27:織枝静葉の信頼

 ほんの少しだけ、黙り込んでしまった。


 織枝の洞察が正しかったからだ。

 俺は、それとなく把握していた――

 おそらく、この子はずっと前から、今日の結末を予期していたのだということを。


 きっと「二人が作る同人誌は、それほど売れない」とわかっていながら、織枝は俺を同人活動に誘ったのだと思う。

 イベント申込時点では、さすがにそれが一〇部にも届かないとまでは、理解していなかっただろうけど(でなきゃ、持ち込み予定部数に五〇部だなんて記入しない)。


 なぜ、この子は当初、印刷代をすべて一人で引き受けようとしたのか。

 なぜ、原稿が遅れていたときにも、安易に助けを求めようとしなかったのか。

 その答えが、俺に対する「どうせ報われないのに、必要以上の負担や迷惑を掛けたくない」という心理から来ていたものだったとしたら、説明が付く。


 寂しがりの織枝静葉は、自らの志向する活動に不都合な現実を予測していた。

 けれど、「同好の士」を失いたくなくて、多くを語って来なかったのだろう。



 そして、イベント当選時に発せられた一言……


(――仮にお姉ちゃんと会場内で会ったりしなくたって、その――……)


 あの言葉に隠されていた含意は、何だったのか。

 織枝が抱える劣等感を念頭に置いて、今日イベント会場で見たものを思い出してみれば、それも概ね察することができた。


 イラストや漫画を描くことが達者な人間は、彩花さん以外にだって沢山居る。

 その中へ混ざれば、この子は「平均的な高校生よりも絵が上手い女の子」以上の、決して特別な何かじゃない。

 初めてネームを読ませてもらったときから、とっくにわかっていたはずじゃないか? 

 しかも織枝は初めての同人誌制作で、思うような原稿を描き上げられずに悔いていたんだ。



 だから今更、恨み言を告げるつもりなどない。


 俺と織枝は「同好の士」。

 誰の目で見ても技術的に優れ、頒布部数が稼げる本を作るつもりなら、この子だって最初からその点にこだわる必要はなかった。

 より多く本を売りたければ、売れるだけの技量がある人間を連れてきて、売れるジャンルのものを描けばいいだけだ。


 でも、それは同人誌のあるべき姿じゃないと思う。

 俺たちは、

 この結果は、それゆえ誰のせいでもない。

 そう考えたからこそ、この子を責めようとは考えなかった。



 ……ところが、このとき我が「同好の士」は、唐突に思い掛けない言葉を発した。


 それは、いささか虚を衝く質問であり、同時に微妙な誤解でもあった。



「――それで冴城くんは、彩花ちゃんに何か相談していたの? 同人誌のこととか、それとも同人活動自体のことだとか……」



 自分が咄嗟に驚きを隠し切れたとは、思えなかった。

 俺は、少し居住まいを正して、我が「同好の士」を見詰める。


 一応、厳密に言うなら――

 俺が彩花さんに相談を持ち掛けた意図は、おそらく織枝が想像しているそれと、本質的には異なっている。

 同人誌や同人活動自体について話が及んだのは、その過程上のことでしかない。


 だが、それはこの際、些細な取り違えだ。

 まずたしかめねばならないのは、なぜ俺と彩花さんの接点を、この子が知り得たのかという部分だろう。


「知っていたのか」


 俺が事実を認めると、織枝はゆっくり首肯した。


「昨日の夜、バイトで『翠梢館』に行ったら、叔父さん――店長から、その前の日に冴城くんがカフェスペースへ来て、彩花ちゃんと真剣そうに話し込んでいたって聞いたの」


 因果関係を知らされてみれば、どうという話じゃなかった。

 たしかに俺は、あの日「翠梢館」を訪ねた件に関して、彩花さん本人には口外しないで欲しいと頼んだ。たぶん、その約束は守られていると思う。

 しかし、そこへ思わぬ第三者が介入して、こちらの動向が間接的に伝わっていたわけだ。


 もっとも、織枝の言及は、これだけに止まらない。


「それから、今日のイベントで最初に新刊を買ってくれた人だけど」


 ドリンクをストローで一口飲んでから、我が「同好の士」は尚も続けた。


「あの人って、きっと彩花ちゃんの代理で、私たちの本を買いに来てたんでしょう」


「……なんで、そう思ったんだ」


「会場内を歩き回っている参加者で、手にカタログとお財布以外の荷物を持っていないのは、準備会のスタッフか、どこかのサークル関係者以外に考え難いと思う。そして、あの女の人は、開場前に巡回してきたスタッフさんみたいに、腕章を付けていなかったもの」


