16:黄昏時と彼女のヒミツ(前)

 その答えを受け取って、織枝は何を思ったのだろう。


 直後の数秒、二人は無言で向き合った。

 周囲では、相変わらず『ラブハニ』の主題歌が流れ、他の海水浴客が楽しげに夏の一日を過ごしている。

 浜辺には、どこまでも陽気で、華やいだ空気が漂っていた。


 ――その只中で、やがて織枝は、意を決したように顔を上げた。

 パーカーのファスナーを、右手でゆっくりと下ろしはじめる。


 ジジジジジ……

 と、かすかな物音と共に、織枝の上半身を覆う着衣は、正面から左右へ開かれていく。

 それに従って、下に隠れていた水着と素肌が、徐々に陽光に晒されはじめた。

 だが途中、金具が引っ掛かったのか、ちょっと手の動作が止まる。


「……んっ……」


 織枝は、かすかに眉根を寄せて、悩ましげな吐息を漏らした。

 それから一拍挟んで、具合が戻ったのか、再びファスナーが下ろされる。

 そこに生まれた谷間には、白く、豊かな二つの膨らみが納められていた。

 やばい。想像以上にデカい……。ふわっふわじゃねーか。

 しかも、現れた双丘にぴたりと張り付く水着は、青と白のビキニである。


 俺は、反射的に身構え、やや彼我の間合いを取った。

 まさか織枝のやつ、ここまでのお色気モンスターだったとは……! 


