13:織枝家の謎

 結局その後、七月二二日は夜八時過ぎまで、漫画の仕上げを手伝った。


 手順を何度もたしかめたり、アプリケーションの説明書を読み返したり、あるいは疑問点を織枝にたずねたりしながら、慣れない作業に随分苦戦させられた。

 それでも、四ページ分のベタ塗りとトーン貼りを済ませたし、漫画原稿制作用ソフトの操作にもかなり慣れたと思う。


 一方の織枝も、下描きとペン入れに集中して、新たに三ページほど描き進めた。

 俺が織枝家を訪ねた当初、線画段階まで完了していた漫画原稿は五ページ分。

 都合、この時点で一本目の一六ページ漫画は、ペン入れ済み原稿八枚、仕上げ済み原稿四枚になった計算だ。



 翌七月二三日からは平日なので、学校で夏期講習が再開される。

 午前中で予定の講習を終えると、俺は学食で手早く昼食を取った。この時期でも、運動部に所属する学生のために、安価で定食が提供されていることには感謝すべきだろう。

 それから、自宅には寄らず、真っ直ぐ織枝の家へと向かった。

 当然、原稿制作を引き続き手伝うためである。


 もっとも、この日の作業は、それほど前日と比して進まなかった。

 織枝は、夕方からバイトのシフトが入っていたからだ。

 それゆえ、俺も午後四時前には、彼女の部屋を辞さねばならず、適当なところで作業を切り上げねばならなかった。おかげで仕上げまで済ませられた原稿は一枚のみ。

 ただし、織枝は「翠梢館」から帰宅したあとも頑張って、ペン入れまで二枚終わらせた。



 ……尚、織枝は夏期講習に不参加であるものの、追試や補修の予定もないらしい。

 どうやら前回の定期考査でも、大した勉強していないようでいて、及第点は下回らない程度に成績をキープしているみたいだった。




 とにもかくにも、七月二四日(火曜日)――


 例の如く、午前中で講習を終えると、俺は織枝家に直行した。 

 玄関先に立って、チャイムのボタンを押す。

 ほどなくインターフォンから、誰何すいかの言葉が聞こえた。


<はい、どちら様ですか?>


「――あの、冴城と申しますが……」


 応対したのは、我が「同好の士」ではない、と俺は即座に察知した。

 声付きは似ているものの、もっとふんわりした印象がある。

 果たして、その知覚の正しさは、ただちに証明された。


<ああ、静葉ちゃんのお友達の!>


 インターフォン越しの声音が、途端に明朗な響きを帯びる。


<冴城くん、ちょっとだけ待ってね>


 それだけ告げて、こちらの用件も訊かずに回線が切れた。

 妙な居心地悪さを覚えつつ、言われた通り少し待つ。

 目の前のドアが内側から開いて、見覚えのある女性が姿を現した。


「いらっしゃい、冴城くん。いつも静葉ちゃんがお世話になっています」


