人ひとりに含まれるエネルギーは人ひとり分なんだぜ




 わたしはアンドロイドの夢を見る電気羊です。



 唯と北島くんは付き合うことになった。

 最近、唯はよく北島くんの話をする。唯は北島くんのことを「コウ」と呼ぶ。朝の通学路で、お昼やすみの教室で、放課後のジョナサンのドリンクバーで、「コウがね~」「コウがさ~」と、唯が逐一報告してくれるものだから、わたしは唯と北島くんが、いつ、どこで、なにをしたのかをほとんど全部把握している状態になる。唯×北島研究における第一人者みたいなポジションになってしまう。

 北島くんの一番のお気に入りの場所が唯の住んでいるマンション? (マンションっぽくはないけれどアパートって感じでもないし、ビルって言うのがやっぱり感触としては一番近い) の屋上なものだから、必然的にふたりはよくあの屋上で話をしたりするらしい。休みの日にふたりでデートをするのでも、一度、北島くんが唯の家の屋上まで行って、屋上で唯が洗濯物を干してるのをただ眺めたりして、それから歩いてふたりでお出かけするのだそうだ。なにしろ、立地てきには市内の一等地(の端あたり)なので、どこに行ってなにをするにしても、唯の家からならだいたい徒歩で行けてしまう。

「なんか、あの感じが好きなんだって。やっぱ客観的には古臭くてしみったれたマンションじゃん? わたしわりとコンプレックスでさ。今までは彼氏とかできても、住んでる場所は絶対にバレないように気を付けてたんだけど、コウには最初からバレちゃってるからすごい気が楽っていうか、それに、コウはアレがいいんだって。変わってるよね」

 ちょっとアーティスト気質なところがあるっていうかさ~、みたいな感じでノロケていて、北島くんのあの普通に考えたらただのすごく迷惑な性質でしかない変人っぷりも長所として見えてしまっているらしい。これも恋は盲目というやつなのだろうか。

「部屋もね、ちょっとだけ上がってもらったんだけど、リッコは知ってると思うけど、あの部屋もわりとすごいじゃん? 自分としてはその時々でイケてる部屋を作ろうって意志でやってはいるんだけど、やっぱりわたしたちぐらいの年代ってホラ、日々センスが移ろっていくじゃない? でも、部屋っていうのはどうしても大掛かりなことだから、センスが変わっちゃってもはいじゃあ変えますって即座に対応ができるわけでもなくて、だからなんていうのかな、ごちゃごちゃとしちゃってまとまりがないんだけれど」

 北島くんは唯のそんな部屋のことを称して、時の最果てみたいだと言ったらしい。いろんな時期のいろんな時代のいろんな唯が、そこでは時を超えていちどきに全て同時に存在している。唯の部屋にはそんな感じがあって、唯のいろんな側面を同時に見ることができて楽しいって。

「でも、そういうところもリッコにちょっと似ているところがあるんだよね。だからわたしとコウも、お互いは全然似てないもの同士なのに、なんか気が合うんだと思うの。だってわたし、リッコとはすごく気が合うから」

 唯はそんなことを言って笑う。北島くんに似ていると言われたわたしは、なんだか微妙な気持ちになってしまう。総合的に言うと、そんなに嬉しい感じではない。わたしと北島くん、似ているんだろうか。

