クーリングオフとは頭を冷やして考え直す期間のこと



 わたしは地球の周回軌道をグルグル回る人工衛星です。



 二番目のバンドが終わったぐらいの時間から、お店のほうもだいぶ混みはじめてきて、どうやら夜はここからって感じのようだったのだけれど、ぶっちゃけ三人が三人とも難しい音楽のことなんてよく分からないし青木くんの演奏を見たかっただけだったから、あまり遅くならないうちに早めに引き上げることにした。お店を出るまえに遠くのほうのテーブル席で誰かと話し込んでいる風の青木くんに手を振ったら、青木くんもこちらに気が付いて軽く手を上げかえしてくれた。それだけで、なんだか得をしたなって感じがして、胸の奥のほうが少し、温かくなる。

 帰る道すがら、わたしはひたすら「青木くんすごかったね~」「青木くんかっこよかったね~」「青木くんってなんだか大人なんだね~」と、思いつくままに口から吐き出していて、なんでだか知らないけれども北島くんはむっすりと黙り込んでいて無口な感じで、そうなるとそれに合わせて唯もわりと無口になって、三人して黙り込んでいるのもなにかおかしい気がするから、仕方なくわたしはまた「ね~、青木くんすごいね~、ワールドワイドなんだね~」とか言ったりする。ひょっとしたら、呆れられていたのかもしれない。でも、そういうのもなんだか全然、気にならない。

 その日以来、わたしは学校の授業中なんかでも、ふと青木くんのことを考えていたりする自分を見つけたりする。あれ? これはひょっとして、わたし青木くんのことが好きなのかな? なんて思ってみたりもする。でも、青木くんがあのエキゾチックで美しいヴォーカルの女の人のことが好きだっていう気持ちは素直に応援してあげたい気がするし、どれだけ自分の心の奥の迷いの森を探索してみても、そこに嫉妬心のようなものが見当たらない。全然、あの美しい女の人に太刀打ちできる気がしない。到底かなうわけがない。そのことを、これっぽっちも悔しいと感じない。それになんていうのか、あの美しい女の人のことを素直に美しいと言えてしまう青木くんのことが好きだなって、わたしは思うから、たぶんこれは、恋とかそういうのとは違う気がする。ただ、青木くんのことをすごいと思うし、かっこいいと思う。

 ただ、興味はある。すごくある。青木くんに対して、わたしはとても興味を持っている。もっと青木くんのことを知りたいと思う。

 そんなわけで、わたしは青木くんのメールアドレスをゲットした。

 唯にお願いして北島くんに聞いてもらって、唯が北島くんから聞き出してくれたメアドをわたしに教えてくれたのだ。やった! と思った。やってみれば意外とどうにかなるものなのだな、なんてことを少し考えた。よし、自分にはできる、やればできると意味の分からない励まし方を自分自身でして、宛先を青木くんのメアドに設定して新規メールを作成しようとする。

「あ~、無理! え? なにこういうの、なんて言えばいいの?」

「なにって、別に。リッコでぇ~っす☆ 北島くんからメアド聞いちゃった。これわたしのメアドだから登録しておいてね! キャピッ☆ とかそういうのでいいんじゃないの?」

「あ、それいい。それいいね。うん、あんまり重すぎないほうがいいよこういうのは。わ、すごいね唯、文才あるよね。ありがとう。やっぱ持つべきものはイケてる友達だね」

 毛先を摘まんで枝毛を探しながら呆れたようにそう言う唯に、わたしは嬉々として返事して、言われたとおりの文面を携帯で打ち込む。

「お、お……送信……しますよ? そ、そ、そ、送信!」

 ポチッ! わたしのとびっきりのキャピッ☆ が電波に乗って、はるか遠くの青木くんの元まで飛んでいく。こんなに簡単なんだ。こんなに簡単なことなんだなって思う。科学ってすごい。ビバ科学の叡智。

「なんかリッコ、ここのところ急激に知能が退化してない?」

「うん? そんなことはないよ。この間の小テストも満点だったし。絶好調ゼッコーチョー」

「ああそう」

 お昼ごはん(今日はおかん亭のおにぎりの日)も食べ終わって、人気もまばらな教室でそのまま唯とダベりながら、そんな感じで青木くんにメールを送ったりもして。

 ここのところ、なんだかわたしは毎日がちょっと楽しい。知能が退化、しているのだろうか。うん、なんだか分からないけれど、いろんなことが新鮮に感じられる気がする。当り前だと思っていたことが、実はとってもすごいことだったんだなって、改めて再確認できたりする。

