26:長いイベントが終わるとき

 まあ、あれこれ思い悩んでも、世の中に致し方のないことは沢山ある。

 挨拶回りの件のみならず、それは予期せぬ大抵の事柄に該当するだろう。


 例えば、売店の品揃えもそのひとつだ。

 いざ店頭に来てみると、昼食として適当そうな食料品は、ほぼ売り切れ状態だった。

 辛うじてカップ麺は残っていたけれど、まさかイベント会場内でお湯は使えない。

 どうやら正午前には、早々に本日の入荷分が尽きてしまったらしい。

 これは少々誤算だった。


 売店の隣では、織枝から聞いた通り食堂が営業している。

 けれど、ここで俺一人だけ、のんびり美味そうなものを食べていくのも気が引けた。


 なので仕方なく、二人分の缶飲料だけ購入した。

 自分の飲み物はスポーツドリンクで、織枝は無難にオレンジジュースだ。



 買い物を終えて、Bホールへ引き返す。

 道すがら、彩花さんが実妹について語った言葉を、俺は何となく思い出していた。


(――静葉ちゃんはあれでわりと寂しがりなのよ)


 織枝静葉は、寂しがり。

 その指摘が意味するところを、ちょっと咀嚼してみる。


 年頃の女の子が寂しがりである、というのは特別なことじゃない気がした。

 自分が何者かわからず、自己肯定感を素直に持てない……

 むしろ、そういった思春期女子は多かろう。


 そしてまた、彩花さんは実妹が「自発的にそういう立ち居振る舞いをしてるわけじゃない」とも言っていた。

 つまり、好きで地味な女の子で居るわけでも、目立ちたくなくて目立たないわけでもない、ということだよな。

 以前から察しては居たけど、やはり彩花さんも同じ見解だったらしい。

 これも考えてみれば、ごく普通のことだ。


 地味で平凡な生き方は、誰の嫉妬も受けず、馬鹿にされることもなく、とても安全だ。

 周囲と迎合して、みんなと同じものを同じように好きだと言っていれば、差し当たりようなこともない。

 だから、他人の目を気にして、目立たない立場を望む人間が居ることはわかる。


 でも本当は誰だって、世間の狭隘きょうあいな価値観に束縛されず、自由に生きたいはずじゃないか。

 いつだって好きなものを、胸を張って好きだと言い続けていたい。


 ……ただし、それが時として孤独な選択だということも、漠然とだが想像できる。


 それで織枝静葉は、「同好の士」を求めた。

 無情な世界で自由を求めても、孤立しないために。



 かつて黄昏時の海辺で、あの子は俺に家族の事情を打ち明けてくれた。

 それが心のどこかで、急な不安に駆られたからだったとすれば、どうだろう。


(――周りに私のことを知ってる人が、冴城くんの他に誰も居なかったから)


 織枝は、たしかにそう言っていた。

 あの日しがらみのない土地で、無邪気にはしゃぎながら――

 似通った孤独の恐怖を、我が「同好の士」は本能的に直感したのではないだろうか? 



     〇  〇  〇



 Bホールまで戻って来てみたけれど、場内の様子にあまり変化はなかった。

 辺りを行き来する人の数も、減りこそしていないが増えたようには見えない。

「百合月亭」の配置場所では、我が「同好の士」が物静かな雰囲気でイスに腰掛けている。

 俺がスペースを離れる前と、こちらもある意味で変わりなかった。


「すまん、けっこう待たせたよな」


 オレンジジュースを手渡しながら、謝罪する。

 何だかんだと、四、五〇分ぐらいは、席を外してしまった。

 しかし、織枝はちいさくかぶりを振って応じる。


「ううん。これぐらい、大したことはないけど」


「ところで――新刊の売れ行きはどうだ?」


 もう一脚のイスへ腰を下ろしながら、恐る恐るたずねてみる。


「売れたけど。一冊だけ」


「……そうか」


 俺は、スポーツドリンクのプルタブを起こして、ちょっと考えた。

 持ち込み二五部に対して、これで頒布数は二部。開場前に隣のサークルと新刊交換した本も二部。差し引き在庫は、二一部だ。

 Bホールを訪れた来場者の人数からすれば、この売上は妥当なのだろうか。


 そんなことを、密かに考えていると。

 サークルスペースの傍を歩いていた男性が一人、通路の真ん中付近で立ち止まった。

 手元のカタログを確認してから、こちら側を振り向いたように見えた。

 もしかして、「百合月亭」の本に興味を持った一般参加者か? 

