9:足りないものは何ですか

 俺の言葉を聞き届けたあと、織枝は咄嗟に黙り込んだ。

 やや伏し目がちにうつむき、僅かに逡巡するような仕草を覗かせる。

 だが、すぐに顔を上げて書類ケースを開き、一束のPPC用紙を抜き出した。

 白い4Aの表面には、コマ割りされた絵がシャーペンで描かれている。

 これがいわゆる、漫画のネームというやつだろう。


「それから、こっちがプロットみたいなもの」


 そこへ付け足すようにして、さらにもう二枚、ルーズリーフの紙を広げてみせる。

 こちらにはサインペンで書かれた文字が、びっしり罫線に沿って記入されていた。


「ありがとう。読ませてもらうよ」


「別にそんな……同じサークルのメンバーだし、本になったら人目に触れるものだから」


 一応、礼を言って断ると、織枝はもじもじしながら頬を赤らめた。



 まずは、受け取った順番と前後するけど、プロットから目を通す。

 簡単な梗概こうがいめいた文があって、その下に作中の状況設定が記入してある。

「学校の教室が舞台で、ある放課後の出来事」ということらしい。


 ルーズリーフのさらに下部を見ると、箇条書きで短文がいくつも手控えられてあった。


・「コスプレさせられる希子」

・「壁ドンじゃんけん勝負」

・「希子が大好きな京」……


 これが織枝が言っていたところの、細切れなネタってやつだろうか。


 もう一枚のルーズリーフに移ってみる。

 そちらには、まるで戯曲の台本みたいな、ト書き風の文章が書き連ねられていた。

 一枚目のプロットで書き出したネタを、会話文から漫画らしいストーリーに膨らませようとしたものらしい。


・【京】 :やっぱり希子ちゃんには、天使の衣装が似合うと思うんだよねー! 

・【希子】:えっ、ええっ!? 私がこれを着るの!?(※赤面して焦る)


 と、こんな感じでセリフが並んでいる。



 で、次が肝心のネームだ。

 一六ページの漫画にする予定で描きはじめているのだろうが、とりあえず描き進めてあるのは、まだ一〇ページ目までみたいだな。

 えーっと、どれどれ――


 ……。



 …………。





「――その。ど、どうかな……?」


 しばらくネームを読み耽っていると、織枝が小声で意見を求めてきた。


「そうだな……」


 俺は、現時点での最終ページまで捲り終えたあと、ゆっくり呼気を吐き出す。


「ひばりも芙海も可愛く描けていて、いい百合漫画だと思った」


「……嘘。正直に言って」


「本当だよ。織枝は、絵が上手いんだな」


 思ったままの感想を述べたのだが、織枝の表情は硬い。

 どうやら、それだけじゃ納得してくれなかったようだ。

 俺は、さらにもう一言補足した。


、これぐらい描けるやつはそんなにどこにでも居るもんじゃないと思う。うちの学校の漫研やアニ同の部員よりも、織枝の方が上手いかもしれない」


 織枝は、はっとしたように瞳を見開いた。


 そうだ、何も嘘など吐いていない。

 漫画研究会やアニメ同好会が先月の文化発表会で出展した作品を、俺は一通り知っている。

 あのとき見たいくつかの絵と比較しても、織枝の画力は見劣りしていない。まだ下描き未満のラフなタッチなのに、かなり見栄えがいいと思う。


 



 ――さて、然らば同人誌即売会で頒布されている本としてのクオリティはどうか? 