「リッコってさ」

「うん?」

「彼氏いたことないの?」

 唐突に、唯にそんなことを聞かれて。少し投げやりな風にそんなことを聞かれて「え? ないよ? ないない。そんなのないよ。あるわけないじゃん」と、ビックリしながらわたしは答える。高速で細かく首を横に振る。

「あるわけない……ことはないと思うけど、リッコ普通にかわいいし。彼氏ぐらいできるんじゃないの? 作ればいいじゃん」

「作ればって言ったって、そんな簡単な話でもないでしょう? 誰を好きになればいいのかも分からないし、それに、好きな人ができたとしても、その人がわたしのことを好きになってくれるかも分からないわけだし」

「そうやって、勝手にハードルを上げているから簡単じゃないんでしょ。簡単だよ、誰かと付き合うのなんて」

 と、本当に簡単そうに、唯はそう言うんだけど、そりゃあ唯には簡単かもしれないけどさって、わたしは思う。たぶん、そんなに簡単な話じゃないと思う。

「う~ん、なんかズルいなあ。リッコすっごい、恋しちゃってるじゃん」

 机の上に溶けるみたいにだら~んと伸びながら、そっぽを向いて唯がそう言う。

「は? 恋? してないしてない。全然してないって、そんなの」

「は~? なにそれ。自覚なし? う~ん、まあいいけど」

 唯は長い時間をかけて一定のペースで上半身を起こし、机に頬杖をついて、睫毛を伏せて胡乱げな目でわたしを見る。睫毛が濃くて長くて、明るく輝くブラウンの瞳にくっきりとした影を落としている。

「わたしはあなたのことが好きです。あなたもわたしのことが好きです。じゃあお付き合いしましょうって、リッコの理解だと恋愛ってそういう制度になっているんだと思うけど、たぶん、そういうものじゃないと、わたしは思う」

 いつになく真面目な調子で唯がそう言うから、ううん、なんか、真面目な口調で話す類のジョークなのかもしれない。そういう高度なことを、唯はたまにする。それはわたしには少し、難しい。

「相手が自分に好感を持ってるなって思って、自分も別に嫌いじゃないなって思ってて、じゃあお付き合いしながら実際のところを確認してみましょうかみたいな、そういう期間なんだと思うよ。そうでもないと、外側からザッと見ただけでその人の良し悪しなんて、結局外見的な特徴ぐらいしか分からないし」

 長いクーリングオフ期間みたいなものなのよ、と唯は言う。

「え、じゃあそのお試しで付き合ってみて好きじゃないなって思ったらどうするわけ?」

「そのときは別れればいいんじゃん? 別に、なんの約束があるわけでもないし」

「ええ~……、ドライだねぇ」

「じめっと湿気っぽいのも嫌じゃない?」

 なんでもないことのようにそう言う唯のその表情が、なんだか、全然なんでもないことでないような感じがして、胸がチクリと痛む。

「唯は……」

 そう口に出してみた言葉は、そこで途切れて続かなかった。

 唯は、北島くんのことも長いクーリングオフ期間みたいに考えているのかな。

 急にそっぽを向いてムスリと黙り込んだ唯の横顔を眺めながら、わたしがそんなことを考えていたら、唯は唐突に「あ~、やっぱ無理!」と言って、ドンと両手を机について立ち上がった。

「わたし、やっぱりちょっと、しばらくリッコのこと無理かもしれない」

「え、なにそれ待って。無理ってどういうこと?」

「別に、リッコがどうこうって話じゃないけれど、わたしが無理みたいだから。悪いけど、明日からお昼も一緒に食べないから」

 そう言って、唯は教室を出て行ってしまう。

 え? え? ええ~??

 ひとり残されたわたしは意味も分からずに混乱したままで呆然としてしまう。なにか気に障るようなことを言っただろうか。なにかしてはいけないことをしただろうか。色んな考えがグルグルと渦巻くけれど、そのどれもが明確な形を取ることなく指の間をスルスルとすり抜けていって、捕まえられない。

 ブッブッ、と携帯がバイブした。メールが一件、着信している。

 ――了解。

 ただ一言それだけの愛想のないメールが青木くんから返ってきていて、混乱するわたしにはそれが煉獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸のように思えてしまって。

 わたしはすごい勢いでメールを返信する。

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