 たしかに、廃屋とか屋上なんかに関するちょっとロマン主義的でゴシックでパンクで、でも牧歌的な美的感覚という部分では似通っているというか、お互いに理解できる部分があるのかもしれないけれど、でも、そもそもわたしのそれは偽物なのだ。頭のおかしい天才っぽい見た目をしていたから、周りから頭のおかしい天才だと思われていたから、頭のおかしい天才なりの所作というものを求められていたから、それで見た目に合わせて頭のおかしい天才っぽい趣味を作って頭のおかしい天才っぽく振る舞っていただけのことなのだ。そうやって、クラスの中で「頭のおかしい孤高の変人」という安定的なポジションを確保していただけなのだ。頭のおかしい孤高の変人は、頭のおかしい孤高の変人なりにちゃんと居場所というのが与えられていて、それはとても安定していて安心できたから、わたしはそこに留まるために頭のおかしい孤高の変人であり続けただけなのだ。北島くんみたいに、元から変人なわけじゃない。北島くんは普通っぽい、というかかなり綺麗な見た目をしているのに、その綺麗な見た目に合わせて求められるような振る舞いをすることなく、そのまま生成りの変人で居続けた人なのだろう。それもある種の人間的な強さではあるのかもしれないけれど、やはり、変わっていると思う。それはきっと、アーティスティックとかそういうことではなく、たぶん、ただの社会性の欠如でしかないのだ。顔だけは、うん。だいぶ綺麗だしアーティスティックではあるけれども。

「北島くんとわたしが似た者同士なら、北島くんはきっと唯のことが超好きだよね。だってわたし、唯のことが超好きだもん」

「ええ~? そうかな~?? そうかな~~????」

 わたしが少し投げやりな気持ちでそんなことを言っても、唯はそれを素直に喜ぶだけで、両手で自分の顔を挟み込んでなんかクネクネとしてる。なんかもう、いろいろとダメっぽい感じではある。

「そうだよ」と、わたしは言う。いまさらなにを言ったところで、唯と北島くんはもう付き合っているのだ。ふたりがちゃんとうまくいって、お互いに幸せになれたらいいなって、わたしはそう思う。そう願っている。この気持ちはそう、どちらかと言うと、祈っていると言ったほうが近いのかもしれないけれど。

 そんな感じで、唯の「コウがさ~」「コウがね~」をウンウンって大人しく延々と聞いていたら、ある日突然「コウがさ、青木くんがライブやるから一緒に見に行こうって言ってて。リッコも誘って」なんてことを言われる。え? なに? ライブ? 青木くんが?

「青木くんがライブするの? なんのライブ? バンド?」

 寝耳に水な話でビックリしてしまって質問攻めをするわたしに、唯もよく分かってなさそうな調子で「なんかそうみたいだよ。それも、コウが言うには本格的でかなりカッコイイやつなんだって」と答える。へ~、そうか。バンドやってるのか。なんか文化系の人なんだろうなと思ってたんだけど、なんていうか見た目てきにすごく平均的というか、平凡な人だから、かなり意外。そっか、音楽ね。なるほど?

「は~、人は見かけに依らないものなんだね」

 わたしもそう言ってはみたものの、平凡という印象しかなくて、具体的に青木くんがどんな見た目をしていたのかももう思い出せないのだけれど。街中でふとすれ違っても分からないかもしれない。でも、少なくともバンドマンっぽいような感じではなかった覚えがある。

「どう? わたしは行くつもりだけど、リッコが別にって感じならパスしてもらっても全然いいんだけど」

「あ、ううん。行く行く。なんか、興味ある……かもしれない」

 そういうわけで、その週の土曜日の夕方に唯と北島くんとわたしの三人で駅前で待ち合わせて青木くんのライブに行くことになる。

「あれ? 今日は眼鏡なんだ」

 合流するなり唯にそう言われて、あ、そういえばっていう感じで、わたしは自分が三つ編みダサ眼鏡バージョンで家を出てきてしまったことに今さら気が付く。気付いてみると自分でもどうしてなのかよく分からないのだけれど、なんだか自然とこっちのほうのわたしで準備をしてしまっていて、自分ではそのことをなんとも思っていなかったのだ。どうしてだろう? 北島くんが居るからだろうか。北島くんと顔を合わせるときはお下げ眼鏡バージョンみたいな、自分の中で無意識の使い分けがあったのかもしれない。

