第四章【二人で作った薄い本】
18:〆切を乗り越えて
――糸乃崎海岸の小遠征から、地元に無事帰還したあと。
七月二七日から二九日にかけての三日間、俺と織枝が互いに顔を合わせることはなかった。
何たって二七日(金曜日)は、疲労が祟って、起床時刻は正午過ぎだった。
しかも織枝には、夕方からバイトのシフトが入っていたのだ。
「今日は、あまり時間に余裕がない」との判断から、作業で集まるのは中止になった。
そして二八日(土曜日)は、予備校の模試前日である。
いくら単なる力試しとはいえ、さすがに俺も一日ぐらいは試験対策の必要があった。
さらに二九日(日曜日)が、模試当日。
手応えは、正直イマイチよくわからなかった。
まあ高校一年生の夏じゃ、余程の優等生じゃない限り、こんなものかなという気もする。
ただ、直接会っていないあいだも、メッセージアプリで原稿作業の進捗については、織枝と確認のやり取りがあった。
____________
〔 二本目の八ページ漫画 〕
〔 もネーム終わったよ。 〕
〔 あと、カラー表紙のラ 〕
〔 フ画も描いた 〕
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
そんな連絡がスマホにあったのは、二九日の夕方。
PC側には、その日のうちにメールでネームのJPEG画像が送られてきた。
その後メッセージで、二、三箇所細部の修正が検討されたものの、いよいよ二本目の漫画も構想が固まった。四コマ漫画以外の内容は、概ね出揃ったわけだ。
これで残りは、ほぼ原稿自体を執筆していく作業だけになった。
……そうなるはずだった。
ところが、ここで予期せぬ展開が待ち受けていた。
織枝が驚くべき意思を表明してきたのである。
「一六ページ漫画の絵、描き直したい……」
俺は、思わず目を剥き、唖然とせざるを得なかった。
一六ページ漫画は、ペン入れまで済ませた原稿がやっと全部揃ったばかりじゃないか。
その上、〆切日は八月六日。あと一週間後に迫っている。
たじろいでいると、織枝は修正作業の必要性を強調してきた。
「少し前から気になってたんだけど、最初の頃に描いたページと、今描いてるページで、私の絵のタッチが微妙に変化してるの。このままだと、一冊の本になったときに前半と後半のページで、作画の
「ちょ、ちょっと待て織枝。手直しするったって、もういくらも時間はないぞ」
「〆切はちゃんと守るよ。冴城くんにも迷惑掛けたりしない。……でも絶対、前半のページは描き直さなきゃ駄目だと思う」
織枝の態度は、とても頑なだった。
「たとえ徹夜し続けてでも、自分で納得できるまで修正するつもり」
「馬鹿言え。そんな真似して、体調崩したりしたらどうするんだ!」
無茶な主張を看過できず、俺はつい声を荒げてしまう。
我が「同好の士」の心情は、決して理解できないわけじゃなかった。
むしろ、より良い同人誌を作りたい、というこだわりには好感を覚える。
でもだからって、健康を害するようなやり方には、安易に賛成できない。
このとき、二人のあいだに強い緊張が走った。
一緒に本を作るようになってから、たぶん初めての対立だった。
「……前半のページ、どうやってでも絶対に描き直すから」
織枝は、あくまで意地を張る。
黒い瞳が吸い付くような視線で、頑固に睨み付けてきた。
かつてこの子が俺を同人活動に勧誘した際と、皮肉にも同じ目つきだ。
こうなったら、もう手が付けられない。
「そこまで言うなら、勝手にしろ」
だから俺は、苦々しく言って、説得を諦めるしかなかった。
こうして七月三〇日(月曜日)から、織枝の強行軍がはじまった。
ひたすらPCの液晶画面を見詰め、原稿作業を進める日々が続く。
互いに主張を譲らなかったせいで、二人で居ると空気がやや重い。
とはいえ、たとえ意見に溝を感じても、作業を放り投げるわけにはいかなかった。
ここまで来て同人誌を完成させられなかったら、苦労が全部無駄になってしまう。
織枝は、どうやら深夜に一人で修正作業を行っているらしかった。
