19:準備会からの通知
さて、入稿後二日が過ぎ、八月八日(水曜日)になった。
織枝の風邪も、随分回復したみたいだ。
とはいえ、まだ微熱が残っているという。
それで、この日の俺は菓子折りを片手に持ち、見舞いの
織枝は、相変わらず自室に一人で寝ていたらしい。
俺が訪問すると、嬉しそうに出迎えてくれた。
パジャマの上からカーディガンを羽織った恰好だったけれど、顔色はもう平時とほとんど変わりないように見える。
いつものように二階の部屋へ案内されると、織枝はベッドの縁に腰掛け、俺は隣で椅子を借りて座った。
それから少しのあいだ、互いに他愛もない言葉を交わす。
すると、ほどなく同人活動の話題が出て、そのまま今後の懸案事項を話し合う流れになった。
もっとも、俺はちょっと心配になって、いったんやり取りを制止しようとした。
何しろ我が「同好の士」は、風邪が完治したわけじゃない。事務的な相談が、身体の負担になるんじゃないかと思ったからだ。
けれど、織枝は「もう大丈夫」と言い張り、あくまで話し合いを望んだ。
こいつめ、無理して倒れたばっかなのに、本当に反省してるのかね……。
まあ何にしても、そういうわけで――
まずは、同人誌の発行部数と諸経費に関する話題になった。
サークル「百合月亭」初の同人誌は、注文部数を「三〇部」としている。
この発行部数は、俺たちが選んだ印刷所で受け付けてくれる、最小の冊数だ。
即売会の申込書には、予定持ち込み数を五〇部と記入していたらしいものの、下方修正した。
ここまでの僅少印刷になったのは、当然いくつか理由がある。
第一には、『ラブトゥインクル』ジャンル内の同人誌でも、きょうきこカプの『ハーモニー』本はやや需要が読み切れないこと。
第二には、安易に部数を多く刷っても、万が一完売できなければ在庫を抱えてしまう危険があること。
そして第三には、やはり印刷代が決して安くなかったからだ。
「全三六ページ+表紙フルカラー」の印刷には、たとえ三〇部をセット価格で注文しても、三七〇〇〇円という料金が必要だった。
税込価格だと、ほぼ四万円になる。
この料金を印刷発注時、全額前払いで銀行振込しておねばならなかった。
もちろん平均的な高校生にとって、かなり大きな金額だ。
尚、セット価格でも「あそび紙」は別料金になるため、追加を断念することにした。
それからイベント展示の準備費用には、差し当たり一万二〇〇〇円を予算に計上しておくことになった。
尚、今回の即売会申込で手続きに必要だった参加費は、基本料金が三五〇〇円だという。当日は追加イスを一脚予定しているため、そこへオプションの五〇〇円が加算される。
かくして、ここまでの主な経費を合わせただけでも、約五万六〇〇〇円。
二人で折半しても、一人当たり二万八〇〇〇円になった。
他にも、笠霧駅前やら糸乃崎海岸やらと、あちこち出歩く機会が少なくなかったせいで、先月から貯金を切り崩す状況が続いている。
「冴城くんのことも、『翠梢館』でバイトさせてもらえないか叔父さんに訊いてみようか?」
そんな話を織枝から持ち掛けられて、本気で少し悩んでしまった。
同人誌制作もある程度は資本が必要だろう、とは最初から理解はしていたものの、正直に言えば予想以上だった。
さらに実務的なやり取りを続けていると、織枝は大事なことを思い出したらしい。
「そう言えば、冴城くんに伝えておこうと思ってたことが、他にもあるんだった」
おもむろにベッドを離れ、机の前まで歩み寄る。
織枝は、それをこちらへ手渡してきた。
……宛名の下部に記載された差出人名は、「おひさまライブ準備会」。
「申し込んでたイベントの当選通知だけど、家に昨日届いてたの」
「ってことは、無事に『百合月亭』は当日サークル参加できるんだな」
織枝の言葉を聞いてから、実はこれまで参加申込の合否が出ていなかったことを、今更のように気が付いた。
もし落選していたら、危うく「頒布する場所もないのに同人誌を作り続けていた」ことになるところだったんだよな、俺たちって。
冷静に考えると、理不尽で妙な話ではある。
ひょっとしたら参加できなかったかもしれない即売会の当落通知が、新刊原稿の入稿よりもあとに郵送されてくるだなんて。
印刷所の納品スケジュールを、まさかイベント準備会も把握していないわけじゃあるまいだろうに……。
「私は、普通に当選するだろうって、何となく察しが付いてたけどね」
こちらが考えていることを見透かしているような口振りで、織枝はつぶやいた。
「そりゃ、どういうことだよ」
「封筒の中身を読めば、冴城くんもすぐにわかると思う」
訝しく思ってたずねると、織枝は真顔でそう答えた。
俺は、首を捻りながらも、封書の中身を探ってみる。
折り畳まれた紙が数枚、封入されていた。
抜き出して検めると、最初に「サークル参加ご希望の皆様へのご案内」と書かれている。