「だけど、それだけじゃ彩花さんの知り合いだなんてわからないだろ」


「ええ、もちろん。――だから、お手洗いへ行くために席を外したとき、戻って来る途中でAホールに寄ってみたの。きっと君が、売店で飲み物を買って来る前にしたのと、同じようにね」


 俺は、己の浅慮を認めないわけにはいくまい。

 正直なところ、この子を侮っていた。

 かつて織枝静葉は、一ヶ月半にも及んで、俺の素行を取り調べたことさえあったのだ。

 これぐらいの観察眼を発揮したところで、決して不思議じゃない女の子だった。


 Aホールを覗いた織枝は、自分の姉と共に居る美大生(確定)さんの姿を、遠巻きから視認したのだろう。たぶんそれによって、俺たちの同人誌が彩花さんの手に渡っていたのを、鋭敏に察知したに違いない。

 彩花さんが「百合月亭」の名前を知っていたことは、俺が一昨日「翠梢館」で接触していた件と照らせば、容易に連想できる。


 よって、結局のところ。

 織枝の語らなかった現実に俺が気付いていたのと、同じように――

 この子もまた、俺が打ち明けなかった事実に気付いていたわけだ。



「黙っていて、すまなかった」


 俺は、素直に謝った。

 これまでの経緯を翻ってみれば、他に何を告げるべきかが即座に考え付かなかった。


 織枝が自分の描いた本を、実姉たる彩花さんに読まれたくなかったのであろうことは、自明と思われる。この子が俺に告げた姉妹事情から類推すれば、ほぼ間違いない気がした。

 にもかかわらず、俺は彩花さんに「百合月亭」のサークル名を教えたのだ。

 それは結果として、我が「同好の士」を裏切ったことになるのかもしれない。


 けれど織枝は、またしても予想外の返事を寄越した。


「冴城くんが謝るようなことなんか、何もないでしょう」


 俺は、真意を測りかね、いささか困惑を覚えずには居られなかった。

 はっきりわかったことは、同じセリフでやり返されたらしい、ということだけだ。


「――たぶん冴城くんは、ちょっと思い違いをしてるんだと思う」


 我が「同好の士」は、すっと顔だけ横を向き、店の窓から屋外を眼差した。


「私と彩花ちゃんは、姉妹の仲が悪いわけじゃないの。海まで出掛けたときにも、同じようなことを言ったと思うけど」


「……でも彩花さんには、あまり同人誌のことを触れられたくないって……」


「うん。それは今だってそう。自分が描いたな絵を、彩花ちゃん――お姉ちゃんに見られるのは、やっぱり恥ずかしいもの。――だけど……」


 織枝の視線の先には、駅前の街並みが広がっている。徐々に周囲は薄暗く染まりはじめ、各所で電灯が輝きを増しつつあった。


「やっぱり嬉しかったの。私と冴城くんの作った本を、彩花ちゃんが読んでみたいと思ってくれたんだって知ったら。それもわざわざ、回りくどい方法で手に入れようとまでして……」


 街並みを眺める横顔だけから、織枝の心中を憶測するのは難しかった。

 そこにあるのは、たぶん言葉通りの羞恥や喜びだけじゃない。

 もっと多くの掬い切れぬ機微が、高い密度でせめぎ合っているかに見える。


「彩花ちゃん――お姉ちゃんは、きっと冷やかしなんかで、他の人が真剣に作った同人誌を欲しがったりしないから」


「……そうか……」


 それを聞いて、俺はやっとある事実に気が付いた。


 ――織枝姉妹のあいだには、元々第三者が想像する以上に深い結び付きがあったんだ。


 本当に今日は、自分の浅はかさに嫌気が差す。


 よくよく考えてもみろ。

 織枝家は、いつも両親が多忙だった。

 それで、彩花さんはたった一人の妹のことを、昔から何かと可愛がり続けてきた。

 姉妹二人で、アニメを視たり、漫画を読んだり。

 そうやって、ずっと一緒に過ごしてきたんだ。

 織枝静葉は、だから姉の影響を受けて、アニメが好きになった。

 彩花さんが居たからこそ、同人誌を作るようになった。

 それは、とっくにわかっていたことじゃないか! 


