第五章【やがて来る夏の終わりに】

23:おひさまライブin笠霧32

 フラットリリーは、きらめかない。


 だから俺と織枝の同人活動にも、これといって報われるところはないのかもしれない。


 でもいずれにしろ、二人で作った同人誌は、まだ即売会で頒布されてさえいない状況だ。

 この夏に過ごした日々が、果たして取るに足らない青春の無駄遣いだったかを判断するには、いささか早過ぎる気がしていた。



 そういったわけで、八月一九日(日曜日)――


 オールジャンル同人誌即売会「おひさまライブin笠霧32」の開催当日がやって来た。



 同人イベントには、準備会スタッフを除くと、基本的に二種類の参加形態がある。

 一方は、純粋に即売会を楽しむために会場を訪れる一般参加。

 もう一方は、事前に割り当てられたスペースに出展するサークル参加。


 一般参加だと、俺は過去に一、二回、地元の小規模即売会に顔を出した経験がある。

 ただし、そのイベントは特定のアニメ二次創作限定オンリー即売会で、今回みたいにオールジャンルではない。

 織枝のイベント参加歴も、似たようなものらしい。


 俺たちは今回、参加費を支払った上でサークル申込し、当選通知を受け取っている。

 それゆえ、初めてのサークル参加だ。


 それぞれ参加者は、一般側かサークル側かでイベント会場への入場時間が異なる。

 主にサークル参加者に対する配慮で、割り当てスペースの展示に準備時間を確保しているからだった。

 そのため、このイベントだと一般入場時刻は午前一〇時半なのだが、サークル入場時刻は午前九時からに設定されている。


 もっとも、だからって参加サークルの関係者が全員、即売会開始の一時間半前ぴったりに会場入りしている必要はない。余程凝った展示の用意があるならともかく、普通は長机半分のスペースを準備するのに、一時間も掛からないだろう。

 かくいうわけで当日の朝は、午前九時半前後の現地到着を目安として、俺と織枝は地元を出発することにした。



 さて、即売会会場の笠霧コミュニティセンターまでは、JR翠ヶ丘駅から電車で移動する。

 笠霧駅を通過し、さらに車内で二〇分弱揺られた先で下車せねばならない。そこから徒歩一〇分の場所に、目的の施設がある。

 移動時間を合算すると、自宅から会場までは一時間二〇分程度。

 多少余裕を持つことにして、俺は朝七時四五分に家を出た。


 この日も織枝とは、例によって翠ヶ丘駅の券売機前で待ち合わせする。

 あの子のことだから、今朝も不意打ち気味に登場するのかなあ……

 とか思ってたら、「――冴城くん」と、早くも背後から声を掛けられた。



 振り向くと、我が「同好の士」がちょっともじもじしながら立っている。

 今日は長い黒髪をポニーテールに束ね、明るいブルーのリボンで結んでいた。オレンジ色のトップスの上からは、薄手のレースブラウスを羽織っている。白いティアードスカートを着用に及び、左肩にはバッグを掛けていた。


