24:新刊の行方
即売会の開始と共に、場内放送が切り替わった。
会議場全域に爽やかなメロディが流れ出す。
♪――
いつからかなんて わかんない
自然発生の泡みたい
ぼんやりと膨れ上がってったんだ
素敵な景色を見てみたい
つい抑え切れず打ち明けた
答えなんか わかり切ってたのに ――♪
イベント中のBGMとして、いきなりSkuldの曲が聞こえてきた。
この建物では、有線のアニメチャンネルを使用できるのかもしれない。
聞き慣れた旋律に混ざって、ホールの外からはさざ波のような物音が聞こえてくる。
いよいよ、一般参加者が入場してきたのだろう。
いくつもの声や足音を伴って、人の気配が徐々に近付いてくるのがわかる。
そのまま、たっぷり一〇秒ぐらい、息を潜めるようにして待った。すぐ横で、織枝もイスに腰掛けたまま、面差しに軽い緊張を覗かせている。
と、廊下に通じる出入り口のひとつから、Bホールへ飛び込んで来る人の姿があった。
それから、ぱらぱらとさらに何人かずつ、断続的に一般参加者が入って来る。
……けれど、次々に人が押し寄せる、という様子は窺えなかった。
開場から一〇分近く過ぎても、Bホールを回遊する来場者の数は少なく、どこかまったりとした空気が漂っている。
俺は、近辺を何度となく見回した。
Bホールには、カタログの配置図によると、およそ一〇〇サークル程度がスペースを割り当てられているはずだ。
にもかかわらず、この一帯を歩く一般参加者の数は、たぶん二〇人に届くかどうか。
差し当たり、そのまま人の動きを見守ってみた。
そろそろ開場から三〇分が経過している。
「……まだ一般の人、あんまり多くないみたいだね」
すぐ横で、織枝がイスに座りながらつぶやいた。
「そうだな……」と同意しつつ、俺はホールの奥まった場所を眼差す。
小規模即売会とはいえ、スペース配置にはサークルの持ち込み部数(厳密には、申込時に申告した予定部数だが)や知名度が反映されている。
だからBホール外縁の一隅には、ほんの五、六スペースぐらいだが、ちゃんと壁際配置のサークルが存在していた。
無論、ローカル即売会ゆえ、壁を取る要件は遥かに緩いと思う。なので、そういったサークルでも、都内のイベントでは島の端(お誕生日席)を取れるかどうか、かなり怪しいところだが。
まあ、それでも壁際は壁際である。
ホール外縁部のスペースには、真っ先に一般参加者が集まり、頒布されている同人誌を買い求めているみたいだ。
ただし、行列ができるほどの混雑ではない。
せいぜい薄い人垣が、長机の前を覆う程度だった。
――こりゃ、色々と厳しいかもしれんな……。
正直、良くない予感が脳裏を掠めはじめている。
この「おはようライブin笠霧32」というイベント、少なくともここから眺める限りの印象だと、あまり賑わいそうな雰囲気が感じられない。
いくら地方開催の即売会でも、人気二次創作のオンリーイベントだったら、もうちょっと活気がありそうなものだが……。
その後も俺と織枝は、しばらく自スペース内で、じっと待った。
すでに時刻は正午が近い。
ホール内の人口は、僅かばかり増えただろうか?