 などと一瞬期待したものの、淡い願望はすぐさま滅失した。


 その男性が近付いたのは、「百合月亭」の隣にあたるスペース――

 イベント開場前、俺が新刊交換してもらったサークルの前だったからだ。


「隣のサークルさんは、たぶん今売れた本で、今日の頒布数が五冊目ぐらいだと思う」


 すぐ横で本が頒布されていく光景を見ていると、織枝が小声で教えてくれた。

 離席しているあいだに、隣の『ラブクル』サークルでは、俺たちの新刊より多い部数が来場者の手へ渡っていたようだ。



♪――

  「そんなの絶対に無理だよ」って

  引き止める声に 耳を塞いだ  ――♪



 イベント会場内には、この日何度目かの『夢の夜空のTwinkle』が流れている。



 それから、また三〇分ほど経過した。

 Bホール内を回遊する来場者は、入れ替わりこそすれ、やはり数に増減が感ぜられない。

 俺たちは、缶飲料の中身を微量ずつ口に含みながら、その有様を黙って眺めていることしかできなかった。


 その後も、特筆すべきような事態はなく、ただ刻々と時間だけが流れていく。

 何かしら気になった出来事と言えば、織枝が「お花を摘みに……」と言い残し、しばし手洗いに立ったぐらいだ。

 それが午後二時過ぎのこと。戻って来るまでは、一五~二〇分ほど待っただろうか。

 あとから織枝に聞いた話だと、センター内の化粧室は場所が分かり難かったらしい。


 そうして、午後二時半を回った頃、どうにか三冊目の本が売れた。

 手に取ってくれたのは、明らかに年下で中学生ぐらいの女の子だ。

 恥じらいながら代金を置いて、新刊を渡すと逃げるように去って行った。


 ……もっとも、それが俺たちのスペースで売れた、最後の同人誌だった。



 やがて、時刻は午後三時に差し掛かり――

 ついに午後三時半を過ぎた。


「そろそろ、片付ける準備をはじめましょうか」


 織枝は、イスから立ち上がり、穏やかな声でつぶやいた。

 周囲を見回すと、すでに他のサークルは撤収作業に取り掛かっている。

 会場内を歩く一般参加者の数は、明らかに一時間前より減少していた。


 もう、イベントの終了時刻が迫りつつあるのだ。


 合計頒布部数は、結局三冊。

 持ち込んだ新刊のうち、二〇部が在庫として残った。


「――わかった。そうしよう」


 俺は、同意を返事で示して、サークルスペース内を片付けはじめた。

 売れなかった同人誌は、ダンボール箱に他の荷物とまとめて、梱包し直さねばならない。

 長机の上に置いた展示用具も、最後まで飾り続けておく必要はない。そろそろ下ろして、収納すべきだ。敷物に使った布地は、本と一緒に入れておけば、緩衝材になるだろう。

 ……本当はもっと身軽になってから、帰り支度ができれば良かったんだろうけどな。


 その場でしゃがみ込み、鞄に入れて持ち帰るものと、宅配便で送るものを選別していく。

 すると、不意に隣から声を掛けられた。


「あの、お忙しいところすみませんけど……」


 顔を上げて、振り返ってみる。

 そこには、隣のスペースで同人誌を頒布していた、メガネの女性が立っていた。


「私、もう帰るので……その、今日はお疲れ様でした」


「あっ、はい。お疲れ様です。――ええと、一日ありがとうございました」


「いえ、こちらこそ……」


 一応、立って挨拶してから、会釈を交わす。

 メガネの女性は、俺が整理しているダンボール箱へ、ちらりと去り際に気の毒そうな視線を投げ掛けたように感じた。意識過剰な思い込みだろうか。


「今帰った女の人とは、さっき冴城くんが席を外しているときに少しお話したんだけど」


 織枝は、長机の上で、宅配便の伝票に宛名を記入しながら言った。


「隣のサークルさんが今日持ち込んだ本は、手荷物で一〇部だけだったんだって。――地方即売会では、一般もサークルも男性参加者が少ないし、ここは島中で、コミロケ直後の時期だから売れてもその程度だと思う、って言って……」


