25:歩いた人は知っている

 ……まあ、壁際サークルなら、こんなもんなんだろうな……。

 ぼやぼやしていると、大手の本はあっという間に売り切れる。

 だからこそ一般参加者は、開場直後に会場外縁部へ駆け付けるのだ。


 俺は、軽い脱力感を覚えた。

「田園地域南駅」が、コミロケで余った既刊しか持ち込んでいなかったとしたら、元々部数はそれほど多くなかったのかもしれない。

 頒布するものがなくなったので、もういつでも撤収できるように、展示用具の類はスペースから片付けてしまったのだろう。



 でも、そうすると、当の彩花さんはどうしたのか? 

 長机を挟んだスペースの内側を、ちょっと遠目に眼差してみる。


 ――どうやら、居ないみたいだな。

 席を外して、どこかへ出掛けているらしい。

 サークルの売り子らしき女性が一人、イスに座って留守番しているみたいだが。


 …………。


 ……ん、んん? 

 にしても何だか、あの留守番の女性は見覚えがあるような。

 いったい、いつどこで――


 って、たしかあのボブヘアは、うちのサークルで新刊を買っていった女子大生(推定)さんじゃねーか! 


 さすがに虚を衝かれて、一瞬、頭の中が真っ白になりかけた。

 待て、ちょっと事実関係を整理しよう。

 つまり、さっき俺と織枝が作った本を買ってくれたのは、彩花さんの知り合いで――……


 などと、つい通路の真ん中で、棒立ちのまま考えを巡らせていると。



「――サ・エ・キ・くん♪」


「うわあああぁぁっ!?」



 突如、背後から耳元で囁く声が聞こえ、俺は飛び上がって振り向いた。

 そこに立っていたのは、ダークブラウンの長い髪が綺麗なお姉さんだ。

 彩花さんだった。無邪気な笑顔で、こちらを上目遣いに眼差している。


「こんにちは。……どう? 今の驚いた?」


「そ、そりゃ、びっくりしましたよ……」


 俺は、額から汗が滴るのを感じた。

 ちょっとお姉さん、子供っぽいこと止めてもらえませんか。


「わざわざ私のところまで、遊びに来てくれたのかしら?」


「……はあ。まあ、そんなところかもしれません」


 問い掛けられて、俺は曖昧に肯定しておいた。

 実際には、それほど明確な意思でここへ来たわけじゃないのだが。彩花さんと出くわしていなかったら、黙ってAホールの外まで引き返していただろう。


「それじゃ、ひとまず向こうのサークルスペースの中へ入りましょう。通路の真ん中だと他の参加者さん迷惑が掛かるし。――私も、を抱えたままで立ち話するのは、少し辛いわ」


 今更のように気付いたけれど、彩花さんは両腕に何冊もの同人誌を抱えている。

 この本が「戦利品」というわけか。会場内を回って買い漁ってきたらしい。


 彩花さんは、率先して歩き出すと、自分のスペースへ戻っていった。

 流れで仕方なく、俺もそれに倣う。



 サークル「田園地域南駅」の配置場所に来ると、あの女子大生(推定)さんがイスから腰を上げて、彩花さんを出迎えた。

 それから、すぐ後ろに付いてきた俺の姿を見て、目を大きく見開く。


「あっ。その、貴方はさっきの……」


 困惑したような反応を覗かせながら、女子大生(推定)さんは会釈してきた。

 こちらも応じて、頭を下げる。

 そのあいだに彩花さんは、抱えていた同人誌を長机の上に置いた。


「この子はね、私が卒業した大学の後輩で、現役の学生なの。Bホール方面の買い物は、私の代理で彼女に頼んであったのよ」


 その話に従うと、この女性はやはり女子大生なのか。

 しかも、笠霧美術大学カサビに在籍する美大生(確定)さん。

 それで、彩花さんの代わりに「百合月亭」の新刊を購入した――? 



