22:愛を欲すれば勇気で語れ(後)

「……他の人の目ばかり気にして……?」


 俺は、彩花さんの言葉を、反射的にそのまま繰り返す。


 なるほど何でも新しいことをはじめるには、勇気が要ると思う。

 創作物を人前で発表するだなんて、典型的な行為のひとつだ。

 技能の未熟さを自ら把握しているなら、誰だって尚更だろう。


 だが強い違和感を覚えて、過去の出来事が思い出された。



 ――織枝静葉は、それほど他人の目を気にするような女の子だったか? 


 いや、違うはずだ。

 あの子は学校の帰り道、いきなり俺に声を掛けてきたじゃないか。

 そして、「私と一緒に、同人誌を作りましょう」と、同人活動に勧誘した。

 さらには、家族が誰も居ない自宅へ、抵抗なく俺を招き入れさえしたのだ。

 それ以外の場所でだって、二人で共に行動するからには、仮に恋人同士だと誤解されてもかまわない、と……


 互いに「同好の士」たる関係性を確認したときから、織枝は目的を成すためであれば、基本的に「何があろうと意に介さない」といった様態だったはずだ。

 そんな織枝が、他人の目を気にするだって? 

 やや不可解な、事実との齟齬を感じる。


 たしかにあの子は普段、あまり地味で目立たない。

 けれど、それは意図的に第三者の目を避けてきたからじゃないはずだ。

 まあ、実姉である彩花さんからの視線は、大いに意識しているかもしれないが。


 それ以外で思い当たる限りだと、浜辺で水着を披露したときぐらいだろう。

 でも考えてみると、海水浴場で水着になることは普通の行為で、他人に嘲笑を受ける要素などない。とすれば、あれは純粋に素肌を露出するのを恥ずかしがっただけか。



「ねぇ、冴城くん。実はね、私も一応『ラブトゥインクル』シリーズは全話視聴したのよ」


 そのとき、彩花さんがいきなり、思いも寄らない言葉を投げ掛けてきた。


「オタクとして、常に話題作はジャンル問わずに追い掛けるようにしているから。六月末に放映された続編の最終回も、なかなか感動的だったわね」


「……はあ。そうですね……」


 さすがに少し面食らった。

 つい戸惑って、当たり障りのない返事しかできない。

 もっとも、彩花さんが『ラブクル』の話題を持ち出した意図は、他にあるらしかった。


「それでね。あの子が最初、君を同人活動に誘ったのはいつ?」


「それは――ほぼ一ヶ月半前だと思いますけど」


 正確には、四七日前だ。

 忘れもしない、七月二日(月曜日)――


 四月から三ヶ月間続いた今年の春アニメが、粗方最終回を迎えた直後だったからな。

 何しろ彩花さんが言う通り、その中のひとつが『ラブトゥインクル・ハーモニー』だったんだ。


 ……そうとも、つまり織枝はアニメ放映終了後、すぐにも俺に声を掛けた……? 


「その頃、きっと静葉ちゃんは『ラブハニ』だったんじゃないかしら」


 先回りするみたいにして、彩花さんは囁いた。


『ラブハニ』難民。そうなのか。

 ここで言う「難民」ってのは、ネットスラングの一種だ。「特定のアニメが最終回を迎えて、無気力に陥った状態のファン」のことだよな。


「大きな喪失感を覚えて、静葉ちゃんはそれをどうにか埋め合わせようとしたんだと思うわ」


 こちらを振り向き、彩花さんは別の食器を取りに戻って来る。


「それまでも、散々悩んだりしていたんでしょうけど――あの子は、『ラブハニ』の終了をきっかけにして、冴城くんに同人誌作りを持ち掛けた」


「……人目ばかり気にしていたはずの静葉さんが、ということですか?」


「静葉ちゃんの中には、もう一人のあの子が居るのよ」


 新たに何組か食器を抱えると、彩花さんは突飛なことを言った。


「片方の静葉ちゃんは、地味で、控え目で、生真面目で――自分自身の気持ちより、他の人の目だとか、世間の常識や価値観みたいなものばかり優先して、大好きなものを遠巻きに見ているだけの、自分から踏み込んでいけない女の子だわ」


 実妹を評する言葉は、淡々としていたけれど、遠慮がない。

 俺は、やや怯みながら、先をうながした。


「それじゃあ、もう一人の妹さんっていうのは……?」


「大好きなものに一途で、一直線で、そのためになら何を犠牲にしたっていい、誰に何をどう思われたってかまわない――そういう、健気な愛情というか、ある意味では愚かしい熱情に囚われた女の子」