 そんな二人が心の奥では、どれだけ互いを思い遣っているか。

 もしこの子にとって、彩花さんが本気で顔を合わせたくもなく、友達との面識を作りたくもないような存在だとしたら。

 姉妹で共にバイトしている「翠梢館」を、同人活動の打ち合わせ場所にするのはおかしい。

 俺が漫画作業のアシスタントを申し出たときだって、自宅へ招き入れずに済むよう、断固として断っていたはずだ。



 つまり、実姉の人間性を、織枝静葉は誰よりもよく知っているし、信頼もしている。

 それゆえ同人誌の良し悪しが、必ずしも技術的な巧拙で決まるものじゃないことも、我が「同好の士」はしっかり承知していて――

 彩花さんが、自分たちの同人誌を欲しがった意味も、ちゃんと理解したのだろう。


 ここへ至ってみれば、なんてことはない。

 ちょっとこの一ヶ月半ぐらい親しくなっただけの俺なんかが、あれこれヤキモキする必要なんぞ、実は根本的に何もありゃしなかったんじゃないか? 


 ……などと、そんなふうに結論付けようとしたのだが。

 不意に我が「同好の士」は、三度みたび意外な言葉を紡いだ。



「――私たちの新刊を、彩花ちゃんが手に取ってくれたのは、冴城くんのおかげね」


 織枝は、窓の外へ向けていた瞼をいったん伏せ、こちらへ向き直ってから再び開いた。

 あの吸い込まれそうな瞳が、真っ直ぐ俺を眼差してくる。

 それにやや気後れめいたものを感じて、思わず少し怯んだ。


「……なんで、そういう話になるんだ」


「だって、彩花ちゃんが『百合月亭』のことを知ったのは、冴城くんが『翠梢館』を訪ねて、相談を持ち掛けたからでしょう」


「それは、たしかにそうかもしれないが」


 単なる結果論でしかない、と思う。

 むしろ、彩花さんが「百合月亭」の本を手に取ることで、おまえが傷付いたりするんじゃないか――なんて、俺は余計な心配をしていたぐらいだ。

 いましがたまで姉妹二人の潜在的な結び付きすら、正確には把握していなかったんだから。


 そう反論しようとしたのだが、織枝は遮るように先を続けた。


「たぶん冴城くんは、まだもうひとつ、思い違いをしていることがあると思う」


「はあ? どういうことだよ」


「あのね。私はもう、君のことを、ちゃんと信頼しているの。……少なくとも、彩花ちゃんと同じぐらいには」


 我が「同好の士」は、僅かに掠れた声音で言った。


「だから、冴城くんが彩花ちゃんと相談していたことだって、それがどんな内容だったのかわからないけど――きっと、『百合月亭』のためを考えて、話し合ってくれたんだと思う。これまでそれを隠していたのも、私に気を遣っていてくれただけで」


「……馬鹿言え。とんだ買い被りだぞ、それは」


「ううん、そんなことないもの。冴城くんは、これまでいつだって、私が困っているときに助けてくれたから」


 ちいさくかぶりを振って、織枝は請け合う。

 口調も仕草も、やっぱり真面目腐っていた。



「そう。冴城くんの隠し事は、私のためだった。……それなのに、私は。どうしても、君と同人誌を、最後まで一緒に作りたくて、それで――……」


 織枝は、そこで言葉が詰まって、また僅かにうなだれる。

 細い左右の肩が、かすかに震えたようだった。



 そんな織枝の姿を見て、俺は次に何を語り掛けるべきか、迷いを感じていた。

 どうすれば、それでも織枝は謝罪する必要なんかないんだと、納得させてやれるのか。

 しかし適切な言葉が見付からず、口を噤むしかない。


 そのまま、一〇秒が過ぎ……、二〇秒が過ぎ……

 テーブルを挟んで、二人のあいだに重苦しい沈黙が生まれかけた。




 ――そのとき。


 突如として、どこからか軽快なメロディが聞こえてきた。


 一瞬、何事かと思ったのだが、すぐにそれが着信音だと理解した。

 織枝がバッグの中から、スマートフォンを取り出したからだ。



「……短文投稿サイトツイッターの通知みたい」


 手元の液晶を眺めて、ぽつりと織枝はつぶやいた。

 それから、利き手の指で画面を操作する。


 何度かタップの動作を繰り返して――

 不意に、黒く吸い込まれそうな瞳が、一際大きく見開かれた。

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