10:枝先の花と葉
織枝のシフトは、午後四時半から午後七時半。
閉店準備は午後八時半頃からはじまるが、午後九時まではカフェスペースが使えるという。
尚、織枝は帰宅の際、今夜は店長に自家用車で送ってもらうことにしたそうだ。経営者が親戚だと、こういう場合に融通が利いて便利だな。
学校が放課後になると、俺はいったん自宅へ戻った。
織枝のバイトが終わるまでは、しばらく手持ち無沙汰になってしまう。
なので、制服を脱いで私服に着替え、出掛ける準備を済ませると、スマホの目覚ましアプリを設定した。
一時間だけ仮眠しようと思ったのだ。
何しろ昨夜は、明け方近くまで寝ていない。
漫画・同人誌制作関連のサイトを閲覧しつつ、ネームのことをあれこれ検討し続けていたせいで、睡眠不足なのだった。
♪――
ふわふわしててもいいじゃない
理屈を並べる意味はない
答え探す時期は過ぎてるんだ ――♪
……ベッドの上で、目を覚ます。もう時間だ。
アラームの歌がツーコーラス目に入るまで、つい寝入ってしまった。
自宅を出ると、周囲が薄暗い。
バスへ乗り込み、翠ヶ丘中央郵便局前まで移動する。
複合型書店「翠梢館」に到着したのは、午後七時一五分過ぎだ。
思ったより、少し早く着いたようだった。
何でも織枝は、書籍や雑貨を扱うフロアで働いているらしい。
俺は、大小二棟が連なる建物のうち、大きい方の出入り口へ回り込んだ。
カフェスペース側とは異なり、両開きで幅の広いドアを潜る。
書店側の内装は、駅前の大型書店などと比べて、かなり独自色の強い雰囲気だった。
商品が並ぶ書棚や平台、販売カウンターまで、西洋的な装飾が施された木製の設備なのだ。
ぼんやりして柔らかな照明は、店内に非日常的な空気感を演出している。
えーと。
それで我が「同好の士」は、どこに居るのか――
と、少し店内を見回して、ようやく見付けた。
文庫本が置かれた平台の脇だ。
織枝は、黒髪をポニーテールに束ねて、まめまめしく働いていた。学校の帰りでコンタクトを入れているからか、メガネは掛けていない。
白いブラウスと丈の長いプリーツスカートの上から、緑色のエプロンを着用している。以前に他の女性店員も同じ格好だったから、この店の制服だろう。
相変わらず意識的に見ていないと、なぜか影が薄い女の子だ。
「おう、織枝。お疲れさんだ」
歩み寄りながら、声を掛けた。
織枝が顔を上げて振り向く。
「いらっしゃいませ、冴城くん。早かったね」
「ああ、少しだけな。まだ忙しいのか」
「ううん、それほどでも。今は平積みの本を、何種類か入れ替えていただけだから」
問い掛けに応じつつ、織枝は自分の作業に戻った。
平台の本を足元の台車へ乗せ、代わりに別の本を陳列していく。
勤務時間の終わりが近いからって、まだ邪魔するわけにはいかないな。
俺は、隣のフロアでアイスコーヒーを飲んでる、と告げて傍を離れた。
カフェスペースに入ると、別の店員さんに奥のテーブルまで案内された。
先日も打ち合わせで使った場所だ。口利きしておいてくれたのだろう。
アイスコーヒーで喉を冷やしていると、やがて織枝もこちらへやって来た。
まだバイトを終えてから着替えておらず、エプロンだけ外した服装だ。
織枝が差し向かいに座るのを待ってから、俺は話を切り出すことにした。
「バイトあがりで疲れてるのに悪いな」
「気を遣ってくれなくても、大丈夫。――それより、昨日の打ち合わせの続きがしたい、ってメッセージに書いてあったけど……」
探るような口調で、織枝がこちらの意図をたしかめてきた。
俺は、「ああ、そうだ」と、首肯して続ける。
「織枝が描こうとしている漫画の内容について、俺も自分なりに検討してみたんだ」
持参した鞄の中から、昨晩のノートを取り出してみせた。例のプロットやネームのコピーも、参照するために添える。
「読んでいて気が付いた点と改善案は、ここにある程度まとめてきた。手書きだから読み難いかもしれないが……」
織枝は、テーブルに置かれたノートを手に取ると、ページを捲って目を通しはじめた。文面を読み進める表情は、いつにも増して真剣そのものだ。