 相変わらず可愛いな、こいつ。

 ていうか可愛いのはいいんだけど、マジ背後から忍び寄るの暗殺者アサシン並みに気配なさすぎだが。


「おはよう、織枝。――じゃあ、早速だけど出発するか」


 挨拶してからうながすと、我が「同好の士」はこくりと首肯した。


 二人で一緒に改札を潜り、午前八時三三分発の電車へ乗り込む。

 イベント会場の最寄り駅は、JR那塚陸上競技場だ。

 到着後、その駅前から市道沿いを歩き、笠霧西区役所の前を横切った。


 ほどなく、目指す笠霧コミュニティセンターが見えてくる。

 スマホで時刻を確認すると、午前九時二七分。ほぼ予定通りだな。



 コミュニティセンターの建物は、白い外壁の近代的な外観だった。

 正面の自動ドアを潜ると、エントランスホールが目の前に広がる。

 中央階段の脇に掲示板があって、館内で催されるイベントが紹介されていた。

「おひさまライブin笠霧32」に関する案内は、一番目立つ位置に掲げられている。

 その指示に従って、俺と織枝は三階会議場へ向かった。


 階段を上って三階に着くと、イベント会場はすぐそこだった。

 会議場に続く廊下の途中には、テーブルが並べられ、受付が設置されている。近くに看板が立ててあって、「サークル入場の方はこちらから」と書いてあった。

 そこで当選通知に同封されていた通行証を差し出すと、サークル参加者に入場許可が下りる。


 もっとも、この即売会では一般参加とサークル参加を問わず、来場者全員にカタログの購入(一冊七〇〇円)が義務付けられていた。

 なので各々小銭を取り出し、引き換えに冊子を受け取る。



「俺たちのサークルスペースがある場所は……配置番号だと、『B-け08』だったよな」


 受付を通過した先で、周囲を見回した。

 廊下の左右には、別々のホールへつながる出入り口が何箇所かあって、どれも頭上の壁面に樹脂製のプレートが嵌め込まれている。

 それぞれ、プレートには「A」「B」というアルファベットが刻まれていた。


 手元の番号と照合しつつ、会議場Bホールへ入る。

 出入り口を潜ると、長方形の大きな広間だ。

 そこに長机が、何列も一定の規則性で並べられていた。

 当たり前だが、俺たち以外にも少なくない人々が、ホール内で忙しそうに動き回っている。

 一般入場時刻までは五〇分近くあるから、今ここに居るのは皆、イベントスタッフか、他のサークル参加者に違いない。


「配置図によると、あっちみたい」


 織枝は、買ったばかりのカタログを開きながら、割り当ての位置を指し示す。

 手前から三列目にあたる長机の真ん中で、丁度ホール全体でも中央付近だ。


「……ここが俺たちのスペースか?」


 ちょっと戸惑いながら、俺はたどり着いた場所を検めた。

 目の前の長机には、大量のチラシが積み重ねられてある。

 チラシの内容は色々だ。

 数ヶ月後に開催される他の即売会の参加サークル募集、印刷会社のサービス宣伝、企業主催のイラストコンテストに関する告知、などなど。

 それらを束にまとめて、手早く片付ける。


 すると、ほどなくチラシの下から、長机の隅に貼られたラベルが現れた。

 その表面に印刷されてあった文字は、「B-け08:【百合月亭】」。

 間違いなく、ここが俺と織枝のサークルスペースだった。

 長机の列に挟まれた通路側から、割り当てられたスペースの内側へ入る。


「配置番号でわかっていたけど、見事なぐらいにだね」


 スチール製の椅子を床へ置きながら、織枝はホール内を見渡して言った。


「島中」か。同人イベント用語だな。

 即売会では、「会場各所で長机の列が寄り合って形成される、サークルスペースの一区画ブロック」を、俗に「島」と呼ぶ。

 島中と言えば、区画内でも特に列の中ほどに位置するスペースを指す表現だ。


 ちなみに同じ島配置でも、列の両端は「お誕生日席」と呼ばれている。

 来場者が密集し難い場所に配置されたサークルほど、往々にして同人誌の発行部数が多く、執筆者の知名度が高い(あくまで傾向の話で、例外もあるけれど)。

 これは、結果的に一種のになってしまっているものの、準備会側がイベント混雑時に備えた配慮だというのが、本来の意義だった。

 なぜ「壁際」が大手サークルの代名詞であるかの理由も、ここに起因している。


「まあ、俺たちはイベント初参加のサークルなんだから、この配置は当然だろ」


 俺は、身を屈めて、長机の下を覗き込んだ。

 そこには、脇に抱えて持ち上げられるぐらいの、ちいさなダンボールが置かれていた。

 箱の側面には、このイベントの宛名と印刷所のロゴマークが入っている。

 あった。分納指定で、会場へ直接搬入するよう発注していた新刊だ。


 箱を手前へ引っ張り出して、上蓋を開ける。

 ダンボールの中には、ちゃんと同人誌『Twinkle Star!』が納められていた。

 念のため、部数も確認してみると、指定通りに納品されている。

 とりあえず、ほっとした。

 これで、スペースに頒布物が何もない、という事態だけは避けられる。