サークル関係者やイベントスタッフを除く来場者は……
はっきりと判定はできないけど、おそらく三〇人前後といったところ。
大抵のイベントの場合、一般参加者が島中周辺まで流れて来る時間帯は、今から午後三時ぐらいまでだ。
イベント終了時刻は、午後四時。その三〇分前には、大半のサークルが撤収準備に入る。皆それを知っているから、閉場一時間前ぐらいになると、会場を出てしまう参加者が少なくない。
ここまでで、「百合月亭」のスペース前を横切った参加者は、僅かに五人ほど。
そのうち、長机に置かれた同人誌を見て立ち止まったのは、たった一人だけだった。
俺たちの本に興味を示してくれたのは、肩掛け鞄を抱えた若い男性だ。
「ちょっと読ませて頂いていいですか?」と断ってから、新刊を手に取ってくれた。真剣な面持ちで、本文を立ち読みする。
けれど、購入までは踏み切りかねたらしく、「すみません……」と、恐縮した様子で頭を下げて立ち去っていった。
見知らぬ誰かにお金を出してもらうことは、本当に難しい。
いや、それどころか、立ち読みしてもらうだけですら、ここまで困難だとは。
俺は、少し背中が汗で湿るのを感じていた。
もちろん、会場内の暑さのせいだけじゃない。
少し意外だったのは、織枝はこうしてイスを並べて座っていても、ずっと落ち着いた態度を崩していなかったことだ。
静かに場内を眺め、焦燥を覚えている素振りもない。
この子は今、どんなことを考えているのだろう。
ちょっと気になって、何か声を掛けようかと思ったのだが――
偶さか同じタイミングで、ホール内の通路にこちらへ歩み寄って来る人の姿が見て取れた。
「……あの、すみません」
茶色いボブヘアの女性だ。大学生ぐらいだろうか。
カタログを手に持っただけの身軽な恰好で、頻りに場内の配置図をたしかめているみたいだった。
「ここって、『百合月亭』さんのスペースですよね?」
「はい、そうですが」
俺は、僅かに身を乗り出して答えた。
「ああ、よかった。私、いつもうっかりしてて、よく道に迷うタイプなので――」
ボブヘアの女子大生(推定)さんは、途端にほっとしたような表情を浮かべる。
そうして、長机の上へ視線を落とした。
眼差す先にあるものは、当然『Twinkle Star!』の表紙だ。
「それで、これが新刊で……『ラブハニ』の、きょうきこ本ですね」
「はい、そうです」
俺は、軽い驚きを覚えつつ、同じ言葉を繰り返す。
この女子大生(推定)さんは、あらかじめ「百合月亭」の活動を下調べした上で、ここへ来てくれたのだろうか。あるいは、元々『ラブハニ』のきょうきこ推しで、イベントカタログを眺めているうちに、俺と織枝のサークルを偶然知ったとか?
などと、つい憶測を巡らせていたのだが。
女子大生(推定)さんは、再度驚くべき言葉を発した。
「ええと、その新刊を一部ください」
「えっ……あ、はい。ありがとうございます」
なんと、中身も確認しようとせず、いきなり購入を希望してきたのだ。
『Twinkle Star!』の頒布価格は、一部五〇〇円。
女子大生(推定)さんは、代金を硬貨で支払った。
俺も慌てて、交換に新刊を手渡す。
「それじゃあ、頑張ってくださいね」
本を両手で抱えると、女子大生(推定)さんは穏やかに励ましの言葉を掛けてくれた。
会釈してから、スペースの前を離れていく。
「――やったな、織枝。とりあえず一冊売れたぞ」
俺は、ほんの少しだけ手応えを感じて、織枝に話し掛けた。
ところが、我が「同好の士」の反応は、いささか単純ではなかった。
「うん……。そうだね」
織枝は、女子大生(推定)さんが立ち去った方向を、まだ真っ直ぐに見詰めている。
その面差しは、どこか思索的で、新刊が売れたことに対する喜びが見て取れない。
不可解に感じて、俺はちょっと抑揚を抑えた口調で訊いてみる。
「どうかしたのか?」
「……ううん。何でもない」
織枝は、うつむき加減にかぶりを振って、ポニーテールを揺らしてみせる。
何だよマジで。わけがわからんぞ。
でも、ここで追及すべきことでもないのだろうか。
なーんて、微妙な引っ掛かりを感じていると。
「ところで、もう正午は過ぎているけど」
織枝は、不意にこちらを振り返って、話題を転じてきた。