 人懐っこい笑顔で出迎えてくれたのは、我が「同好の士」の姉・織枝彩花さんだった。

 ダークブラウンのロングヘアと独特の温和な物腰は、以前に「翠梢館」で偶然対面した際から変わらない。今日は、くつろいだ雰囲気のワンピースに身を包んでいる。


「静葉ちゃんは、自分のお部屋に居るわ」


 彩花さんは、なぜかうきうきした様子で、俺を家の中へ招き入れた。


「今、冴城くんが来てくれたことを、内線で伝えたんだけど」


 俺は、靴を脱いで上がらせてもらい、廊下から階段を見上げる。


 そこへ丁度、織枝(妹の静葉)が二階から下りてきた。

 ここ数日と似たような部屋着の恰好だ。ただし、今はメガネを外している。

 何やら渋い面持ちで、ちょっと慌てたような素振りが見て取れた。


「冴城くん、こんにちは」


 織枝は、心なしか、いつもよりやや低い声で言った。

 それに返事しようとして、しかし俺はすぐ中断してしまう。

 素早く右の手首を掴まれ、引っ張られたからだ。


「上に行きましょう、早く」


 早口でつぶやき、織枝は率先して階段を上ろうとした。

 いささか虚を衝かれたけど、仕方なくそれに従う。

 すると背後から、彩花さんが「あとでお茶を入れるね」と、妹に声を掛けた。

 けれど織枝は「――いらない」と、振り向きもせずに応じる。

 黒髪の下から覗く耳の先は、かすかに赤く染まっていた。


「ごめんね、冴城くん」


 織枝は、二階の自室へ入ると、俺の手を放して呼気を吐いた。


「彩花ちゃん――うちの姉が、何かとお節介で」


「いや……」


 咄嗟にどんな反応を示すべきか迷って、俺はまたしても少し口篭もる。

 数秒挟んでから、やっと芸のないことを言った。


「綺麗で、優しそうなお姉さんじゃないか」


 織枝は、僅かにうつむき、複雑な表情を覗かせる。

 とはいえ、それもほんの短い時間のことだった。


「……それより早く、原稿作業に取り掛かりましょう」


 それだけ言うと、殊更自分の姉について話題を戻したりはせず、我が「同好の士」は机の椅子に腰を下ろした。

 いたずらに踏み込む気にもなれず、俺は「そうだな」と同意し、ノートPCの前に座った。



     ○  ○  ○



 そうして二人共、黙々と作業を進めはじめた。


 もっとも俺は、それほど原稿の仕上げに集中していたわけでもない。

 ベタ塗りを続けながら、ぼんやりと頭の中では他所事を考えていた。

 それはつまり……いましがたも目にした、織枝姉妹の関係性についてだ。


 ――妹の織枝静葉と、姉の彩花とのあいだには、不思議な距離感を覚える。


 不可視の壁みたいなものが、なぜか両者を隔たっているように見えた。

 思い返せば、「翠梢館」で姉妹が顔を合わせた際にも、会話にぎこちなさを感じたんだよな。


 ひょっとして、二人は不仲なのか? 