  自分でも自分のことを全然理解できないっていうのは普通のことだ。そう言っていた青木くんのことを思い出す。

「わたし、ライブって初めてだから全然どんな感じか分からないんだけど、マズイかな? ダサすぎる?」

「いや、大丈夫じゃないかな。ライブって言ってもなんか若い子がはしゃぐようなやつじゃなくて、なんかわりと落ち着いた感じの。そんなに混まないと思うし」

 北島くんは口ではそう言ってはいたけれど、わたしのダサ眼鏡ぐあいに対してやや不満がありそうな感じではあった。まあ、あんまりダサいのを引き連れているのも恥ずかしいだろうとは思う。申し訳ない。

「ていうか、リッコのそれ言うほどダサくもないからね。なんかそれはそれで似合ってるしかわいいよ」

 唯はやさしいので、そんな露骨なフォローを入れてくれたりもする。唯はと言えば、ファッション雑誌から読者モデルが抜け出してきたみたいな完璧なかっこかわいい系女の子コーデで、顔だけは綺麗な北島くんと並べると、溜め息が出そうなぐらいに様になっていた。でも北島くんは元の顔はとびきり綺麗なんだけど、ファッションはそれに比べれば飛びぬけてオシャレということもないので、もうちょっと頑張ってほしいかもしれない。

 ライブっていうから、わたしはてっきりライブハウス(それも曖昧なイメージがあるだけで具体的に現物がどんなものなのかは知らないのだけど)みたいなところでやるのかと思っていたら、会場はバーとかパブっていうのかな? 普通の飲食店っぽい造りのお店で、普通っていうか、暖色系の電灯で照らされた壁がレンガ造りの地下に降りる階段の時点で高級なオシャレ感が漂っていて全然普通ではなかったんだけど、とりあえずちゃんとテーブルと椅子が用意されている感じの会場だった。真ん中に半円形のステージがあって、それを取り囲むように近場に丸テーブルと椅子の席、遠くの壁に近いところにソファーを組んだブース席が用意されていた。

「青木はトップバッターで7時からだって」

 入口でもらったチラシでタイムテーブルを確認しながら、北島くんがそう言った。チラシを見てみてもどこかに青木くんの名前があるわけでもなく、バンド名っぽいアルファベットの羅列が並んでいるだけなので、わたしにはなにがどうなのかはよく分からない。とりあえず、青木くんのバンドだけのライブというわけではなく、一晩でたくさんのバンドが演奏するうちの一組に青木くんも出ているということらしい。

「まあ、前座ってやつだね。今回の一番の大物はこのバンドだけど、ちょっと遅いから見れないかも」

 一番端のソファー席に腰を落ち着けて、北島くんがチラシを指さしながら説明してくれるけれど、その大物バンド? にしたってわたしは名前を聞いたこともないから、特段見たいというわけでもない。というか、これからなにが起こるのか、どういう感じなのかがまったく想定できていないので、見たいも見たくないもよく分からない。とりあえず、青木くんが演奏しているところは見たい気がする。

「なんかわりとお客さんまばらな感じだけど、大丈夫なのかな?」

 唯が落ち着かなさそうに腰を浮かせて何度かスカートを整えながら、そんなことを言った。開場と同時に中に入ったのはわたしたちの他には三組ぐらいだけで、みんなソファー席のほうに陣取っている。会場をウロウロとしながら談笑しているのは、たぶんバンドの関係者とかお店のスタッフとかだろう。平均的なライブがどういうものかは知らないのだけれど、閑散としていると言っていいと思う。

「この手のお店にしてはまだ全然早い時間だからね。これから入ってくるんじゃないかな」

 北島くんは前にも青木くんのライブを観にきたことがあるのか、多少勝手を分かっている感じだけれど、わたしと唯は馴染みのない雰囲気に完全に呑まれて借りてきた猫状態である。

 普通のレストランみたいな感じで、ボーイさんに飲み物を注文するとテーブルまで持ってきてくれる。飲み物代としてはちょっと目玉が飛び出るような値段だったけれど、お店の雰囲気的にこれくらいはするのかなという気はする。命まで取られるほどではなかった。