 そう訊かれると、これは返答が難しい。

 同人誌の作り手には、色々な人が居る。

 年齢も職業も性別も、本当に多様なのだ。

 大学生や社会人、プロのイラストレイターやデザイナー、漫画家だって同人活動をしている場合は少なくない。真剣に活動している人も居れば、あくまで余暇の趣味で本作りを楽しんでいる人も居るだろう。


 そうした中で、高校生の執筆者と言えば、これはたぶん少数だと思われる。

 おまけにサークル「百合月亭」は、つい先日結成されたばかり。


 ……それらを総合的に踏まえてみても、織枝の描く絵のレベルは、同人誌として平凡な水準を脱していない。漫画としても、全体的に拙い。

 ましてや「ねこブ」で扱われているような大手サークルの本と比べれば、どの作品より格段に劣っている。



「そっか。――ありがとう、冴城くん」


 織枝は、こちらが暗に言わんとした部分を、概ね察したに違いない。やっと肩のちからを抜いて、妙に穏やかな微笑を浮かべた。

 どこか自虐的な影のある面差しだった。


「私、もっと頑張るね。このままじゃダメだと思う」


「……あのさ、織枝。俺はいい絵だと思うぞ、本当だ」


 何となく胸にざわつくものを感じて、俺はつまらない感想を反復した。

 けれど、織枝はやっぱり微笑んでみせただけで、それに応じようとはしなかった。




     ○  ○  ○




 その後も、打ち合わせは夕暮れ近くまで続いた。

 しかし、プロットやネームの件に関しては、それ以上あまり有益な話し合いにならなかった。

 仕方なく、今日のところは諸々の課題を保留し、俺と織枝は下校することにした。


 別々のバスに乗車して別れ、帰宅すると丁度夕飯の直前だった。

 普段着に着替え、食事を済ませて風呂へ入り、自室に戻った頃には午後八時過ぎだ。

 机の前で椅子に腰掛け、両手を上げて背筋を伸ばす。

 そのまま、じっと頭上の空間を見据え、俺は図書室でのやり取りを振り返った。


「……いったい、何をやっているんだ俺は……」


 思わず、独り言が漏れてしまう。


 織枝に印刷代の折半を申し出たせいで、無駄に重圧を与えてしまった。

 だが、あの子を助けようとして意見を述べた結果は、かえって落ち込ませたんじゃないかと思えてしまう。

 良かれと考えたはずのことが、裏目に出てばかり。



 ――やっぱり、このままじゃダメだ。


 俺は、通学鞄の中から、クリアファイルを取り出した。

 挟んである紙には、さっき織枝から見せてもらったプロットやネームが複写されてある。

 打ち合わせの途中、図書室の複合機でコピーを取らせてもらったのだ。


 もっと本気で、織枝の創作活動に協力しよう。

 何をどうすれば、漫画の内容が改善され、同人誌が良くなるのか。

 俺も具体的な考えを、自分なりに提示できるぐらいにはならなきゃいけない。

 きっと過去に創作経験がないことは、もう言い訳にすべきじゃないのだろう。


 机の脇にある本箱へも手を伸ばした。

 古いアルバムや文集の隣に並ぶ本を探る。

 そこから何冊か、同人誌や商業漫画の単行本を掴み、まとめて引っ張り出した。

 ページを広げて、織枝が描いたネームと突き合せてみる。



 織枝のネームと、すでに世間から支持されている作品は、何が違うのか。


 作画面に関しては、ここではいったん横に置こう。

 頑張って描き続けてもらって、技術的に成長してもらうしかない。


 そこで、ストーリーや演出面の問題に限定して考えてみる。

 織枝が描いたネームの印象をぶっちゃけてしまうと、ところどころ意味がわかり難い。

 別紙のプロットに記述された文章を参照すれば、細部も概ね理解できるのだが――

 注釈がなければ内容が正確に伝わらないとなると、漫画単体で読み手に訴求できる作品とは言い難いだろう。


 どうにも織枝のネームは、エピソードの展開に性急な場面が多い気もする。

 導入の一ページ目からそうだ。

 例えば、プロットの最初には「学校の教室/放課後」などと、作中の時間帯や場所の設定が記述してある。

 にもかかわらず、ネームにそれを読み手が把握できる要素は描かれていない……



 ――もしかすると織枝が描く漫画は、状況描写が不足しているんじゃなかろうか? 