 戦慄の余り、警戒心から対象を注視せざるを得ない。つまりガン見。

 すると眼前の怪物は、いまやすっかりパーカーを脱ぎ捨てて、こちらを微妙な上目遣いで眼差してきた。


「……わ、私――ヘンじゃ、ない……?」


 ビキニにパレオを巻いた姿で、織枝は居心地悪そうに身体を捩る。

 その凶悪な可愛らしさには、一分の隙も見当たらない。

 だから、咄嗟に思ったままの言葉を伝えてしまった。


「す、凄くいい、と思うぞ」


 端的だが、それだけに虚心な感想だったと思う。


 織枝は、恨めしげな面差しで、俺を真正面から睨み付けた。



「……冴城くんの、えっち」



     ○  ○  ○




 さてはて、すったもんだはあったものの。

 織枝が水着を披露するに及び、ようやく海辺における活動が先へ進んだ。

 すなわち、同人誌制作に有用な作画資料を得るため、「漫画の海水浴シーンを想定した画像を、デジカメで撮影する」行為に至ったわけである。

 ……ただし、改めて確認するけれど、それは所詮建前上の目的だ。


 このあとの何時間か、俺と織枝は夏の糸乃崎海岸をたっぷり満喫した。

「アニメ劇中の場面再現」にかこつけて、海の中で、砂の上で――

 もうまるっきり、ちいさな子供みたいにはしゃぎまくった。


 浮き輪で波間を漂ってみたり。

 連射式水鉄砲ウォーターガンで撃ち合いしてみたり。

 浜辺にやたらと凝った砂の城を建造してみたり。

 ビーチバレーもどきの遊びに白熱してみたり……


 最初は恥ずかしがって、多少遠慮がちだった我が「同好の士」も、次第に興が乗ってきて、無邪気な声で笑ってくれるようになった。

 水着のことなんて、気にするのも馬鹿馬鹿しくなったのだろう。



 もっとも、楽しい時間は、瞬く間に過ぎてしまう。

 二人で騒ぎ続けるうちに、陽は水平線の彼方でたちまち傾いた。

 海と言わず空と言わず、見渡す限り世界のすべてが、赤や黄色に染まっていく。

 すでに周囲では、他の海水浴客の姿が疎らになっていた。


「……結局、後半は作画資料集めとか関係なく、普通に遊んでただけになっちゃったね」


 織枝は、砂浜に腰を下ろして、膝を抱えながら言った。

 夕陽で輝く海面を、少し眩しそうに見詰めている。


「まあ、たまにはそれもいいだろ。元々、原稿中の息抜きも兼ねていたんだし」


 砂の上へ並んで座り、俺も一緒に海を眺めた。


「それに、アニメの聖地巡礼にもなったじゃないか。同人作家である以前に、俺もおまえも『ラブハニ』ファンだろ。それを考えれば、有意義な一日だったんじゃないか」


「それは、たしかにそうなんだけど……」


 両膝のあいだに口元を埋めて、織枝は心許こころもとなそうに声を漏らす。


「実際に〆切前に遊んでみると、学校の試験前にテレビゲームをしてるような気分だから」


「……それこそ期末考査前日に、『ねこブ』で嬉々として同人誌買ってるやつが言うセリフじゃねーだろ」


 思わず呆れて、ツッコミ入れないわけにはいかなかった。


 織枝は、ちょっぴり拗ねたようにまぶたを伏せ、

「うー……。もちろん、それもわかってるけど……」

 と、つぶやく。

 そんなふうに矛盾して、子供じみた葛藤も、性根は真面目なこの子らしいと言うべきか。



「何にしても、もう夕方だなんて」


 深い溜め息を吐いてから、やがて織枝は顔を上げた。

 かすかな暖色を帯びた表情には、ひと時の楽園を去り、元居た世界へ引き返そうとする者に特有の哀愁がある。

 その寂しげな横顔から、俺は何となく目が離せずに居た。


 ……まさにそのとき。

 織枝は、口唇の隙間から、ふっと思い掛けない言葉を発した。



「……家に帰ったら、晩御飯はどうしようかな……」



 そう、それは本当に、ごくありふれた日常の中で使われる一言だ。

 けれど、俺はちょっとした違和感を覚え、妙に引っ掛かった。


 ――? 

 この子は、糸乃崎海岸まで遠出して、きっとこのあと疲れて帰宅するはずなのに。

 仮に日頃から、そういう習慣があるにしても、今日ぐらいは他の家族に代わってもらっても良さそうなものだ。



「織枝が、今夜の夕飯を自分で作るのか」


 俺は、頭の中に浮かんだ疑問を、ついそのまま訊いてしまった。

 よくよく考えると、この問い掛けは軽挙だったかもしれない。

 でも、そうと気付いたのは、口に出してたずねたあとだった。


「……うん。今夜は、彩花ちゃ――お姉ちゃんはバイトが入ってるから、食事は休憩時間に外で済ませちゃうはずだし」


 海の波間を眼差したまま、織枝は落ち着いた口調で答える。


「お父さんとお母さんは、いつも仕事で忙しくて、夜遅くまで帰って来ないからね。普段から一週間で四日ぐらいは、私がみんなの晩御飯を作らなきゃいけないの」


 その言葉を聞いて、俺は思わず安堵した。


「もしかして、親御さんたちは休日もよく仕事で出掛けてるのか」


「ええ。私が小学校で三年生になった頃ぐらいから、ずっと」


 織枝は、再び質問に肯定で応じ、ちらりと横目でこちらを眼差した。

 途端に口元を、ちょっと綻ばせる。


「……冴城くん、今少しほっとしたような顔になってる」


 それは滑稽なものを見て、堪え切れずに浮かんだような笑みだった。


「ごめんね、ご期待に副うほど悲劇的なヒロインじゃなくて」


「――別に、そんなこと……」


 否認の素振りで誤魔化そうとしたものの、こちらの思考を見抜かれていたのは明らかだった。

 もし、織枝が休日を家族と共に過ごせない理由が、良くない想像そのままだったとしたら――きっと安易な発言を悔いて、俺は今頃自己嫌悪に陥っていただろう。


「昔から、私の家はそんな感じなの。お父さんとお母さんは留守にしてて、彩花ちゃん――姉と私が、広い自宅の中で二人っきり」


 織枝は、膝を抱えて座ったまま、背中を丸めて身を縮めた。


「だから、物心ついた時期から、いつも一番傍に居た話し相手がお姉ちゃんだった。私がまだ、自分で料理を作れない頃は、お姉ちゃんが晩御飯を用意してくれた。お姉ちゃんって、私より一〇歳年上だし、その当時にはもう大学生だったから」


