に入ってみないとわからないこともある。

 笑い話のようだけど、この塔は綺麗な外見を保つために、中身は相当な無茶をしているのだから。

 

 また視線を落としてみるとモザイクのタイルで簡潔な人魚が描かれていた。今ならこんなものを見たところで頬を赤らめてしまう。そのことが勘違いされないか嫌になってまだ顔を伏せる。

 靴棚から下ろした磨きたての半長靴に水がかかるのが少し嫌だと思い、今日はまだ使われていないようだと乾いたタイル敷きを見て、またカッコつけたがりの自分のことがまた嫌になった。


 辿り着いたのは掃除用具入れ、それも廃棄予定と剥がれ落ちそうな紙で銘打たれたボロさ加減に僕はまたまた嫌になった。

 朽ちた雑巾や折れたモップが立てかけられている。

 扉の向こうがわが異世界だったとしても、こんな入り口は嫌に決まっている。それにどうせ極々ご近所だ。向こう側を覗きこもうとし――、


 「このロッカー申請しておいたの……。ドン! 帰ったよ伍長閣下!」

 ドン! と言うのはつまり僕を突き飛ばす音ではなく、口で言った声だ、こういうときやんわりと背を押してくれるのだからこの人のことを嫌いになれない。


 果たして、美女は間に合っているからか出迎えてくれた顔は「閣下」という敬称をからかいを混ぜるにふさわしく、冴えない三十男だった。

 もっとも、廃棄予定の掃除道具を友にする僕が言えた口ではなかったが。

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