少なくとも、俺が手伝っているときには、今まで通りに原稿を描き進めている。
なので差し当たり、進捗状況自体は後戻りするようなことがなかった。
その代わり、日に日に織枝の顔には疲労の色が増していて、どう見ても睡眠不足みたいだったけれども。
月が替わって八月一日の午後には、八ページ漫画の下描きとペン入れが一通り終了し、翌二日の夜に四コマ漫画のページも完成した。
俺が担当している仕上げ作業も、七月中に一本目漫画の一六ページ分を(織枝が修正を加えた箇所を除けば)完了した。
ようやく、ゴールが見えはじめてきた。
織枝は表紙カラー原稿の彩色作業に入り、俺は八ページ漫画の仕上げに黙々と取り組んだ。
ちなみに、以前に織枝から聞かされた言葉――
「水着のキャラは、作画の負担が少ない」
というのは、どうやら真実だったらしい。
以後の作業は、一六ページ漫画の仕上げよりもずっと捗った。
おかげで、テキスト関連ページの文章を埋めたり、イラストカットを用意したり……
などなどの細かい雑務も、何とか並行して処理することができた。
そうして、八月五日(日曜日)の〆切前日。
ついに俺は、漫画原稿のベタ塗りやトーン貼りを、ひと通り終わらせた。
四コマ漫画やイラストコラムなどと合わせて、白黒本文三二ページ分が揃ったわけだ。
もっとも、漫画のセリフやノンブル(ページ通し番号)をPC上で入れたり、原稿サイズやトンボの位置を確認して、台割と照合する作業には、翌日の昼頃まで追われ続けたのだが。
一方の織枝は、本当に〆切ギリギリまでカラー原稿や修正作業と格闘していた。
机の隅には、栄養ドリンクの空き瓶が何本もまとめて置かれている。
眠そうな目を必死に見開く有様を見ていると、やはり無茶を
……しかし、懸命に意志を貫こうとする姿には、俺も密かに心動かされずに居られなかった。
織枝は、そのとき他のどんな女の子よりも美しく、きらめいて見えていたからだ。
まあだからって、当然そんな所感を口に出したりはしないけど。織枝に知られたら、原稿の修正作業を暗に肯定したと取られかねないからな。おまけに恥ずかしいし。
結局、すべての作業が終了したのは、八月六日(月曜日)の午後二時五〇分だった。
オンラインによる入稿〆切は、同日午後三時半。
すべての原稿画像ファイルを集め、規定の形式で保存する。
ブラウザで印刷所のWebサイトを立ち上げると、手続きページへ飛んだ。事前にメールで連絡を受けていたサーバーの画面から、指示通り順番にファイルをアップロードしていく。
ほどなく印刷所からの通知がPCに届いて、原稿の受領が確認された。
「……終わったみたい」
マウスを操作する手を止めて、織枝がつぶやく。
――終わった。
そう、俺たちの描いた同人誌の原稿が、たった今入稿を完了したのだ。
オンラインでの原稿送信は、ほんの三分足らずの出来事だった。
「そうか。これで、あの原稿が本になるんだな」
「ええ。途中で、事故や手違いがなければ……」
織枝は、少し掠れた声で請け合う。
と、同時にうつむき、おもむろに片手で自分の額を押さえた。
肩を緩く上下させ、僅かに吐く呼気が荒い。
おやっと思って顔を覗き込むと、どこか虚ろな目をしていた。
「おい、大丈夫か織枝」
心配になって、声を掛けてみる。
織枝は、気だるさを押し隠すような所作で、こちらを振り返った。
「だ、大丈夫……入稿が済んで、ちょっと気が抜けちゃっただけだから」
取り繕うように答え、気丈に振る舞おうとする。
そうして、織枝はPCをシャットダウンさせ、椅子から腰を上げると――
急によろめき、その場で崩れ落ちそうになった。
俺は、反射的に抱き留め、我が「同好の士」を支えてやる。
思い掛けなく華奢な身体に触れて、びっくりしてしまった。
織枝の肌から、部屋着越しに高熱が伝わってくる。
なのに手足はかすかに震えて、額や頬が赤かった。
――織枝は、明らかに風邪を引いていた。
〇 〇 〇
原稿の作業場が織枝自身の部屋だったのは、不幸中の幸いというべきだろうか。
