そんな口々に喋られても聖徳太子じゃないんだから分からない



 わたしは怒れる十二人の男です。



 ごめん、と言われた。

 北島くんはごめんって言っていた。

 わたしはもうずっと、ベッドでただ横になっている。

 頭の中では誰もなにも考えていない。ときどき、誰かが思い出したようになにかを呟いたけど、それを聞く人が誰もいなかった。言葉はどこにも辿り着かず、ただ消えていく。

 わたしはすっかり散らかってしまった頭の中を、「ああ、散らかっているな」と思いながら、ただ眺めている。散らかっているな。それは散らかっている。

 電話が鳴る。

 わたしは出ない。

 電話が鳴る。ディスプレイを確認する。

 唯だ。

 唯だった。

 そうだ、唯がいるじゃないか、とわたしは思う。なにもかも、全部唯に話してしまうのはどうだろうか、後先考えずに、全てぶちまけてしまうのはどうだろうか。頭の中を整理したりとか考えをまとめたりとか、どういう目的でとかなんの意味があってとか、そんなことを一切考えずに、思いつくままに気の向くままに、なにもかも全部、余すところなく唯に話してしまってはどうなのだろうか、という議題を、わたしの頭の中で誰かが提案する。

 その提案を聞く人は誰もいない。

 わたしは電話に出る。

 唯は泣いている。

 また、先制攻撃をもらっちゃったなって、わたしは思う。

「唯、どうしたの?」

 わたしはベッドに横になったまま、静かにそう言う。わたしは散らかった部屋の真ん中に立ち尽くしたまま、静かな怒りを押し殺してそう言う。唯は泣いている。

「わたし、コウと別れることにしたから」

 コウ? と、わたしは少し、考える。コウっていうのは、北島くんのこと。北島くん、わたしにごめんって言っていた北島くん。

「そうなんだ……」

 わたしは小さな声で、呟くようにそう答える。そう答えている自分を、どこか遠くのほうから眺めている。

「ごめんね、リッコは全然なにも悪くなかったんだけど、わたし、八つ当たりしちゃってて」

 唯の声が、遠い。遠くであがる花火のように、言葉に意味が遅れてやってくる。光の後に、音が到達する。音に遅れて、意味がやってくる。

「わたし、やっぱラフネイバーフッドの育ちだからさ。変に斜に構えちゃってたんだと思う。周りの誰も、そんなまともな恋愛なんてしてなかったし、それが普通だって思ってたから。恋愛なんて、本気で愛していなくても、運命の相手じゃなくても、長続きしないかもしれなくてもそんなの別にいいじゃんって、思ってて。傷付いたら傷付いたで別にいいじゃんって、そう思ってて。そう思ってたはずなんだけど」

 唯はつっかえるようにしながら、少しずつ、そんな話をする。わたしはそれを、あまりちゃんと聞いていない。聞けていない。聞ける状態にない。意味は常に、遅れてやってくる。

「でもやっぱり、辛いよ。本当に好きになっちゃったら、すごく辛い。恋愛って辛いんだなって、やっと分かった気がする。わたし別に、大人なんかじゃなかった。全然、わたしのほうが、ずっと子供だったんだなって」

 ただ、唯の言葉が聞けるのは、その音が耳に届くのは、それはとてもいいことだなと思えて。

 不思議と、安心する。

 きっとそれは、唯がいまわたしに求めていることとは、ちっとも違うんだろうけれど。

「なんか、リッコはちゃんと恋愛してたからさ。まるで少女漫画みたいな、ちゃんと恋愛してたから、なんか悔しくなっちゃって。それで単に、八つ当たりしてたの。ごめん。リッコがそうやって、ちゃんと正しい、ちゃんとした恋愛をしているのに、自分はただ離れていくコウの気持ちを繋ぎ止めたくて、それだけのために惨めに粘ってて、でも、求められるとそれはそれで、自分に特別な価値があるように錯覚できて、そんな自分が情けなくて」

「唯……」

 わたしは唯の名前を呼ぶ。言葉にして口に出してみると、それはとても大事な響きで、なにかの結晶のように、コロリと輝いていて。

「コウね。わたしとなにをしていても、わたしとなにを見ても、委員長だったらどうかな、委員長だったらなんて言うかなって、そんなことばっかり言うんだよ。ほんともう、嫌になっちゃう」

「そうなんだ……」

 わたしはベッドに横になったまま、静かにそう言う。わたしは壁際の本棚を引き倒して中身を床に全部ぶちまけながら、それがどうしたっていうんだ! と叫んでいる。

「コウが好きなのは、リッコなんだよ。ずっと前から、そうだったの」

「そうなんだ……」

 わたしは寝返りをうって横を向く。わたしは電気スタンドのコードを引きちぎって、窓の外に放り投げる。

「わたし……リッコのことが好き」

「わたしも、唯のことが好きだよ」

 わたしはあなたのつつましやかなヴァーチャルアシスタントです。

「だから、リッコがこのあと、どうしたとしても、どういう風に決めたとしても、わたしは別に大丈夫だから。わたしはリッコのことが、変わらず好きだから。好きでいられるから」

「どうする?」

 わたしは静かにそう問い返す。どうするってなんだ! 一体、なにをどうするっていうんだ!? と、カーテンを引きちぎりながらわたしは叫ぶ。

「だから、リッコはわたしのことは気にしないで、自分の気持ちだけを考えて、自分の気持ちに素直に、自分の思う通りに決めればいいと思うから。したいようにすればいいから。それで、大丈夫だから」

「したいように」

 わたしはその言葉を、そっと手に取って見分してみる。いろいろな角度から、眺め見てみる。お前はどうしたいんだ! と、わたしがめちゃくちゃに拳を振り回しながら叫んでいる。

 たとえば? たとえばどういうことを、唯は言っているのだろう。唯と別れたあとで、北島くんと付き合う? そんなことがあり得るだろうか。そんなことが、あり得ていいだろうか。

「今から、コウがうちの屋上に来るの。それで、ちゃんとお別れして、わたしはそれで、ちゃんと終われるから。ちゃんと終われると思うから。だから、大丈夫」

 大丈夫、大丈夫と、唯は自分に言い聞かせるように、何度も言う。

 そんなの、ぜんぜん大丈夫そうじゃないじゃない。

「そうなんだ……」

 わたしはそれだけを、ただ静かに言う。

「うん、それじゃあね」

「うん、それじゃあね」

 電話が切れる。

 わたしは電話を放り出して、仰向けになって天井を見る。

 天井にはなにも書いてない。どこにもわたしへの指示がない。

「わたしのしたいように?」

 わたしはいったい、どうしたいのか。どうしたい? と自問する。お前はどうしたいんだ!? と、わたしが叫んでいる。

 たしかむかし、そう、それはたぶん遠いむかし、わたしは北島くんのことが好きだった。そういったことがあったように思う。それはわたしの心の中の、迷いの森の奥深くにある、樹木の太い幹に薄い傷として残っていて、よくよく注意して探さないと見つけられないほどの、それはほんのちょっとした傷で。

 首筋に今も残る、吐息の感触。それは熱くて、温かくて。

 わたしはそれを受け入れていた。

 わたしは北島くんを受け入れていた。

 わたしは分かり合える人を求めているのだろうか。

 北島くんはたぶん、分かり合える人を求めていて。

 わたしは、北島くんと分かり合えるのだろうか。

 わたしは。


 わたしには自分の気持ちが分からない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る