 と、一瞬考えてみたけれど、それも少し真相と違う気がした。

 表層的な印象だけかもしれないが、彩花さんに妹を嫌悪しているような気色はない。

 ……よくわからない。


 よくわからないことと言えば、織枝のご両親に関してもそうだ。

 連日お邪魔しているにもかかわらず、まだ一度も姿を見掛けない。

 共働きで、よっぽど仕事が忙しいのだろうか。


 七月二二日は日曜日だったのに、あの日の織枝は「家には他に誰も居ない」と言っていた。

 たまたま休日出勤だったということはあり得るが、夫婦同時に不在となると、その辺りの事情も少々気になる。

 まさか、ご両親のどちらも、過去に何か不幸があったとか――

 いや、度を過ぎた妄想は止そう。不謹慎だ。


 いずれにしろ、これは織枝家にまつわる、ささやかな謎だった。

 とはいえ、他所の家庭の背景について、無用に深入りするわけにはいかない。

 だから現時点において、たぶん解き明かされる余地もない謎である。

 まあ、そもそも全部憶測だし、「本当に謎があるかもわからない謎」だが――……



 さて、それはそうと。

 午後三時過ぎ、新たに一枚原稿が仕上げまで済んだ。

 これですべて完成した原稿は、六枚目。

 道のりは長い。

 でも、今日は織枝のバイトもないそうだし、粘ればあと二枚は仕上げられるだろう。

 そうすれば、一六ページ漫画は実質的に半分描き上がったことになる。


 しかし同じ頃、我が「同好の士」は、下描きやペン入れと別の作業で行き詰っていた。

 一本目の漫画で進捗に改善が見られたことから、ようやく二本目の八ページ漫画のネームを切りはじめていたわけだが――

 その劇中で描く背景について、ささやかな不満を抱いていたのである。


「作画資料に使えそうな糸乃崎しのざき海岸の画像って、思ったより少ないね」


 織枝は、ネットで検索した画像を、ブラウザで一つずつ閲覧しながら言った。


「著作権的に転用できなかったり、フリー素材でも解像度が低くて、細部がどうなっているかよくわからないものだったり……。漫画背景向きで、丁度いい写真はなさそう」


 ふむ、作画資料用の風景素材か。


 糸乃崎海岸というのは、隣県にある太平洋側に面した海水浴場である。

『ラブトゥインクル・ハーモニー』の作中で描かれる地方都市は、その周辺地域がモデルになっている。ネットスラング的な表現を用いれば、ファンにとってのいわゆる「聖地」だ。


 俺が提案した八ページ漫画のプロットには、海岸近辺一帯の屋外シーンが指定されている。


「糸乃崎海岸以外の海辺で、背景資料に代用できそうな画像はないのか」


「それはもちろん、固執しなければ、適当そうなフリー素材は沢山あると思うけど……」


 妥協案に対して、織枝は不服そうに眉を顰めた。


「……それじゃ、気に食わない、と?」


 俺が重ねて訊くと、我が「同好の士」は首肯してみせる。


 まあ、たしかめるまでもなかったか。

 それぐらいのことは、この子だって普通に考えたはずだ。


 だが、尚も納得していないからには、安易な手段で誤魔化したくないのだと思う。

 織枝は時折、やたらと強いみたいなものを示す場合があるんだよな。

 一六ページ漫画に描かれた背景(学校の校舎など)も、先頃発売されたばかりのアニメ設定資料集などを研究し、かなり原作をリスペクトして描いていたようだった。



 さあ、しからばどうするか。

 織枝が座る机の傍まで歩み寄り、身を屈めてモニタを覗く。


 画像の中の景色を眺めて、俺はちょっと考え込んだ。

 糸乃崎海岸の青い海辺と、抜けるような空に白い雲。

 蛇行した浜沿いの道路、漁港も近い町並み、自然溢れる遠景……



「――いっそ行ってみるか、じかに糸乃崎海岸まで」



 思い付きで、そんなことをつぶやいてみた。

 織枝が目を剥き、こちらを振り返る。


「行ってみるって……背景資料の写真撮影に?」


「笠霧市から電車を乗り継いで、片道二時間まで掛からない場所だろ。朝から出掛ければ、現地で半日遊んだって日帰りできる」


「でも、それじゃ丸一日潰れちゃうじゃない。入稿〆切まで、あと二週間もないのに」


 遊んでるような場合じゃない、って言いたいのか。


「これまでと同じぐらいのペースで、今日も一日作業を頑張れば、たぶんペン入れ済み原稿は一二枚か、一三枚にはなるだろ」


 俺は、今後の作業目標を確認してみせた。


「早ければ、明日には一本目の一六ページ漫画が、ペン入れまで一通り完了するわけだ」


 そうすれば、ネームや仕上げを除くと、あとは八ページ漫画の作業だけになる。

 織枝は、一日いっぱい作業し続ければ、概ね下描きからペン入れまで、二枚から三枚程度は描き上げられることがわかった。

 逆算すると、三日で漫画のページだけなら揃う。


 当然、他にもカラー表紙を描いたり、四コマ漫画やイラストコラムのページを用意したり……と、いくつか作業は残っている。バイトで絵ばかり描いていられない日もあるだろう。


 けれど、俺が今後も仕上げを手伝えば、二週間後の〆切までに間に合うはずだ。

 きっと一日ぐらいなら、どこかへ出掛けて潰れたとしても、取り返せると思う。



「――それに織枝って、この夏はバイトに行く以外、ずっと部屋で原稿描いてるんだろ?」


 諭すように指摘すると、織枝はちょっぴり気まずそうに瞳を逸らした。

 図星だったらしい。まったく、この子と来たら。


「たまには外を歩いたりしないと、息が詰まるし、不健康だぞ。少しは気分転換も兼ねて、遊びに出掛けた方がいいんじゃないのか」

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