 はっとして、大手サークル同人誌の冒頭ページを捲ってみる。

 導入部分をよく見てみると、一コマ目は背景ではじまっていた。


 意外なようで、しかし理屈には適っている。

 この同人誌の漫画は、最初のコマで場所と時間帯を明示していたのだ。

 これまで注意して読んでいなかったから、ちっとも気付かなかった。


 ついでに、商業作品の単行本も調べてみる。

 こっちの漫画は、一ページ目が丸々回想シーンではじまっているな。

 でも、プロローグ的な場面を抜けて扉絵を挟むと、本編に入って二コマ目は背景だった。


 他にも、何冊か同じようにたしかめていく。

 すると、やはり同人誌にしろ商業作品にしろ、冒頭付近のどこかに背景描写のコマが入っている漫画が多いみたいだった。


 いずれも、織枝のネームには見られない共通点だ。

 あの子の漫画では、一ページ目に背景と呼ぶべきものが存在していない。辛うじて、キャラが腰掛けている机と椅子が描かれているだけ。

 けれど、それで作中の舞台を理解するのは、いささか厳しいものがある。



「……気付いたことは、ノートへ簡単に書き留めておこう」

 

 俺は、誰にともなくつぶやき、机の抽斗ひきだしから未使用のノートを取り出した。

 ボールペンを握り、織枝のネームと他の作品を見比べた所感について、そこへ一つずつ書き込んでいく。


 ――しかし、横書きで五行ほど書き連ねたところで、はたと手を止めてしまった。


 改善案も併記しようとしたものの、即座に的確な方法が考え付かなかったからだ。

 仮に状況描写が不足してるからって、ただ背景のコマを追加しさえすれば解決するのか?というと、それが正しいのか確信が持てなかった。

 さあ困った。単に問題点をあげつらうのは、得策だと思えない。



 ちょっと思案してから、俺は机の上にあるノートPCを起動した。


 ブラウザで検索ページへアクセスする。

「漫画」「描き方」「講座」と入力して、リターンキーを押した。

 目の前の液晶画面には、ネット上の漫画創作系ハウツーサイトが一覧表示される。

 とりあえず、順番に一番上から眺めて回ることにしてみた。


 そうだ、俺は織枝のような絵が描けない。

 漫画のことだって、実戦的な技術は何もわからない。

 でも、自分なりに調べて、多少は知識を増やすことぐらいならできる。


 そうして、漫画制作の基礎的な技法を理解し得れば、ある程度は論理的な根拠を下地にして、ネームの改善案を提示することも可能なのではないか――

 俺は、そんなふうに思い至ったわけだ。


 まあ無論、こんなことをしたところで、必ずしも的確なアドバイスを送れるようになるとは限らない。付け焼刃の素人考えにしかならないというのも、おそらくその通りだ。

 より根本的なことを言うと、創作の表現には絶対の正解がないような気もする。

 とはいえ、こうして努力することは、あの子のネームに意見を述べるに際して、俺から示し得る大切な誠意なんじゃなかろうか。



 ……モニタ上のテキストや画像を目で追い掛けていると、改めて放課後の打ち合わせが脳裏に蘇ってきた。

 人気少ない図書室と、弱々しい織枝の微笑み。

 きっと心の中では、悔しさを押し殺していたのだろう。


 一緒に同人活動してるメンバーにあんな顔されたら、何かしら手助けしてやらないわけにゃ

いかないよな。



     ○  ○  ○



 翌日、朝のうちにメッセージアプリで、織枝と連絡を取り合った。

 放課後に少しだけでも時間が作れないか、打診してみたのである。

 もちろん目的は、昨日も打ち合わせした件の続きを話し合うためだ。


 この日、織枝にバイトのシフトが入っていることは、事前に承知していた。

 だから半ばはダメ元だったのだが、意外にあっさり了解を得られた。


 ____________

〔 少し遅い時間になるけ 〕

〔 ど、今日のバイトが終 〕

〔 わってからなら大丈夫 〕

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


 それが織枝の返信で、打ち合わせは「翠梢館」で行うことになった。

 つまり、勤務時間の終了後、その場ですぐに話し合おうというわけだ。

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