「……どうしてなんですか」


 声を絞り出し、堪らず質問してしまった。


「なぜ、俺と織枝が作った本を、そうまでして手に入れようとしたんですか」


 いまだ俺には、この「神絵師」と呼ばれるお姉さんが理解し切れない。


 ……一昨日、「翠梢館」を辞そうとした際、彩花さんは「百合月亭」のサークル名を問い質してきた。理由をたずねると、「サークルリストでチェックしておきたいから」という、単純な返答だった。


 俺は、本気か冗談か測りかねつつも、質問には回答せざるを得なかった。

 相談を持ち掛けておきながら、こちらは相手にサークル名を伝えないのも、さすがに礼を失しているような気がしたからだ。


 無論、「百合月亭」の名前を教えれば、ネットで検索されるのかもしれない、ということは考えた。

 ――そして、妹の織枝が描いた新刊のサンプル画像まで、彩花さんがたどり着く可能性があることも。

 とはいえ、あの日のやり取りは、誰にも口外しない約束になっていた。


 けれど、まさか――

 あのとき知った「百合月亭」の名称をたどって、彩花さんが同人誌を本当に入手してしまうとは! 

 自ら買いに出向かず、代理人を立てたのは、実妹の心情を汲んだ一応の配慮なんだろうけど。

 もし、この事実を知ったら、我が「同好の士」はどう思うのだろう。



「なぜって、それはSNSで新刊サンプルを見て、普通に欲しくなったからよ」


 彩花さんは、ごく何でもないことのように答えを返してきた。


「私が『ラブトゥインクル』のテレビシリーズを、ちゃんと全話視聴したってことは、君に一昨日も話したと思ったけど」


「それは……そうでしたが……」


「Web上に公開されていた見本画像だけでも、あの子と冴城くんが頑張って自分の好きなものを本にしようとしていたんだな、っていうのは伝わってきたわ。高校生が初めて作った同人誌で、きちんと読める漫画の形になっているのは、立派なものよ」


 にわかに彩花さんは、スペース後方に置かれてあった荷物の傍へ歩み寄った。

 そこから肩掛け鞄を取り出し、おもむろに中身を探る。


「……私はね、描き手の愛情や温もりが込められた同人誌が好き。技術的な巧拙なんてものは、そうした熱意にあとから付いて来るおまけみたいなものね」


 こちらへ向き直ると、彩花さんの手には一冊の同人誌があった。

 その表題は、『Twinkle Star!』――

 俺と織枝が作った新刊だ。


「だから同人誌は、何より同じものを好きな人間同士――『同好の士』の手で作られるべきものよ」


「――ああ……」


 自然と、喉から呻くような声が漏れてしまう。

 脳裏に蘇るのは、もちろん我が「同好の士」たる織枝静葉のことだ。


 あの子は、かつて創作経験のなかった俺を、かまわず同人誌制作に勧誘した。

 それは同人誌が、必ず「同好の士」によって作られねばならないからだと、譲らなかったせいである。

 もしかして、あのとき織枝静葉は、すでに実姉と同じ価値観を抱いていたのか? あるいは言外に共有したり、知らず知らず影響を受けたりしていたのだろうか。



「単なる即物的な欲求とか、虚栄心を満たすためだけに作られたアマチュア創作ほど、見ていて悲しいものはないわ」


 彩花さんは、『Twinkle Star!』の表紙を、いとおしそうに見詰めながら言った。


「本当に好きなことを、人目なんて気にせず好きに表現できる――それこそ、同人誌の一番素晴らしいところですもの。周囲の顔色を窺って、世間の需要に迎合したいのなら、商業ビジネスの世界を目指すべきでしょう。あくまで個人的な考えだけど、私はいつもそう思ってるの」


 俺は、たった今、彩花さんが長机に置いた同人誌を眼差した。

 この会場で手に入れたという「戦利品」の数々だ。

 表紙を見る限り、ジャンルに統一性はなく、描き手の絵柄や画力も様々だった。

 たぶん彩花さんは、本当に同人誌が好きなんだろうな、と思う。

 高品質なものにしか興味がないのなら、たしかにプロの作品だけに触れていればいい。


 とはいえ、捻くれた見方をすると、それは結局「勝者の余裕」なんじゃないか? 

 ――そんな疑念を抱いてしまう気持ちもある。

 彩花さんは、自分が技量の優れた創作者で、かつ大手サークルの代表者だから、そういう綺麗事が言えるのではないか、と。

 現実として、技量の未熟な人間には、結果が伴わない創作物を人前で誇ることは難しい。

「他人の目を気にするな」と言われても、普通はそうできるだけの自信が持てないものだ。


 けれど、俺が口を噤んでいると、彩花さんは苦笑交じりに肩を竦めた。


「もしかすると、ここまで言っても冴城くんや静葉ちゃんには、自分たちが作った同人誌のがまだわからないかもしれないわね」


「……俺たちの本の尊さ、ですか?」


「ええ、その通り」


 彩花さんは、スチール製のイスを傍に引き寄せ、腰掛けた。

「百合月亭」の同人誌を開いて、中身の漫画へ視線を落とす。


「この一冊は、冴城くんとあの子が何かを作りたいと望んで、現実に願いを成し遂げたっていう、強い意志の証明なの。たかだか一冊の同人誌かもしれないけれど、その一冊を誰もがみんな簡単に作り出せるわけじゃないわ」


