英国殺人鬼談

橘 泉弥

英国殺人鬼談

 どうしてこんな事になったのか、自分でも分からなかった。何かの感覚が狂っているのだろうが、僕はその理由を知らない。

 ただ一つ分かる事は、それらがとても美しいということだ。

 深い闇に響く声、滑らかな曲線、飛び散る艶やかな赤色と、それに濡れる体躯。銀の刃に揺れ、ゆらゆらと舞う手足……。

 僕は今夜も美しい物たちを探し、夜の街を彷徨う。



 ある日、僕がいつも通り歩いていると、何かの声がした。猫でもなく犬でもないから、きっと人だろう。

 目を上げると、その人は僕の前に立っていた。女の人だ。

「ボウヤ、こんな時間に一人なの?」

 その人が僕の腕を掴み、体を押し付けてきたので、仕方なく足を止める。これでは歩きにくいなあと思った。

「ねえ、夜は冷えるわ。私の所に来ない? いい事してあげる」

 女の人を見ると、陶器のように白い首や肩があらわになっている。

 綺麗だったから、手を伸ばして触ってみる。少し温かくて、すべすべしていて気持ちいい。

「あら、せっかちな子ね」

 声も綺麗だ。だから僕はもっと綺麗にしたくて、ポケットからナイフを出した。

 白い首を切ると、美しい赤が噴き出す。

 それは今まで見たどんな赤色よりも綺麗だった。犬や猫の物とは比べ物にならない。

 なんて美しいんだろう。この薄汚い世界を無視するように、気高く、清く揺らめいている。

 何度もナイフを突き立てているうちに、その人は冷たくなっていた。もう、綺麗じゃない。美しい時は終わってしまった。

 僕は赤く染まった刃を降ろし、その場に立ち竦む。興奮が抑えられなかった。視界いっぱいに広がった光景は、今までに見たどんな物より美しくて、鮮やかだった。

 ぼんやり立っていると、近くから甲高い鳴き声がした。見ると、また女の人が立っている。この人も綺麗だ。

 僕が近付いても、その人は逃げない。綺麗だった女の人の方を見て、震えている。

 その金髪に触れようとして手を伸ばす。

 僕が触った途端、その人はびくっとした。青白い顔で僕を見上げ、小さい声で何か言った。よく聞こえない。

 ふわふわした髪を触っていると、女の人はまた口を開いた。

「殺しても、いいわよ」

 僕は女の人の顔を見る。その青い眼は真っ直ぐ僕を見ていた。

「どうせ、生きていても辛いだけだもの。殺していいわ」

 もしかして、この人は僕に言っているんだろうか。

 僕は驚いて手を離す。

「殺す……何?」

「何って……」

 言葉を言ったら、言葉が返ってきた。やっぱり、僕に話してるんだ。

「わああああ!」

 思わず叫んでしまった。人に話し掛けられたのなんて初めてだ。すごい。

「ねえ、もっと。もっと、お話し」

 女の人はまたびくっとする。震えているのはなんでだろう。寒いのかな。

「な、何を話せばいいの?」

「たくさん!」

 女の人が後ろに下がろうとしたから、急いで腕を掴む。

「お話し、して」

 もう一回頼むと、その人はやっと引き受けてくれた。

「あなた、切り裂きジャックジャック・ザ・リッパーでしょう」

「ジャック?」

「最近、この辺りで犬や猫を惨い方法で殺している奴よ。殺された動物はみんな、バラバラなんですって。まるで……」

 女の人は僕の後ろをちらりと見る。

「まるで、その人みたいに」

 よく分からない。殺すって、何だろう。僕は美しいものが見たかっただけだ。殺すはしてない。

「あの人、綺麗だった。犬、猫、みんな綺麗、した」

 僕が言うと、その人は黙ってしまった。青い眼でじっと僕を見て、何か考えているみたいだ。

「ねえ、お話。楽しい」

 腕を引っ張ると、女の人はやっと震えるのを止めた。

「私はメアリー。メアリー・J・ケリーよ」

 女の人はメアリーという名前だった。

 名前は、特定の人を呼ぶときに使う言葉だから、この人のことはメアリーと呼べばいい。

「メアリー、お話、もっと」

「いいわよ。その前に、あなたの事を教えて。名前は?」

「名前?」

 誰も僕のことを呼ばないから、僕に名前は無い。

 でも、さっきメアリーは僕のことをジャックと呼んだ。じゃあ、それが名前なんだろう。

「名前、ジャック。ジャック・ザ・リッパー」

「それは本名じゃないでしょう。本当は、なんていうの?」

「……?」

 よく分からない。本名と名前は違うんだろうか。

 メアリーは少しかがんで、僕と顔の高さを合わせる。

「今まで、他の人にはなんて呼ばれてたの?」

「……ない。呼ばれた事、ない」

