21:愛を欲すれば勇気で語れ(前)
織枝静葉は、アニメから受けた刺激に駆られ、どうしようもなく同人誌制作に突き進んだ。
それは、あの子に勧誘されて、ただ何となく同じ世界へ足を踏み入れた俺と、根本的かつ決定的に異なる部分だ。
創作行為と向き合う気構えには、相応の隔たりがあろう。
なので、織枝の気持ちを、こちらが正しく汲んでやれるかはわからない。
もっとも、俺は自分が同人活動に臨む姿勢を、間違っているとも思わなかった。
ファンアートには、純粋に「同好の士」が交友を温める目的で作られる、という側面も強いはずじゃないか。
きっと織枝だって、同人誌の完成度に
それゆえ、俺が踏み込んで訊くまで話そうとしなかったし、いざ打ち明けても「凄く勝手なこと」だと言ったのだと思う。
創作経験がない俺を同人活動に誘った事実から考えても、その点は明らかだ。
とはいえ、互いの志向性に多少のズレがあるにしろ――
あの子にこのまま、沈んだ顔を見せられ続けるだけじゃ、こっちまで気が晴れない。
少なくとも、俺と織枝は一ヶ月間、同じ目標を掲げて、共に活動し続けた同人仲間なのだ。
見て見ぬ振りでやり過ごすのを、安易に甘受できそうもない気持ちだった。
だから、俺はせめて織枝が今何を感じ、どう悩んでいるか知りたい。
そして一晩、あれこれと考え、考え続けて……
やがて、ふとある着想に思い至った。
○ ○ ○
八月一七日(金曜日)の午後三時過ぎ。
翠ヶ丘中央郵便局前の停留所で、俺はバスから降車した。
目指す先は、ここ一ヶ月余りですっかり通い慣れた複合型書店「翠梢館」である。
だが、今日この店へやって来た目的は、同人活動の打ち合わせではない。
それどころか、我が「同好の士」たる織枝静葉は、こうして自分の同人仲間がバイト先を訪れていること自体、まったく知らないはずだ。
「翠梢館」の店内には、カフェスペース側から入った。
出入り口のドアを潜ったところで、立ち止まってカウンターを眼差す。
――やっぱり居た。仕事中みたいだ。
柔和そうな美貌と、ダークブラウンのロングヘア。今は店の制服を着用しているものの、きらめくような存在感は変わるところがない。
織枝の姉・彩花さんだ。
俺は、意を決して、カウンターの傍へ歩を踏み出す。
平日の中途半端な時間帯のせいか、店内に他の客は見当たらない。
すぐに彩花さんも、こちらに気付いた様子だった。
「――いらっしゃいませ……あら?」
接客の言葉を発しつつ、来店した客が妹の友人であることを察したのだろう。
俺は、今後一週間のあいだに打ち合わせで「翠梢館」を使える日がいつかを、我が「同好の士」から知らされていた。
それは別の面から見れば、あの子が実姉と店で顔を合わせずに済む日程を示している。
おかげで今日ここへ来れば、彩花さんに会える確率がかなり高い、と俺は考えていた。
果たして、予測は的中していたわけだ。
「こんにちは。静葉さんの、お姉さん」
「ええと……。静葉ちゃんのお友達で――冴城くん? で、よかったかしら」
挨拶すると、彩花さんはカウンター越しに、小首を傾げるような仕草で応じた。
俺は、「はい」と答えて、うなずいてみせる。
以前に何度か顔を合わせたことを、覚えていてくれたみたいだ。
「静葉ちゃんなら、アルバイトのシフトが入っている日じゃないけど……」
「いえ。今日は、彩花さんにおたずねしたいことがあって、伺いました」
「……私に?」
きょとんとした顔で、彩花さんは訊き返してきた。
「仕事中でご迷惑なら、休憩時間までお待ちします」
「そこまでして私に訊きたい話って、何なのかしら。やっぱり、静葉ちゃんのこと?」
重ねて問われ、俺は再び首肯する。
「はい。――それで、可能ならば、妹さん本人には内密にお願いしたい話です」
