28:夜空にきらめく光の下で

 我が「同好の士」の顔には、明らかな動揺が見て取れる。

 あたかも、未知なるものに触れたかのようだ。


 その原因は、何なのか。

 衝動的にたしかめたくなって、俺も自分のスマホを取り出した。

 スリープ状態から復帰させると、画面に表示された時刻は午後六時過ぎ。

 即売会の終了から、気付けば二時間半以上が経過している。

 ブラウザアプリを起動して、短文投稿サイトツイッターを開いた。

 織枝のホームへ飛べば、TLタイムラインのやり取りを追えるはずだ。



 そうして。


 そこで、俺はたしかに見た――……



――――――――――――――――――――――


【 ※※※ 】@****_**** 3分前

 @hiba_yuriko 葉月さん初めまして! 今日

 イベントで頒布された新刊、拝読させて頂き

 ました。すごく良かったです!

   返信:0 RT:0 いいね:0


【 ※※※ 】@****_**** 2分前

 @hiba_yuriko 葉月さんのお描きになる京ち

 ゃんと希子ちゃんが、本当にとても可愛くて

 ……!

   返信:0 RT:0 いいね:0


【 ※※※ 】@****_**** たった今

 一緒に活動なさっているゆうやさんが考えた

 お話も、とても素敵でした! 私もアニメで

 壁ドンの話を視て以来、きょうきこが恋人士

 士にしか思えませんw

   返信:0 RT:0 いいね:0


――――――――――――――――――――――



 たっぷり一〇秒以上、液晶画面を凝視していたと思う。

 俺は、やっとのことで、喉の奥から声を絞り出した。


「新刊の、感想だ……」


 顔を上げて、正面を眼差す。

 差し向かいの席では、まだ我が「同好の士」が両手でスマホを持ったまま、呆然と身体を硬直させていた。

 ああ、そうなってしまう気持ちも、よくわかる。

 俺だって、自分の鼓動が胸から聞こえてきそうだからな。


「――返信しなきゃ」


 さらにもう何秒か置いてから、織枝はスマホを改めて操作し出した。

 フリック入力で、せわしく文字を入力していく。

 ほどなく打ち込んだ短文が投稿され、それがTLにも反映された。

 すると、もう一度返信が飛んでくる。



――――――――――――――――――――――


【 ※※※ 】@****_**** たった今

 @hiba_yuriko わあ、お返事ありがとうござ

 います! また百合月亭さんで同人誌を出す

 ことがあったら、是非チェックさせて頂きま

 すね。頑張ってください!