 彩花さんは、棚の傍に立って、片付け仕事を続けている。


「それが二人の静葉ちゃんよ」


 俺は、顔を上げ、ダークブラウンの髪で覆われた背中を、カウンター席からまじと眼差す。

 しかし、彩花さんはこちらを振り向きもせず、自分へ注がれた視線など、まるで気にしていない様子だった。




 ……

 それが、比喩的な言い回しだというのはわかる。


 人間は曖昧で、複雑な生き物だ。

 たった一人の心の中に、異なる側面が併存しているのは、誰でも特別なことじゃない。

 例えば、現実世界の織枝と、あの子のネット上における人格が一致しないように。



 いや待て、少し整理すべきだ。

 彩花さんの見立てを、真実と仮定して考えてみよう。


 あの子は、過去に漫研やアニ同へ出入りし、「同好の士」を探していたという。

 一方、俺が「ねこブ」できょうきこ本を購入していた点に目を付け、一ヶ月半に渡って、それとなく身辺を調べていたらしい。

 この時点で、おそらく「同人誌を作りたい」という考えは持っていたのだろう。


 だが、彩花さんの見解に従うと、「一人目の彼女」はずっと人目を気にして、願望を実行へ移せなかった。

 冷静になって、いつも学校で見掛ける「地味で真面目そうな織枝」を思い浮かべてみる。

 考え直してみれば、同人誌作りで夢中になっているときの姿よりも、そういう気質は普段の印象にしっくり馴染んだ。


 さて、ところがある日、あの子が愛してやまない『ラブトゥインクル・ハーモニー』は最終回を迎えてしまう。

 それが引き金になって、「二人目の彼女」の意思が強く表出するに至り、何があっても同人活動をはじめようと心に決めた……

 そういうことだろうか? 


 もっとも、理解を得られる協力者がなかなか得られず、織枝は消去法的に俺を選んだ。

 たぶん、本当は(少なくとも当時は)苦渋の決断だったに違いない。いつも異性と二人で一緒に居たら、どう誤解されるかも察していた。


 でも、あの子は――

 もう一人の織枝静葉は、それでも俺を同人誌制作に勧誘した。

 さすがに初心者だから、一人で活動をはじめるのは難度が高いと考えたのだろう。

 自分自身の体裁よりも、現実的な人手の確保を優先したわけだ。


(――……私、どうしても同人誌を完成させて、イベントに参加したい)


 二人で同人誌を作ろうと誓い合った、あの日の織枝の言葉が思い返される。


 かくして、「同人誌を作りたい」という気持ちが、そのためになら「誰に何をどう思われてもかまわない」という決意と、あの子の中で結び付いたのだろうか! 

 まあ、尚も唯一、実姉の彩花さんに対してだけは、コンプレックスを払拭し切れていないようだが……




「……彩花さんは、どうだったんですか」


 色々と話し続けているうち、俺は何となく気になって訊いてみた。


「昔、初めて同人誌を作ろうとしたとき――その、悩んだりはしなかったんですか。他の人の目が気になって、行動へ移すまでに躊躇したりとか」


「――私?」


 相変わらず背を向けたままだが、彩花さんは少し意表を衝かれた様子だった。

 自分のことを問われるとは、予期していなかったのだろう。


「そうね……。もう何年も前だから、はっきり覚えていないところもあるけど――基本的には、特に迷ったり悩んだりした記憶はないわね」


 彩花さんは、すべて食器を片付けると、一歩下がって棚全体を眺め回した。作業に間違いがないか、確認しているらしい。


「どうせ、あれこれ迷ったり悩んだりしたって、どうしようもないと思ってたから」


「どうしてですか」


「だって本気で好きになったら、仕方ないでしょう」


 彩花さんは、またもや軽い調子で、言い切った。


「どうしても同人誌を作りたくなっちゃったんだもの、だから作ったの。好きって気持ちに嘘は吐けないし、そうなったら他の人が何を言うかだなんて気にしても仕方ないわ。――何かを好きになるって、そういうことじゃないかしら」


 もう一口、二口と、俺はコーヒーを喉へ流し込みながら、ぼんやり考えた。


 彩花さんの態度は、とても一貫している。

 けれど、それは当人の言葉に従えば、「もう一人の織枝静葉」と同質のものではないのか。

 すなわち、「健気な愛情」とも「愚かしい熱情」とも取れる在り方だ。

 ――いや、実際にそうなのだろう。

 ただし、彩花さんには迷いがない。

 それがおそらく、この人のなんじゃないかという気がした。



「そうよ、好きになったら、仕方がない……」


 彩花さんは、やはりこちらを振り向くことなく、そっとつぶやいた。

 それはあたかも、星に捧げる祈りのような声音だった。


「アニメを好きになるのも、誰かを好きになるのと同じ。そこに報いがなくたって、好きな心に従うしかないのよ。はたから見れば馬鹿げていても、同人誌の文化はそういう純粋な気持ちと共に、色々な価値観を受け入れて発展してきた――私は、そう考えているわ」