そんな有様を見ていると、こっちまで緊張してきた。
織枝のネームを読み込んで、俺が疑問を抱いた箇所は少なくなかった。
「状況描写が足りない」というのも、実際はそのうちの一つでしかない。
諸々の不自然な部分を、具体的にどう変更すべきか。
ネットで得た知識を参考にしつつ、何とか対案を捻り出してみたつもりだ。
織枝は、ノートの記述について、何度も詳しい説明を求めてきた。
その都度、口頭で補足しながら、課題を明確化していく。
「つまり、全体的な改善策の要点としては――」
しばらく話し合ったあと、織枝は溜め息混じりにつぶやいた。
「最初のネームは、もっとエピソードを削って、内容を絞り込んだ方がいいってことね?」
――盛り込むエピソードを削って、内容を絞り込む。
そこはおそらく、不可避の修正点だと思う。
織枝が切ったネームを概観し、検討を重ねた結論だ。
元々、織枝は「同人誌で描きたいネタ」を、沢山持ち合わせている。
そして、それを大量に詰め込んで、ネームを組み上げようとした。
ところが、限られたページ数で語り得ることは、当然あまり多くない。
そのせいで、織枝のネームは、酷く窮屈な内容になっていたのである。
詰め込み過ぎだから、状況描写の背景を入れる余裕がなくなった。
情報過密で、コマ割りとセリフもごちゃごちゃしてしまった。
作中の会話は性急で、キャラの掛け合いが不自然になっていた。
総じて狭いコマが増えたので、ロングショットよりもアップのシーンが多くなった……
だから、どれも改善するためには、無駄なエピソードを削らねばならない。
「あくまで、俺の個人的な意見だけどな」
そう念押しして付け加えたが、織枝は神妙にかぶりを振ってみせた。
「いいえ、私も冴城くんが考えた通りだと思う。このノートにまとめてある内容を読んでみて、なるほどと感じたから」
俺は、そこはかとない居心地の悪さを覚えて、つい口を
実は、もしあれこれ指摘することで、織枝の機嫌を損ねてしまったら、どうしようかと内心怖さを感じていたからだ。
なので、そこまで真摯に受け止められると、かえって身が縮む心地さえする。
改めて自戒を心掛けねばなるまいが、たぶん創作に絶対の答えはないのだから。
まあとはいえ、俺の意見を織枝も支持してくれたことは、素直に嬉しい。
安堵を覚えつつ、アイスコーヒーを手に取った。ストローからじゃなく、直接グラスの縁に口を付ける。
そのとき、にわかに織枝が思い掛けない言葉を発した。
「ねぇ、冴城くん。いっそ漫画のプロットや字コンテは私が書くより、君が担当した方がいいんじゃないかと思うんだけど」
唐突な提案を持ち出され、俺は盛大にむせ返った。
織枝は、こちらを心配そうに覗き込んでくる。
「冴城くん、大丈夫?」
「あ、ああ。大したことは、ない、が……」
尚も少々咳き込んだものの、俺はグラスを置いて居住まいを正した。
「冗談だよな? 俺に、その、プロットだとかを作れなんて」
「――私、あまり冗談は得意じゃない」
半信半疑でたずねると、織枝はいつもの真面目腐った顔になる。
「このノートに書かれた修正案を読んでみた印象だけでも、私より冴城くんの方がお話作りに向いてると思う。暫定的に置き換えた字コンテのセリフ回しも、原作の雰囲気を掴んでいて、凄く自然だし」
そう言ってノートと見比べていたのは、ト書き風のルーズリーフをコピーしたものだ。
ここで織枝が字コンテと呼んでいるものは、どうやらこいつのことらしい。
「私も一応、ネットの漫画創作系サイトを調べたりして、プロットからネームに起こすまでの作業は勉強したつもりだったけど……。冴城くんほど、上手くまとめられる自信がないもの」
「いや、これで本当に上手くまとまってるかは、正直よくわからんぞ」
「それでも、私が考えたものよりいいと思う」
「俺が考えたストーリーで漫画を描くことに、おまえは不満がないのかよ」
「不満があったら、こんな話を最初から持ち掛けてない」
織枝は、僅かに身を乗り出して続ける。
「そう言えば、冴城くんって学校で現代文の成績もいいよね」