おかげでベッドが傍にあって、我が「同好の士」をすぐに寝かせることができた。
まずはしっかり休むべきだ。
俺は、織枝から常備薬の置き場所を聞き出すと、部屋を出て一階へ下りた。
今日も家の中には、織枝自身の他に俺しか居ない。リビングは静かだった。
ソファの近くに設えられた棚を探ると、薬箱は簡単に見付かった。錠剤の瓶を取り出し、キッチンで水を注いだコップを用意して、二階まで引き返す。
織枝の部屋のドアは、出て来た際に開け放ったままにしてあった。
両手がコップと薬で塞がっていても、室内へ戻るのに都合がいいからだ。
それゆえ再度入室するにあたって、ドアをノックしなかったのは不可抗力だった。
「おい織枝、薬を取って来たぞ。言われた通りリビングの棚に――」
俺は、部屋の中へ踏み入って、思わず直後に絶句した。
視界に突然、白く曲線的な、艶めかしいものが飛び込んできたからだ。
それは、織枝の裸身だった。
我が「同好の士」は、僅かに下着のみを着用した姿で、素肌を曝している。
ベッドの上で、パジャマに着替えようとしている最中みたいだった。
「す、すまん! 着替え中だと思ってなかったッ」
急いで踵を返し、いったん部屋の外に出る。
少しだけ待つと、「……もういいよ、冴城くん」という織枝の声が聞こえてきた。
許可を得たので、改めて室内へ引き返す。
我が「同好の士」は、すでにパジャマ姿になっていた。
俺は、自分の落ち度を、素直に詫びるしかなかった。
「その、本当に悪かった。許してくれ」
傍らまで歩み寄って、薬とコップの水を渡す。
錠剤を嚥下すると、織枝は改めて横になった。
「……謝らなくてもいいよ。たまたまだってのはわかるし」
「お、おう。そう言ってもらえると、俺としては助かるが」
「それに素肌だったら――海へ行ったとき、もう同じぐらい、見られちゃってる、から」
織枝は、布団の中から、途切れ途切れの口調でつぶやいた。
……海辺で見た裸身がぼんやりと思い出され、かえって妙な気分になってくる。
肌を覆う布である点に関して、水着と下着の差異はどの程度あるのだろうか。
そんな命題に思いを致していると、逆に我が「同好の士」から謝罪されてしまった。
「あと、謝らなくちゃいけないのは、私の方だと思う……」
「織枝が謝るって、何のことだよ」
「原稿作業のこと。冴城くんの言うこと聞かないで、ずっと徹夜で、描き直ししてたから。――迷惑掛けない、って言ったのに。看病させちゃって……」
そう言えば、さっきまでお互い意地を張り合っていたんだったな。
入稿を済ませて、織枝が倒れたら、それどころじゃなくなってた。
ただ一方で、そんなふうに詫びられると、今更ながら密かにほっとしてしまう。
〆切前の一週間、二人のあいだでギクシャクしていた空気を、織枝も快くは思ってなかったんだろうな。
なので、俺はこれ以上拘泥しないことにした。
「もう気にするなよ、そんなこと」
「……ほんとに?」
「ああ、本当だよ」
「私のこと、嫌いにならないでくれる……?」
「嫌いになるわけなんかないだろ。だって――」
縋るような視線を向けられ、俺は危うく余計なことを言いそうになった。
それを寸前のところで思い止まり、別の表現に置き換えて誤魔化す。
「……『同好の士』なんだからな、俺と織枝は」
その言葉を聞くと、織枝は「そう……。よかった」と、小声でつぶやいた。
しかし表情はやはり曇っていて、まだ何か鬱屈を抱えているようにも見える。
そんな有様が多少引っ掛かったけれど、病人を殊更追及する気にもなれない。
我が「同好の士」は、瞼を伏せると、しばらくして静かな寝息を立てはじめた。
薬が効いてきたのだろう。
とりあえず、このまま夜まで傍に居てやることにした。
いずれ彩花さんもバイトが終わって、帰宅するはずだ。
そうしたら、事情を説明して、看病を代わってもらえばいい。
ひょっとすると織枝は、実姉の世話になるのを嫌がるかもしれないが……
この際、背に腹は代えられないよな。
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