 僕は他の人に呼ばれた事が無い。僕を蹴ったり殴ったりする人はたまに居るけど、僕を呼ぶ人なんていない。

 溜息をついて立ち上がり、メアリーは僕の手を握った。

「今日から、あなたの名前はジャックよ。ジャック・ケリー。いいわね?」

 僕は下を向いたまま頷いた。誰かに優しく触られるのは初めてだから、少し怖い。なんだかドキドキする。

 メアリーは僕の手を引いて歩き始めた。もっとお話したかったからついていくと,大通りに出た。いつも馬車や派手な服を着た人たちが行き来している大通りだ。

「どこ、行くの」

「私の家よ」

 どうやらメアリーは家を持っているらしい。お金持ちだ。貧乏な人は家に住まず、路地の端っこに住んでいる。

 夜の街に二人、手を繋いで歩いていく。初めてこんな遠くまで来たから、何だかわくわくした。 

 メアリーの家は、三階立ての建物の二階だった。玄関を入ると部屋があって、色々な物が置いてある。

「今日からここがあなたの家よ」

 メアリーが言った。

「一緒に暮らしましょう。私があなたの面倒を見るから」

 その日、僕は初めて家の中で寝た。寒くなかった。

 次の日も、メアリーは僕を家においてくれた。御飯も持って来てくれた。盗まなくてもパンがあるなんてすごい。

 朝、パンを食べた後、メアリーは服を買ってきた。

「その恰好じゃ駄目ね。血がついてるわ」

 僕は言われた通りその服に着替える。

「似合うわよ」

 それから一緒に家の外へ出た。お散歩だそうだ。

 手を繋いで昼間の街を歩いていく。大通りは見た事の無いお店ばかりで、人が多くて、とても明るかった。僕が今までいた裏通りとは全然違う。

「あれ、何?」

「あれは馬車。馬が人の乗った車を引いているの。危ないから近寄っちゃ駄目よ」

 メアリーは何でも教えてくれた。道に並ぶお店の事や、街灯の事、道を歩いていく人達の事。いっぱいお話してくれるから、とても楽しかった。

 少し狭い道に入った時、女の人が話しかけてきた。

「メアリーじゃない」

「あらエマ、元気?」

 メアリーと女の人は話し始める。僕はその様子をじっと見ていた。

「その子は?」

「弟のジャックよ。昨日、田舎から出てきたの」

「へえ」

 女の人が僕を見たから、何となくメアリーの後ろに行く。僕は人に見られるのに慣れていない。

「ごめんなさいね。内気な子なのよ」

「歳はいくつ?」

「今年で十二になるわ」

「そうなの」

 二人は長い事言葉を交わし続ける。

「あなた、まだあの男の所にいるの?」

「ええ、まあね」

「さっさと逃げちゃいなさいよ。絶対いいことないわ」

「でもお金を返し終わっていないし、他に行く所もないから……」

 二人の話が終わった後、メアリーの家へ帰った。

 窓の外を見ていると、空の色が本当に少しずつ変わっていった。澄んだ水色が、段々とオレンジ色になる。

 空が完全にオレンジ色になった頃、男の人が入口から入って来た。

「おい、このガキは何だ」

「弟よ」

 メアリーが答えると、男の人は僕をじろじろ見た。何だか怖かったから、またメアリーの後ろに行く。

「何が出来る?」

「まだ何も。これから仕事を探すわ」

 男の人はまだ僕を見ている。

「俺が探してきてやる。二人で働け」

 メアリーはそれを聞いて顔色を変えた。

「それはやめて。お願いよジョゼフ。この子にはきちんとした仕事をさせたいの」

 胸の前で指を組み、男の人に頼み込む。

「借金は私が返すから。ねえお願い」

「ふん、弟思いじゃねえか」

 男の人がそう言うと、メアリーは胸を撫で下ろした。よっぽどこの人に頼りたくないみたいだ。

「今夜は五丁目の四番地、赤レンガの家だ」

「分かったわ」

 少しして男の人は出て行った。家の中はまた僕とメアリーだけになる。

「私これから出かけるけれど、お留守番できるかしら?」

「お留守番?」

 何だろう。聞いた事の無い言葉だ。

「この家で待っていられる?」

「ここ、居るの?」

「そうよ。明日の朝まで帰らないかもしれないから、先に寝ていてね」

 この家で寝ているのがお留守番なのだろう。そのくらいなら僕にも出来ると思う。

「大丈夫。出来る」

「いい子ね」

 メアリーは僕の頭を撫でた。胸が少しドキドキして、何だかにこっと笑いたくなる。これが嬉しいってことなのかな。

 夜になるとメアリーは出掛けて行った。

 一人になって、僕は用意してもらった布団に寝転んだ。今日もここで眠れるらしいので、安心する。温かい布団はとても気持ちがいいから、僕はもう冷たい路地裏に戻りたくなかった。