「平均点よりは悪くないと思うが……って、おまえが何で知ってるんだ」
またしても怖くなって、反射的に訊き返した。
が、織枝はそれを華麗に受け流す。
「もし、内容に納得できない箇所があったときは、プロットや字コンテの段階で、ちゃんと私も意見を言わせてもらうから。――いずれにしろ、今回の一六ページ漫画に関しては、修正案を元にした内容で描くつもり。だから、これは私の思い付いたネタを、冴城くんが練り直して、一本のストーリーに整理した格好だよね」
お、おう。
そういうことになるのか。
まあ、この子が納得すると言うなら、それはそれでいいのかもしれない。
仕事は増えるが、俺も作品の出来栄えを左右する立場になるわけだ。印刷代を出資するだけじゃないから、責任も織枝一人に負わせずに済む。
にしても、そうすると一六ページの漫画はともかく、もう一本ある八ページのやつは、俺が土台からストーリーを作らなきゃいけないんだな。
プロットと字コンテの完成後、作画に必要な時間も考慮すると、呑気に構えても居られないだろう。
徐々に迫る〆切を、いっそう強く意識せざるを得ない……
などと、今後の展望に思いを致していたところ。
「――静葉ちゃん。こんな時間にお店の隅で、いったいどうしたの?」
不意に店のカウンター側から、朗らかな声音が聞こえてきた。
思わず振り返って、織枝の名前を呼んだ人物を捜してしまう。
そこに立っていたのは、二〇代半ばと見える女性だった。
柔和そうな面立ちと、ダークブラウンのロングヘア。水色のキャミソールの上から、白く透けたレースのプルオーバーを着用している。すらりとした綺麗な両足は、ピンクのフレアスカートに包まれていた。
ハンパない美人だ。身に纏う和やかな雰囲気は、俗に癒し系と言われるやつかもしれない。
「あ、彩花ちゃん……」
織枝は、その美女の登場に目を剥いて、明らかに動揺している。
彩花――
そうか、この女性が以前に聞いた織枝のお姉さんか。
「――まあ、ごめんなさい。お友達もいらっしゃっていたのね」
癒し系美人の彩花さんは、傍まで来て俺の姿に気付くと、優しげな微笑を寄越す。
「初めまして、織枝彩花と言います。妹と仲良くしてくださっているみたいで、ありがとうございます」
「……クラスメイトの冴城です。こちらこそ、静葉さんにはお世話になっています」
突然の挨拶に面食らいつつ、俺は何とか礼を失しないように体裁を保とうとした。
ていうか織枝のお姉さん、ちょっとイメージしていたのと印象が違うぞ……。
「就職も結婚もしておらず、会わせたくない」
っていうから、漠然とだらしない人物像を連想していたのだが。
どちらかというと、挙措に知的で落ち着いた雰囲気すら感じる。
そう、より具体性のある表現で言えば――
彩花さんは、やっぱり妹の織枝静葉と似ている。
もし地味な織枝が、きらめくような存在感を身に付けたら、姉のようになるのではないか?
「彩花ちゃ――お姉ちゃんこそ、どうしてここに居るの?」
織枝は、なぜか恥じ入るような口調になって、彩花さんへ問い掛けた。
「お姉ちゃんは、バイトのシフトが今晩入っていないはずでしょう」
「たまたま、急いで欲しい本があったのよ。叔父さんに電話で訊いてみたら、『翠梢館』にも置いてあるってわかって。それで勤務先の売上に、ちょっぴり貢献しようと思って来たの」
彩花さんは、妹が今夜勤務していたことを、来店後に店長から伝えられて気付いたそうだ。
そして、すでに織枝が仕事を終えているものの、まだカフェスペースに残っていると知った。
何をしているのかと興味を引かれて覗いてみれば、見知らぬ男子高校生(俺)と二人で話し込んでいるところだった……というわけらしい。
「冴城くん、今日の話し合いはここまでにしましょう」
織枝は、急に席から立ち上がって、打ち切るように言った。
ノートを閉じて、ネームやプロットの紙も片付けてしまう。
「続きは、あとからメッセージで。……ごめんなさい」
横へ背けた織枝の顔は、かすかに頬が紅潮していた。
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