 そこまで静かに話し終えたところで、我が「同好の士」はペンを置く。

 書き込んだ内容をたしかめてから、伝票をこちらへ差し出してきた。

 俺は、「そうか」とだけ答え、受け取ってから再び屈み込んだ。

 ダンボール箱にガムテープで封をし、それを上蓋に貼り付ける。



 概ね荷物を詰め終えたところで、丁度時刻は午後四時になった。

 イベント終了を告げるアナウンスが、三階会議場内の全域に流れる。

 開場時より控え目な拍手が、ちらほらと各所で鳴った。



 ――俺たちが初めてサークル参加した即売会は、そんなふうにひっそりと幕を閉じた。




     〇  〇  〇



 笠霧コミュニティセンターを出たのは、午後四時半を過ぎた頃合だった。

 完全に撤収作業を済ませるまでは、閉場時刻以降も多少手間取ったからだ。宅配便の搬出手続きのため、指定の受付へ並ぶ必要もあった。


 そのあとは、適当に街中で食事して行くことになった。

 昼以降は缶飲料で水分補給しただけだったから、何か少し胃に入れておきたくなったのだ。

 ただし、もう夕飯との兼ね合いも考慮すべき時間帯なので、あまり重い食べ物は避けたい。

 手短に話し合ったところ、ファーストフードにしておこう、という結論になった。


 JR那塚陸上競技場から、電車に乗って笠霧駅前まで移動する。

 目指す場所は、「ねこブ」も入居している七階建てのビルだ。

 一階のバーガーショップを利用するのは、これで二度目になる。


 入店すると、カウンターでまとめて、二人分のメニューを頼んだ。

 俺はフィレオフィッシュ、織枝はトマトレタスのセットだ。

 注文の品が乗ったトレイを受け取り、窓際の席に差し向かいで座る。

 スマホで時刻をたしかめると、午後五時半を過ぎていた。


 俺と織枝は、どちらからともなく労いの言葉を交わす。

 互いにドリンクの蓋へストローを刺し、ハンバーガーの包みを開いた。



「……ところで、今日の売上金だけど」


 フィレオフィッシュに噛り付いていると、織枝が切り出してきた。


「新刊一部の頒布価格が五〇〇円で、実売数は三部。合計一五〇〇円――だから、冴城くんの取り分は、七五〇円ね」


 織枝は、本日の成果を、改めて説示した。

 そうして、手元のバッグを手で探り、ちいさなポーチを引っ張り出す。

 手提げ金庫の中の釣り銭と分けて、即売会終了時に売上金を入れておいたものだ。

 そこから硬貨をひと掴み取り出して、テーブルの上へ並べた。


「あと、これはさっきのジュース代……」


 さらに別途、織枝は自分の財布から出した小銭を、一緒に添えて差し出す。

 覚えてたのかよ。

 正直、これぐらいならおごりでも良かったんだが。

 相変わらず、律儀で生真面目なやつだ。


 とにかく合わせて全部で、目の前に置かれた硬貨は八八〇円分になった。

 一応、指で数えて確認してから、俺はそれをまとめて引き取る。



「――ごめんね」



 その直後、織枝がにわかに一言漏らした。

 小鳥のさえずりにも劣る、弱々しい声音だった。


 どうしたのか気になって、反射的に正面を眼差す。

 我が「同好の士」は、伏し目気味にうつむいて、暗い表情を覗かせていた。


「織枝が謝るようなことなんか、何もないだろ」


「……『どうして謝るのか』とは訊いてくれないのね」


 織枝は、やはり小声で、しかし鋭く指摘してきた。


「つまり、もう君は気付いてるんだ――私が最初から、自分たちの作る同人誌がちっとも売れないかもしれないって、見当を付けていたことに」

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