 次の日もメアリーとお散歩に行く。

「あそこ、行く」

「ビックベンね。今日は時間がないから無理だけど、いつか行きましょう……っ」

 メアリーが突然、左胸を抑えてうずくまった。

「どうした、の?」

「何でもないわ」

 そう言うけど、細かく息をして辛そうだ。

「どうする、いい?」

「大丈夫よ」

 道を通っていく人が、地面に丸まったメアリーを見る。僕はどうすればいいか分からないから、ただ傍に立っていた。

 少しすると、メアリーは立ち上がってまた僕と手を繋ぐ。

「ごめんなさいね。大丈夫だから、心配しないで」

「うん……」

 でも、メアリーの顔は青白くて、細い手足が弱々しく見える。

 綺麗だなあと思った瞬間、僕の手はポケットのナイフを掴んでいた。

 駄目だ。メアリーは綺麗だ。でももっと綺麗にしちゃいけない気がする。なぜかは分からないけど、そんな気がした。

 その日の夕方も昨日と同じ男の人が来た。

「今日は三丁目の十六番地だ」

「ええ」

 夜になるとメアリーはまた出かけた。僕は昨日と同じように布団に包まり、温かいなあと思いながら眠った。

 次の日も、その次の日も、昼はメアリーとお散歩に行く。そして夕方に男の人が来て、夜はメアリーが出掛けるから布団で寝る。その繰り返し。

 何日目かの夜、僕はどうしても綺麗が恋しくなっていた。

 メアリーが出掛けた後、お留守番しないで家を出る。綺麗を探して歩いていくと、狭い裏通りに出た。

 歩いても歩いても、今日は綺麗な女の人が見つからない。帰ろうかと思ったけれど、綺麗が見たくて歩き続ける。

 とうとう空が明るくなってきた頃、女の人を見つけた。

 嬉しくなって近付くと、その人の方も僕に近付いて来た。

「こんな時間にどうしたの? 迷子?」

 メアリー程ではないけど綺麗な人だ。だから僕はナイフを突き立てた。

 綺麗な赤が飛び散り、綺麗な声がする。なんて美しいんだろう。やっぱり犬や猫とは比べ物にならない。僕は何度もナイフを振り下ろしながら、妖艶な景色に酔いしれた。

 その時、僕は考えた。綺麗を少し持って帰ってみたらどうだろう。手元に置いておけたら素敵じゃないか。

 だから綺麗の一部を切り取ってみた。右手に一つ、左手に一つ。何だか温かい。

 明るくなってきた空にかざすと思った通り綺麗だったけど、しばらくすると黒く綺麗じゃなくなってしまったから、近くのどぶに捨てた。

 家に帰って、汚れた服を着替えてから布団に入る。まだ興奮が収まらなかった。きっとあれはこの世で一番綺麗な物だ。もっと見たいなあ。

 太陽が昇った後、女の人が慌てた様子で家に入って来た。

「あらエマ、おはよう」

「それどころじゃないわメアリー。私、見たのよ」

 女の人は震えながら僕を指さした。

「見たのよ! 昨日の夜、その子が三丁目のアーニーを殺すのを! 切り裂きジャックなのよ!」

「見間違いよ」

 メアリーははっきり答えた。

「この子は昨日家にいたもの。暗いし、誰だか分らなかったのでしょう」

「でも!」

「私の弟がそんな事するはずないわ」

 しばらくどちらも何も言わない。緊張した空気が、家の中に満ちる。

「……そうね。そんな訳ないわよね」

 女の人が肩の力を抜いた。

「ごめんなさいね、取り乱しちゃって」

「気にしないで。私も切り裂きジャックは怖いもの」

 家の空気が元に戻る。

「娼婦ばかり襲われてるのよ」

 女の人が身震いした。

「そうみたいね。お互い、気を付けるしかないわ」

 そんな事を話して、女の人は帰って行った。

 その途端、メアリーは僕を抱きしめる。

「ああジャック、またやってしまったのね」

 心臓の音が近くに聞こえてドキドキする。メアリーは温かくて柔らかくて、とても優しい。

