20:完成の先にあったもの

 八月一〇日(金曜日)から同月一二日(日曜日)までの三日間は、国内最大規模の同人誌即売会「コミック・ロケーション」が開催された。

 この夏冬年二回の祭典には、日本全国から精鋭オタクらが東京都内に集結し、お目当ての薄い本を巡る濃密な日々を過ごす。

 きっと今年のコミロケでも、悲喜交々ひきこもごもの出来事があって、少なからぬ人々が汗と涙を流したのだろう。


 まあ俺は、その有様を自宅のPCから、SNSに投稿された実況コメントや画像を通じて把握するだけだったけれど。

 父親がお盆休みだった三日間は、ごくありきたりに祖父祖母の家へ赴き、墓参りなどしていた。


 もちろん、コミロケで頒布された『ラブクル』本には、関心がある。

 だが、大手サークルの作品ならば、大抵は「ねこブ」で翌一三日(月曜日)からすぐにも委託販売がはじまるのが常だ。

 いずれは都内のイベントにも直参してみたいと思うけれど、現状でそれなりに満足している部分もある。



 俺と織枝がコミロケ後に会ったのは、八月一五日(水曜日)になってからだ。

 メッセージで連絡があって、織枝の自宅まで呼び出された。

 先日までの風邪は、すっかり良くなったらしい。

 休んでいたバイトも再開したという。


 この日の活動は、イベント当日に必要な品物を買い出しするのが主な目的だ。

 美咲二条の住宅街は、すぐ近くに郊外型ホームセンターがあって、そこを二人で物色することになっている。


 ただしもうひとつ、今回は他にも大事な用件があった。

 実は前日、織枝の家に印刷所から宅配便が送られてきたのだ。

 届けられた荷物は、俺たちが九日前に入稿した同人誌である。


 事前に指定すれば、印刷物は基本料金内で二箇所まで分納が可能だ。

 そこで、完成時にはイベント会場に当日二五部を直接搬入し、残り五部だけ織枝の家へ先に届けてもらうことにしていた。

 お盆期間を挟んでいたにもかかわらず、思ったより早く納品されたようだった。


 ___________

〔 コミロケ前の繁忙期 〕

〔 を過ぎた発注だと、 〕

〔 案外こんなものなの 〕

〔 かもね       〕

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


 織枝は昨夜、メッセージでそんな感想を寄越してきた。



 さて、織枝の家を訪ねると、早速完成した同人誌が手渡された。


「――おお……。これが、俺たちの作った同人誌か……」


 実物を受け取って、つい感慨に浸りかけてしまう。


「データだった原稿が一冊の紙媒体になるのは、さすがにいいもんだな」


 織枝の描いたCGが印刷され、ツヤツヤとした手触りの表紙。

 たしか、フルカラー四色・クリアPPって仕様だっただろうか。

 そこに刻まれた表題は、『Twinkle Star!』。多少安直かもしれないが、二人で決めたタイトルだ。


 B5サイズのページを捲れば、ちゃんと漫画が収録されていた。

 すべて、発注通りに完成したものであるに過ぎない。

 けれど、〆切前まで作業に明け暮れた日々が思い出され、手にしているだけでも、何となく不思議な充実感が湧いてきた。


 ……ところが、またしても織枝は浮かない顔をしている。

 いよいよ気になって、俺は直接問い掛けてみた。


「マジでどうかしたのかよ、織枝。――何だか、ちょっと前からおかしいぞ」


「……そんな、別に私は……」


「いったい何を沈んでるんだ。折角、こうやって同人誌も完成したってのに」


 そうだ、俺たちの原稿は、見事に一冊の本になった。

 二人で三六ページを積み上げ、初めての同人誌を作り出したのだ。

 これは、喜ぶべきことじゃないのか。


 俺は、疑いもなく、そう思っていた。

 このとき、我が「同好の士」が何を考えているのか知るまでは。


「――その……きちんと同人誌が完成したことは、もちろん良かったと思う」


 織枝は、たどたどしい口調で話しはじめた。


「でも、なんていうか……自分で思ってたのと、違うの」


「違うって、何が」


「……私、自分がもっと上手く描けると思ってた」


 ゆっくりと顔を上げ、織枝はこちらを眼差す。

 引力を帯びたような瞳は、いっそう黒く、深みを増しているかに見えた。


「もっと、いい同人誌が作れると思ってたの。もちろん、お姉ちゃんみたいに凄い絵は描けないし、『ねこブ』の棚に並んでる本ほど見栄えがするものにできるとまでは、考えてなかった。だけど、それでも、もっと違う本になると思ってた」


「馬鹿言えよ。ちゃんとした同人誌じゃないか」


 俺は、びっくりして、やや怯んでしまう。

 でも織枝は、納得しようとしなかった。


「実は入稿する前からね、凄く不安だったの。紙媒体に出力することを前提に描く絵って、ネット上に公開するだけのCGとは、色々違ってた。自分の技術が足りなくて、それで――」