 俺は、その話にじっと耳を傾けていた。

 余計な口を挟む気にはなれなかった。

 今、この夏を共に過ごしつつある同級生は、とても大事なことを打ち明けてくれている。

 自惚れかもしれないが、そういう雰囲気を感じ取ったからだ。


「お姉ちゃんには昔、一緒に遊んでもらったりもした。……二人で同じ漫画を読んで、アニメをみて、絵を描いたりもして――……」


 このとき織枝の言葉に、波打つ音が重なって、やや声が聞き取り難くなった。



「そうして、を初めて見せてもらったときは、本当にびっくりした」



 ――織枝のお姉さん……彩花さんが作った同人誌だって? 


 一瞬、自分が何か聞き間違えたかと思った。


 つまり、だというのか。

 ……あのいかにも柔和で、きらめくような美人のお姉さんが!? 



 いやいや待て待て。

 微妙な齟齬を感じる点は、そこだけじゃない。


「なあ、織枝。その――」


 俺は、思い切って、たずねてみることにした。


「おまえと彩花さんは、姉妹仲がいいのか?」


 かつて「翠梢館」で、彩花さんに初めて挨拶したとき。

 二日前に織枝の自宅を訪れ、彩花さんに出迎えられたとき。

 いずれの場合も、姉妹のあいだに和んだ空気は、やや看取し難かった。

 それどころか、むしろ僅かな緊張感さえ漂っていたような気がする。

 だが、今の話を聞く限り、両者の関係性に何らかの断絶を生む要素は、これといって見出し得る部分がない。


「……そうだね。悪くはない、と思う」


 織枝は、少し考えてから、いかにも難儀な答えを返した。


「何となく避けているのは、私だけだから」


「そりゃ、どういうことだよ」


「お姉ちゃんとは、最近あまり話したくなくなったの」


 重ねて訊いてみたものの、やっぱりわけがわからない。

 なぜ、仲の悪くもない彩花さんを――

 それどころか、過去の経緯から言えば、家族的な慈しみを共有していておかしくない姉を、この子は遠ざける必要があるのだろう。


 不可解さに困惑を覚えていると、ついに織枝は自らの本心を吐露した。

 それはいささか、予想外の理由だった。


「私が描いてる漫画やイラスト……それに同人誌のことを、お姉ちゃんにはあまり触れられたくないから」


「……そうなのか? でも彩花さんって、オタクなんだろ」


 意外さを感じないわけにはいかない。

 姉妹揃ってオタク同士で、絵を描く同人作家同士。

 好きな作品やジャンルが異なれば、この子が言うところの「同好の士」とまではいかないかもしれないが……

 それでも、やはり一定の共通意識を持つ者同士足り得るはずだ。

 俺は、ごく短絡的にそう考えていた。


 ところが、織枝が寄越した返事には、もっと複雑な感情が混濁していた。


「似た者同士の姉妹だからこそ、相手と距離を置きたくなることもあるの。――凄いんだ、お姉ちゃんは。私なんかと全然違う……」


 次に続く言葉は、どこか自嘲的で、絞り出すような声音だった。



「だって彩花ちゃんは、都内の大規模即売会でもだもの」



「……壁際って――壁サークルのことか!?」


 愕然として、俺は鸚鵡返しにたしかめる。

 織枝は、短く「ええ」と、答えて首肯した。



 ――壁際配置サークル。

 同人用語で、壁サークルとか壁際とか、あるいは単に「壁」と略されることもある。

 同人誌即売会において、イベント会場内のホール外縁部(壁際)に頒布スペースが配置されるサークルのことだ。


 サークル配置の決定は、活動ジャンルの傾向やイベント規模、頒布物を手掛けた執筆者の知名度などにも左右されるため、一概に論ずることは難しい。

 とはいえ多くの場合、壁際配置になるサークルは、往々にして「頒布物の大量部数発行サークル」だと目されている。

 すなわち、大手サークルの代名詞と考えていい。


 しかも彩花さんは、都内の同人イベントで「壁」を取るという。

 ローカルな小規模即売会ではなく、遥かに競争の激しい大規模即売会で……

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