   返信:0 RT:0 いいね:0


――――――――――――――――――――――



 感想を送ってきた相手は、どうやら女の子みたいだった。

 午後二時半頃、三冊目の本を買ってくれたあの子だろうか。

 あのあとイベント会場から帰宅し、俺と織枝が作った新刊を読んだに違いない。

 それで、同人誌の奥付を見て、短文投稿サイトに登録していることを知ったんだ。アカウント名とユーザーIDを、ちゃんと載せておいたからな。


 でもまさか、こんな感想を送ってもらえるとは、想像もしていなかった。

 しかも即売会終了から、それほど時間も経たないうちに――

 いったい俺たちの同人誌を、どんなにか喜んでくれたのだろう。

 ツイートから、読んでくれた子の熱が伝わって来る。



「なあ、やったぞ織枝」


 俺は、自分の体温が、少しだけ上昇しているのを感じていた。


「二人で作った同人誌に、どこかの誰かから感想がもらえたんだ。――いいか、世界中で、俺たちだけがもらうことのできた感想だぞ……」


 そんなふうに声を掛けると、織枝はこちらを黙って見詰め返した。

 何か言おうとしたものの、上手く声にならないみたいだ。


 このとき俺は、とても単純だけれど――

 今の二人にとって一番大切なことを、ようやくたしかめることができた。



「やっぱり、おまえと一緒に同人誌を作って良かった」




     〇  〇  〇



 そのあとは、二人で言葉少なに残りのハンバーガーを食べた。

 すでに包装を開けて多少時間が過ぎていたから、やや食感はパサついていた気がする。


 ファーストフード店を出て、時刻を見ると午後六時半を過ぎていた。

 JR笠霧駅から電車に乗り込み、翠ヶ丘へ戻る。

 地元に着くと、もう周囲はすっかり夜闇に包まれていた。まだ空気は生温いけど、肌を優しく撫でる微風が心地良い。

 念のため、織枝のことは家まで送ってやることにした。

 一緒に夜道を歩くのは、糸乃崎海岸の帰路以来だった。


 翠ヶ丘駅前から、バスで美咲二条二丁目まで移動する。

 降車後は、二人で並んで、幅広の市道を歩く。

 付近を通り掛かるものは、俺たち以外に人も車も見当たらない。

 住宅街も近いのに、案外物寂しい雰囲気だった。


 ほどなく路程の途中で、「羽舞橋」にたどり着く。

 そうして、コンクリート橋梁の中程へ差し掛かったとき――

 にわかに遠方から、何かが弾けるような、乾いた物音が聞こえてきた。


 俺と織枝は、ちょっとその場で立ち止まって、互いに顔を見合わせる。

 物音が聞こえたのは、橋が架けられた河川の下流側だ。

 好奇心にうながされるまま、欄干らんかんの傍へ寄って、暗闇の先に目を凝らす。


 物音の正体は、すぐにわかった。



「――花火だね」



 夜空を見詰めながら、織枝がそっと囁いた。


 遠く離れた漆黒のおおぞらで、色鮮やかな光の花が咲いている。

 赤、青、黄、緑、オレンジ……

 彩り豊かな閃光が、代わる代わる瞬いて、尾を引きながら散っていく。

 何発も、何発も、打ち上がってはすぐ消える。


 その有様を見て、俺は今更のようにローカルな花火大会があったことを思い出した。

 地元地域の花火大会は、まさに今夜、即売会と同じ日に催されていたんだった。


 当然、打ち上げ場所は、ここからかなり隔たったところだ。

 なので、ほとんど音には迫力もないし、輝く光もやや淡い。

 夜闇を挟んで、ただ彼方に眺めるだけ。

 けれど、それでも我が「同好の士」は、遠い光景に吸い付くような視線を注いでいた。


「本当に、綺麗……」


 俺は、隣に立つ織枝を、ちらりと目だけで盗み見る。

 そこに見て取れたのは、とても優しい面差しだ。


 その横顔と、夜空の花火を見比べるうち、急にこの夏の出来事が思い返された。

 この子と知り合ってから、本当に毎日が恐ろしい速度で駆け抜けていった気がする。


 一緒に同人誌を作ると約束して、「翠梢館」や図書室で打ち合わせした。

 同人ショップへ出掛けたり、糸乃崎海岸まで遠出してみたりした。

 プロットやネームで悩んで、〆切に追われながら、頑張って原稿を描いた。

 それから、ついに今日は同人誌即売会に、初めてサークル参加して……

 高校生活最初の夏休みも、残り二週間足らずになった。


 俺と織枝にとって、かけがえのない夏が過ぎていく。

 たった三冊しか、他の誰かの手に渡らなかった同人誌と共に。

 それは、必ずしも報われたとは言えぬ努力と、そのために費やされたものの記憶だ。

 儚く消える花火のように、届かぬ理想へ手を伸ばす日々。


 ――あと少しで、それも終わってしまうのかもしれない。

 そんな想いが、いきなり込み上げてきた。



「あのさ、織枝」


 そして、俺は気が付くと、ごく自然に我が「同好の士」へ声を掛けていた。


「俺と一緒に、また二人で同人誌を作ろう」



 河川の下流域で、今までより大きい花火が打ち上がった。

 きらきらと夜空に光彩が舞って、しかしやっぱり溶けてしまう。


 織枝は、いったんうつむき、瞑想的な仕草を見せた。

 けれど数秒置いてから、こちらを緩慢な動作で振り返る。

 俺も倣って、真っ直ぐ向き合った。


「また、一緒に本を作ったとしても」


 織枝は、とても息苦しそうな声音で言った。


「きっと、売れ残っちゃうと思う」


「たしかに、そうかもしれない」


「一冊作るだけでもわりと大変だって、もうわかっているでしょう」


 もちろん、わかっているさ。

 でも、俺がわかっていることは、それだけじゃない。



「おまえだって、もういっぺん同人誌が作りたいんだろ?」


 問い掛けると、織枝はくしゃっと顔を歪めて、こちらを睨み付けてきた。

 とても恨めしそうだけど、いとおしくなるような目つきだった。


 ああ、我ながら、この子の癪に障ることを訊いているなと思う。

 もはや答えは、たずねるまでもない。

 織枝は、ただ俺に遠慮して、本音を言い出せなかっただけなんだ。

 そんなわかり切ったことを、あえて同意を求めて質問した。

 卑怯者と誹謗されても、抗弁する術は持たない。


 しかし我が「同好の士」は、いささか婉曲的なやり方で反撃してきた。


「……元は全部、私のままではじまったことなのに。どうして――」


 いつもの吸い付くような視線が、俺を正面から射すくめる。

 織枝の引力を帯びた瞳は、じわりと滲んで、殊更黒目がちに見えた。



「どうして、そこまでしてくれるの?」



 ……どうして、だって? 