次に、参加申込に対する準備会からの謝辞、当選確定の連絡……
と、文面が続いていた。
つい目を剥いたのは、そのあとの一文だ。
【――募集数五〇〇スペースに対して、合計二〇七サークル様からご応募を頂き――】
一瞬、見間違いかと思った。
準備会側の募集数より、応募数が大きく下回っている。
それどころか、過半数にも届いていないじゃないか。
「……ね? 落選しなかった理由が、わかったでしょう」
織枝は、かぶりを振って言った。
「このイベントの申込数、定数割れだったみたいなの。それで準備会も、実は今月に入ってから、公式ホームページで申込期間の〆切延長を告知していたぐらい」
「じゃあ、もしかして当落発表が遅れて、俺たちが新刊原稿の入稿を済ませたあとになってから通知が届いたのも――」
「ええ。参加サークルの申込を、ぎりぎりまで受け付けていた影響でしょうね」
因果関係がわかれば、どうということもない事情だった。
とはいえ、「申込数が募集の半数以下」という状況は、客観的に考えて少々寂しい。
やっぱり、オールジャンル系の地方即売会は、開催需要が落ち込んでいるのだろうか。
まあ、他にも申込数が少なすぎて、たまに悪い意味で話題になる即売会があることは知っているので、驚くほどの事態ではないのだが……。
やや複雑な所感を抱きつつも、俺は通知と同封の別紙にも目を通してみた。
即売会当日のスケジュール、
荷物の搬入搬出に関する手続き、
サークル登録や見本誌確認の件、
禁則事項の注意書き、
会場の見取り図――
さらに次の用紙を広げてみる。
そこに記載されていたのは、細かい枠線で仕切られた一覧表だ。
「参加サークルリスト」と書いてある。
どうやら、申し込んだ二〇七サークル及び代表者の名前がまとめられてあるらしい。
「……ほとんど知らないサークルばかりだな」
ざっと上から順に眺めて、思わずつぶやいてしまった。
ほんの一、二件ばかり、ネット上で過去に見覚えのあるサークル名が確認できた程度だ。
まあ、有名な大手は、地方の小規模即売会まで参加したりはしないか。
しかしそんなことを考えていると、にわかに我が「同好の士」が口を開いた。
「ねぇ冴城くん。そのサークルリストだけど、裏面記載の中段辺りを見てくれる?」
「――裏面?」
鸚鵡返しに言いながら、リストの用紙をひっくり返してみる。
そこにも、同じような一覧が載っていた。表面の続きだ。
すぐにあるサークルと代表者の名前が目に付いた。
――――――――――――――――――――――――――
A-あ01 【田園地域南駅】 / あや乃
――――――――――――――――――――――――――
「マジかよ。なんで……」
「彩花ちゃ――じゃなくて、お姉ちゃんは明後日のコミロケ一日目にも参加するはずだけど、そこで発行した新刊を、そのまま二一日のイベントにも持ち込んで、地元で頒布するつもりなんだと思う」
織枝は、ちょっと苛々したような口振りで言った。
思わぬ事態で、俺も唖然としてしまう。
「だけど、彩花さんのサークルは、地方都市の小規模即売会に出る必要なんてないような、有名大手なんだろ。なのにどうして」
「わからない。……でも、お姉ちゃんは案外あれで気まぐれというか、色々な意味で自由なところがある人だから。地元で一年七ヶ月振りのオールジャンル即売会だからって、密かに面白がって、知らないあいだに申し込んでたのかも」
妹の織枝は、このことを最初から知っていた――
なんてわきゃないよな。
仮にわかっていたら、きっと「おひさまライブ」に申し込むのは避けて、他の参加可能なイベントを探していただろう。
一方で彩花さんも、このイベントに自分のサークルが申し込んでいることを、SNSなどで告知していなかったみたいだ。
ローカルな小規模即売会だから、当選結果が出るまで公表するまでもないと思っていたのか、それとも単に忘れていただけだろうか。
「イベント当日は、彩花さんと会場内で顔を合わせたりするのかな」
「どうかな……。お互いスペースの配置場所は、別々のホールだし」
俺が疑問を口にすると、織枝はちょっと考え込むような表情を浮かべた。
開催場所である笠霧コミュニティセンター三階の会議場は、AとBの二つのホールから成っているという。
彩花さんのサークル「田園地域南駅」は、スペース番号A-あ01。
俺と織枝の「百合月亭」は、スペース番号B-け08だった。
割り当てられたアルファベットは、配置されたホールが異なることを示しているらしい。
「――もっとも、仮にお姉ちゃんと会場内で会ったりしなくたって、その――……」
織枝は、さらに何か言おうとしたみたいだったけれど、途中で口を噤む。
「……どうした?」
「何でもない」
気になってたずねると、織枝はなぜか憮然とした面持ちで答えた。
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