 俺は、さらに何度となく、コーヒーを口へ運んだ。

 そのあとも、彩花さんは独白めいた言葉を紡ぎ続けていたからだ。


「二次創作の世界で、百合やBLが支持されてきたのだって、きっとそう。根底には、『誰かが何かをどうしようもなく好きになる』ってことを、個人の権利として素直に受け入れたいっていう――そういった多様性の肯定があるんだと思うの。……かつては同性同士の恋愛って、社会的に認められない、報われないものだったわけでしょう。近年ではようやく、現実でも許容される機運が生まれてきたけど。でも、一方で見返りのなさがゆえ、とても純粋で、情熱的なものだと考える人たちも居たんだと思うわ。あくまで創作物での、二次元の中の話だけれど」


 ……ようやく、彩花さんは緩やかに振り向き、カウンターの傍まで引き返してきた。


わば二次元キャラ同士の、原稿用紙上に描かれた……平面フラットな世界にだけある純愛ね。アンダーグラウンドな文化だから、本来は陽が当たることもなく、日陰で決してきらめくこともない、でも一途な想い。――仮にそれを、ここでは平面世界上の百合に限って、『フラットリリー』とでも呼ぼうかしら」


 いかにも安っぽい造語だけど、と彩花さんは冗談めかして付け加える。

 妹とよく似た、黒い深淵のような瞳が、俺を見据えていた。



「――



 彩花さんの声は、それほど大きくなかったけれど、やけに耳に残った。


「一度好きになってしまったらもう、その甘い苦しみの呪縛から逃れる術はないわ。けれど、それでも心は満たされているはず。たとえ報われないとしてもね」



 俺は、中身が空になったカップを皿の上へ戻した。

「ご馳走様でした」と礼を言って、伝票を差し出す。

 財布を取り出し、その場で会計を済ませてもらった。

 長居し続けても、彩花さんの仕事を邪魔するだけだろう。


 差し当たり我が「同好の士」を、あの鬱屈からすっかり救い出してやる方法などない――

 ということは、よくわかった。

 それだけでも感謝せねばなるまい。


 しかし一方、彩花さんから伝えられた事実は、どこか滑稽で、残酷な矛盾にも思われる。

 先輩同人作家でもある織枝の実姉は、同じ道を進みながら、充分に美しいきらめきを享受しているかに見えたから。


「差し支えなければ、もうひとつ教えてください」


 俺は、席を立ちながら訊いた。


「どうして彩花さんは、小規模ローカル即売会の『おひさまライブ』に申し込んだんですか」


「……ああ、冴城くんたちが参加するのって、あのイベントだったのね」


 にわかに得心したような面持ちになって、彩花さんはうなずいた。

 こちらの質問で、互いのサークルが同じイベントに参加することを察したのだろう。

 彩花さんは、自分が『おひさまライブ』に出展する旨を、ネット上で告知していない。

 にもかかわらず、その事実を知っているのは、当選通知に同封のリストを目にしたことがある人間と考えて、ほぼ間違いないからだ。


「大した理由じゃないわ。地元のオールジャンル即売会は、わりと最近じゃ珍しいから興味を引かれたってことと――あとね、私は単純に同人イベントが好きだからよ。気まぐれで申し込んだイベントだったから、参加するって話はSNSで書き込んだりしなかったけどね」


 織枝の推測は、的外れでもなかったらしい。

 都内の即売会で名前が売れてるサークルには、今更無意味な活動なんじゃないか――

 なんてことは、問い質すまでもなかろう。

 ここまでの主張を踏まえるなら、彩花さんの行動原理に打算的な損得勘定は必要ない。

「好きだから」、以上。

 あとは目的に向かって突撃するだけ。

 きっと、このひとは柔和そうに見えるけど、同時に傷付くことなんか恐れもしない、夢見がちな狂戦士バーサーカーなんだ。勝てる気がしない。



「折角だから、私も教えてもらいたいことがあるんだけど、訊かせてもらえないかしら」


 帰り際、店の出入り口まで見送りに来て、彩花さんは耳打ちするように言った。


「……いったい何ですか」


「君たち二人のサークル名よ」


 織枝の実姉は、どこかおどけたような仕草を交えて、片目を瞑ってみせた。

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