 それから、織枝は印刷向けの作画で戸惑ったことを、ぽつりぽつりと語った。

 漫画はモノクロ二階調で仕上げねばならず、普段よりずっと高い画像解像度で作業せねばならなかったこと。主線の太さや仕上げのトーンを自然な状態に保つため、絵を安易に拡大縮小したり、切り貼りできなかったこと。

 カラー原稿では、光の三原色に基づくRGBじゃなく、インク四色向けにCMYKというモードで色調を整える必要があったこと、など。


 残念ながら詳しく聞いても、話の大半は俺に理解できる内容じゃなかった。

 けれど、知らないところで、実は織枝が彼女なりに作画面の苦労を感じていて――

 ずっと悩みながら原稿を描いていたのだということは、こちらにも伝わった。


「冴城くんが作ってくれたプロットも、ネームの段階でイメージしていた通りの漫画にはできなかった。実は、それが一本目の一六ページ漫画を、〆切一週間前になって描き直したりした一因でもあるの。……手を入れてみても、やっぱり充分なものにはならなかったけれど……」


 織枝は、悔しげにつぶやいた。


「冴城くんは折角、素敵なお話を考えてくれたのに」


 俺は「そんなこと……」と、織枝を労わりかけて、すぐに黙り込んだ。

 この子が慰めの言葉を欲しがっているわけじゃないのが、何となく察せられたからだ。


 ひと月かけて作った同人誌は、もはや俺にとって充分な思い出以上の何かだった。

 自分が考えたプロットを、誰かが漫画にしてくれるだけでも、驚くほど心が躍ったし――

 アマチュア創作として、これは最高の贅沢だと思っていた。

 しかし織枝が想像し、また目指していたものは、たぶんそれだけじゃなかったのだろう。



「……ごめんね。私、今凄く勝手なこと言ってる」


 やがて沈黙を破って、織枝が再び口を開いた。

 おもむろに立ち上がり、トートバッグを手に取る。


「そろそろホームセンターへ買い出しに行きましょう。ある程度必要なものが揃ったら、イベント当日の展示方法も考えなきゃ」


 織枝は、忙しなく外出をうながし、それまでの会話を打ち切った。




 ホームセンターで買い物しているあいだ、俺と織枝のやり取りはイベント当日の準備に関する話だけに終始していた。

 完成した同人誌についての話題は、互いに何となく触れられない雰囲気だった。

 そして結局、買い物を終えて帰宅するまで、微妙な空気はずっと続いた。

「今は余計なことをしゃべらない方が、どちらにとっても建設的である」という、暗黙の了解を、たぶん二人共感じていたのかもしれない。


 けれども、むしろ頭の中では、買い物中も、帰宅してからも、俺は延々と初めて作った同人誌のことを考え続けていた――

 もちろん、我が「同好の士」たる織枝静葉のことも。



(――二人で頑張って、いっぱいの愛情を詰め込んだ同人誌を作りましょう)


 一緒に同人活動をはじめると決めたあの日、織枝が告げた言葉を思い出す。


 紆余曲折はあったけど、俺たちは本当に同人誌を完成させた。

 我ながら、よくやったと思う。

 自分たちが好きなものを、目一杯好きに詰め込んだという、たしかな自負もある。

 俺は、それで万事充分だと、漠然と考えていた。


 なぜなら、俺たちが発行する同人誌は、合計たった三〇部の本だからだ。

 都内の大規模即売会で「壁」を狙おうとしている本でも、同人ショップで委託販売してもらおうとしている本でもない。

 誰がどう見たって、ごく狭い、自己満足の世界で作られた本の話だ。


 おそらく織枝もまた、同人活動において、別段即物的な成果は求めていないだろう。

 もし、単に頒布部数を伸ばして、サークルの知名度を高めたいと考えているのであれば、人気ジャンルで、人気キャラの同人誌を作ればいい。

 だが少なくとも、織枝は『ラブハニ』できょうきこ本を作ることに固執した。

 他に売れ筋の選択肢があったかもしれないのに、そこは決して譲らなかった。


 だから、織枝が今抱えている鬱屈めいたものは、もっと純粋な心情から来るものだ。

 俺なんかより、我が「同好の士」には遥かに気高い理想があるのだろう。

 ……けれど、なまじっかそのせいで、あの子は自分に失望しているのだと思う。

 あるいはもしかすると、実姉に対する劣等感も、それを助長させたかもしれない。


(――実は入稿する前からね、凄く不安だったの)

(――自分の技術が足りなくて、それで――)

(――思い通りの漫画にできなかった)


 無念そうな面差しが、網膜に焼き付いて忘れられそうもない。


 まだイベントで新刊を頒布していないうちから、まさかあんな言葉を聞かされるとは、思ってもみなかった。

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