 雰囲気に慣れなくてなんとなくソワソワしてしまって、そんなに会話も弾まないうちに7時近くになってきて、お店の中はさっきよりも何組かはお客さんが増えていたけれど、相変わらず閑散とした様子でそんなに盛り上がってきている気配もなくて、そのへんをプラプラと歩き回っていた人たちが曖昧にステージに登って楽器を出して適当に触ったりベンベンと気の向くままに音を出したりしはじめたなと思っていたら、その中に青木くんも混じっていた。ドラムセットの前に座ってちょこっと叩いたり、なにかを調整したりしている。へえ、青木くんドラムなんだな~なんて思っていたら、特になんのアナウンスもなく照明がやや落とされて、唐突に曖昧に曲が始まった。

 バンドの構成は青木くんがドラムで、あと普通に若い日本人のエレキギターとエレキベースの人が居て、若いっていっても20歳は余裕で越えていると思う。この中だと青木くんがブッチギリで若そうなんだけど、でも青木くんには妙な貫禄が感じられてそんなことは全然気にならない。あとは黒人の人がギターに似ているような、ちょっと変わった民族楽器みたいなのを弾いていて、独特の奇妙なメロディを鳴らしている。それから、ヴォーカルの女の人も、たぶん黒人。でも、妙な楽器を弾いている人よりはもうちょっとエキゾチックな雰囲気があって、どこの国の人なのか全然想像がつかない感じ。ハーフとかなのかもしれない。ブレイズっていうんだっけ? 髪の毛をぜんぶ細かく編み込んでいて、後ろでひとつに束ねて垂らしている。エクステンションなのか地毛なのか分からないけれど、色んな色の束とビーズが不規則に混じっている。形容するなら「美しい」が一番適切だなって感じがして、わたしは、ああこの人が青木くんの好きな人なんだろうなって思う。

 そして、声が凄まじかった。

 揺れたと思った。地下にあるはずのこのお店じたいが、丸ごと大きく揺れた。ドンと揺れた。声が壁みたいに確かな質量を持って、向こうから襲ってくるみたいな感じだった。どこにも逃げ場がない。

 音も凄かった。

 正直、音楽のことは全然まったく分からないのだけれど、肚にくるって感じで、ものすごく力強い音だった。あと、わたしが全然聴いたことがないような種類の音楽。たぶん、アフリカとか、そっちの方の民族音楽の要素が入っているんだと思う。どっしりとした、地平線まで続く大地を想起させるような、雄大さと恐ろしさと、勇壮さと慈愛を同時に感じさせるような、不思議な音楽だ。

 あ、これドラムの音なんだって気が付く。いや、ずっと鳴っていたはずなんだけれど、それはなんだかわたし自身の身体と一致してしまっていて、力強く鳴り響いているのに、同時にその存在を感じさせないような、そこにあるがためにスッとその姿を消すような不思議な感覚。

  俺の良さが分かるのには時間が掛かるのさ。縁の下の力持ちってポジションだからな。また、青木くんの言葉を思い出す。これはたしかに、縁の下の力持ちだ。

 ヴォーカルがすごい。人間の身体から、こんなにも声が出るのだと驚愕する。その声は生命力に満ちていて、慈愛に満ちていて、とても美しい。

 青木くんは激しくドラムを叩いているんだけれど、体幹のところはほとんど揺れもしない。ぼーっと見ていると青木くんはただそこに座っているだけで、その前でドラムセットが勝手に自動的に鳴っているような気さえしてくる。わたしがミュージックステーションとかでたまに見るようなロックバンドのドラムなんかとは、具体的になにがかは分からないけれどもなにかが違うって感じがする。

 始まったと思ったらなんかあっという間に青木くんの出番は終わっていて、演奏の間中ずっとビリビリしていたわたしは、なんだかすごく脱力してしまう。マイクを持った人がステージに上がってきて何事かを話していたけれど、わたしはその人が話している内容を把握することがちっともできない。魂がちょっと身体から抜け出してしまって、まだ戻ってきていないような気がした。