彩花さんは、こちらをじっと見据え、ほんの少し考え込むような素振りをみせた。
が、すぐまた柔和な物腰に戻ると、カフェスペースを軽く見回す。
それから、悪戯っぽい微笑を浮かべて囁いた。
「わかりました。私がここで仕事しながらで良ければ、お話するわね。……ただし、業務外の雑談が店長に見付かって、怒られたりしないようによ」
「ありがとうございます」
俺は、素直に礼を述べてから、一応ブレンドコーヒーを注文した。
彩花さんは、注文を受けながら「律儀なのね」と、面白そうにつぶやく。
まあ、折角相談に乗ってくれるわけだし、こちらも多少は売り上げに貢献せねば、居心地が良くない。
「まず最初に、根本的なところを確認させてもらいたいんですが」
俺は、一番端のカウンター席に腰掛け、切り出した。
「彩花さんは、妹さんが最近何をしているか、ご存知ですか」
「冴城くんと一緒に、好きなアニメの同人誌を作ってるんでしょう。――ジャンルは、たぶん『ラブトゥインクル・ハーモニー』で。静葉ちゃん、相当ハマってたみたいだから」
即座に答えが返ってきた。
「気付いてたんですね」
「そうね。この店で、初めて冴城くんと顔を合わせたとき、テーブルの上にネームみたいな図案が描かれた紙も見えたし……。何となく、雰囲気でわかるものよ」
……さすがと言うべきなのか。
姉妹かつ絵描き同士だし、言外に察知できるものがあるのかもしれない。
「そう言う冴城くんも、私が同人誌を描いてることはもう知ってるみたいね」
彩花さんは、サイフォンのロートを固定すると、軽く中身を
カップと皿を並べつつ、黒い液体がフラスコへ落ちるのを待っている。
「静葉ちゃんから聞いたのかしら」
「……はい、すみません」
「別に謝ってもらう必要なんかないけど。オタクを隠すつもりもないから」
つい気まずさを感じて謝罪したものの、彩花さんはからりとした調子で言った。
どうやら、明るく人当たりがいいだけじゃなくて、あまり物事に拘泥しない気質みたいだ。
「たぶん冴城くんは、うちへ来ていたときも、あの子が描く漫画の仕上げを手伝ってくれていたんでしょう。――恋人同士にしては、静葉ちゃんの態度に色気がなさすぎるし」
彩花さんは、またしても見透かしたように言った。
概ね的中しているので、「まあ、そんなところです」と答えておく。
互いにある程度背景を把握しているのなら、話は早い。
「率直に話すと、俺と妹さんの同人活動に関することで、彩花さんには客観的な意見をお訊きしてみたいんですが」
俺は、いよいよ本題に踏み込んだ。
「先日完成させた新刊について、妹さん――静葉さんは、少し悩んでいる様子で……」
入稿前後から、しばしば織枝が暗い顔を覗かせるようになったことを、簡単に伝えた。
完成した同人誌が届いたあと、俺にあの子が打ち明けた言葉も、大意を要約して説明する。
彩花さんは、妙に穏やかな面持ちで、話に耳を傾けてくれた。
――そう。
俺は、現在の織枝静葉に対して、どう接してやればいいのか迷っている。
繰り返すが、それは同人誌に求めているものとか、創作に臨む意識とか、そういった志向性にいくつかの差異を感じるからだ。
だが、然らば俺以外の、同人誌制作を理解する他の何者か――
織枝静葉と似た志向性を持つ人物ならば、どうだろうか。
いや、あるいはまったく同じじゃなくとも、より多く同人活動に経験を有す誰かならば、事情は違うかもしれない。
浅はかかもしれないが、俺はそんなことを考えた。
そこで、ごく身近に居て、かつ条件に該当しそうな人物を連想したわけだ。
その結果、真っ先に思い浮かんだのが、他ならぬ織枝の実姉だった。
――先輩同人作家の彩花さんならば、ひょっとすると有用な助言を与えてくれるのではないか?
