12:君と俺とで原稿三昧

 一夜明けて、七月二二日(日曜日)。

 俺は、少し早めの昼食を済ませてから、身形を整えて自宅を出た。

 翠ヶ丘一条三丁目の停留所から、普段と異なる路線のバスへ乗車する。


 行き先は、翠ヶ丘西方面に位置する美咲二条二丁目。

 ここ一〇年ぐらいで、急速に発展した住宅街だ。

 目的地で降車すると、スマホを取り出して時刻を確認する。

 丁度、正午過ぎぐらいか。


 手元の液晶画面を見ていると、唐突に自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。



「――冴城くん、こんにちは」



 毎度ながら、ビクッとさせられる。

 が、さすがに多少は慣れたので、俺は落ち着いて背後を振り向いた。


 果たして、すぐ近くにメガネを掛けた少女が立っている。

 ホントに毎回、いつの間にか傍に居るんだよなあ。


「おう、織枝。もしかして、待たせたか?」


「ううん。……そんなこと、ない」


 そのメガネの少女――

 織枝静葉は、うつむき加減にかぶりを振った。


「それよりごめんね。急に来てもらっちゃって」


 この日の織枝は、これまでの休日に会ったときとも若干雰囲気が違っていた。

 ロングの黒髪を真っ直ぐに下ろしているのは、ともかくとして――

 全体的に、服装が無造作な印象だ。

 ピンクのボーダーの上から、半袖のシャツを羽織り、キュロットスカートを履いている。

 いかにも、近所のコンビニまで出掛けるときみたいな恰好だった。


「気にするなよ。同じサークルのメンバーなんだから」


 俺が故意に軽い口調で応じると、織枝は「……ありがとう」とつぶやいた。


 それから、二人で並んで歩き出す。

 幅広の一般市道を進み、「羽舞橋」という大きなコンクリートの橋梁を渡った。

 その先でやや狭い街路へ入って、さらに数分歩く。

 たどり着いた場所にあったのは、白を基調とした外観の一戸建てだ。

 横書きの表札には、「ORIE」とローマ字で刻まれてある。



 ――そう。俺は来た。来てしまった。

 今、目の前にあるこの家こそ、紛うことなきなのだった。


 本日、俺こと冴城侑也がここを訪れた理由は、無論ただひとつ。

 進捗が遅れているという、同人誌の原稿を手伝うためである。



     ○  ○  ○



 昨晩、短文投稿サイトの書き込みを閲覧したあと、俺はメッセージと電話で、改めて織枝と連絡を取った。


 作業状況を訊くと、

「遅れはあるが想定の範囲内」

短文投稿サイトツイッター上では少し盛ってツイートしちゃっただけ」

 などと答え、織枝は当初、心配するには及ばないと主張してきた。


 しかし、どうにも疑念が拭えない。

 そこで、尚も重ねて問い質してみると、織枝の返答にも変化が表れた。

「〆切までに、何度か徹夜すれば大丈夫……」

「バイトのシフトを代わってもらう手もあるし……」

 といった調子で、徐々にトーンダウンしたのである。


 まあ、たしかに無理にでも時間を捻出すれば、原稿は完成するのかもしれない。

 けれど、仮に睡眠不足が続けば、織枝だって体調を崩さないとも限らないはずだ。それは友人の一人として、どうか避けてもらいたい。

 それにできれば、〆切日は余裕を持って迎えたいからな。


 翻ってみると、俺はもうプロットを書き終え、手が空いている。

 ごく単純な作業なら、織枝の原稿で手伝える部分もあるだろう。



 ――と、そういった状況を踏まえ、相談の末に話がまとまった。

 今日から〆切まで、互いに都合が付く日は織枝の家を訪れて、二人で原稿作業に従事することと相成ったわけだ。

 俺は、今後しばらく、織枝の似非エセ漫画アシスタントを務めねばならない。



     ○  ○  ○