「あなたは何も分かっていないわ。自分が罪を犯している事も、とても残酷な事も」

「……?」

 メアリーが何を言っているのか、よく分からない。罪って何? 残酷って、どういう意味だろう。

「お願いだから、もう人を殺さないで。このままだと、警察に捕まってしまうわ」

「殺す、何?」

 前にも同じ事を言っていたけど、よく分からない。

「綺麗しただけ。殺す、ない」

「ええ、そうよね。でも、それが悪い事なの」

「悪い事?」

 メアリーの腕に力が入る。ぎゅってされると、何だか嬉しい。

「女性を綺麗にしなくていいの。あなたの事は私が守るから、もう綺麗は諦めて」

「諦める……?」

 難しい言葉は分からない。ただメアリーがすごく近いからドキドキする。

「綺麗は駄目。悪い事なの。殺しちゃ駄目よ」

「殺す……何なの?」

 僕が訊くと、メアリーは丁寧に教えてくれた。

「殺すっていうのは、死なせてしまう事よ」

「死ぬ?」

「そうねえ、動かなくなって、息もしなくなってしまう事、かしら。悪い事なの。だから駄目よ」

「ふうん」

 綺麗は殺す、殺すは死ぬ、死ぬは悪い。だから綺麗は悪い事なんだろうか。どうしてだろう。

「お願いよジャック、もうやめて」

 メアリーはとても悲しそうだ。何だか嫌な感じがした。胸が痛くなる。メアリーが悲しいと、僕も悲しい。

 綺麗が悪い理由は分からないけど、メアリーが悲しいなら、もうやめようと思った。

「分かった。綺麗、しない」

「本当? 約束よ」

「うん」

 それから僕はきちんとお留守番するようになった。夜は布団に入って眠り、外へは出ない。

「いい子ねジャック」

 メアリーはそんな僕を褒めてくれた。褒められると嬉しいから、もっときちんとお留守番しようと思う。

 またエマという人が家に来た。この女の人はメアリーのお友達らしい。

「ねえメアリー、そろそろ病院へ行った方がいいわ。貴方、この頃顔色が悪いもの」

「そんなお金無いわよ。時々苦しくなるけど、他は何ともないし」

「でも心配なのよ。ねえジャック君」

 僕は分からない。病院とか、心配とか、知らない言葉ばかりだ。でも、この頃メアリーが元気ないのは分かる。

「メアリー、病院?」

「無理よ」

「お金なら、ジョゼフに何とか工面してもらえばいいじゃない。命あっての稼ぎでしょう」

「でも……」

 メアリーは病院に行きたくないみたいだ。初めて会った時より顔が青白いし、腕も細くなっている。どうにかしてあげたい。

 ある日、メアリーが机に座って何か書いていた。

「何、してるの?」

「お手紙を書いているのよ」

「お手紙?」

「ええ。新聞社に送ろうと思って」

 メアリーは一度ペンを置く。

「切り裂きジャックの捜査がかなり進んでるわ。犯人は子供か女性って見解もあるみたい。貴方が警察に捕まらないようにするのよ」

「?」

 また難しい事をしているみたいだ。僕ももう少し分かったらいいのになあ。

 メアリーが手紙を書いてから数日後、僕はまたどうしても綺麗が見たくなった。

 なんで駄目なんだろう。あれはこの世の何より美しくて妖艶で、見ている間は辛い事も悲しい事も忘れていられる。

 視界いっぱいに広がる濡れた赤色を思い出すだけで、体中が熱くなる。

 もう一度。もう一度だけ。

 僕はメアリーとの約束を破った。夜の街を走り、綺麗な人を見つけてもっと綺麗にする。久しぶりの感覚にぞくぞくした。とても楽しかった。

 一人じゃ我慢できなくて、二人目も綺麗にする。もっともっともっと。綺麗の一部を取り出して、黒くなるまで眺めた。

 僕は興奮する胸を抑えて、朝もやの中家に帰る。メアリーはもう戻っていた。

「ジャック!」

 メアリーが僕に駆け寄って肩を掴む。

「約束を破ってしまったのね?」