まあ、いくら親しい同人仲間の姉と言っても、ある日突然相手を訪ねるというのは、我ながら無茶をしているとは思う。何しろ、彩花さんは壁際サークルの代表で、商業イラストレイターでもある人物だ。
おまけに当の妹からすると、間接的に劣等感の対象である人物を頼ることになる。
それは、いかにも皮肉な話に違いなかった。
「……それで静葉さんは今、ああして落ち込んで、何を考えているのかなと」
淡い期待を抱いて、俺はカウンターに少しだけ身を乗り出す。
彩花さんは、一通り話を聞き終えると、「なるほどね」とつぶやいた。
そのあと、思索的な間を数秒挟んでから、先を続ける。
「これは、身も蓋もない言い方になるかもしれないけど」
彩花さんは、サイフォンからフラスコを外し、カップへコーヒーを注ぎながら言った。
「ごく端的に、あの子の本音だけ先に言えば――きっと、出来上がったばかりの新刊を、すでに『描き直したい』とか『なかったことにしたい』と思ってるんじゃないかしら」
「――ああ……」
俺は、自然と嘆息混じりの声が漏れた。
さらに彩花さんは、付け足すように告げる。
「さもなくば、『もう一度、新しい同人誌を作りたい』と考えているかもしれないわね」
――やっぱりそうなのか、織枝。
いや、本当は指摘されるまでもなく、大方理解はしていたのだ。
同人誌の出来栄えに失望したあの子が、どうすれば納得できるようになるのか。
その答えは、「納得できるまでやり直す」以外に、いったい何があろう。
けれど俺と織枝は、それが安易に持ち出せる提案じゃないことも、互いに肌で感じている。
なぜなら同人誌を作るには、多くの負担が付き纏うのだという現実を、この一ヶ月余りで知ってしまったからだ。
俺も織枝も、長期休暇の大半を費やして、原稿作業に明け暮れた。
同人ショップへ買い物に出掛けたり、糸乃崎海岸に小遠征したりもしたけれど、あとは勉強とアルバイトぐらいしか、この夏の記憶は今のところない。
もちろん、それはそれで楽しかったし、大切な思い出だ。
むしろ甲子園を目指す高校球児などは、おそらく俺たちよりもっと遊興の少ない日々を送っている気がする。
だが、同じだけの時間があれば、他にどれだけのことができただろうか?
金銭面の問題も、馬鹿にならない。
平均的な同人誌の頒布相場は、三六ページ程度のフルカラー本なら、一冊五〇〇円前後じゃないかと思う。
しかし、必要経費は印刷代だけでも、三〇部発行して四万円。
完売したところで、売上金は一万五〇〇〇円にしかならない。
現時点で、とっくに赤字は確定しているのだ。
それゆえ織枝は、短絡的に「もう一度同人誌を作りたい」と切り出して来ないだろう。
かと言って、俺から持ち掛けたら、あの子はそれを「自分の我が儘に巻き込んだせいで、再度同じ負担を強いてしまう」と、また思い悩むかもしれない……
「彩花さんは、どう思いますか」
喉の奥から声を絞り出して、俺は詳しく意見を求めた。
「つまり、もし妹さんの気持ちを汲んで、また新しい同人誌を作ったとして……それで、次こそ自分の同人誌に納得できるんでしょうか」
「たぶん、そうはならないでしょうね」
こちらの席の前へコーヒーを置きながら、また彩花さんは即答した。
「物作りは、はじまりがあっても、終わりはないものよ。――例えば、今回の失敗を教訓にして、次の一冊を作ってみる。そうすると、前に失敗した箇所が改善されて、完成度は上がるかもしれない。けれど技術的に上達すれば、そのときはこれまで見えていなかった別の失敗に気付いてしまう……」
「でもそれじゃ」
俺は、白い湯気が立つ、カップの中の黒い液面を見詰めた。
「いつまで経っても、妹さんは同人誌を作るたびに悩むことになるわけですか」
「そうなるわね。そうして、どこまでも気が済むか飽きるまで、時間やお金や労力とか、色々なものを犠牲にして同人誌を作り続けていくの」
慣れた手付きで、彩花さんはサイフォンの器具を洗っている。
「同人活動とか、物作りに取り憑かれた人なら、大なり小なり誰にだって、そういう部分があるんじゃないかしら」
「それは、やっぱり彩花さんでも同じなんですか」
「ええ、もちろん」
彩花さんは、苦笑混じりにつぶやいた。
「おかげで、これまでに何冊同人誌を作ったかも覚えていないわ。毎回のことだから、いつまでも過去に描いたもので悔いたり、深刻になったりすることはなくなったけどね」
俺は、緩くカップを傾け、コーヒーを口に含んだ。
豊かな香気と共に、ほろ苦さが舌の上で広がる。
「……妹さんが同人活動をはじめたこと自体に関しては、どう思っていますか」
俺は、少し問い掛ける内容のベクトルを、変えてみることにした。
「今の話を聞く限り、必ずしも同人誌作りを有益なものだとは見做していないみたいですが」
「そうね。全体的に勘案すれば、あまり割に合わない趣味だと感じているわ」
彩花さんは、飄々と仕事を続けながら答える。
「でも、訊かれた質問について言えば――『ああ、あの子もやっとなんだな』って思ってる」
「――やっと、というのは?」
「やっと、自分の好きなことを、本気ではじめるつもりになったんだなってこと」
カウンターの端に並べてあった食器類を、彩花さんは背後の棚へ片付けていく。
「以前までの静葉ちゃんは、他の人の目ばかり気にして、いつも同じ場所で足踏みしているような女の子だったから」
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