 玄関の前に立つと、織枝はおもむろに家の鍵を取り出した。

 ドアの鍵穴へ入れて捻り、蝶番ノブを引く。


「ああ、そう言えば――」


 そのとき織枝は、うっかり忘れていたことを付け加えるように言った。


「今、家の中には、他に誰も居ないから」


「……なんだって?」


 思い掛けない事実を告げられ、俺は反射的に訊き返した。

 完全に初耳だ。

 事前に確認していなかったとはいえ、およそ想定外の話である。


 ところが織枝は、「どうぞ」とうながしただけで、靴を脱いで自宅に入っていく。廊下の脇にある階段から、ふらふらと二階へ上ってしまった。

 仕方なく、俺も慌ててあとを追う。


 ――織枝のやつ、何を考えてるんだ? 

 その、他に誰も居ない自宅で、同級生の男子を部屋へ連れ込むだなんて。

 二人っきりになるってことだぞ。


 てっきり日曜日だし、こっちは織枝の家族も仕事が休みだろうと思っていた。

 いや、他の家族が居たら居たで、もちろん別の気まずさはあるけれど(一応、その場合については多少覚悟してきたつもりだった)。


 俺のことを、信頼しているのか、侮っているのか……

 あるいは単に、今は原稿の件で頭の中がいっぱいで、何にも考えていないってのもあり得るが。



 なんてことを悶々と考えていたのも束の間、織枝の部屋まで案内されてしまう。


 室内は、けっこう広々としていた。八畳はあるだろう。

 空調が効いているらしく、室温は適度に涼しい。

 ベッド脇の本棚には、大量の漫画単行本や同人誌が並んでいた。

 机の周りは、デスクトップPCと関連機器がひしめいている。


 ……う、生まれて初めて同い年の女の子の部屋に入ったけど、ちょっと想像していたのと違うな……。

 もっと可愛らしい空間を思い描いてたんだが、どうやら浅はかな幻想だったみたいだ。普通にオタクの部屋じゃねーか。


「早速だけど、お願いしたい作業内容を説明してもいいかな」


 織枝は、部屋の真ん中にある円形テーブルの前に座った。その卓上には、机のものとは別のノートPCが置かれている。

「ああ」とうなずき、俺も隣で胡坐を掻いた。


「こっちのノートPCにも、デスクトップPCと同じ漫画原稿制作用ソフトがインストールされているの」


 折り畳まれていた画面を開き、織枝は電源を入れながら話す。


「スキャナで取り込んだ下描き原稿を、私がペン入れまで済ませたら、スマートメディアでその都度こちらへ移動させるね。――それで、冴城くんには、仕上げ作業を進めて欲しい」


「仕上げ作業っていうのは、具体的には何をすりゃいいんだ?」


「主にベタ塗りとトーン貼りね。わかる?」


「ベタ塗りってのは、原稿で指定された箇所を黒く塗り潰すことだろ」


 それぐらいなら、知識としては知っている。

 あと「トーン貼り」は、「スクリーントーンを貼り込む作業」のはず。

 でも、たしかスクリーントーンって、点描や柄が印刷された透明フィルムみたいなやつのことだよな。それを原稿に糊で圧着させると聞いた覚えがあるんだが……

 PC上で、どうやって作業するんだ? 


「とりあえず、私が簡単に実演してみせるから」


 そう言うと、織枝はノートPCにマウスとメモリースティックをUSB接続した。

 開いたデバイスから、画面上のフォルダへ画像ファイルを一つ移動する。次いで、タスクバーのアイコンをクリックし、やたらと多機能そうなアプリケーションを起動してみせた。

 どうやら、これが漫画原稿制作用ソフトらしい。


「まずは、画面左上の端にある【ファイル】っていうメニューから、今PCに保存した画像ファイルを開くね」


 織枝は、言葉通りの手順で、矢印カーソルを操作していった。

 二、三秒の読み込み時間を挟んで、新たに画像ウインドゥが表示される。


 おおっ……!? 