「うん……」

 メアリーの悲しそうな顔を見て、とてつもない後悔が押し寄せてきた。悪い事をしてしまったんだという思いが、僕の胸を締め上げる。

 こういう時、何て言えばいいのか知らない。涙を流すメアリーを見て、もっと胸が苦しくなる。

「ジャック、ねえ、もうやめて。あなたは何も分かっていないわ」

 分かってるよ。綺麗は悪い事。僕は悪い事をしてしまった。だからメアリーが泣いているんだ。

 何て言えばいいんだろう。反省している事を伝えたいのに、言葉が分からない。

「あなた本当は優しい子よ。初めて会った時、私を殺さなかったもの。だからもう、その手を汚さないで」

 メアリーが泣いているのは嫌だ。綺麗がこの世から無くなってしまうより悲しい。

「もう、しない」

 僕はメアリーの手を握って言った。

「もう綺麗しない、絶対。だから、泣かないで」

 メアリーが泣くなら、もう綺麗はいらない。メアリーを泣かせるくらいなら、僕は最も美しい物だって捨てられる。

「約束よ?」

「うん、約束」

 こうして僕は綺麗をしなくなった。ナイフは捨てなかったけど、もう夜出歩くこともしない。いい子にしている。

「あなたの仕事を探さなきゃね」

 メアリーが言った。

「仕事?」

「そう。生きて行くために働くのよ。ジョゼフと一緒に居たら、娼夫しか道が無いわ」

「生きる……」

 今のロンドンで仕事を探すのは難しいが、メアリーは何とか煙突掃除の仕事を見つけて来てくれた。

「住み込みで働けるそうよ。明日にでも来てほしいって」

「住み込み、何?」

「親方の所で暮らしながら仕事をするの」

「メアリー、一緒?」

「一緒じゃないわ。ごめんね」

 何でだろう。僕はメアリーと一緒に居たい。働くって、メアリーと離れ離れになる事なのかな。

「嫌。メアリー、一緒」

「でもね……」

 メアリーは泣きそうな顔になった。

「私はきっともう長くないわ。最近胸がすごく痛いの。だから、あなた一人で生きていけるようにならないと」

 優しく頭を撫でられても嬉しくない。メアリーと一緒に居られなくなるのはすごく悲しい。

「一緒、ねえ、ずっと一緒」

 何度も言ったけど、メアリーはうんと言わなかった。泣きそうな顔をして、僕を撫でる。

 しばらくして僕は悟った。これは仕方のない事なんだ。僕のこれからを考えると、メアリーの下を離れるしかない。

 次の日、僕は少ない荷物をまとめてメアリーと見知らぬ店に行った。そこでは大きな男の人が待っていた。この人が親方だろう。

 メアリーはその人としばらく話をした後、僕を抱きしめた。

「ジャック、元気でね」

「うん」

「身体に気を付けて。ちゃんとご飯たべるのよ」

「うん」

 メアリーは僕を家に居れて、ご飯も布団もくれた。いっぱいお話ししてくれたし、優しくしてくれた。すごく感謝しているけど、こういう時どう言えばいいのか分からない。

 まだ困っていたのに、メアリーは僕の頬にキスをして、行ってしまった。

 煙突掃除の仕事は辛かった。高い所は面白かったけど、朝早い仕事は手が凍りそうだし、煙突の中で足を滑らせたらと思うと怖い。

 でももっと辛いのは、仕事以外の時間だ。

 親方の家には僕以外にも煙突掃除の子が三人いたけど、みんな僕が気に入らないみたいだった。

 蹴られたり石を投げられたりして、僕の身体に痣が増える。パンを取り上げられるから、いつもお腹が空いていた。

 やめてと言ってもやめてくれない。

「お前の話し方おかしいんだよ」

「気持ち悪い。死ね」

 どうしてこんな目に合わなきゃいけないんだろう。路地裏に居た時の方がましだったかもしれない。

 部屋の隅で薄い布に包まり眠ろうとすると、両目から雫が流れた。身体中が痛い。何日物を食べていないだろう。もう空腹も感じない。