 そんなの、答えは決まってる。

 でも、正直に理由を話すには、尚僅かな躊躇が胸の片隅にあった。


 ――この子が必要としているのは、あくまで「同好の士」としての冴城侑也なんじゃないか。


 かつて俺は、こうした考えからずっと離れられなかったからだ。

 もし、その洞察が正しくて、無暗に本心を明かせばどうなるか。

 この子に迷惑がられるか、不審がられるかもしれない。

 それは俺にとって、絶対に望ましい事態じゃなかったんだ。


 しかし、今にしてやっと。

 こちらの伝えたい言葉と、織枝の聞きたがっている言葉とが、一致していたのだとわかる。

 だから、ついに俺は我が身を奮い立たせ――

 二人のためにどうしても必要な一言を、打ち明けた。



「……おまえのことが、好きだからだよ」



 まだ蒸し暑い、八月下旬の夜なのに。

 喉の奥が少し乾燥して、痛みさえ感じる。


 ――そう、俺は好きなんだ、織枝静葉って女の子のことが。

 たぶん七月の初め、同人誌作りに誘われたときから。

 あの時点で、すでにこの子の魅力に惹かれていたのだと思う。


 偽装交際を打診されたのを即座に断ったのだって、この子を自分が本気で好きになりそうな予感がしていたからなんだ。

「同人活動をしているあいだは、恋人同士でもいい」だなんて、納得できやしない。

 それじゃ、同人活動が終わった途端にお別れじゃないか。


 俺はおまえと、もっといつまでだって一緒に居たいんだよ。

 たとえ、そこに報いがなく、ただ多くのものを浪費するだけの結末が待っているとしても! 



 かくして、必死に想いを告げたあと――

 俺は、信じ難い緊張感を覚えて、全身を強張らせていた。

 そのまま、永遠にも等しい何秒かが過ぎる。


 だがほどなく、不意に温かいものが、自分の胸部に触れるのを感じた。

 気付くと、左右の腕のあいだに、華奢な女の子の身体が納まっている。

 織枝が、自ら身を委ねて、俺に抱き着いているのだった。


「――お、織枝……」


 驚きの余り、つい情けない声が出てしまう。

 すると、織枝は俺の胸に顔を埋めたまま、駄々を捏ねるようにかぶりを振った。


「……しずは」


 揺れるポニーテールから、かすかに甘い香りが漂うのを感じた。


「静葉って、呼んで。侑也くん」


「……し、静葉……」


 うながされて、もうただ素直に従うしかなかった。

 頭が少しくらくらする。

 いったい、何が起こっているのか。

 目まぐるしい状況の変化に、思考が追い付かない。

 何とか俺は、懸命に己を落ち着かせようと試みる。

 けれど、それもすぐ無駄な努力に終わった。


 次は自分の唇に、柔らかいものが押し付けられてきたからだ。

 俺は、息が止まるんじゃないかという錯覚に襲われた。

 目の前には、瞼を閉じた織枝の顔がある。

 もう、二人のあいだを隔てる距離はなかった。


 つまり、俺と織枝は、キスしている。


 まるで夢の中の出来事みたいで、ぼうっとして現実感がない。

 織枝は、俺の首に両手を回し、「ん、んっ……」と、つま先立ちながら、ぎこちない吐息を漏らしている。

 さらに五、六秒ほど経ってから、可愛らしい顔がゆっくりと離れた。



「……私も、侑也くんが好き」


 織枝は――

 いや、静葉は、泣きそうな声で、ようやく俺の告白に返事した。


「好き、好きなの。大好き――……」



 互いの目と目が合わさる。

 俺は、感激して、何か言おうとしたけれど、結局中断した。

 もう一度、静葉が瞳を伏せて、キスをねだってきたからだ。

 それで、今度はこちらから抱き締めて、唇を重ねた。


 遠く離れた夜空では、花火がいっそう華やかに閃いているのだろう。

 連続で打ち上げられ、中空で火薬の弾ける音が、ここまで響いて聞こえてくる。

 しかし、俺とこの子が見ているものは、いまやもっと近くにあるものだけだ。



 そのまま、二人で抱き合いながら――

 互いに一生懸命、相手の名前を何度も呼び合った。

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