「ひとまず、長机のディスプレイを済ませましょう」


 織枝は、バッグの中から、事前に買い揃えてきた備品の類を取り出した。

 それに倣って、俺も鞄を開く。展示用ボードや手提げ金庫のような、嵩張ったり、重みのある用具は、こちらで預かっていた。


「――で、最初はどれから準備すればいいんだ?」


「やっぱり、敷物の布で机の上を覆うべきじゃないかな」


 あれこれと相談しつつ、俺と織枝はスペースの準備を進めていく。



 そうして、しばらくディスプレイの作業に追われていると。

 ホールの奥から、こちらへおもむろに近付いてくる人物があった。クリップボードとカタログを携え、腕章を嵌めた女性だ。

 準備会のイベントスタッフだろう。


「お忙しいところ申し訳ありませんが、サークル登録証と見本誌を提出して頂けますか」


 和やかに話し掛けられ、今更ながら即売会規約を思い出した。

 即売会の参加サークルは、登録証に必要事項を記入の上で、準備会へ見本誌と併せて提出せねばならない。

 俺はうっかり忘れていたものの、我が「同好の士」は用意を怠っていなかった。


「ええと、これで大丈夫でしょうか」


 クリアファイルから抜き出した登録証に、新刊を一冊添えて手渡す。

 女性スタッフは、それを受け取ると、おもむろに提出物を検分しはじめた。


 どうやら、この場で見本誌も中身をチェックされるらしい。

 成人向け同人誌とかだと、過激な性描写が含まれていて、頒布物として問題になる場合があり得るからだよな。

 まあ、俺たちの本は全年齢対象の内容だから、大丈夫なはずだ。たぶん。


 新刊のページが、慣れた手つきでパラパラと捲られていく。

 その有様を、思わず息を呑んで見守ってしまった。


「――はい、問題ありません」


 最後のページまで目を通すと、女性スタッフはにっこり微笑む。


「それでは、今日は一日よろしくお願いしますね」


 それだけ告げると、提出物を抱えてスペースの前から離れていった。


 ていうか実はあのスタッフさん、俺と織枝以外で「この新刊を最初に読んだ第三者」ってことになるんじゃねーの。

 思い掛けない恰好で、初めて他の人の目に触れたな。



 まあ、それはともかく。

 俺と織枝は、その後も準備作業を再開し、即売会の開場に備えた。

 一頻り用意を終えると、準備会の受付で追加イスを受け取り、スマホで時刻をたしかめる。

 午前一〇時一五分。一般入場の開始まで、あと少しだ。


 そのとき、俺たちが陣取っているスペースの右側から、にわかに声を掛けられた。

 隣に配置されているサークルの参加者さんだった。


「あのう、今日はよろしくお願いします……」


 メガネを掛けた女性だった。ぱっと見たところ、二〇代後半ぐらいだろうか。


「よろしければ、これ、うちのサークルの新刊で……」


「あっ――はい、どうも、ありがとうございます」


 メガネの女性から同人誌を差し出され、慌てて礼を述べた。

 こちらも在庫の中から本を取り出し、交換してもらう。


「こちらこそ、今日はよろしくお願いします」


 互いに頭を下げて、自分のスペースでイスに腰掛ける。


 びっくりした。

 何となく噂に聞いたことはあったけど、これが近隣サークルさんとの挨拶か。

 ちょっと気になって、左側のサークルスペースも見てみると、丁度そちらでは織枝が新刊交換しているところだった。



 俺は、そのあいだに手元の本へ視線を落とした。

 たった今、隣のサークルさんから交換してもらった同人誌だ。


 可愛らしいフルカラーCGの表紙だった。

 お隣さんも『ラブトゥインクル・ハーモニー』本なんだな。即売会の同じ島では、ジャンルの似たサークル同士が近くに配置されるそうだから、当たり前か。

 メインのカップリングは――「古澤ふるさわカペラ×古澤スピカ」。

 本らしい。『ラブハニ』のカップリングの中でも、コアで熱いファンが多い組み合わせだ。何しろ、姉妹キャラの百合だからな。


 折角なので、中身の漫画もざっと読んでみる。

 それにしても、かなり絵が上手い。

 独特の「ぷにっ」とした絵柄だが、これはこれで好きな人が多そうだ。


 ……その、もしかして、織枝よりも上手いんじゃ……

 って、いやいや。作風が違うから、比較なんてできないよな。

 それに技術的な要素は別として、絵柄の雰囲気自体で言えば、俺はやっぱり織枝が描いた絵の方が好きだ。お隣さんには悪いけど。



 ――と、そんな具合で、諸事に対応したり、思いを致したりしつつ。

 俺と織枝は、開場直前の時間帯を過ごしていたわけだが……


 やがて、ホール各所のスピーカーから場内アナウンスが聞こえてきた。



<――お待たせ致しました。只今より、オールジャンル同人誌即売会『おひさまライブin笠霧32』を、開催します!>



 あちこちで、パチパチと疎らな拍手が起こっている。



 こうして、俺と織枝にとっての運命の一日がはじまった。

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