 そうこうしているうちに、ステージではまた別のバンドが曖昧にスタンバイを始めていて、それを見るともなしに見ながら呆けていたら、いつの間にかテーブルのすぐ近くに出演を終えた青木くんが来ていた。北島くんと唯に軽く挨拶をした後で、わたしの横にきて「委員長も来てくれたんだな」って声をかけてくれる。

「すごかった。もう……うん。すごかったよ」

 わたしがうまく言葉にできずに、なんとかそれだけを絞り出すように言うと、青木くんは「そりゃ光栄」と言って、おどけるようにグルリと目を回してみせた。

「どうやったらその身体であんなに肚にくる音を出せるの?」

 わたしがそう聞いたところで次のバンドの演奏が始まった。青木くんは猫みたいにスムーズな身のこなしでわたしの横に座って「肚にきたか?」と、顔を耳に寄せて言う。大音量でバンドが演奏しているから、そうしないと聞こえなくて。

「きたきた。すっごい、肚にきた」

 わたしも攻守交替って感じで、青木くんの耳に口を寄せて言う。こんな大音量の中で話すことに慣れていないから、必要以上の大きな声を出してしまったみたいで、一瞬青木くんはビックリしたみたいに肩をすくめたあとで、素直な感じで笑う。なんか、アイロニカルに笑っている青木くんは見たことがあったけれど、そんな風に素直な感じで笑っているのを見たのは初めてのような気がした。そうやって笑っていると、やっぱり青木くんは年齢相応というか、むしろそれよりも幼さが見えるような感じがして、なんか親近感が湧く。

「それ、一番言われたい種類の言葉だよ」

 ありがとな、と言って、青木くんはポンポンとわたしの肩を叩く。それがなにを意味する意思表示なのかは、わたしにはよく分からなかったのだけど、青木くんがそんな風にスキンシップをとってくるのも珍しいと思う。演奏の余韻で少しハイになっているのかもしれない。

「どうやって……か。そうだな。エネルギー保存の法則ってあるだろう?」

 青木くんがもう少しだけわたしのほうに身を寄せて、そんな風に話しはじめる。ちょっと具合が分かってきて、さっきみたいに口を耳の近くに寄せたり大きな声を出したりしなくても、大音量の演奏の中でうまく話せるようになってくる。エネルギー保存の法則。

「うん」

「エネルギーは限られているんだ。ひとりの人間が持っているエネルギーは人ひとり分しかない。もちろん、トレーニングで多少その大本じたいを伸ばすこともできるけれど、そんなのはたかが知れている。だから、その限られたエネルギーをなるべくロスがないように、効率良くすべて音に変換する。そういうことを考えながらやっているかな」

「効率良く」

 わたしには青木くんの話がまだよく見えてこなくて、それはひょっとしたらわたしが楽器をやらないせいなのかもしれないけれど、だから、ひょっとするとどれだけ話を聞いてみたところで無駄なのかもしれないけれど、でも、分かるとか分からないとかを抜きにしても、そんな風に話す青木くんを見ているのはなんだか楽しくて、楽しいっていうのも少し違うけれど、なんだか面白いというか……そう、それはとてもインタレスティングで。

「そう、効率だ。効率良くやらないといけない。熱とか力とかに無駄に発散させてしまうと音が弱る。だから、熱くなってはいけない。無駄な熱量は無駄だ。必要以上に力んでもいけない。無駄な力は無駄だ。最適な熱量で、最適な力で、最も良い効率でエネルギーを音に収束させる。ベクトルの内積って習っただろう? ああいうイメージだ。一本のぶっとくて巨大な矢印に音を束ねて、それで観客をぶっ刺してやるんだ」

 正直、それがエネルギー保存の法則とかベクトルの内積の理解として適切なのかどうかは、ちょっと疑問に思わないでもなかったのだけれど、でもきっと、そんなのはどうでもいいことなのだろう。重要なのはたぶん、イメージ。