 漫画だ。

 きちんと枠線でコマ割りされた、漫画原稿が画面の真ん中にある。


 これが、織枝の――

 いや、俺がプロットや字コンテを切り、織枝が作画した漫画。

 俺たちの同人誌に収録される、二次創作作品なんだな。

 まだ線画状態で、画面はかなり白いけど、それでもちょっぴり興奮してしまう。


 けれど、我が「同好の士」は淡々とした口調で、説明を続けた。


「画像の絵の中に、所々バツ印が入っているところがあるよね」


 織枝は、画像を部分的に拡大してみせた。

 それから、矢印カーソルの先を、原稿の「×」と描かれた箇所まで移動する。


「ベタ塗り作業では、線に囲まれた内側で、このマークが入ってるところを黒く塗り潰して欲しいの。――手順は、こんなふうに……」


 すすっとマウスを滑らせて、織枝は手本を示そうとした。


 メニューバーから、【レイヤー】という項目をクリックし、【新規レイヤー作成】へ進む。

 画面右側のウインドゥまでカーソルを動かし、「線画」と書かれた部分をアクティヴ状態にしたあと、ツールバーのアイコンをクリック。

 すると、カーソルの形状が変化して、【自動選択ツール】なる機能が使えるようになったらしい。そのまま画像上の任意の箇所まで持って来たら、キーボード上のShiftキーを押しつつ、何度かクリック――……


 最後に【塗り潰し】機能を実行すると、破線で指定された部分がまとめて黒くなった。

 そうかー、これがPCを使ったベタ塗り作業かー。


 ……なるほどわからん。

 ていうか、むしろまず「レイヤー」ってのが何なのかもわからん。

 つまり、ほぼ一番最初からわからんぞ。どうすんだ。


「いきなりだと、難しそうに感じちゃったかな」


 こちらを眼差しながら、織枝が苦笑いを浮かべていた。

 きっと俺の顔を見て、困惑を読み取ったのだろう。


「すまん。一度見ただけじゃ、即座に覚えられるような気がしない……」


「まあ、それもそうだよね。特にデジタル作画関係の作業は、最初のうちだと実際にソフトを使い続けてみて、『習うより慣れよ』で覚える方がいい部分もあると思うし」


 織枝は、本棚の一隅へ手を伸ばすと、そこからカタログみたいな本を取り出した。

 表紙には、漫画原稿制作用ソフトのロゴと、「ユーザーガイド」という文字がある。


「はい、これがアプリケーションの説明書マニュアル


「め、めちゃくちゃ分厚いな」


「全部読む必要はないけどね。私も使ったことがない機能だってあるし」


 次いで、いつものPPC用紙を一枚テーブルに広げ、そこへ織枝は何やらサインペンで書き付けていく。


「今、アプリ上で実行してみせたベタ塗りの手順を、箇条書きでまとめておくね。ここにメモした通りに作業すれば、差し当たり理屈はわからなくても、同じように黒く塗り潰せるから」


 ほどなく筆記の手を止めると、織枝はPPC用紙をこちらへ寄越した。

 渡されたメモ書きに目を通してみる。


 ははあ、たしかにこれを確認しながら作業すれば、俺にもベタ塗りができそうだ。

 意味不明で理解できない専門用語は、やはりいくつか存在するが……

 その辺りは、スマホで検索するなり取説を読むなりして、あとで調べておくか。



「それじゃ、私は他のページの下描きとペン入れがあるから……」


 織枝は、立ち上がってテーブルの傍を離れ、机の前の椅子へ腰掛けた。

 デスクトップPCの電源スイッチを押して、液晶モニタに向き合う。利き手に握るのは、ペンタイプのマウス――いわゆるペンタブレットってやつだな。絵を描くのが好きな人が、ネット上でよく「ペンタブ」と略称で呼んでいるのを見掛ける。


「ベタ塗り作業を進めてみて、それが済んだらトーン貼りの方法も改めて説明するね。他にわからないことがあったら、また訊いて欲しい」


 織枝は、自分の作業に戻ると、目の前の画面を見詰めたままで言った。





 ……尚、このあとはひたすら原稿作業に集中していたので、部屋に二人っきりでも特筆すべき出来事は他に何も起きなかった。

 そう、まったくもって悲しいほどに何も。

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