なにも馬鹿正直に本当に天才である必要なんてない

 自宅に戻ったらもう日付けが変わってしまっていて、リビングでは親父が部屋の電灯もつけずに暗闇の中でソファーに座ってテレビを観ていた。パジャマの上からカーディガンを羽織って、あとは完全に寝るだけという出で立ちである。わざわざ俺の帰りを待っていたのだろう。

「……随分と遅かったな」

 リビングに顔をのぞかせた俺に、親父はテレビから目を逸らさずに一言、そう言った。テレビショッピングのけたたましい声がかすかに聞こえて、テレビの映像の光が親父の顔をチカチカと蒼く光らせていた。

「バンドの練習だよ。別になにも後ろめたいことはしてない」

 俺は親父に簡単に説明をする。

「そうか」

 親父がそう言って、テレビを消す。俺が玄関の灯りをつけたので真っ暗闇ではないが、リビングはさらに暗くなった。

「熱心なのはいいが、あまり遅くならないようにしろ。お前になにかあったら母さんに申し訳が立たない」

 それだけ言って、親父は立ち上がりすぐ隣の自分の寝室へと引っ込んだ。

「……分かったよ」

 俺の返事が、親父に届いたかどうかは分からない。

 風呂の湯はすっかり冷めていた。沸かし直すのも面倒だったので、そのままぬるい湯に浸かる。

 親父のことは別に嫌いというわけじゃない。善良な人だと思う。親父は警察官で、寡黙で実直で、重要ではあるが面白味のない仕事をコツコツと積み上げていくことができる忍耐力のある人間だ。優れた資質だと思う。しかし、その分やはり考え方は柔軟性に欠け、保守的で愛国的で一面的で平板だった。良いものは良い、悪いものは悪い。そうした価値観が一度刷り込まれると、刷新されるということが滅多にない。俺の母親が死んでからは、そのへんがさらに頑なになってしまったようにも感じられる。

 母親がいないぶん、普通の家庭よりも欠けてしまっている、劣ってしまっているから、そのぶんを取り返せるぐらいにちゃんとしなければならない、しっかりしなければならないと考えているのだろう。一所懸命、なんとか普通を維持しようとしているのだ。

 なにも特別なことじゃないと思う。むしろ、とても平凡だ。真面目さと実直さと我慢強さだけが美点の、冴えない平凡で善良な男。それが俺の親父で、そして俺は親父の息子で、どうしようもなく親父に似てしまっていた。

「いい演奏だったね」と、久我山輝美は言った。「でも、とても平凡だ」と。

 俺よりも先にリッコが不機嫌そうな顔を見せて、俺は肝を冷やした。なにかを言いかけたリッコを身振りで制して、俺はとりあえず「久我山さんッスね」と言葉を返す。

「そう。知っているなら話が早いね。今日は君を見にきたんだ」

「……なんの用事で?」

「なにって、興味があったからね。youtubeの動画も見たよ。なかなか面白かった」

「そりゃどうも」

 そこで久我山は、一度なにかを確認するように左右を見回してから、軽く顔を寄せて、声をひそめて言った。

「オーディションがあるんだ。受けにこないか?」

「オーディション?」

 唐突な展開に、俺はどういう反応を見せるべきなのか判断できず、ただ鸚鵡返しに久我山にそう聞いた。

「そう、オーディションだ。今度、うちの事務所がピアノトリオを組ませたがっているんだよ。バンドにしたほうがプロモーションもしやすいからね。ベーシストはもう決まってる。藤見圭亮だ」

 その名前も俺は知っていた。というか、いま日本でまがりなりにもジャズをかじってて久我山と藤見の名前を知らないやつはモグリだろう。どちらも、まだ10代の若き天才プレイヤーだ。そのふたりがバンドを組む?

「あとドラムを加えて、シンプルなスリーピースバンドを組みたいというのが事務所の意向だ。で、その選定にもっとも重要な要件が、年齢。君は年齢という点では申し分がない」

 なるほど、と俺は思う。久我山はたしか、俺と同い年。藤見は一個上だった気がするが、いずれにせよまだ高校生のはずだ。そのへんの年代でバンドメンバーを統一したいということか。

「目指す音楽性の問題じゃなくて、事務所がやりたいセールスプロモーションの問題だけどね。10代の天才三人が組んだ新進気鋭のヌージャズユニット。そういうキャッチフレーズで売っていきたいのさ」

「でも、俺は天才じゃない」

 反射的に、俺はそう答える。俺は天才じゃない。うんざりするほど平凡で、凡庸で、普通なドラマーだ。年齢にしては上手いかもしれないが、そんな個性が光るようなタイプのプレイヤーではないことを、俺自身が一番理解している。

「天才ってのは、事務所がそういう風にセールスしたいってだけの話さ。なにも馬鹿正直に本当に天才である必要なんてない。というより、本当に天才ばっかり三人も集めたら、とてもじゃないけどひとつの音楽を一緒に作り上げることなんてできないだろう?」

 少なくとも、僕が求めているのは個性の光る本物の天才なんかじゃなくて、ストレスなく一緒に仕事ができるプロフェッショナルなんだ、と久我山は首を横に振る。

「君の音は、その点で非常に抜きんでている。まるで自分自身を脱臭して脱色して、押し殺すことに全力になっているようにも感じられる。つまらないと評価するやつもいるかもしれないけれど、でもそれはたぶん、君の持つプロ意識の現れなんだろうと僕は思う」

 久我山は言いながら、懐に手を入れて名刺を一枚取り出した。俺はそれを受け取る。久我山の名刺ではなく、どこかのスタジオのショップカードのようだ。裏面にアクセスマップが描いてある。

「事務所の連中の目は信用できないからね。あいつらは全然分かってないんだ。分かりやすい装飾にすぐ惑わされて、エッセンスが見えていない。君は地味だけど、エッセンシャルな部分での芯というか、軸みたいなものを感じる。僕は君みたいなドラマーと組んでやりたい」

 もちろん、事務所のオーディションだから僕の一任でどうこうできるというわけではないんだけど、と久我山は頬を掻きながら恥ずかしそうな表情を見せて、「オーディションにはねじ込める。それに、実際に演奏さえ聴かせれば説得することもできるだろう。君にはそれだけの力があると思う」と言う。

 久我山が、俺の肩を気安くパンパンと叩く。

「オーディションは来週の金曜日だ。もしその気があるなら、そこのスタジオに来てくれ」

 それだけを言い残して、久我山はステージの演奏にはなんの未練もなさそうに、真っ直ぐと出口に向かい、すぐに人ごみに隠れて見えなくなった。

「なんだったの? いまの」

 ずっと大人しく黙っていたリッコがそう言って。

「……チャンスの女神の後ろ髪だ」

 俺はそう答えた。

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