「わりと色々と考えてやっているんだね」

 音楽って、もっとノリとか勢いでやるものなのかと思っていたけれど、青木くんはすごく、理屈っぽい。

「なにしろ、俺は他のプレイヤーに比べると圧倒的に経験が足りていないからな。経験の差は、理屈で埋めるしかない。ベンデレなんかには……ああ、ベンデレっていうのはコラを弾いていたマリ人なんだけど」

 青木くんは思い出したようにそう説明をするのだけれど、言われてもわたしにはマリっていうのがどこにある国で、コラっていうのがなんのことなのかは分からない。でも、察するにたぶん、あのギターにちょっと似た、少し奇妙な弦楽器がコラと言うのだろう。あれを弾いていた黒人の人が、マリ人のベンデレ。たぶん、そういう話だ。

「ベンデレなんかにはハジメは難しく考えすぎだ。もっとグルーヴに身を任せろなんてことを言われる。でも、あいつらは生まれつき身体の内側に、全身を流れる血そのものに音楽が流れているんだ。大地の音楽、大地のリズム、大地のグルーヴだ。それは日本人では、絶対に身に着けることができない。無駄なんだ。根本的には、やっぱりアフリカの音楽っていうのはアフリカの大地に根差した、あいつたちの音楽なんだ。だから、あいつらと同じようにやったって、俺では絶対に、あいつらと同じようにはなれない。俺は俺で、自分自身のやり方っていうのを自分自身で見つけていくしかないんだ」

 そのためには、理屈が必要だ。と青木くんは熱く語る。でも、わたしがその話で気になってしまったのは全然そんなことじゃなくて。たぶん、青木くんにとってとってもエッセンシャルな、そんな話ではなくて。

「青木くん、下の名前ハジメっていうんだ?」

「あれ? 言わなかったっけ?」

 そう言って、熱くなるにしたがってだんだん前傾姿勢になっていた青木くんが、ちょっと姿勢を正す。背中を起こして、わたしとの間にすこし距離があく。ちょっとだけ、なんだか残念なような気が、一瞬。

「うん。ていうか、このあいだ会ったときも、青木くんそんなに喋らなかったし」

「そういや、そうだったっけな」

「わたしの名前、覚えてる?」

 少し意地悪な気持ちになって、わたしがそんなことを聞いてみても、青木くんは平然と「名前? 委員長の? 律子だろ?」と答えるだけで、まったく動じない。なんだかちょっと、嫌になる。そんなに嫌でも、ないんだけれど。

「じゃあ、もうその委員長って呼ぶのやめてくれない? わたし別に、今は委員長でもないし」

 委員長だったのは中学生までの話だ。今のわたしは、わりと普通に、中の上ぐらいのところにつけている。中の上くらいのところにつけられているはず。

「悪い悪い。なんか、その委員長っていうのがあまりにもシックリくるもんだからさ」

 そう言って、また素直な感じで笑う青木くんを見て、急激に恥ずかしくなってしまったわたしは「ああ、もう。こんな格好で来ちゃったから」と、マキシスカートの腿のあたりをギュッと掴む。

「なにがだ? すごく似合ってるよ」

 まただ。そういうことを、すごく平然とサラリと言う。そういうところだよ、青木くん。

 なにか頭に血が昇る感じがあって、ん~っ! となってしまったわたしは、フーッと大きく息を吐いて、なんとか高まった内圧を外に逃がす。ふと思いついて「わたし、青木くんの好きな人分かったよ」と言ってみる。

「美しいだろ?」

 一秒の思考時間も挟まずに、ボレーシュートみたいな感じで青木くんは即座にそう言う。頭の中で実況のジョン・カビラが大声でゴオォーーーール!!!!! と叫んでいる。

 もう、たまんないな、ほんと。

「うん」

 ただ、それだけを言って、わたしも笑う。

「どうなの? 脈はありそうなわけ?」

「いや、サッパリ。なにしろ年齢も離れているし、彼女から見れば俺なんかケツの青いクソガキなのさ。弟みたいに思われているよ」

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