 明日になったら、また石を投げられるんだろうか。また死ねと言われ、蹴られるんだろうか。

 もう嫌だ。

 僕は逃げ出した。親方の家を出て、暗い街をふらふらと歩いていく。メアリーの所へ戻ろうと思った。助けてほしい。また一緒に暮らしたい。

 来た道は覚えていたから、迷わずメアリーの家に帰った。

 この時間だから、メアリーは外出しているだろう。朝になったら、帰って来たメアリーにお帰りを言って、一緒にパンを食べよう。

 そんな事を考えながらドアを開けると、メアリーが倒れていた。

「メアリー? どうした、の」

 声を掛けてゆすってみるけど、動かない。

 ベッドに運んで寝かせてから、何か変だと思った。顔が異様に青白いし、身体が冷たい。妙に静かでよそよそしくて、まるで物みたいだ。

「ねえメアリー」

 もう一度ゆすってみるけど、全く反応しない。

 何だか怖くなって呼吸を確認する。

「……?」

 メアリーは息をしていなかった。生物ならば当然あるはずの空気の動きが止まっている。

 嫌な予感が胸をよぎった。

 力一杯メアリーの身体をゆするけど、やはり反応は全くない。

 しばらくして、僕は嫌な予感が事実だと認めざるを得なくなった。

 メアリーは、死んだ。

「え?」

 その答えに、自分自身で困惑する。僕はメアリーを殺していない。なのに何で死んでいるのだろう。死ぬのは悪い事ではなかったのか。

 でも、メアリーは今、僕の目の前で冷たくなっている。これは事実だ。

「わああああ!」

 そうだ、メアリーを綺麗にしよう。誰よりも美しく、艶やかに、鮮やかに。この天使の様な女性を、世界で一番綺麗にしよう。

 僕は夢中でナイフを動かす。頭の中は真っ白だった。ただメアリーを綺麗にしたいと、それだけ考えていた。

 やがて部屋中が赤く紅く染まった頃、僕はやっとナイフを降ろした。

 何より美しくなったメアリーを前にして呆然とする。これからどうやって生きて行けばいいか、分からなかった。

 ふと窓の外を見ると、大きな時計台が目に入った。ビッグベンだ。いつかあそこに行こうと、メアリーが言っていた。じゃあ、行こう。

 ふらふらと立ち上がり、メアリーに行ってきますを言って部屋を後にする。

 時計台に向かって歩く間、メアリーの事を考えていた。

 太陽の様に輝く金色の髪、澄んだ晴天の様な青い眼、優しい口元、柔らかい手。よく通る声も花が咲いた様な笑顔も、もうこの世には無い。消えてしまった。

 そう思うと、巨大な喪失感に襲われて、背筋が冷たくなった。両眼から雫が流れ出し、足元に落ちる。

「メアリー……」

 名前を呼んでも、もう返事は無いんだ。メアリーはどこにもいない。彼女のいない世界は、冷たく色褪せて見えた。

 空が白み始めた頃、時計台についた。ビッグベンは空に大きく突き出ていて、向こうには川が流れている。

 メアリーと一緒に見たかったなあ。

 疲れていたので、時計台に寄りかかって座る。何日も食べていない所為もあってか、もう身体に力が入らなかった。

 前に、メアリーと死について話した事がある。

「死ぬの後、どうなるの?」

「神様の国に召されるの」

 メアリーは僕の頭を撫でて微笑した。

「死んだら天使様が迎えに来てね、天国へ連れていってくれるのよ」

 その時は特に気にしなかったけど、今思い出して嬉しくなった。

 メアリーは天国に行ったんだ。だから、僕もそこへ行けば、また彼女に会える。怖いとは全く思わなかった。

 ポケットからナイフを取り出し、自分の首に突き立てる。

「メア、リー……」

 今、会いに行くからね。

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