「冴城くんは、お昼ご飯はどうするの? ここのコミュニティセンターには、一階の奥に売店や食堂もあるみたいだけど」
言われてみれば、たしかに少し腹が減っているな。
「スペースの売り子は、たぶん私一人でも大丈夫だと思う。何か食べておきたいなら、今のうちに行ってきた方がいいかも。――他にもカタログを読んでみて、もし気になったサークルがあるようなら、ホール内を見て回ってきたらどうかな」
「織枝は、昼飯をどうするつもりなんだ」
「私は、あまりお腹が空いてないから」
そうつぶやくと、我が「同好の士」はイスに座ったまま、正面の通路側へ向き直る。
「冴城くんが戻って来るまで、ここで待ってる」
「ちょっとぐらい飲むか食べるかしないと、身体に悪いぞ」
即売会では、会場に居るだけでも、何かと体力を消耗する。ましてや今は夏場だ。小まめに水分を補給しておくべきだろう。
俺は、カタログと財布を手に取ると、イスから立ち上がった。
「何か欲しいものはないのかよ。帰りに買ってきてやるぞ」
「……それじゃ、フルーツジュースで。銘柄や果物の種類は、何でもいいから」
少し強い口調で問い掛けると、織枝は仕方なさそうに答えた。
断っても、食い下がられると思ったに違いない。その通りだ。
〇 〇 〇
織枝を残してスペースを離れると、俺はBホールからセンター三階の廊下へ出た。
午前中のサークル入場時とは、少々周囲の雰囲気が変わっている。
今は場内に一般参加者も居るんだし、そりゃそうか……。
現在地の左手には、他の階へ上り下りできる中央階段がある。
正面に見えるのは、会議場Aホールの出入り口だ。
「――Bホールの来場者数と比べて、こっち側はどんな
どうにも、気になってしまう。
いくら何でも、ここまでの一般参加者の合計数が、Bホールで見掛けただけで全部だとは思いたくない。
俺は、僅かに逡巡したものの、内部の様子を窺ってみることにした。
売店へ買い物に行く前に、ちょっと寄るぐらいなら差し支えないはずだ。
織枝だって、そのへんを見て来たらどうだって言っていたし。
自分で自分を納得させると、俺は思い切って「A」と刻まれたプレートの下を潜った。
それから、ホール内をぐるりと見回してみる。
この一帯を行き来している一般参加者は――
……八〇、九〇……一〇〇人までは届かないぐらいか。
でもBホールと比較すれば、三倍近い人数だ。
俺は、折角なので、そのままAホール内を少し歩いてみることにした。
サークルリストに従えば、ここには彩花さんのサークル「田園地域南駅」のスペースも配置されているはずだ。
挨拶までするかは別として、今どんな状況なのか、興味がないわけじゃない。それとなく様子を窺ってみたくなった。
場内を歩きながら、ついでに付近のサークルスペースも、さりげなく覗いてみる。
……どこの長机に置かれた同人誌も、達者な絵のものばかりに見えるな。
いや、まあ技術的な部分はともかく、俺はどの本より織枝の絵柄の方が好みだけど。
そういえば、こちら側の会場は、基本的に女性向けジャンルで活動するサークルのスペースが集約されているんだったっけ。
通路ですれ違う一般参加者も、女性が多い印象だ。
ていうか一般もサークルも、この即売会の参加者には女性が多い気がするんだよなあ。
あれこれ考え事しながら歩いているうち、Aホールの奥までたどり着いた。
カタログの配置図によれば、彩花さんのサークルスペースはこの辺りのはずだ。
配置場所は、「A-あ01」。
わかりやすいってレベルじゃない。
明らかに会場内で端っこにあるだろう、壁際以外に考えられないスペース番号だ。
たぶん、この通路を突き当たった先、ホール外縁部に配置されていると思うんだが。
――と、あれ?
ひょっとして、あそこに置かれた長机がそうなのか?
俺は、思わず目を
そこには、飾り気もなく、何も頒布物が並べられていない壁際スペースがある。
だが、すぐにその場所が、やはり彩花さんのサークルなのだと気付いた。
長机の片隅には、コルクボードが立ててある。その表面に張り紙がピンで留められ、やや丸っこい文字の一文が読めたからだ。
【 本日搬入分の頒布物は、完売しました。ありがとうございました(田園地域南駅) 】
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