 白くて綺麗な指が、一ページ、また一ページ……

 と、本文の上質紙をゆっくり捲っていった。


「それに二人の仲睦まじさが溢れ出ているみたいで、これはとても素敵な本よ。私なんて、ちょっぴり嫉妬したくなっちゃうぐらい」


 色々な意味で愛の結晶ね、と付け加えて、彩花さんは顔を上げる。

 そこには、茶目っ気たっぷりな微笑があった。


 励まされているのか、揶揄からかわれているのか。

 妙なむず痒さを感じて、つい身を捩りたくなったけれど思い留まった。

 代わりに正面から目を逸らし、故意に咳払いしてみせる。



「その、俺と妹さんは、純然たる『同好の士』であって。別に、そういう関係では……」


「――もう、冴城くんったら。その受け答え、静葉ちゃんの前では止した方がいいわよ」


 俺の言葉を聞き届けるや、彩花さんは急に眉根を寄せた。

 それから、むむむ……、とにわかに低い声で唸る。


「……でも、なるほど。まだそこまでなのね……すると、もう少し何とか……」


「いったい、何がそこまでなんでしょうか」


「ああ、いえいえ。こっちの話だから、何でもないの」


 胡乱なものを感じて問い質すと、あからさまに誤魔化された。怪しい。

 だが、こちらの都合はおかまいなしといった調子で、彩花さんは突然会話の内容を転換してきた。


「それより冴城くん。静葉ちゃんはあれでわりと寂しがりなのよ」


「……はあ。そうなんですか」


 どう応対すべきか困って、当たり障りのない返事をしておく。

 すると殊更、実妹に関する話題を発展させてきた。


「だからね。あの子は普段、地味で目立たないと思われているかもしれないけど――本人は、決して自発的にそういう立ち居振る舞いをしてるわけじゃないってこと。それを忘れないでおいてあげて欲しいし、いつもあの子を見ていてあげて欲しいのよ」


 彩花さんは、手元の同人誌を閉じて、イスから立ち上がる。

 そのまま、傍まで歩み寄って来ると、俺の肩に手を置いた。



「静葉ちゃんを支えてあげられるのは、きっと冴城くんしか居ないから」




     〇  〇  〇



 俺は、ほどほどで雑談を切り上げると、彩花さんのサークルスペースを辞した。


 もうBホールを出てから、三〇分以上経過している。

 本来の目的を果たすため、中央階段を下りて売店へ急いだ。



 ところで、これは今更の話だが――

「田園地域南駅」の配置場所を離れたあと、俺は同人イベントにおける「挨拶回り」の慣習について思い出した。


 同人活動に携わっている作り手は、知人友人のサークルを訪ねる際、しばしば自分が制作した頒布物を持参するという。もちろん、友好的な譲渡が目的である。

 一方訪問された側も、自サークルで作成した頒布物を、返礼として差し出す。


 今回、結果的に彩花さんのサークルを訪れてしまったわけだが、俺は「やはり本来ならば新刊を持参しておくべきだったのだろうか」とも考えたのだ。

 もっとも、現状を斟酌して言えば、そんなわけにもいかなかった、としか結論付けられない。


「百合月亭」の新刊は、きちんと頒布数を管理している。一部減っていれば、それはなぜかという話になるだろう。

 挨拶回り自体に後ろ暗いところはないものの、俺が彩花さんと会っていた事実は、いささか我が「同好の士」には打ち明け難い。

 織枝姉妹の関係性には、あまり露骨に立ち入るべきじゃない気がしていた。


 そもそも彩花さんは、こちらから一冊手渡すより先に、うちの新刊をキープしていたからな……。

 おまけに交換するにしても、「田園地域南駅」の本はとっくに完売。

「百合月亭」の同人誌を手渡されたところで、かえって迷惑したかもしれない。

 ていうか、仮に俺が彩花さんの同人誌を受け取ったとしても、それを織枝のところへ持ち帰ったら、どんな顔をされるかわからんな。

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